第六章その3
守屋さんが夏海に声をかけたほぼ同時刻、朝霧光は今日初めて竹岡に話しかけられた。
「朝霧……夏休み随分楽しんでたようだね」
「ああ……それで?」
「一緒に来てくれないか? 久保田が呼んでるんだ」
竹岡は挙動不審で気まずそうに遠くから光を睨む久保田に視線をやる。どおりで態度がやけに余所余所しいと思ったんだ。光は目を閉じて逡巡する、話に乗るべきかそれとも断るか、すぐに決めて席を立つ。
「久保田君に伝えて、用があるなら直接言って欲しいって」
光は冷たく突き放すようにはっきり言う。この距離なら久保田も聞こえるはずだと確信すると、露骨に久保田は不機嫌な表情になる。すると竹岡は光に縋るように震え、小声で言う。
「なぁ頼むから来てくれよ、でないと俺の立場がなくなっちまうんだ……頼むよ」
光は全身の血液が徐々に熱くなってくるのを感じ、すぐに失望と怒りだとわかった。
「なぁ……竹岡君……君ってそんな奴だったの?」
「えっ?」
「そんな奴だったのかって訊いてるんだ、聞こえなかったのか?」
光は冷たく辛辣な口調で訊くと久保田は溜め息吐いて痺れを切らしたのか、ズカズカと歩み寄ってきてふてぶてしい態度で言う。
「もういい竹岡、お前使えねぇ……朝霧、ちょっと来い」
「体育館裏とか校舎裏とか、人目につかない場所なら断るよ……用事もあるしね」
光は鞄を取って背を向けて教室を出ようとした時、久保田に肩を掴まれて逃がさないと言わんばかりに力が込められ、顔を見ると青筋を立てて睨んでいた。
「なら中庭に来い、二人だけで話したいことや訊きたいことがある」
光は神経をピリピリさせて久保田に言われるがまま中庭の、それも外から見えにくい場所に連れて行かれる。空を見るともういつ雨が降ってきてもおかしくない天候だった。
殴りかかって拳が届きそうな距離で久保田は向き合い、光に問う。
「朝霧……お前火の国まつりの時に風間とデートしてたんだよな」
「……そうだ。実は先生に追いかけられてみんなとバラバラになったから成り行きでね」
「火の国まつりの時、俺が訊いたこと覚えてるか?」
久保田が訊くと心臓の鼓動が速まる、これは本能的な恐怖だとすぐわかり、膝が震えそうになる。
「ああ、僕と風間さんが……付き合ってるかって?」
「そうだ、返答次第ではマジでボコボコにしてぶっ殺すからな」
ああ、ヤバい……こいつは静かにキレようとしてる。
「どうして風間さんに拘る? 風間さんはもう吹奏楽部に戻るつもりはない」
「知ってる……俺は前から風間が好きだったんだ……一目見た時からな」
「気持ちはわかるよ。僕も一目惚れしたんだ」
「その風間がなんで俺じゃなくてお前なんだ? 付き合ってるんだろ?」
光は戦慄する、どうして知ってるんだこいつ? 全身から脂汗が滲み出てくる。
「どうなんだ? 正直に答えろよ……朝霧」
久保田はもういつ殴りかかってもおかしくない、それでも光は頷いた。
「ああ、付き合ってるよ」
返事の代わりに予備動作なしでグーが飛んできた。光は一瞬意識が飛んで気が付いた時には左頬に痛みが走り、仰向けに地面に叩きつけられた。久保田は追い討ちをかけようと歩み寄るがそれより速く立ち上がる、今度は掴みかかってきて押し倒そうとする。
「朝霧テメェ……ぶち殺す!」
そのまま押し倒れされそうになると左足をできるだけ速く引いて同時に腰を回し、今度は久保田がうつ伏せで倒されると、校舎の壁を背にする。
「調子に乗んなよ朝霧!」
今度はさっきより強い力で押し出され、壁に張り付けられそうになるとさすがに押し負けそうになる。光は全力で踏ん張りながら久保田に訊いた。
「一つ訊いていいか……お前、今まで誰かをいじめたことあるだろ?」
「それがどうした? 何が言いたい?」
「調子に乗るなってのはな……いじめっこが言いがかりつける時の決まり文句なんだよ!」
光はさっきと同じように久保田を受け流すと、久保田は校舎の壁に顔面から叩きつけられる。雨が降り始め、数秒でどしゃ降りになる。
久保田は呻きながら出血する鼻を押さえ、マジで殺すと言わんばかりに殺意の眼差しを向ける。
「この……朝霧……よくも」
「お前なんかに夏海ちゃんを渡すもんか!!」
「気安く風間を名前で呼ぶんじゃねぇっ!」
久保田は左手で鼻を押さえながら右手で殴りかかってくる、光は久保田の左手側にかわし、右腕を首に引っかけてそのまま押し倒した。
「朝霧……殺す……本気で殺す」
雨水と泥に制服を汚しながら立ち上がる、光は露骨に舌打ちした。
しぶとい! このままこいつが屈するとは思えない、そう思った瞬間校舎の陰から男子生徒が三人それぞれ違う方向から飛び出してきた。
「朝霧やめろ! 本当に殺す気か!」
一人は竹岡で、残り二人は久保田と同じくらい体格のいい吹部部員だった。止めに来た?
