第127話 星喰らいの狼

 白銀の騎士と巨大な狼人間の戦いを、兵達は建物の影に隠れて遠巻きに見ていた。


 だが最早近いも遠いもない。矢継ぎ早に放たれる銀の光は空まで貫き、狼が投げつけた岩は城壁外までも届く。剣の一撃、拳の一振りで勢いよく街が削れていく様は、まるで嵐か竜巻のようだった。


 その渦中にいるジーギル本人は無言のまま、後先考えず全開だった。


 未だ半人半狼の姿のフェンリルは、しかし更に一回り大柄になっている。白銀の雨で蜂の巣にしても傷一つ付かないほど頑丈で、疲れる素振りも見せず猛威を振るい続けている。離れればぶちまけられた瓦礫が砲弾のように飛んできて、近付けば巨大な爪の餌食になり、懐に入れば三重の口に齧り取られて即死だ。


 だがジーギルは飛び込んだ。彼も生身の人間だ。底の見えない化物相手に、刻一刻と体の限界は迫る。短期決戦に賭けるしか勝ち目はない。


「あの獣畜生、絶対に許さねぇ……」


 そこに、遠くからアレクがフラフラと近づいた。


「おいやめろ! これ以上やったら死んじまうぞ!」


 兵達は追いかける事も出来ずに叫ぶが、アレクは全く聞く耳持たない。ようやく意識が戻ったと思えばすぐに死地へ戻るなど、まったく助け甲斐がない。連れ戻すのは簡単だが、なぜか躊躇われる。そこで兵達が助け出したもう一人、黒祭服の女剣士も目を覚ました。


「……今、どうなってる。私、どれくらい落ちていた?」


 霞んだままの目で、辺りを見回す。


「気を失っていたのは、ほんの少しだ。あまり喋らない方がいい。致命傷ではないが、あの狼の手が掠ったんだ」


 ジーギル達とは少し離れた建物の影で、倒れるナルウィを十人弱の兵隊が守っていた。しかし皆、幽霊でも見るかのような目だ。そんなに酷い状態だったのかとナルウィは自分を確認すると、なるほど酷い。腹が抉れている。それにしても、何故まだこんなに沢山の兵がいるのか。


「逃げろと、言った筈だけれど、何をしているの」

「言われた通り目が慣れるまで逃げていました。慣れたから戻ってきたんです。貴女のおかげで私達は命を拾った。今度は私達が貴女を助ける」

「気持ちだけ、貰っておくよ。でも、行かないと」

「馬鹿かお前らは! あのドラゴンまで殺され、チンピラみたいな傭兵は殺されに戻った! もう今度こそ俺達も逃げるぞ! あの狼は、倒せない!」


 兵の一人がはっきりと敗北を口にした。ナルウィも否定しない。彼が臆病風に吹かれてそう言っているのではないと分かっていた。彼の言う通り、恐らくこの戦いに勝利はない。目指すは引き分けだ。


「……ジーギルと戦って、あれは少しでも消耗している?」

「そうは見えない。倒せる倒せない以前に、そもそも死という概念があるのかも疑わしいよ。あの狼がもし神話に出てくる怪物そのもので、それをヴォルフが契約で従えているなら。僕達人間に、倒す手段なんてあるんだろうか」

「倒すどころか、戦えもしねえ。戦えるのは英雄だけだ。俺達は違う」

「英雄、か。化物じみている事は否定しないけれど」


 先ほどからここにも巨大な瓦礫が雨霰と降ってきているが、細い銀光が流星群のように追い縋ってきて一つ残らず撃ち落としている。ジーギルは狼と戦いながらも此方を庇っているのだ。


「でも、彼はそんな大層な男じゃないよ。それよりドラゴンは。今、殺されたって」

「……見ない方がいい」


 兵は渋い顔で目を逸らす。殴り殺されたドラゴン。瓦礫の下敷きになったまま、その溢れ出た血で深紅の池ができていた。ナルウィは一瞬目を見開くが、死相が出たような顔のまま、力なく首を振った。


