第23話 終焉

サミュエルは椅子に座りながら、艶やかな光沢ある机の上に行儀悪く脚を乗せていた。その机の上には、”黒ひげ盗賊団、全員逮捕”と書かれた文章――、そして盗賊団の犯行動機、ジャポニズムの流行を狙ったものだったと、各種新聞社が大々的に記事にした新聞が机の上に散乱していた。

このところ船上での戦闘騒ぎで、「疲れた」と、彼は口癖のように呟いている。

そして、前当主の父が連れてきた甥は、部屋に来たかと思えば、何か言いたいようで眉を潜めこちらを見つめていた。

(令嬢たちから褒められている顔が台無しだな)

モノクルを通して見たサミュエルはそう思った。

「叔父さん。大方、事件の終息はつきましたよ」

「―――――わかった。セレナの体調はどうだ?」

「医師によると良好と言ってました。今は疲労で眠ってます」

「そうか・・・。お前、この後セレナが休んでる部屋に戻るんだろう?コレを持って行け」

そう言ってカインに向かってピンと指で投げたのは一枚の写真。

「これは――。」

カインが手に取り、見てみると、そこに映っていたのは、あのチャリティーイベント前に写真屋で撮った、みんなで撮った集合写真だった。

屋敷に使える使用人全員なのでセレナと、その横には猫の被り物を脇に抱えながら不機嫌そうに写る、貴族の衣服を着た自分があった。

「出来上がったものだ。セレナに持って行ってくれないか。」

「…わかりました。それで、セレナが乗る予定だった船は、出航したんですか?」

「ああ、今しがたな。大勢の人に見送られながら、日本へ出発したよ」

「・・・・・そうですか」

甥のカインは一言そう言うと、意を決したのか自分に射るような光を向けながら口を開いた。

「—――叔父さん、いえ、当主。どうしても言っておきたいことがある」

カインはそう言うと、両手で力強くサミュエルの机を強く叩いてきた。

「これ以上のお見合いの件はお断りだ。二度と持ち込まなくていい」

美しい碧い瞳に怒りを宿らせたまま、カインはそう断言した。

そして、サミュエルの机へ、あの王家からの招待状を返すのだった。

「――セレナが自分の下を離れていくのがそんなに怖かったのか?貴族社会で成功するならば、王家の一員になることは願ってもないことだ。それなのに、お前は今後一生安泰の道があるのを、望まないというのか」

「・・・・・そうですよ。俺は、八年前にここの屋敷に連れられて、生かされた。ここで教育を施してくれた恩には感謝してる。けれど、最初来た時のここは貴族として腕を磨く場所。それ以外の何ものでもなかった。俺にとっては、ただ生きるため連れてこられた、当主になるための養成所にしか見えなかった。孤独だった」

サミュエルは静かに甥を見つめるだけだった。

「そんな俺にセレナは、俺なりの生き方を教えてくれた。俺の光になってくれたんです。なくてはならない存在だ。俺には俺の生き方がある。セレナは叔父さんの管轄から離してもらう。今後は全て、俺の意見無しでセレナに関与はしないでくれ」

「・・・・・・・言うことは以上か」

カインに返事はなく、静かに黙ったままだった。

「・・・・・わかった。だが、王族からの申し入れを断ることは、今後の信頼関係や貴族社会において窮地となる。それを踏まえてのうえで、今後の仕事に励むことだ」

「――覚悟の上ですよ。失礼します」

カインが部屋から出ようと背を向けたときだった。扉をノックする音が聞こえ、サミュエルが「入れ」と告げると、扉から現れたのは執事のセインだ。

「失礼いたします。カイン様、セレナが今しがた目を覚ましました」

「そうですか。いま、行きます」

カインが部屋を出ていったあと、サミュエルは葉巻に火をつけた。

「何かありましたか?カイン様、怒りに震えているようでしたが・・・」

幼少の頃から長い付き合いの執事は、部屋の異様な気配を感じたようだった。

「ああ、甥に怒られたんだよ」

――――余計なことをしないでくれ。

アイツが本当は口にして言いたかった言葉だろう。

だが、叔父である自分が当主の建前からか、遠回しで言われてしまった。そう言われてもいいほど、酷い仕打ちを甥にしてしまったのだ。

怒りを受けても当然だった。

「アイツは完全に親離れだな。それで、セスティーナからの電報の返事は来たのか?」

「はい、今しがた届きました」

「そうか・・。付け加えてまた電報を送らんといけんな。お前のシナリオ道理に、事態は運んだと」

サミュエルは葉巻を大きく吸い込み、大きく口から白い煙幕を吐き出しながら、部屋の窓から見える空を眺めた。



                  ♢



「だからあ、俺がリンゴ剥くって。お前、リンゴのウサギできないだろ?俺の方が上手いんだから」

「なにぉ、俺だって練習して上達したんだぜ?その実力を今見せてやるよジョン」

耳元に誰かの声が聞こえてきた。

(・・・だれ?)

