「お世話になりました。それじゃわたし、帰りますね」


「じゃあ、送っていく」


「いや別に……昼間ですし、ちゃんと帰れますから」


「でもまだ顔色悪いから」


(あなたと離れたほうが気分良くなると思うんですけど――!)


「道々ゆうべのことを説明したいし」


 聞いたら立ち直れないのではないかという恐怖、でも事実は確かめておきたいという欲求が拮抗する。


(一人で記憶を辿ったほうが良いような……でも本当に思い出せない)


 とりあえず、ひとつだけ確かめておこう。一番衝撃的だった言葉を。


「あの……ひとつお尋ねしますが、先ほどおっしゃっていた『乱れすぎ』とはどのような様子を説明した言葉なのでしょうか?」


 衝撃的な言葉を聞いたときのためにガードを固めたら、なぜかビジネスライクな口調になってしまった。するといきなり他人行儀になったことにいらついたのか、亘がまた不機嫌な顔になる。


「絵に描いたような酔っ払いだったってことだよ。髪を振り乱して、透のバカ野郎とかわめいていたし。床につっぷして寝始めたからベッドに連れていこうとしたら、


『やめろー、もっと飲ませろー』


と暴れるし。その時の傷が、俺の背中に残ってるはずだけど」


「なーるーほーどー! そういうことですか。それはずいぶんご迷惑をかけてしまったみたいですみません!」


 謝罪の言葉とは裏腹に、心底嬉しそうな笑顔を浮かべる日和に亘は不審な目を向けた。


「なにが嬉しい?」


「いえ、別に」


 それでもふふふと含み笑いをする日和に、亘はそっぽを向いて尋ねた。


「で、透ってのは恋人か?」


 とたんに日和の表情がこわばる。


「元、ですよ、元。いわゆる元カレです。別れました、きれいに、すっぱりと」


 これから自宅に帰ったら、そのための断捨離という儀式を執り行うのだと心の中で付け加える。


「そうか、元カレか」


 今度は亘がニヤニヤとした。


 また自分のことをバカにしていると思った日和は、顔をそらしてしかめ面をしたのだった。


「それで。どうして同じベッドに寝たんですか」


 押し切られた形で駅まで送ってもらうことになった日和は、背中に当たった亘の体温を思い出し、頬を赤らめながら聞いた。


「逆に、なんで自分のベッドなのに寝ちゃいけないんだ? 親切でお前を寝かせてやったというのに」


「そうなんでしょうけど……わたしはソファーでも良かったんですけど……」


 ぶつぶつ文句を言っている日和を微笑ましく見降ろしていた亘だったが、鴉の鳴き声にふと眉を寄せた。


「……あそこ、なんか変だな」


「なにがですか?」


 亘の視線の先を辿ると、駅前の生垣に向かって、二羽の鴉が何度も舞い降りては飛び上がっている姿が見えた。


「なんだあれ……」


 近づこうとする亘に、日和は驚いた。


「ちょ……やめたほうがいいですよ。鴉って、執念深いっていうし。人間も攻撃されちゃうんですよ」


 しかし亘は気にすることなく、ずんずんと生垣へ向かって歩いていく。

 

 人間がそばによっても動じない鴉を手で追い払い、かがみこんで生垣の中に腕を伸ばした。ごそごそと中を探ったあとに何か見つけたらしく、両の掌に包んで日和のもとへ戻ってきた。


 戻ってきた亘が目の前で掌を広げて見せると、日和は目を見張って覗き込んだ。


「うわ……ちっさい。病気なのかな」


 黒くて小さくて痩せているそれは、子猫だった。


両目はじゅくじゅくしたもので覆われてふさがっており、小刻みに震えていて、鴉にいじめられたせいかのか、ところどころに血も滲んでいる。


「寒そうなんだけど、俺、ハンカチも何も持ってないんだけど。包めるようなものはあるか?」


 日和はバッグの中を覗き、ハンドタオルを取り出した。


差し出されたそれに、亘はそっと子猫を乗せて優しく包み込み、また自分の手の平に乗せる。普段の彼からは想像できない優しい仕草に驚きながら、日和も小さな子猫を見守った。


「腹が減ってるよな? どうすればいいんだ、これ」


 亘が初めて見せた動揺に驚きながら、日和は周囲を見回した。


「お腹はもちろん空いてるんでしょうけど……けっこう弱っているようなので、病院に診せないと。駅前だから、たぶん近くにありそうな――」


 そうこうしているうちに、ただでさえ弱々しかった鳴き声がどんどん小さくなっていくようで、二人とも気が気ではない。


「検索するよ」


 子猫を日和に渡し、亘はスマホで動物病院を探し始める。


「病院を探しているから、もうちょっとだけ頑張ってね」


 日和が声をかけると、まるで返事をするかのように、仔猫はタオルの隙間から細い右前脚を彼女に向かって突き出した。


 駅から亘のマンションとは反対方向に五分ほど歩いた場所に比較的評判の良い獣医がいると知り、二人はさっそくそちらへ向かった。中には大きな犬を連れている人や、中が見えないキャリーケースを携えている人もいる。


