011.紅の鳥




 三日後の早朝、陽も射さぬ白闇の時間帯に、フェンは渇きと空腹と絶望的な体調を携えて目覚めた。目覚めた彼の姿は幽鬼の様に凄まじいもので、髪を振り乱し、顔は青ざめ、目には暗鬱な色が沈んでいる。体を動かさず眠り続けた事による全身の痛みは酷いもので、吐き気を催す様な目眩が立ち上がった彼を襲った。

 フェンは一体ここが何処なのか、初めはぼんやりとした感覚しか無かった。やがて意識がその幽霊の様に蒼白な顔に戻ってきて、ようやく彼は今いるホテルの事を思い出した。


「ぁ……」


 口から出たのは掠れた風の音としか聞こえなかった。口内はカラカラに乾いており、今すぐに水分を補給せねばひび割れて砕けてしまってもおかしくない苦痛だった。

 彼はフラフラと部屋に備え付けの冷蔵庫の前まで来ると、縋り付く様に扉を開けて、ボトルのミネラルウォーターを取り出した。

 彼は力ない腕でキャップを取ると、その新鮮な水を口にゆっくりと流し込んだ。


 なんという甘露! これこそ命の水!


 正しくそれは彼の命を繋ぐ一縷いちるの糸だった。彼の干からびていた体は、砂漠が水を際限なく吸い取るように、その600ミリリットルボトルの最後の一滴までも飲み干した。

 彼は空になったボトルをゴミ箱に放り投げ、一度も目にしないままだった洗面所へ覚束無い足取りで向かった。


「ハッ……ひでぇ顔だな」


 フェンは鏡に映った自身の顔に自虐的な嘲笑を向けると、服を脱いで浴室へ入り、シャワーを浴びた。冷たい水が彼の肉を滴り落ち、べたべたと気持ちの悪い垢を洗い流してゆく。彼は顔にかかった灰髪をかき上げると、しばらく顔をシャワーの水流で洗い流した。


「下らん……俺は何をやっているんだ?」


 額から顎まで、淋漓りんりと冷水が流れ落ちる。彼は光を失った純黒の瞳を開いて、そう独りごちた。答えるものは無く、シャワーが吹き出す音だけが浴室を支配した。

 彼の心はただ安穏を――過去を忘れられる戦場を望んでいた。魂は血と鉄と争いの荒野を渇望し、眼前に迫る少女の幻影から逃れようと、痛みを伴った叫びに喘いでいた。

 しかし、彼の無感動な理性に浮かび上がってきたのは、リンやカムニエといった存在だった。少なくとも、カムニエは何処かしらの院に入れて、リンの入院費も払わねばならない。そんな事を考えると、彼の心はふっと冷め、煮え滾る様な熱も石のように固まっていった。


「……少し、追い詰められているようだ」


 そうやって自身の壊れる事を望む心を抑え込むと、彼は普段通りの姿へと変貌し、シャワーに打たれ続けることを止めにした。


「腹減ったな……今何時だ?」


 体を拭いて服を着直すと、フェンは部屋へと戻った。外は薄ぼんやりと明るく、時計も日の出の頃合を指していた。勿論こんな時間に何処の店も開いている筈がないのだが、三日ぶりに目覚めた彼は異常なほどに空腹だった。

 ジャケットを羽織り、ホテルを出る。こんな時間に外に出る人間もいないのか、ホテルの廊下やエントランスでは誰にもすれ違わなかった。まだ電灯が点いている薄明かりの中に出ると、乾いた風が昨晩の新聞を巻き上げながら吹いていた。


『大規模戦闘あり、我が軍刺し違えしか』


 フェンの目は舞い上がっていく新聞の見出しを捉えた。どうやらここ数日の戦闘の報道のようだった。彼は写真に何処か見覚えがあると思ったが、新聞はあっという間に建物の向こうへと飛んで行ってしまった。