「おい、静かにしろよ。セレナが寝てんだからな」

遠い意識が、徐々に浮かび上がって、瞼が動かされる。

白い天井が眼に映ってきた。

「あ、おい、セレナの眼が開いてる!!」

今度ははっきりと聞き取れたかと思えば、視界の横から懐かしい、見知った顔が次々に入ってきた。ジョンやジーク達だ。

「セレナ?起きた??」

「ここは・・・?」

身体をゆっくりと起き上がらせ、周囲を見渡した。

豪勢なシャンデリア、白と金色のコントラストで装飾された家具や高価の品々が並べられている、綺麗に調和された室内。

そして、自分の下に敷かれている白く、シワ一つない大きなベット。

明らかに長年過ごしたメイドの部屋とは違っていた。

「シュバイツア家の客室だよ!!良かった!!起きたんだね!!」

「ばんざーい!セレナが起きた!よかったなー無事で!」

ジークはホッとしたのか溜め息をつき、ライナーは眼鏡を外しながら、腕で涙を拭いている。ジョンとジョルジュはといえば、抱き合って喜びのダンスを踊っていた。

「俺たち奴らを自衛団たちと一緒に乱闘騒ぎになったあと、セレナ達は馬車でここに運ばれたんだよ。覚えてる?」

「―――覚えているわ。」

あのあと、健康状態を診るためにもご主人様やシルフィア様と一緒に馬車に乗っていた。

その時はすでに疲れて眠たかったことは覚えている・・・・・・。

その後の記憶がないから、おそらくはその馬車の中で寝てしまったのだろう。

そして、用意されたベットで寝ていた・・・・。

そのとき、セレナに疑問が浮かんだ。

(貴族が乗る馬車に寝てしまった自分をここまで運んだというのは?)

「も、もしかして、私をここまで運んだのって、カイン様!?」

そんな粗相をしたとは思いたくなかったが、あの場にいた男性はカインしかいなかった。だとすると、必然的に自分は馬車で寝顔を見られ、果てにはベットに運ばれたということではないのか!?

焦燥と羞恥心で、セレナは自分の顔が青ざめていくのをこれどもかと感じていた。

「俺たちは後からこの屋敷に入れてもらったから知らないけど、シルフィア様なら知ってるよ」とジョンが話してくれた。

「そ、そういえば、シルフィア様は!?乳母の方も今、どこにいるの?」

貴族の人間でありながら一緒に、あの危ない境遇にいたのだ。

もし自分と一緒にこの屋敷にいるのであれば、無事である姿を一目みて安心したかった。

「落ち着いてセレナ。シルフィア様は乳母と一緒にもう自分の国に帰られたよ。救助が遅かったから、自分たちが脱出を試みたのは間違いじゃないって、長官に言ってね。メイドのセレナが自分たちに危ないことをさせたわけじゃないって、最後までセレナを庇ってたよ」

――シルフィアは救助された後、強面の長官に『貴方たちが遅すぎるから、自力で脱出したのです!セレナが助けてくれなかったら、あのまま死んでいたか、他国に売られていたかもしれないのよ!?セレナに何か審議をかけるというのなら、我がモーリア家は黙ってはいないわ!』と、脅しをかけていた。

凛とした姿勢を崩さず、はっきりとした物言いで話すシルフィアに、深窓の令嬢と噂で聞いていた一同は驚くほかになかったという。

「いやー、アレにはスカッとしたね!いい貴族様もいるもんだなって、ほれぼれしたよ、俺たち」と四人は語ってくれた。

そしてジョルジュは、「セレナに渡したい物があるんだ」と言うと、カバンから取り出したのは一冊のノートと、シルフィア様から『セレナに返して欲しい』と言われたという小型ナイフだった。