「……いや、そんな筈ない。彼は、まだ生きてるよ」


 その譫言のように空虚な言葉が余りに痛々しくて、兵達はなんと返したら良いか分からない。それでもなおナルウィは言葉を続ける。死相が出たような顔のまま、微笑んでいた。


「私と彼は一緒に生きて、最後には一緒に死ぬ。そう約束したんだ。だから私が生きている以上は彼も生きている。さて私も、本当にもう行かないと」


 ナルウィは兵達を尻目に地面を這った。

 既に剣も折れて、立ち上がる事さえ出来ないまま、狼に向けてにじり寄る。


「馬鹿を言うな! 何ができる、そんな体で!」


 兵の言葉にもナルウィは答えない。

 止めるのは簡単だ。だが彼らはやはり、それが躊躇われた。


「なんなんだお前達は、揃いも揃って……」


 兵達には全く理解できない。この砦の街にあるのは兵器と物資のみ、そもそも戦うようには出来ていない。あの狼が来た時点で負けなのだ。なのにまだ勝つ気でいる。身も竦むようなアレクの雄叫びが聞こえてきて皆が顔を見合わせた。あの助け甲斐のない命知らずめ、本当にまた戦い始めたのだ。


 折れた剣を手に突っ込んでくるアレクを見て、ジーギルは思わず顔が引きつった。ぼろぼろの体で走ってくる彼はまるで手負いの獣だ。だが信じられない事に、以前よりも更に速い。


 アレクは何度でも挑みかかった。時間がないのだ。ジーギルは正気を疑うほどの近距離戦に挑んで着実にフェンリルを追い詰めているが、どう見ても限界を超えている。ここで白銀は崩せない。なんとしても勝機を掴む。そんなアレクの蛮勇にあてられて、ジーギルも残る力を振り絞る。


 そして、また一太刀入った。


「っ……!?」


 至近距離で、狼の目が怒りの震えたのが見えた。

 次の瞬間、突然目の前が真っ暗になる。


 ジーギルは反射的に目の前にいた筈の狼を斬るが、空振りした。すぐに炎を吐かれたのだと気付く。視界を奪う為の、溜めのない軽い一噴き。決死の覚悟で接近したのが裏目に出た。そう判断する一呼吸分にも満たない隙に、すぐ近くで殺気が膨らむのを感じ、迎撃する間もなく直後右腕に激痛が走った。


「ぐっ!」


 フェンリルがいた。

 右腕に喰らいついている。

 筋が千切れ、骨が砕ける鈍い音がした。


 そのままジーギルは滅茶苦茶に振り回された。肩口から手首まで完全に狼の口に収まり、剣が動かせない、銀光も届かない、硬直して剣を手放せもしない。腕が完全に死んでいるが、このまま地面に叩きつけられればジーギルも終わりだ。この状態でも可能な手を、咄嗟にそう考えてジーギルは叫んだ。


「切り裂けぇえええ!!!」


 アルギュロスが眩い光を放った。

 まるで銀色の太陽のように、炎も闇も消し飛ばす。

 それを間近で食らったフェンリルは両目を潰して絶叫した。


 闇が晴れた。狼はジーギルの腕に喰らいついたまま苦悶の声を上げている。ジーギルが振り返ると、こちらに走ってくるアレクと目が合う。


「アレク!」

「分かってる!」


 短いやりとりで話はついた。

 そしてアレクの居場所を掴まれた。


 フェンリルは目が眩んだまま歯を食いしばり、怒りのままにアレクを攻撃する。アレクは間一髪でそれを躱すが、その剣はあらぬ場所を薙ぎ払い、フェンリルには掠りもしなかった。そしてとうとう腕が喰い千切られ、切り離されたジーギルの体が派手に地面に叩きつけられた。


 徐々にフェンリルの目が回復する。すぐ傍に体勢を崩した人間、アレクの影が見える。狼は今度こそ確実に食い殺してやろうと歯を剥き出した。


「今だ!」


 凛とした女の声が響き渡った。

 次いで四方から一斉に発射された何かが戦場を蜂の巣にした。


 周囲の建物に隠れるように並んでいたのは移動型の大型弩砲だった。発射と同時に弾き上げられた大槍が自動装填される。そして続く号令で撃ち出された槍には、初弾と同じく鎖が付いていた。その無数の鎖が狼の道を塞ぎ、体に巻き付き、鉤状の先端部分が地面に食い込んで動きを止める。


