月 日( ) 畔上翔真の苦杯

 僕はダメな人間だった。

 いや、俺は今でもダメな人間である。


 そう最初に自覚したのは、小学生の頃。


 授業というものが始まり、成績という形で能力が数値化され、皆が競い合うようになって初めて、己の不出来さが顕著に現れた。


 テストでは四十点を上回ったことがなく、運動は役立たず、低身長高体重であるが故に付けられたあだ名は『小豚ちゃん』。


 でも、そんな自分に僕は不満がなかった。

 理由は色々とあるけれど、やはり一番は家族の存在だろう。


 姉さんも母さんも……父さんもそうだったが、皆はよく「結果は気にしなくてもいい。頑張った過程が大事なんだ」と言ってくれた。

 だから、無理のない範囲で、自分なりに頑張っていた。


 そして何より大きかったのは妹の――陽向の存在だ。


「翔にぃ、優しいからだーい好き! 大きくなったら、お嫁さんになるー!」


 そう言って、所構わず抱きついてくれる可愛い彼女のおかげで、優しくさえあればそれでいいんだと、僕は自分を認めることができた。誇ることができた。


 人より劣っている――それだけのためにからかいを受ける毎日だったけど、面白がってくれるなら……と、享受した。


 けれど、それがいけなかったのだろう。


 悪ふざけというものは、日を増すごとに酷くなるもの。

 やっている方も、やられている方も、次第に悪化していく事態に気付くことができない。


 緩やかに、しかし確かにエスカレートしていく戯れ。


 そうしてそれは、中学生へと成長したある日、致命的なものへと変わってしまう。



 ♦ ♦ ♦



 中学生――それは多感なお年頃。

 自分で物事を考え、判断できるようになってきた彼らには、様々な環境の変化が訪れる。


 まず、入学にあたる人間関係の変化。

 大抵は近くの複数の小学校から一つの中学校へと入学してくるため、その人間関係はガラリと変わることになる。


 そして、勉学の厄介さ。

 小学校以上に複雑と化した教科の内容に、不安と不満を感じる者は多いだろう。


 また、上下関係の煩わしさ。

 部活動というシステムの登場により、今まではあまり感じられなかった『先輩』という存在を、はっきりと意識するようになってしまう。


 そういった環境の変化が、思春期や反抗期といった精神の乱れと重なり、僕への当たりがより酷く、より激しいものへと変化した。


 初めの軽い悪態は、いつしか露骨な悪口へと変わっていき、そこに物理的な悪戯が加えられ始め、最後には暴力とも呼ぶべき行為へと成り下がる。


 それでも、誰にも相談しなかったのは偏に、いじめと認めたくなかった――否、その頃にはもういじめと認識できていなかったからだ。


 繰り返される日々は、良い意味でも悪い意味でも日常と化し、その人にとっての常識となる。


 今でこそ、いじめだと断言することができるが、当時の俺は――僕にとっては、ただの普遍な、よくあるからかいでしかなかった。


 同時に、僕は信じていたのだ。

 妹の言葉を。そこから訪れる、人の在り方を。


 『優しくしていれば、いずれ自分に返ってくる』――なんていう、ありふれた正しさを。


「――ねぇ……畔上の件、ちょっとやりすぎじゃない?」

「それー、可哀想だよ〜」


「は? 何だよ、急に?」


 だから、ある日の放課後。

 たまたま教室から漏れたそんな会話を聞いて、僕は嬉しかった。


 やはり見てくれている人は居るんだと、味方をしてくれる人は居るんだと、そう――。


「だってさー、アイツ超使えるんだもん」

「それなー! 何頼んでも断らないし、いじめ過ぎて転校されても困る」


「ひっでーの! パシリかよ!」


「サンドバッグにしてるアンタに言われたくなーい」

「むしろ、命令してないだけ良心的っしょー! ウチらのはただのお願いだもんね」


 ――――その時、何かがポッキリと折れる音がした。


 信じていたものが穢されて、心身ともにギリギリを保っていたバランスは柱の抜かれたジェンガのように崩壊していき……。


 そうして僕は、逃げ出した。

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