「まあ、いいか」


 フェンはそう言って食事を求めに歩き出した。




 ◆




 フェンの目覚める二日前。


 バルザ共和国内の大荒野では、ルバート連盟とバルザ共和国、両軍の軍団が睨み合いを続けていた。兵力で勝る連盟軍と、上手く待ち構えて敵の動きを制限した共和国軍。共和国軍は開けた地形のために兵站線を切ることが出来ず、敵が居座るのを許してしまっている。連盟軍は万全の戦闘態勢を整える敵に、例え兵力で勝っていようが、おいそれと戦闘の端を発する事は出来なかった。

 そうしてそれなりの期間睨み合いをしていた両軍であったが、何の対策も採っていなかった訳では無い。ルバート側は敵軍の背後を突く【黒鷹部隊アッサクルー・アスウェイド】を極秘で出撃させ、共和国軍は戦力差を埋めるために傭兵部隊を戦場に呼び寄せていた。しかし、この二つの措置が寄りにもよって鉢合わせてしまい、両方の目論見は潰れたのであったが。


 ルバート連盟軍、戦略型陸上戦艦ウィザの大会議室では、通信の途絶した【黒鷹部隊アッサクルー・アスウェイド】に対する激論が交わされていた。


「現状を見よ! 黒鷹部隊は失敗した!」

「電波の盗聴を恐れて連絡が遅れているのやもしれぬ。何せ敵地で背後を突くという難しい任務なのだからな。いくら素晴らしい実力を持つ彼らでも難儀しよう」

「だが、彼らを出撃させてから五日だ! これほどの時間彷徨うろついているとしたら、彼らの人型機は一つ残らずガラクタと化しているだろうよ!」

「まあまあ、カルマーン将軍少し落ち着きたまえ。

 彼らの任務は背後からの奇襲による敵軍の混乱だ。もし仮に敵軍が彼らを発見したとしてだよ、何らかのアクションを起こさないとでも言うのか? 我々でも、敵軍が何らかの行動を起こした事くらいは分かる。だが、そんな様子もない。もしかすると、敵軍の行動を悟らせない能力が特別優れているのかもしれないがね。

 まあ、そうだとすれば我らは負けたようなものだが……失礼、不吉な事を言ったね。ともかく、黒鷹部隊はまだ任務を遂行している可能性が高いと思うのだが、如何だろうか」

「見つかって、泳がされている……とは?」

「ふむ、それは有り得んだろう。敵軍の利は万全の体制で待ち構えていることにある。その利を失うような動きをする存在を、奴らが見逃すのは有り得ない。我らの方が兵力では勝っているのだからね。

 もしそんな馬鹿をする奴がいたら、そいつは世紀の無能だよ」

「だがしかし、それでも……遅すぎる」


 カルマーンは憤然たる気を理性で何とか鎮めながら、乱暴に椅子に腰を下ろした。彼の言葉はこの場の人間全ての気持ちを代弁したものであった。作戦はまだ破綻していないと、幾ら理論付けようが、会議に出席した全員は心のどこかで黒鷹部隊の失敗を想像していた。

 実際、この作戦が失敗すれば、またも睨み合いを続けて無駄に時と資源を浪費せねばならないし、更に黒鷹部隊というかなりの戦力を丸々失うという痛打を受けねばならない。これが防衛では無く攻勢である以上、戦力の低下はそのまま致命的な傷となる。


「報告! 報告!」

「む、会議中だぞ!」

「で、ですが、緊急事態なのです!」


 会議の場に駆け込んできた下仕官の姿によって、彼らは一気に頭脳を戦術家のそれに切り替えた。彼らもまた一つの軍を預かる将軍。戦場では何が起こってもおかしくは無いと知っていた。


「西――背後から凄まじい速度で所属不明の機体が!」

「何だと!⠀馬鹿な!?」

「道中に建ててきた観測所が、こちらに向かっているとの報告を!」

「クソっ、何がどうなっている!」


 背後――即ち、彼らの故国ルバートからの襲撃者であった。敵かどうかはまだ不明だが、所属不明機であれば、十中八九友好的ではない。

 カルマーンは逆に自軍が背後を取られていた事実に戦慄し、すぐさま軍団に指示を出す為に、会議室を駆けて出て行った。他の者もめいめい各自の役割を果たすために、額に汗を垂らしながら走った。