 雁字搦めで動けない狼に、ありとあらゆる兵器が襲い掛かった。


 巨大な剣山、棘付きの砲丸、雑多な武器の雨が間断無く叩きつけられる。砦の街アストリアスに持ち込まれた同盟軍の余り物だ。籠城用、供給用にと腐らせていた兵器を一つ残らず搔き集めた。使いこなせる兵はいない。だから弩砲に無理矢理装填し、遠距離から出鱈目にぶつける。その全てをだ。


「出し惜しみするな! ありったけ食らわせろ!」


 指揮するのは兵の一人に背負われたナルウィだった。這ってでも戦おうとする彼女を見かねて一人がそれを助け、二人、三人と兵が集まり、そして街の全戦力が腰が引けたまま戻ってきた。彼女は声を張り上げてそれを鼓舞した。皆が必死に戦っている。自分もまだ戦える。それなのにだ。腹が立った。肝心なあの男は一体何をしている。


「キミも、いつまで寝ているんだ!」


 その一喝と同時に、街の一角で建物が吹き飛んだ。


 邪魔な建物を薙ぎ倒して、リューロンが一直線に向かってきた。死んだと思われたのも無理はない。全身から血を滴らせ、所々で鱗が丸ごと抉れている。その死体も同然の姿のまま、それでも怒れるドラゴンは戻ってくる。


 激怒しているのはフェンリルもだった。体が膨らむ、今度は際限なく膨らむ。耳が突き出し、尾が伸び、本物の狼へと変身していく。正真正銘の全力だ。ただでさえ手に負えなかった馬鹿力が更に増し、鎖が大型弩砲とそれを支える建物ごと引き摺られ始めた。暗い炎が口から、足元から生まれてくる。


「流石に、頑丈だな……」


 独り言のようなその声が聞こえて、狼が勢いよく振り向く。未だ目は見えないが、この声はアルギュロスを使っていた騎士のものだ。腕を喰い千切り、地面に叩きつけた筈がまだ生きていた。この騎士だけは無視できない。全力で、確実に息の根を止める。


 フェンリルは声の方へともがき寄った。

 鎖を千切り、武器の雨を弾き、三重の口を開く。

 だが騎士は場違いにも、ふっと笑った。


「こっちじゃない」


 近づき、僅かに目が慣れて騎士の姿が見えた。右腕は確かにない、あったのは鋭利な切り口だ。あの時、喰い千切られるより先に、誰かに斬り落とされていたのだ。しかも目の前の騎士が持っていたのは、刃毀れだらけの鋳造剣だ。あの忌々しい銀の剣は、どこにいった。


 初めて一人の敵に意識を集中したフェンリル。

 その頭上の煙を破って一人の男が飛び込んだ。

 アレクだった。


 アレクは巨大な狼の死角を取るためにだけに、総攻撃の隙をついて横の建物から飛び降りたのだ。そしてその手に持っていたのは白銀の剣、アルギュロス。力強く、柄を握る。


「ブチ殺す」


 銀の光が爆発した。


 アレクに本来この剣を使いこなす才は無い。だが剣にはジーギルが限界まで引き出した光が残っていた。持ち手が変わって銀の色合いが変わる。洗練された鋭い光から、ギラギラと下品に眩い輝きへと。


 フェンリルが吠えた。


 鎖に縛られ体勢を崩しながらも、その圧倒的な攻撃は殆ど殺されずに相手に迫る。伝説の魔物、星喰らいの狼が放つ致死の一撃。だがその背後でジーギルは左腕で剣を振るい、脚を斬られたフェンリルの攻撃が僅かにずれる。落ちるアレクは掠める爪を一瞥もせず、狼目掛けて真っ直ぐ剣を構える。


 砦の街、アストリアスを縦に割る銀の光。

 それは狼の左肩から深々と入り、真っ直ぐ胸元を突き抜けて地面にまで到達した。


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