「混んでるね……」


 子猫の命に間に合うだろうか。不安を覚えながら、日和は亘が受付している姿を眺めた。


 すると、隣で猫が入っているキャリーケースを抱えていた女性が、声をかけてきた。


「あら。そのタオルの中はなに? キャリーケースは持ってきてないの?」


「いえ。今駅前で保護したばかりで……。この子もまったく動けないようですし」


 日和はそっとタオルを開いて見せる。


「どうしたの、この子? ずいぶんちっさいわねぇ」


「すごく弱っているので、早く診てもらいたくて……」


「捨て猫なの? かわいそうに……。うちの子は健康診断だけだから、順番は譲ってあげる。ああでも、もっと早く診てもらいたいわよね」


 女性が待合室の人々に向かって声を張り上げた。


「皆さん、瀕死の仔猫ちゃんがいるの。順番譲ってあげてもいいかなって人はいるかしら?」


 するとリードにつないだクリーム色のチワワを連れた男性が手を挙げ、受付の女性に向かって話しかける。


「うちは予防接種だけだから、譲るよ。たぶん次だから、俺んとこに彼女の猫を入れて。俺は今受けつけされた順番に呼んでくれればいいから。いったん帰るから、順番近くなったらまた連絡して」


 どうやら常連の人らしく、携帯を掲げてみせると受付の女性はにっこり頷いた。


「ありがとうございます!」


 自動ドアから出ていく男性の背に礼を言うと、男性の代わりにチワワが振り向き、疳高い声でワンと一声吠えた。


******************


 受付を終えた亘が日和と中年女性の間に立つと、女性が彼をちらちらと盗み見た。


(見かけに騙されちゃだめ! この人、性格は最悪なんだから)


 心の中でそうつぶやきがら愛想笑いを浮かべると、女性は声を出さずに『素敵ねぇ』と言ってほほ笑んだので、日和は苦笑を返した。



 それからほんの数分後。診察室から出てきた看護師が、名前を呼んだ。


「松坂さーん、松坂ねこさーん」


「えっ?」


 日和が亘を見上げると、亘は『なにか?』といわんばかりの涼しい顔で眉を上げた。


「だって、ペットの名前って書いてあったから。名前なんてないから、ねこって書いた」


「まぁそうだろうけど……」


 看護師も、『ねこ』まで読み上げなくてもよさそうなものなのに……と、笑いをかみ殺した。



 その病院は夫婦で営んでいる病院で、子猫を担当してくれたのは妻のほうだった。


 診察台の上で荒い息をついている子猫の体温を測り、触診、聴診したあと、難しい顔をしてため息をつく。


「たぶん、捨て猫ではなく、野良の子だと思います。母猫とはぐれてからけっこう時間がたっているようで、栄養状態が悪いですね。怪我も深く、感染症が心配ですし……治療するとしても、少なくとも数日は入院が必要ですよ。費用もかなりかかりますが、どうしますか?」


「どうしますか――って、どんな選択肢があるって言うんですか。同じ場所に捨ててこいとでも?」


 亘がいきなり喧嘩腰になったので、日和は慌てて間に入った。


「治療をしたら、回復する可能性はあるんですか?」


「ここまで弱っていると、なんとも……。助かると断言することはできませんが、預けていただけるなら、できる限りの手は尽くします」


亘の反応に気を悪くする様子もなく、獣医師は猫の頭を指の腹で優しく撫でている。


「費用がかかっても構わないので、治療してください。治ったら俺がこいつを引き取りますから」


「もしダメだったとしても、治療費はいただくことになりますよ?」


 獣医師が念を押すと、亘は頷いた。


「もちろん、お支払いします。こいつを絶対に死なせないでください」


 すると獣医師は柔らかく微笑み、

「約束はできませんが、全力を尽くします。では早速預からせていただきますので、連絡先などの必要事項を受付で記載してください」

と言って、そばに控えていた若い女性の看護師に目で合図した。すると彼女は傍らに置いてあったタオルで仔猫を包み、診察室の奥へと向かう。


 扉が閉まると同時に、仔猫のかぼそい鳴き声が聞こえなくなった。その扉の向こうを、亘は不安な面持ちで見つめている。


******************


「猫ちゃん、助かるといいですね」


 会計を待つ間、厳しい表情で黙りこくっている亘に、日和が声をかけた。


「ああ」

 

