第10話 追憶を燃やす匂い

夏の夜に眼を閉じて世間を遠ざける

蚊取り線香の燃えていく匂い


いえ、あれは父が煙草を吸い尽くす音

いえ、あれは兄が穴を掘る遠い音

いえ、あれは舟に乗せた人にふる音


どこに行けばいいの?と尋ねても

背中でしか語らない人たち

祖母に手をひかれて歩きながら

あかい椿を口から出して

ハンカチにくるんだ道は

前へとゆく今日と同じ道


しろい肌に包まれて

果ててゆく道の端にもう

どうしようもないぐらいに

違ってしまったいつかの

毛並みの悪い子の瞳が

転がっているのです


あの人と同じ

形のよい

背にあかい朱をひいて

癒えてはまた傷つけあう


赤児がないた


眼をあければ

爪の形のよさを

燃やしてしまいたい

けれど蚊取り線香は

燃えつきて匂いだけが

悲しそうに去ってゆく


そして煙草はやめて、家をでて

私を知らない土地の川で

舟を流す、それは海へ続き

あの日と繋がりながら

よく似た横顔で流れてゆく

あかい椿の刺繍のハンカチ


血の繋がりを断ち切った指を

しろい指にからめて川に背を向けて

ふたり歩く道は驚くほど匂いに溢れていて

通り過ぎた家からも蚊取り線香の匂いが

ひとすじ漂ってきていた

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