小型ナイフは、あの夜、盗賊船から小舟を出すときのロープを切るために使った物―――。

そして、もう一つはセレナがよく知っている交換ノートだった。

「ノートの裏に英語で書かれているからセレナのだろ?屋敷で落ちてたんだけど、騒ぎで渡すの遅れちゃって」っと、言ってジョルジュは手元に渡してくれた。

もう何冊目になるのかわからない、ページが途中のままのノート。

盗賊団が屋敷に侵入したあの日、そういえば攫われた日から書いていなかったことにセレナは気づいた。

何気なく日記を開くと、そこには今日から交換日記が終わり、自分で日記を開始することになった日、丁度そのことが書かれたページだった。

(早いものね。日記を交換しなくなって、ずいぶん経ったのね)

セレナは、過去の日記を久しぶりに読むことにした。

チャリティーイベントがいよいよ日にちも決まって屋敷の中も、働く人々も忙しくなったこと、そして、ジョンとジークが最近また庭で会った事も書かれていた。

そんなことが時を刻むに連れて書かれていた。

そんな中で、セレナが日本、ジャポニズについて書庫で熱心に調べていたことも書かれているはずだった。調べた動機は、もちろんカイン様のためだった。

だが、そこにあったのは違う文章が連なっていた。

セレナは文字を読んで驚いた。

”叔母のパーティー会場で会ったオーギュスト殿下と王宮のパーティーでも、日本文化について話すことが出来た。流石に王族だからか、流行の最先端を教えてくれる。セレナにとっていい土産話が出来たかもしれない”

と書かれているのだ。

(――セレナ?私のこと?)

自分の日記だと思っていた文章には、自分の記憶にない事まで書かれてあった。すぐにノートの、裏の表紙、名前を確認する。

屋敷でもし、この交換日記を落としたら誰のノートかわかるように名前を書く。最初のころから決めていた約束の一つだった。

自分のノートだと思っていたが、ノートの裏に英語で書かれていたのは、カイン・デュ・シュバイツア。

(カイン様の…日記!?)

二人は、使用人が買ってきてくれた、全く同じ一緒のノートを使っていた。

カインの日記は外国語の練習のためにセレナの母国語、日本語を、そしてセレナは英語だった。

当時、王族や貴族以外の庶民が母国語の英語を読める人間は少なく、屋敷の人達さえ、例え拾われてノートを渡されても誰の物か気がつかないだろう。

(長い事交換日記してたから気づかなかったけど、そうだわ・・・、カイン様の日記だわ)

今までお互いの日記を見せあっていたとはいえ、思いがけず相手の日記を読んでしまった。

そんな事実に驚いたセレナだったが、何より気になるのは先ほどのカインの日記の内容である。

カインは、日本で事業拡大のために日本文化に熱中していると思っていた。

だから、少しでもお役に立てるようにと、自分も日本文化のことを調べては話していた。

だが、この文章――。

”最近のセレナは、どこか遠くの景色を見つめ、哀しそうな表情をしている。元気になってほしくて、故郷の日本のことを話すと笑顔を見せるが、ふと、俺が見てないときに、哀しい瞳が垣間見える。”

これでは、自分が相手の為にとしていたことと、全く同じことだ。

だが、実際にはセレナの為にカインは日文化に精通し、セレナはカインの為に日本のことを話していたということだ。

そして――。

”セレナの気持ちがわからなくて、ジークたちのアジトに行って、相談してみた。

セレナが祖国に帰りたがってるんじゃないかと、ジョンに言われてしまった。

確かに、屋敷で日本について調べてるセレナの動きを見ていたらそうなのかもしれない。そんなことが俺をどうしようもなく、不安にさせる。だが、故郷を思うセレナの希望にも添えたい。まだ小さいときに買われて意図せずして異国に来たのだ。故郷という感覚は分からないが、帰りたくなるものだと聞いている。まだ俺自身の実力では、財力では、稼げてないことも、嫌というほど実感しているし、力不足ということは叔父さんに言われなくてもわかってる。

だけど、いつか――、自分の事業で貯めたお金で、セレナと一緒に、セレナの故郷へと行くことが出来たら、と思わずにはいられない。”

カインの最後の文章には、そう締めくくられていた。

そこから先は、眼に涙が溢れ出てきて、日記に熱い雫で文字がにじんでいた。

自分はずっと仕事のためにカイン様は日本に熱中していると思っていた。けれど――――。

(ずっと私を思って、してくれてたこと・・・)

そのことが、ただどうしようもなく胸を熱くさせた。

「セレナ、どうしたんだ?」

急に日記を見て、泣き出すセレナに、友人達四人は慌ててなだめるが、しばらくセレナは病室のベットの上で頬を涙で濡らすのだった。



                  ♢





セレナはあの事件以降、仕事に復帰していた。

乗るはずだった船も自分が寝ている間にすでに出航しており、今は日本に向けて航海中だろう。

セレナはすっかり体調も良くなり、今はある部屋を目指して食事を運んでいる最中だった。

両手で木目調のトレイを持ちながら運ぶのは、コック長が作った野菜入りのスープと、小さいパン。

夜遅くまでに仕事に励む者に出す夜食だった。

(さてと、お部屋には着いたけれど、起きてるかしら?)

