②
「うわぁ、かわいい!」
毛の汚れを落とし、前回見たときよりいくぶんふっくらとして見える子猫を見て、日和のテンションが一気に上がった。
立ち上がれず、今にも消えそうな弱々しい呼吸を繰り返していた子猫は今、プルプルと四本の足を震わせながらも支えなしで立ち、頬を指先で撫でると甘えるように頭をすりつけてくる。
「この子はちょうど生後一か月を過ぎたくらいだと思われます。普通なら離乳食を始める頃ですが、食いつきが良くないので、もうしばらく猫ミルクをメインに与えながら様子を見ましょう。もし離乳食を食べてくれるようなら、与えていただいても構いません。排泄は――」
獣医の説明に亘は真剣な顔で耳を傾け、ときどき頷いている。その間、日和は甘える仔猫を撫でまわして蕩けるような表情を浮かべていた。
一通りの説明を受け、亘が用意してきたキャリーケースに入れられた子猫は、悲痛な鳴き声を上げる。
「すぐ出してあげるから、少し我慢な」
亘は小声でキャリーケースの中に向かって語り掛けた。
「小さいんだし、抱いていっても……」
「何かに驚いて飛び降りるかもしれないだろ。抱っこダメだ。あと、夕飯はうちで食っていけばいい」
「夕飯は自分の家で食べるつもりですが」
「へえ。殿下はもういいんだ?」
そう言って、亘はキャリーケースを掲げた。小さな小窓から、子猫がここから出してくれと言わんばかりに日和に向かって鳴き続けている。
「ああ、もうバニラったらかわいい――いや、でも亘さんの家に寄っていたら遅くなっちゃうし。疲れたから早く帰りたいので」
「でもまだ初対面のときのことを説明してないだろ。夕飯を食いながら話そうと思っていたのに」
子猫のかわいさにやられていた日和は、自分がなぜここに来たのか、その目的をすっかり忘れていたことに気づいた。
「……じゃあ、駅に行きながら教えてください」
「いやだね」
亘がまったく聞く耳を持たないので、日和は別方向から攻めてみることにした。
「そんなに私と一緒にいたいんですか? だったら素直にそう言えばいいのに」
こういえば亘は絶対に反発して
「そんな訳ないだろう! じゃあ帰れ」
と言うだろうと踏んでのことだったが、予想に反して彼は頷いた。
「まあ……そうともいえる」
完全に認めたというわけではないようだが、それでも亘が発したとは思えない言葉に、日和は唖然として言葉を失った。彼の表情を窺おうとしたが、そっぽを向いているので分からない。
(一人暮らしをしてみたはいいものの、寂しいのかな。アメリカでも知人の家に居候していたと言っていたし……)
猫を飼ったから、今さら姉と一緒に暮らすこともできず、人恋しくなったとか?
子猫の鳴き声をBGMに、それきり二人は黙って歩き続ける。
「……じゃあ、今日はバニラと少し遊ばせていただきますが、夕飯って亘さんの部屋で食べるんですか? 何か食材はあるんですか? 今日は作るのイヤですよ」
とりあえず、初対面したときの話を聞けば、彼に対する対応方法も分かるだろうと考え、今夜だけは亘のわがままにつきあってあげることにした日和は、ため息交じりにそう言った。
「ピザを頼んである。20時半に到着するように予約したから……あと十分だな」
二人の視線の向こうには、すでに亘のマンションが見えているから、時間的にはちょうど良い。得意げな亘を見て、日和は他人ごとながら彼の食生活が心配になった。
「あの。いつもデリバリーなんですか?」
「いや。普段は弁当を買って帰るし、朝はコーヒーだけだから。退院したばかりのこいつをいきなり一人にして、外に食いにいくわけにはいかないし、ピザでいいだろ?」
日和を無理やり部屋に連れていくのは、亘としてはお礼のつもりだったらしい。
そうと決めれば、相手の都合などまったく考えない。つくづく子供のような人だと思いながら、日和は
(あの大きな冷蔵庫には何入れてるんだよ……)
と呆れたのだった。
部屋の中は、先週とまったく様子が異なっていた。
物を置くだけで音が反響しそうなほどに何もなかった部屋に、家電と家具が整然と並んでいる。部屋の片隅には猫用のスペースが設けられ、ゲージやキャットタワー、トイレなどが設置されていた。どれも真新しすぎて生活感のようなものは相変わらず感じられなかったが、子猫が来たことで、これからはこの部屋にも温かみのようなものが生まれるのだろう。
自分が選んだものが多いせいか、日和もこの部屋に愛着がわきつつあった。肝心の住人は苦手ではあるが。
キャリーケースから出た仔猫は、少し怯えた様子で辺りを見回している。
十二畳程度はありそうなリビングの中にいる子猫はさらに小さく感じられ、まるでハムスターのようにも見える。
「ゲージに入れたほうがいいんじゃないですか? 落ち着くまでは……って、獣医さんもそう言ってましたよね」
「でも興味しんしんって様子だぞ? ほら……あっ!」
子猫は自分の居住スペースと思われるところを確かに興味しんしんの様子で匂いを嗅いだあと、何の前触れもなくケージの手前でおしっこをした。
「医者は排泄を促すためにお尻をポンポンしろって言ったけど、自分でできるじゃないか。えらいぞ、殿下」
嬉しそうに言いながら亘はペットシーツを排泄物の上に置き、上から床を軽く叩いて水分を吸収させている。
「でもここはおしっこするところじゃないんだぞ。トイレはここ。ふたを開けて……ああ、まだ小さくてここには入りにくいのか」
「というより、そこがトイレだって分かってないんじゃないですか? そのおしっこをティッシュで拭いてからトイレに入れてあげるといいみたいですよ」
「先に言ってくれよ。ペットシーツを使っちゃったじゃないか。しかも逆戻りしないって書いてあるやつ」
「だって言おうとしたら、もう乗せちゃってたから」
仕方ないだろうというように肩をすくめた日和は、言葉を続ける。
「あと、屋根はとっぱらって、最初はトレー型にしといたほうがいいかもですね。登ることもできないし、押す力がまだ弱いから、ステップ台をつけたほうがいいかもしれないし。
あと、トイレはゲージの中に入れたほうがいいと思います。もっと大きくなるまではほとんどゲージの中で過ごすと思うので――」
ざっと見た感じを伝えると、亘は疲れたような表情を見せた。
「……なんだよ。猫は飼ったことがなかったって言ってた割には、次から次へと……けっこう詳しいじゃないか。とりあえず、トイレはおいおい覚えてもらえれば……」
ぼそぼそつぶやきながらティッシュをペットシーツに押し付けた亘が、目を輝かせながら顔を上げた。
「なんだよ、逆戻りするじゃないか。とりあえずこのティッシュを入れておけばいいんだな?」
嬉しそうにティッシュを猫砂の上に落とす亘を見ながら、なぜ猫砂とペットシーツの両方をそろえているのかと日和は不思議に思ったが、彼も疲れているようだし、あえてそこは突っ込まずにおいた。
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