第40話 失くしたくないから…ですか? ⑥

 


 その日は朝方から頭が痛くて目が覚めた。

 いつもの眼精疲労からくる頭痛とは少し違うようだ。


(…肩こり、酷いせいかな?)


 首をコキコキ鳴らし、肩を大きく回す。強張った躰からゴキゴキした感触が、骨を振動させて伝わってきて、椥はげんなりとした面持ちで「末期だな」と呟く。

 最近暇がなくてマッサージに行けていなかったから、遂に悲鳴を上げだした、そう思っていた。


 隣で穏やかな寝息を立てる碧を起こさないように、そっとベッドから抜け出し、リビングへ行った。

 サイドボードの引き出しから取り出した鎮痛剤をミネラルウォーターで流し込み、陰鬱としたままベッドに潜り込む。

 薬が効いてくるのを待つ間、何度も寝返りを打った。

 痛くてじっとなんてして居られない。

 だんだん痛みが酷くなっていくようだ。


(……今日は、仕事休むかな)


 ちょっとくらいだったら、休むなんてこと考えもしない。仕事をこなしているうちに忘れてしまうから、迷惑をかけてまで休む必要性を感じた事がなかったのもある。

 けど今日ばかりは、とてもじゃないが無理そうだ。

 このまま勝手に治る気がしない。

 鎮痛剤はまるっきり効いて来る様子も見せず、苛々するし、身も心も疲弊してくる。


 ひどい頭痛に苛まされながら、この時どうして病院に行く選択肢を選べなかったのか。いまさら言ったところで詮無い事だが。




 起き上がるのも出来ないくらいの痛みと吐き気。

 碧を心配させたくなくて、大丈夫だからと仕事に送り出したが、あまりの痛みに心細くなってくる。

 吐き気を覚えるほどの頭痛は、これまでにも何回か経験したことはあったが、鎮痛剤を飲めばいくらかマシになった。なのに今日は効いてくる様子が全く感じられない。

 いっその事頭をかち割ってしまいたいと思う。


 頭を抱えてベッドに蹲り、必死に耐えた。

 時計を確認して、碧が帰ってくるまであと何時間―――なんて事すら出来なくなっていた。

 もしかしたら、と不意に頭を掠める。

 考えることも酷く億劫な頭で、つい昨日のことを思い出した。


 得意先に向かう歩道橋でのことだ。

 階段を上るのに難儀している老年の男性が目に入った。危なげな足取りが気になって、手を貸そうと階段を駆け上がったのが拙かったのか。振り返った老人がバランスを崩し、その身を宙に投げ出した。

 枯れ枝のような小柄な男性だ。いつもなら容易に受け止められただろう。

 なのにその時に限って革靴の底が滑り、咄嗟に掴んだ手摺のお陰で落下は堪えたが、老人を抱えたまま滑るように下まで落ちて行った。

 階段に頭を強かに打って身悶えそうになりながら、ようやく止まって息を吐き出した。

 頭も痛いが背中も痛い。厚手のコートを着ていて良かった。でなければきっと、背中は無残に皮が捲れた事だろう。


 人が集まって来る。

 蒼白な顔を引き攣らせた老人が、必死に謝っている。

 大丈夫だからと、椥はその場を立ち去った。

 打つけた所がズキズキしたけど、そんな痛みはすぐに忘れていた。


(……これって、ヤバい…かも……?)


 もしこれが原因だったら、非常に拙いかもしれない。

 椥は力を振り絞って、ベッドヘッドに手を伸ばす。

 緩慢な動きでやっとのこと掴んだスマホを引き寄せた。目が霞んで画面が良く見えない。顔を画面に近付けて目を凝らし、緊急ダイヤルを押したところで、椥は意識を手放した。




 気が付いたら、椥は暗がりに佇んでいた。

 不思議と怖くない。

 足元から差し込んでくる明かりの先を覗き込んで、これってもしかしてと暢気に考えている自分が笑えた。

 決して笑いごとなんかでは済まない。これでも結構動揺している。


 下では懸命に処置が行われている。

 が、芳しくないだろうと、自分がこんな所で傍観している時点で、何となく予想がついてしまった。

 行かなきゃ、何かに急き立てられるようにして天を仰ぐ。

 その思い一つで千里も駆けるように、次の瞬間には寝ている父親の枕元に立っていた。父は出張でロスアンゼルスにいる筈だ。


 サイドテーブルの時計は、午前二時四十二分を表示している。時差は十七時間。日本が進んでいる。

 日付変更線を越えるように、昨日へ戻ることが出来たなら、迷わず病院に行くのにと今更だが思う。けれど実際には無理なことも承知だ。もう自分にはそんな時間は残されていないと、本能の部分で感じている。

 椥は眠る父にそっと話し掛けた。


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