その瞬間、二人の部員は一緒にして光を羽交い締めにして拘束すると、光はこいつらグルだと悟った瞬間には遅かった。
「暴れるな朝霧! 落ち着け!」
「そうだよ、大人しくすればこれ以上やらないから」
二人の部員はそう諭すが離す気はないのか、目一杯力を込めてる。
「だったら離せ!」
「るっせえ! 朝霧のくせに! 風間と付き合いやがって!」
久保田は光の胸倉を乱暴に掴んで引っ張り上げ、腹部に拳が叩き込まれる。激痛で呼吸ができないと思った瞬間、中庭の池に頭から突っ込まれる。
江ノ島の海水浴場よりも緑色に濁った水の中に突っ込まれ、意識が飛びそうになると引っ張り上げられる。
「おい! 起きてるよな? 朝霧シカトすんな!」
意識が朦朧としてるのを知ってか、返事を待たずに頬を引っ叩かれるが光は屈せず睨む。
「なんだよその目は! お前さ、立場わかってるのか?」
「二人だけで……話すんじゃなかったのかよ……」
「お前と二人っきりで話すこと自体あり得ねぇって」
久保田は勝利を確信したのかヘラヘラした顔で言う、光は震えて歯をギリギリさせて悔しさを噛み締めて泣きそうな顔を露にする。
もういいだろうと確信したのか二人の部員は一瞬だけ力を緩めた。
そこがチャンスだった。心が折れ、悔しさのあまりに涙が溢れた瞳は一瞬で冷酷で殺意に満ちた鋭いものに豹変、するりと抜けて一瞬で久保田との間合いを詰めて襟を掴み、自分の頭蓋骨が砕けても構わないくらい頭突きをぶちかました。
「おぐぁあぁぁ……」
久保田は声にならない声で悶え、光は素早く振り向くと二人のうち呆然と突っ立てる方にグーで殴りかかり、ビビって両腕でガードした瞬間に脛の方に思いっきり蹴りを入れてバランスを崩す。
掴みかかってきたもう一人には姿勢を低くし、懐に飛び込んでそのまま両足をバネのようにして突き飛ばして倒した。
悶える久保田に光は左手で久保田の首を掴んで、問い詰めた。
「夏海ちゃんのことが好きなら、お前はあの時何をしていた!?」
「なんだよ……あの時って!」
「先輩達からの嫌がらせやいじめ、顧問の歪んだ期待の間に板挟みになって苦しんでた時! 大会前の練習で倒れた時や保健室で顧問に尊厳も人格も踏みにじられた時! そしてやめた後も根も葉もない! 心ない噂を流されて一人心細い思いをしてた時だ!」
「お前……身の程も弁えず大層なことを偉そうに――」
言わせないと光は絞め殺すと言わんばかりに左手に万力のように握力を注ぎ、右手で容赦なく拳が砕ける程の会心の一撃で何度も叩きこんだ挙げ句、地面に叩きつけて罵声を飛ばした。
「立場を考えろ? 身の程を弁えろ? じゃあお前はそのまま狭い所で収まって偉そうに振る舞って生きていけ! そして俺たちに一切関わるな!!」
ここまで啖呵を切れる自分が不思議だった、千秋の影響かもしれない。睨みながら立ち上がる久保田。
まだやる気かと思った瞬間、冬花が必死で急かす声が突然響く。
「柴谷先生早く! こっちです!」
「雪水さん落ち着いて……!? 何をしてるんだ君たちは!」
凛々しい声、吹部顧問の柴谷先生だ。久保田の殺気に満ちた表情は一瞬で青褪めた顔になり、喧嘩は終わりだと言わんばかりに雨足も急に弱まる。
連れてきたのは冬花だ。光はホッと一先ず胸を撫で下ろすと、柴谷先生は厳格な眼差しで光や久保田たち三人の吹部部員、傍観者となっていた竹岡に訊く。
「この喧嘩騒ぎはなんだ? 説明しなさい」
「えっと柴谷先生、光君――朝霧君を無理矢理この人たちが中庭に連れて行ったんです」
代わりに冬花が言うと中庭のオブジェの陰から雨に濡れた望が出てきた。
