10月8日(火) トロッコ問題
「――よし、トロッコ問題について考えてみるか」
唐突に、何の脈絡もなく、俺はそう提案してみた。
「……………………?」
「…………はい?」
「…………えっ?」
ともすれば当然、話を聞いていた三人は頭に疑問符を浮かべる。
「そら、急にどうしたんだ?」
「単なる話のネタさ。ネットで少し話題になってるみたいだからな」
何でも、小・中学校の授業で取り上げたらしく、それが保護者の反感を買い、謝罪する事態が起きたらしい。
……まぁ、そのこと自体にはさしての興味もないのだが、せっかくの機会なので考えていこうというわけだ。
あとは、単に俺がこういった思考実験を好んでいるからでもある。
「いや……話題っていっても、少し古くないか? 今はむしろ、イジメについての方が議論が交わされているような……」
黙らっしゃい!
イジメなんて、人にかまける余裕のあるつまらない人間のやる事なんだから、まともな人間が考えたって一ヨクトたりとも理解できないだけだっつーの。
「いいから、いいから。じゃあ、いくぞ。『制御不能のトロッコが線路を走っていた。このままでは、作業中の五人を轢いてしまう。貴方はそれを回避すべく、線路の分岐器を利用して進路を切り替えることができるが、そうすると今度は別の作業をしている一人が轢かれてしまう。さぁ、どうしますか?』――まずは、かなたから」
強引に流し、ココアをズズズッとストローで吸っている幼馴染に振ってみる。
「…………そらに任せる」
『…………はい?』
意味不明な解答をする一人と、発言の被る三人。
その反応を受けて、さすがに言葉足らずと思ったのか本人なりの理屈を話し始める。
「……そういう困った時は、そらがいる。だから、そらに任せる」
訂正。理屈にすらなっていなかった。
おかげで、二言目を聞いても、翔真と菊池さんは困惑して口が開きっぱなしだ。
「それに、そらはそういうことを私に選ばせない。自分から泥をかぶりに行く。…………でしょ?」
「…………まぁな」
否定はしない。
二人してそんな状況に陥れば、俺は真っ先に動くだろう。命も重みも責任も、かなたが背負うくらいならば俺がまとめて引き受ける。
「けど、そんな答えは想定されてないから却下だ。アホ」
「…………いたい」
デコピンを食らわせ、次へ行こう。
「……じゃあ、菊池さんは?」
「えっ!? ……わ、私? 私は…………」
続く人物を指名した。
ともすれば、呼ばれた当人はこれでもかと驚き、そしてしばし沈黙を行う。
モジモジと動く指。下げられた顔。
悩んでいるのか、答えにくいものなのか……葛藤している事実以外、見ている俺たちには分からない。
「…………私は、選べない……と思う」
その顔がゆっくりと上げられた。
「……一人も、五人も、どちらも同じ命だから、どちらか一方を切り捨てる選択なんて私には怖くてできない」
それだけ言うと、再び彼女は俯いた。
その気持ちは、分からなくもない。
悪く言えば『見捨てた』わけであり、『自らの手で人を殺す選択を放棄した』ことになるのだけど、敢えて俺は肯定してやろう。
それが人間だ――と。
どこまでいっても、人は己を愛する。
責任を負いたくなく、自分の手を汚したくなく、見ないフリをして逃れたくなる。
きっと多くの者が避難するであろう選択だけど、だからこそ、その選択を菊池さんが選んだこと・打ち明けたことは賞賛に値することだと俺は思うね。
「で、最後に翔真は?」
そして、三人目。
彼はこの問題に、どんな答えを出すのか。
深く息を吸い込み、そして吐けば、口を開いた。
「――どちらも選ばない」
真っ直ぐな瞳を、俺に向けながら。
「だって、現実でそんな淡白な状況じゃない。線路やトロッコの状態、作業員の様子など色々とあるわけで、もしかしたら皆が助かる選択肢を取ることだってできるかもしれないだろ?」
「それこそ、分岐器を半分だけ動かしてトロッコを脱線させて止める――とかね」などと、お茶目にもウインクをしながら答える翔真であるが……その答え、知ってたんだな。
いや、たとえ知っていなくとも、多少の知識さえあれば想像は容易だろう。
それにしても、相変わらずカッコイイ解答をする奴だ。
あれこそまさに、主人公属性。
「……なるほどな。けど――まぁ、一人は除くとして――みんな結構自分の考えを持ってて安心したわ」
答えがない、この思考実験。
それはつまり、各々の考え方・信念に基づいて答えることが重要になるわけで、結果は上々だった。
「…………それは、私に失礼」
かと思えば、その件の一人から抗議が入る。
「失礼、じゃねーよ。人任せにしやがって……」
横から服の裾を引っ張られるため、その摘む指を離させて崩れた服装を整えた。
「……『人に任せる』という選択」
「やかましいわ」
「…………いたい」
もう一発、デコピン。
そのやり取りをニコニコと見ていた二人であったが、そのうちの翔真が何かに気付いたように声を上げる。
「あっ……そういえば、そらの答えを聞いてなかったな」
「俺か? 俺は一人を殺すぞ」
慈悲を容赦もない、あっけらかんとした俺の態度に菊池さんはドン引きなさっていた。
「……そ、即答なんだ」
「まぁな、助けるなら一人より五人だろ」
功利主義に基づけば、必然的にそうなる。
が、しかしだ。もちろん、例外はある。
「ただ、その一人が大事な人だったり、逆に五人の中に生かしても意味の意味のないクズがいるんなら、五人を殺す道を選ぶかな」
要は俺の気分の問題なのだ。
命そのものに価値は置いてなくて、どちらを殺せば俺自身が納得できるのか――ただそれだけ。
故に迷わない。
迷うはずがない。
「……そららしい意見だな」
「だろ? 何なら、他の者にその選択を邪魔されないように、分岐器を壊してさえみせるね」
巫山戯るように、おちゃらけるように、空気が悪くならないように、そんなことを言ってみるが……これもまた俺の本心だ。
口では肯定してくれた翔真。
しかし、その実、考え方は真逆のものである。
だから俺は、主人公にはなれない。
不特定多数の人間を守るなんてこと、できやしない。
――こうして、いつの間にか握られている、この手を守るだけで精一杯なのだから。
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