君と見上げたい、たった一度の8月31日の夜空を
尾久出麒次郎
プロローグ
夏休み。
退屈で窮屈な教室の授業や空気から解放され、エアコンでひんやりとした涼しい部屋で好きなゲームで遊び倒したり、アニメや映画を見たり、スマホやタブレットでネットサーフィンしたりして過ごす。
勿論、部屋に籠ってばかりじゃもったいなさすぎる。照り付ける太陽の下で普段はできないことをしたり、行けない所に行って汗を流すこそ夏休みの醍醐味だ。
別のクラスにいる友達と三人で
勿論、絶対に忘れてはいけないあることがある。
小学生の頃、太平洋戦争で帝国海軍の特務士官だった曾祖父のために、昨年一〇四歳で亡くなった曾祖母を連れて家族で熊本県の戦没者追悼式に参列したこともある。
曾祖母は今では殆どいなくなってしまった戦争体験者で、幼い頃から光や親戚の子達に戦争の話しを聞かせてくれて、夏休みの宿題以上に大事なことだと教えてくれた。あの戦争のことを考えなければいけないという意味でも夏休みは特別な時期だ。
そして今年――二〇二X年の夏休みは恐らく一生に一度いや、人類の歴史でもう二度とやって来ない特別な夏休みになるだろう。
細身で一七〇センチの背丈、所々癖のある髪に柔和で大人しそうな印象の美少年――朝霧光は昼休み中、教室の窓の外、六月中旬の梅雨の合間に晴れた青空に思いを馳せながら、スマートフォンに繋いだイヤホンを両耳に挿して動画を見る。
『――再来月の八月三一日の夜、ジェネシス彗星が地球に最接近しますその大きさは恐竜を絶滅させたと言われる隕石とほぼ同じ直径一〇キロで地球に衝突するギリギリの距離を通過します。一時は衝突が心配されて一部でパニックや集団ヒステリーの発生も確認されましたが、専門家によれば最接近は日本時間の八月三一日の午後九時頃だそうです!』
スマートフォンでニュースサイトを見ると、女子アナウンサーはもうすぐやってくる一大イベントを朗らかに、そして興奮気味に報じている。
二〇二〇年代に入って数年以上にも及ぶ長い新型コロナウイルス感染症のパンデミックやそれによる恐慌と悪いことが絶えなかったが、このジェネシス彗星の大接近のイベントは別格だった。
テレビの全国ニュースは勿論、ネットのニュースでも連日報道し、SNSでもジェネシス彗星の話題が絶えず、この状況は夏休みの終わりまで続きそうだった。
ジェネシス彗星が地球に近づく間も情報は日々更新されるが、それを快く思わない人もいる。
「また見ていたのか朝霧? このリア充専用イベントのニュースを」
わざわざ二年四組の教室前方の扉近くの席から、光の座る窓側一番後ろの席までやってきたのはクラスメイトの
肥満体型のおにぎり頭で、一昔前のネット掲示板で生まれたキャラクター「やる夫」という渾名を付けられてる。
光は無難に言って流す。
「そりゃあ気になるよ、地球に落ちるギリギリの距離を通過するからね」
「いっそのこと、地球に落ちればいいのに……あいつらの頭上にね」
竹岡は不機嫌そうに
「なぁ聞いたか? 二組の
彼らは最近の話題であるジェネシス彗星のことは勿論、夏休みどこで何して遊びに行こうか? と楽しそうに話してる。
「あいつらは純粋に楽しみにしてるだろ、いつからお前は楽しむことを忘れたんだ?」
竹岡の中学からの友人である
痩身で一八〇センチ後半はあるのっぽで、素朴で面長だが整った顔立ち、いつも淡々とした口調でその見た目から「やらない夫」と呼ばれてるが、本人は満更でもない様子だ。
「あいつらは女とヤる口実で彗星を見るつもりなんだ、目障りなんだよ……なぁ朝霧、そう思わないか? 彗星の夜は俺たちで仲良く見上げようぜ」
「えっ……結局見るの?」