「カイン様。夜食をお持ちしました」

扉の前でそう告げるが、返事がない。

「カイン様?ドア開けますよ?」

念のため一言いいながらソロリと開けると、机の上、周りには書類が数多く重ねられ、開かれた本のページには顔を乗せて、羽ペンを握ったまま寝ているカインの姿があった。

そのすぐ壁に、カインの父親の肖像画、両親と幼い頃のカインの写真。そして、新たにあのチャリティーで撮った写真が飾られていた。事件後、セレナの他に屋敷の皆にとサミュエルがプレゼントとして配ったものだった。

(やっぱり・・・。カイン様、お仕事頑張ってるから、こんな時くらいは夜の勉強止めてもいいはずなのに。)

カインはあの事件以降以上に、シュバイツア家の業績を発展させようと、寝る間も惜しんでの勉学は続いていた。だが、身体を壊しては元も子もないだろう。

昔から深夜までの勉学に注意してるのだが、頑張ってしまう性分なのか、笑顔でごまかしながら一向に聞いてくれない。

「今夜は特に冷えてるのに、風邪ひいちゃいますよ」

既に冬の季節だ。

セレナは夢の中にいるであろうカインに言いながら、夜食を机の傍の棚に置いて、部屋にある上着をそっと肩にかけようとした。

だが突然、セレナの身体がバランスを崩し、前のめりとなった。

「きゃ!」

倒れそうになったセレナを、耳元で囁いたのは心地よい低い声。

「嬉しいな。起きたら天使が傍にいるなんて」

横をみると、カインはイタズラが成功したことに喜んでいる少年のように、こっちを見ていた。

「・・・・カイン様。起きてたなら、イタズラしないでください!それと、手!」

「うん?」

「手を、お放しください!」

セレナがバランスを崩したのは、寝ていると思ったカインが引セレナの身体を引っ張っていたことが原因だった。

おかげで、セレナの姿勢は椅子に座っているカインに上から抱きしめているような状態だった。

「つれない。君が来るまで、寝ないで頑張っていたのに」

「―――私を専従メイドの任から解けば、他のメイドが来ますわ。カイン様だって頑張らなくて済みます」

「つれないこと言わないでくれ。それよりも、切望するように名前で呼んでくれ」

綺麗な碧い瞳と、整った鼻尖の完璧な顔立ちを、これでもかとキラキラさせながら男らしい手をセレナの顔に近づける。

「—―カイン様」

「よくできました」

切れ長の瞳で満足そうに微笑むカインだが、こちらとしては、このやり取りが恥ずかし過ぎて憤死しそうだった。

船での事件以降、カインとセレナの間で変化したことがあった。

あの時は、ライナーに「カインを止めてくれ!」と起こされ、見ると刀を持って盗賊団へ歩いていくカインの姿とその漂うただらなぬ気配に、自分自身も必死だった。具合が悪かったこともあり、セレナ自身は記憶も朧げだが、あの時は止めて欲しくて、気づいて欲しい一心で名前を叫んでいたはずだ。

そのとき、切望するように自分の名前を言われたのがカインは嬉しかったらしく、こうやって自分の名前を呼んで欲しいとせがむのだ。

だが、実際はセレナの反応を楽しんでいるような気もするのだが、どちらにせよ、しばらくこのイタズラが止みそうにないのが、セレナにとっての目下の悩みだ。

そして、もう一つ変わったことはセレナがカインの専属メイドとなったこと。

朝起床の準備やら、カインの身の回りの業務がお仕事になり、当主のサミュエルと関与できなくしたのだ。

その代わり、セレナは屋敷の仕事はしなくていいと言っているのだが、メイドである以上、「そんなことできません」と言って断ろうとした。

だが、他の使用人達やメイド長のユーナは、

「セレナがどこか行くってなったら、地球の裏側まで追いかけて来るわよ・・・諦めなさい」と言われた。

カインの友人、四人達からは、

「カインにはストッパーが必要なんだよ。それよりも、セレナがいたほうが猛獣は大人しいんだし」と言われた。

あの事件以降、猛獣と称されるカインだったが、友人たちがつけたあだ名に特に怒る様子もなく、むしろ「セレナがいないと、また暴走しちゃうな」と、男性フェロモンをまき散らしながらセレナを脅してくる始末。