「そうです。冬花の言う通りですよ柴谷先生……一対一で話すと中庭に呼び出して光に暴力を振るい、反撃したら仲間を呼んで一方的なリンチをした……証拠の動画、見ます?」
望はずっと隠れて撮っていたのか、スマホを提示する。
「つまり、久保田君は二人だけで話すと朝霧君を誘って暴力を振るい、反撃したら潜んでいた
柴谷先生は三人の吹部部員を萎縮させるような鋭い眼差しで見つめ、特に久保田は青褪めて震えて何も言えない様子だ。
自分より強い相手だと簡単に萎縮する、とことんムカつく野郎だがいい気味だ。
沈黙を破ったのは尾上で、彼は望や冬花と同じクラスだ。
「き、如月! お前動画撮ってたんだろ! だったら見せろ!」
「いいよ。但し動画は君たちがリンチし始めて光の頭を池に突っ込ませたところで終わらせたよ……俺のスマホはあまり防水機能がいいとは言えないからね」
望はスマホの動画を見せる。柴谷先生は不快感を露にし、冬花は辛そうに両手を口元に当てたが決して目を背けなかった。
光は自分が有利になるよう立ち回ってくれた二人に感謝する。
「すまない、ありがとう……でもよく気づいたな望も冬花も」
「ああ、倉田君が報せてくれたんだよ……朝から嫌な予感がするってね」
望はオブジェの陰に視線をやると倉田が出てきて、久保田は再び青筋立てる。
「倉田……お前が先生にチクったのか?」
「朝霧、大丈夫か? 悪いな助けられなくて」
倉田は久保田を無視して訊くと、光は思わず苦笑いにして言う。
「いいよ、ありがとう」
光は礼を言うと無視された久保田は睨み殺さんばかりに見つめるが、気にも止めることなく、柴谷先生にお願いする。
「どういたしまして。柴谷先生……ちょっとだけ目を瞑ってくれますか? 処罰を受ける覚悟もしてますので」
「何をするつもりだい?」
柴谷先生は首を傾げると、倉田はいつもの表情でビクビク怯えてる竹岡に近づいたかと思った瞬間、胸倉掴んで会心の一撃を頬に拳を叩き込んだ。
「な……なにすんだよ……倉――」
「やかましいんじゃボケ!! 朝霧に女ができたからって簡単に裏切って久保田たちに売りやがって!! いつからお前はそんな器のちっちぇ奴になったんだ!?」
「痛いよ倉田……殴ることはないだろ」
「知っかボケ!! 朝霧はいつもお前の下らない愚痴を優しく聞いてくれた! そんな友達を売ったんだぞ!! わかるかクズ野郎!!」
竹岡はメソメソ泣きながら情けない顔を見せるが、お構い無く髪を引っ掴んで光に顔を向けて鬼のような形相で怒鳴る。
「朝霧を見ろ!! 朝霧があんな風にされた痛みに比べれば痛くも痒くもないだろ!!」
いやいやいや、今の凄い痛そうだったよ。竹岡はメソメソ泣き、柴谷先生は溜め息吐く。
「もういいでしょう倉田君、それくらいにしなさい……久保田君、岩元君、尾上君、君たちのしたことは絶対に許されない……保健室で手当てを終えたらすぐ音楽室に来るように、いいね?」
柴谷先生は有無を言わせない眼差しで言い渡すと、三人は力なく「はい」と返事した。
その直後、慌てた様子で眼鏡をかけた一年生の女子生徒が泣きそうな表情で走って来た。
「柴谷先生!! すぐ音楽室に来てください!!」
「どうしたの栢原さん? なにかあった?」
「二年の守屋先輩が……桜木さんって人と……喧嘩して」
栢原さん半ベソかきながら声を震えさせ、光は嫌な予感がすると音楽室のある三階からいくつもの悲鳴と怒号が聞こえた。
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