 それきり、また無言になる。


「じゃあわたし、先に帰りますね。やらなくちゃいけないことがあるので……。駅から近いから、帰り道は分かりますよね?」


 駅の逆側に出たのは初めてだと言っていたことを思い出し、日和は確認した。


「大丈夫だ。電柱に矢印が書いてあったし」


 とにかく今は子猫が気がかりのようだ。亘の新しい一面を見たようで、日和の反抗心が少し和らいだ。


「早く良くなるように、私も祈っていますから。じゃあ、失礼します」


 頷いただけの亘を見て、もしかしてこの会話が頭に入っていないのではないかと日和は一抹の不安を抱いた。


 しかし今は、早く帰ってシャワーを浴びたい。


 そして透のあれやこれやも片付けないと――と、また深い疲労を覚えたのだった。



 自宅についた頃にはもうすでに日が傾きかけていた。


 目についた透の物を急いで段ボールに詰め、宅配業者に集荷を依頼し、ノートパソコンを開いて写真などのデータを削除する作業に取り掛かった。


 付き合いの長さに比例して透の荷物は増えていたし、残っているデータも膨大で、イライラが募る。


(……気づいたのが、この時期で良かったのかも)


 このまま気づかず惰性で付き合いを続けていたら。失うものも大きかったはずだ。


 それに今は透のことを考えると怒りしか感じないが、かつては楽しいこともたくさんあった。いつか良い思い出に変わるかもしれない。


(……わけないか。終わりダメならすべてダメ)


 大きなため息をついて、二年前に二人でテーマパークで撮った写真一覧を削除した。



 ――そして迎えた月曜日。


 出勤した日和は、手招きする上司を見て項垂れた。まるで鉛の塊が両肩に乗っているような気分になりながら、とぼとぼと彼女のもとへ歩いていく。


「ありがとう、高丸さん。おかげで人並みの生活は送れるでしょう、あの子も」


「そうですね。あそこまで物がない部屋を見たのは初めてでした」


「……え? 部屋に行ったの?」


 上司があまりに驚いたので、日和も驚く。


「ご存知なかったんですか? ガスコンロの使い方が分からないから教えてほしいと言われたので」


「やだ。そんなこともできなかったの、あの子。まったくもう……。でも私も反省すべきよね。年が離れているから、つい甘やかしちゃって」


「……はぁ……そうですか……」


彼女の様子を見る限り、土曜の夜に泊まったことは聞いていないようだ。


弟はもう子供ではないし、何もなかったとはいえ、ブラコンの上司に言えば取り乱してしまいそうだから、余計なことは言わずに席へと戻る。


 いずれにしても買い物はほぼ終わっただろうし、これからはもう亘と関わることもないだろう。子猫のことは気になるが、回復したら彼が飼うと宣言しているのだし、これ以上自分にできることはなにもない。


 しかしその週の金曜日、また商品開発室経由で日和は呼び出しされたのだった。


『久山だけど』


 日和が一番苦手とするあの怖い久山から内線がかかってきた。


 相手には見えないのに、日和は身を縮ませて軽く頭を下げる。


 すると隣に座っていた先輩社員の山岡が、何に向かて頭を下げているのかと日和を見つめたが、彼女が口にした名前を聞き、納得したように仕事に戻った。


「久山さん、お疲れさまです」 


『すぐ二番ブースに来てくれる? カラさんが呼んでるから』


「カラさんて……もしかして、松坂さんですか?」


『ほかに誰がいるんだよ。営業担当変わっただろ。忘れたのか?』


「いえ。覚えています」


 なぜまた呼び出されるのか。苛立ちのあまり黙り込んだ日和に、久山が怒鳴る。


『とぼけたこと言ってんじゃないよ。とりあえず、二番ブースの予約はあと十分で切れるから。早くして』


 そして日和の返事を待たず、がちゃんと大きな音がして通話が切れた。


「……なんだっての、もう……」


 思わずつぶやくと、山岡が同情の視線を向け、慰める。


「どんまい。久山さん、怖いもんね。カルシウムが足りてないんじゃない、あの人」


「ですよねー。何言っても怒るから……」

 

 苦笑する日和に、山岡は憤然として頷いた。


「下に対して威張り散らしてるくせに、上にはへらへらしてるんだから、みっともないったら。あの人が今度出す新商品はこけちゃえばいいのに」


 日和同様、というよりそれ以上に怒鳴られた経験のある山岡は、そう言って顔を歪めた。


「でもまぁ直属の上司じゃなくて良かったですよね。――カラさんに呼ばれたので、ちょっと席を外します」


「了解。でも高丸さんに何の用なんだろうね? チーフ、席にいるのに」


「さあ。書類を渡したいとかそんな感じの雑用なんじゃないですか? じゃあ行ってきます」


 亘のことだから、実際たいした用事ではないのかもしれない。なんにせよ、あと十分でブースの時間が切れるのだから、のんびり話す余裕などないだろう。


 なるべく時間を削るようにのんびりブースフロアに向かい始めた日和だったが、そういう時に限ってエレベーターはすぐにやってきた。



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