なんだかんだ言って彗星を見るのか? 光は口元が引き攣ると竹岡は倉田を裏切り者を見るような眼差しを向ける。
「ああ、倉田は俺たちよりもガキの頃からの友達と見上げるんだってさ!」
「先に誘われたんだ、断る理由もない」
倉田は尤もらしい理由で言うと、竹岡は呆れたという口調になる。
「これだよ、こんな薄情な奴と一生に一度のイベントを過ごしたら後悔するぜ」
お前のような卑屈な奴と過ごすよりはいいだろうという言葉を光は口にする直前で止める。
幸いなのは登下校する時、方向が違うから帰る時は別のクラスにいる友達と鉢合わせになることはない。
その日の放課後、違うクラスの友達二人は用事があり光は待ってる間に屋上に続く階段に上がる。
特に理由はないが屋上に上がった時の開放的な雰囲気が好きで、時々なんとなくボーッと空を見上げるのが楽しみの一つだった。
屋上に通じる扉を開けてくぐると、容赦ない陽射しが眩しくて思わず立ち止まる。
この一週間、嫌になるほど雨や曇りばかりで晴天は久しぶりだ。だけどまた明日から雨や曇りの日々が続く。
「このまま今年の夏休みも……なんとなく過ぎ去るのかな」
光はどこか憂鬱な気分で青い空を見上げる、どうか去年のように冷夏で長梅雨になりませんようにと祈って。
「なんだか……思っていた通りにはいかないのはわかってたけど」
独り言を口にする光。
高校生になったら友達や可愛い彼女と一緒に放課後、熊本市の繁華街で道草食ったり、休日はみんなでどこかに遊びに行ったり、旅行に行けると思ったけど実際は思うようにはいかない。
勉強や課題に追われ、クラスの人間関係や立場にも気を遣う、教室の中は狭くてそれでいて息苦しい。
別のクラスにいる友達の
おかげでそれなりに楽しい放課後や休日を過ごせたりできてるけど、やっぱり彼女やその子との一生の思い出が欲しいと思うのは贅沢なのか? 同じクラスの竹岡は卑屈に諦めろと言ってるけど、諦めたくない。
期待と不安の入学初日に声をかけてくれたのは感謝してるけど、おかげでスクールカースト下位グループ入りになってしまった……やめよう、こんなことを考えるのは!
光は頭を左右に振って考えてることを全部振り落とす。だけどこびりついた染みのように離れない、いっそのこと大声で叫んでしまおうか?
ここなら溜め込んでいたものが吐き出せる気がして一歩前に、塔屋を出た瞬間。
「もう吹奏楽部なんかに戻りたくなぁあああい!! 夏なんて、夏休みなんて、大っ嫌ぁぁああああい!!」
気持ちの全てを声に出し、空どころか宇宙の彼方にいる彗星まで届きそうな女の子の叫び声。
光は振り向いて見上げる、声の主は給水タンクのある塔屋の上に立っていた。
爽やかな夏の風を一身に受け止めてふわりとなびく長く艶やかな黒髪、柔和だけど意志の強さを秘めた瞳に、一目惚れするほど清楚で可愛らしくも綺麗な顔立ちの大人しそうな女の子。
背丈は高くもなく低くもないが、胸は意外とふっくらして大きく、白い両足も健康的でしなやかだった。
光はその女の子と目が合うと、女の子も気付いて表情には出さなかったが驚きの眼差しで見つめ、徐々に頬を赤らめていく。
「……ご、ごめん! 悪気はなかったんだ!」
光は偶然にも見てはいけないものを見てしまった気がして思わず謝り、逃げるように来た道を戻って階段を駆け降りる。
一瞬の出来事だったが女の子の姿が目に焼き付いて離れない。
あんなに可愛い女の子とお近づきになって夏休みを過ごし彗星を見上げることができたら、それはきっとなによりも素晴らしい青春の奇跡だろう。
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