変化の予感
「柴崎さん」
いつもランチに誘ってくれる先輩が、ある日私の目の前に何かを差し出した。帰る用意をしていた私はそれを見て目を丸くする。
「あっ、これ観たかったやつ……」
「そう言ってたでしょ?実は買ったんだけど彼氏に断られちゃって。あげるから誰かと観てきなよ」
彼女が持っていたのは映画のチケットだった。それは私が前から観たいと言っていた映画で、確かに純粋な恋愛ものだから男の人は嫌だと言う人もいるかもしれない。
「でも、タダで貰うわけには……あの、一緒に行きませんか?」
彼女は微笑んで、どちらかと言うとニヤリという表現が正しいかもしれない、主任をチラリと見た。まず私が主任を好きなことがバレていることに驚いたし、この場でそんなことをされるとは夢にも思っていなかったから私は慌てて立ち上がって彼女に抗議した。彼女は「はいはい」とそれでもニヤニヤ笑いながら帰っていく。ドッと疲れた気がする。はぁ、とため息を吐いて更衣室に向かった。
どうやって誘おう。頭の中はそればかりで。連絡先はもちろん知っているけれど、連絡を取ったことはない。職場で誘うにも二人きりになるチャンスはないし……。そう思っていたのに。
エレベーターの前でちょうど会った。しかも周りに人はいない。
「お疲れ」
「あ、お、お疲れ様です……」
突然会うのは心臓に悪い。しかも誘いたいという気持ちがあるから更に。主任はもちろん私の心の中など知る由もないので、平然としている。エレベーターが来る。密室で二人。今の私に耐えられそうになかった。
「乗らないの?」
先に乗った主任が私を見る。いや、乗ります。乗るけど……
「あ、私忘れ物が……」
逃げてしまった。え、と戸惑ったような声を背中に聞きながら、私はそそくさとエレベーターの前から走った。
何やってんの私。頑張るって宣言したのに何逃げてんの。先輩にもらった映画のチケットを見ながらため息。行ってしまったエレベーターのボタンをもう一度押し、落ち込んだ。
チン、と音がしてエレベーターが開く。はぁ、とため息を吐きながら乗ろうとしたら。目の前に誰かがいるのに気付いて顔を上げた。
「えっ」
「え、あれ、ごめん!降りるの忘れてた……」
何故か先に降りたはずの主任がまだエレベーターに乗っていた。主任も何だかボンヤリしている様子で、私たちはお互いにオロオロしながら向かい合う。
「……とりあえず、帰ろうか」
主任の苦笑いに私も頷いて、今度こそエレベーターに乗った。密室には耐えられないと思っていたけれどその通り、息苦しかった。誰といてもこんなに緊張することってない。前に立つ主任はひたすらエレベーターの表示を見ている。降りていくのが分かるから焦る。誘うなら今だ。せっかく先輩がくれたのだ。もしかしたら彼氏に断られたというのは嘘で協力してくれたのかもしれない。だから、早く。
「……っ」
着いてしまった。主任が先に降りる。私も続いて降りる。ロビーには人はいないけれど、すぐにビルを出て。
「じゃあ、お疲れ」
主任が帰ってしまう。……ああ、もう。私の馬鹿。握り締めたチケットはシワシワになっている。……やっぱり先輩に返そう。申し訳ないけど。私には無理だ。しばらくその場に立ち尽くしていたけれど歩き出した。バッグにチケットを入れようとした。……その時。
「唯香!」
後ろから呼ばれて立ち止まる。振り向いたら息を切らした主任が立っていて、目を見開いた。
「ごめん、送る。遅いし」
「えっ、大丈夫ですよ、いつも一人で帰ってるし……」
主任はそうだよなと呟いた。それでも動こうとしない。首を傾げていたら、主任が顔を上げた。
「あー、俺、日向みたいに口上手くないから」
「え?」
「一緒に帰ろう」
少しだけ照れたように前髪を触って。私の返事を聞く前に歩き出す。
ああ、もう。嬉しすぎる。主任が私と一緒にいたいと思ってくれたのかと。
「あ、あの、主任」
「んー?」
「こ、これ、い、一緒に行きませんか」
差し出したチケットは、なかなか受け取ってもらえなかった。不安になって顔を上げたら。
「え……お、俺?」
「え?」
「あ、いや、誰かに誘われたのかと……あ、俺でいいの?」
主任は私がチケットを持っていることに気付いていたのだろうか。予想外の反応にポカンとしていると、主任はふっと笑った。
「……うん、いいよ。行こう」
心臓がドクドクと高鳴る。いいって言ってくれた。一緒に行こうって言ってくれた。何だろう。泣きそう。
「……え、ええ?!唯香?!何で泣く?!」
あまりにも動揺するから今度は笑ってしまった。もしかしたら少しずつ。変わっていけるのかも知れない。
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