こうして、圧倒的多数決の結果、セレナはカイン専従を任せられたたのであった。

そのため以前よりもカインのお世話をする機会が格段に増えたのだが・・・・。

(――気のせい?あの一件以降、何かとベタベタしてくるのは・・・・・)

カインはまだ手を放そうとせず、いつの間にかカインが座っている膝の上でセレナは枕の様に背中から抱きつかれている。

けれども、こんな甘えられ方を、嫌と思うどころか嬉しいと感じていた。

結局、愛したほうが負けということか。

「あの・・・・・、カイン様?お勉強もよろしいですけど、お体に障りますよ?そんなに夜更かししては」

セレナを膝に乗せたまま何も言わないカインにじれったい思いをし、思わずこちらからカインにお母さん的なことを言うのだが、当のカインは、

「ん?ああ、わかってるよ。この本が終わったら寝るよ」

と、聞いていそうで聞いてないセリフを言いながらセレナを放そうとしない。

「—―セレナこそ、身体は大丈夫か?」

カインがようやく、こちらに顔を向けて聞いていた。

カインが心配している腕、肩の傷はもう既に小さくなっていて、数日たてば跡形もなくなるだろう。

だが、よっぽどショックだったのか、カインは事件後もこうして頻回に体調などを聞いてくるのだった。小さいけれどもそんな優しい配慮が一番嬉しかった。

「あ、はい、大丈夫ですわ。カイン様のほうこそ、怒ってませんか?あの‥、日記を読んでしまったことを・・・・・・・・・」

シュバイツア家の客室で目覚めた時、ジョルジュから渡された日記を誤って読んでしまったのだ。

あの後、部屋へと来たカインにすぐ謝ったのだが、怒られるかと思えば、ただカインは赤面するだけだった。

セレナが攫われてたということもあり、カインは言われるまで日記の存在自体を忘れていたという。セレナがいなくなったその日に、屋敷を飛び出していたので、日記のことは全く気に留めてなかったらしい。

「やっぱり怒ってます?」

「いや、大丈夫だ・・、悩みを書いてたから、本人に見られて恥ずかしいだけだ・・・」

顔が真っ赤になりながら顔を隠すようにそっぽを向いてしまう。

自分が正直に考えていることを書いた日記を当の相手に見られて、よっぽど恥ずかしいらしい。

「それに、怒ってるんじゃないかと心配なのは俺も一緒だからな。専従のメイドの件、セレナは大丈夫か?勝手に仕事を変更させたが・・・・・。だが、あの事件のときは、本当に心配したんだぞ。それ以前に、日々の生活の中で、いつの間にかセレナのことを眼で追っている自分がいたっていうのに・・・・・。」

セレナが見上げるその先には、カインの流れるような金糸の髪の間からみえる、碧い瞳。

「お願いだ、セレナ。もうどこにもいかないでくれ。連れ去られたと聞いて、どれだけ心配したか・・・・。あんな気持ちになるのは、俺はごめんだ」

セレナを抱きしめている力をこめながら、

「君は迷惑だと思うかもしれないけど・・・」と言って、表情を曇らせる。

だが、それを言うならば私も同じだ。

自分の存在が、この人の足かせになることは間違いない。それなのにあの時、シルフィアと会いたい人の話をして、セレナは喧嘩別れのような去り方は嫌だと思ったのだ。

一緒にいられないのならば、せめてきちんとカインに、一目会って手紙を置いて去りたかった。

その手紙に好きだと書き残して―――。

「・・・私は我が儘な女です。貴方の人生をずっと見ていたいと思ってしまいました。これまでどうり、ずっと傍にいますわ」

(この人はこんなにも私を思ってくれている)

とても幸福なことだった。

「セレナ。一緒に、君の故郷に行こう。僕が働いて得たお金だけじゃない、君に隠す必要はなかったんだ。二人一緒に遠い君の故郷、日本へ――」

そして二人は、抱き合い、影が重なる。

窓からは、夜空に一つ、二つと白い雪が降り始めていた。

汚れを知らない真っ白な雪。触れれば冷たく、消える儚いもの――。

二人の関係を隠すかのように朝まで降り続き、屋敷を覆いつくすのだった。




           おわり




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