「敵はどのくらいの規模だ! バルザの動きは!」

「その、それが……」

「早く言え! のろのろしている場合ではない!」

「一機です」

「……何だと? 今なんと言った?」

「一機なのです。見慣れぬ赤い――鳥のような戦闘機だったと聞いています」

「赤い――鳥?」


 カルマーンの顔は疑問を持った人間のそれから、恐ろしい想像をする信仰者の如く蒼白に変わり、ポツリと「まさか……」と呟いた。


「お、おのれ……まさか政府め、あの悪魔どもと契約したと言うのか!?」


 凄まじい怒気に顔を真っ赤にしたカルマーンは、今まで以上に全力で駆け、扉すらも邪魔だというようにとてつもない勢いで司令室へと走り込んだ。


「状況報告! レーダー!」

目標ターゲット早すぎる! 来る、来る、来る!」

「将軍、撃っていいのですか!」

「到底当たりっこない!⠀何だあの速度は!」


 もはや何の指示を出そうとも間に合わないと、大スクリーンに映し出されたポイントの速度で悟った。それはすぐ近く――もう数秒もあれば、この戦略型陸上戦艦ウィザの上空までやって来るだろう。


 そして永遠とも思える数秒後、ウィザの分厚い超装甲をつんざくような轟音が、司令室の中まで響いた。


「た、目標ターゲット、ウィザの甲板に着陸しました。敵じゃ……無いのか?」

「……映せ」


 大スクリーンの画面が切り替わり、酷い有様になったウィザの甲板を映し出した。カタパルトや人型機体出撃口などを備え付けた超合金製の甲板には、爆発的なブースターによる真っ黒に焼け焦げた跡や、超合金同士を凄まじい速度で擦りあった幾筋もの線が走っていた。

 そして画面の中央には、Large級の人型機よりも更に大きな鳥が――紅の輝きに満ち溢れた鳥型の機体が、傲然と佇んでいた。


『ハァーイ、ルバートの皆さん』


 鳥型の機体の頭部ハッチが開き、中から一人の少女が姿を現す。真っ赤な髪を二つに結んで、可愛らしくもボーイッシュなスタイルに纏めた、お洒落な少女。その姿は、余りにも戦場には似つかわしくなく、画面を食い入るように見つめていた誰もが、呆然とその少女を眺めた。


『この私、エルネス・ラングラーが本国からの援軍よ。この私が来たからには、勝利を約束するわ』


 傲慢に満ちたその言葉を、誰もが固唾を飲んで聞いていた。


『私、面倒なのは嫌いなの。単刀直入に言うわ』


 丁度その時、乱入者に対応しようと出撃した二十を超える人型機が、甲板に十以上も取り付けられた出撃口から姿を現した。彼らは目の前の巨大な鳥に一瞬たじろいだが、勇敢にも対装甲用実弾ライフル銃を構えた。


「よせっ!」


 カルマーンの思わず零れた言葉と、紅の鳥が天を衝く様な雄叫びを上げるのはほぼ同時だった。凄まじい音響にスクリーンが揺れるような錯覚を覚えた。スピーカー越しにこれだ。実際に聞いた人型機のパイロットは、苦しんで攻撃など全く考えられなくなって、武器を取り落としてしまった。

 そして、そんな凄まじい音響を間近で受けて尚、エルネスは平気な顔で鳥の頭の上に颯爽と立っていた。

 エルネスは淡々と、女王の如く言い放つ。


『私があなた達を勝利に導いてあげる。だから、さあ……開戦の狼煙を上げなさい――今すぐに』


 突然現れてそう言い放った少女――エルネス・ラングラーは、確かに支配者であった。


「ウロボロス……」


 カルマーンは十年前のダウニンゲルの悪夢を想起し、呆然とそう呟いた。



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