6

 これ以降、私はこのこと、私が女になってしまった話は誰にもしていない。このような話をしたとして、彼女以外に誰が受け入れるだろうか。確かに世界の改竄に若干気づき始めていた村上先輩には少しくらいなら信じてもらえるだろう。しかし、そうしたきっかけもなく話されたら? 私はその時こそ妄想癖の精神病患者として白い箱にぶちこまれただろう。

 ただ、私に沙穂という友人がいなければ、そうなっていたかもしれない。この時の私の精神は彼女に支えられてきたようなものだ。私は彼女の助けを借りながら元から女であったかのように振る舞った。恐ろしかったのが、それを問題なく行えたことだ。例えば化粧の知識が頭のなかに最初から居座っていたように、すんなり化粧ができた。そのことにひどく戸惑い、混乱したのを覚えている。当然、男の頃に化粧の知識はほとんど持ち合わせていない。私は体どころか頭まで変わっていたのだ。

 そして、人間の慣れもまた恐ろしかった。私は女性としての知識があったのも相まって、半月ほどでこの生活に慣れた。またその慣れるまでの半月ほどの混乱と戸惑いの中に、すっかり失恋の重さを忘れてきてしまっていた。だから、沙穂が久々にサークルに顔を出そうと言った時、私は急に気分が悪くなった。深い絶望の淵に生きていたことを思い出したのだ。村上先輩の顔を見なくてはならない。それが嫌だった。

「ごめん、しばらくいけそうにないや」

「どうして?」

 確か、五限の講義が終わった後だったと思う。私の不快そうな顔が気になったのか、沙穂はやんわりと聞いてきた。

「いや、その……」

 口ごもってしまう。なんだか、言うのが嫌だった。俯いてずっと黙っていると、彼女はこちらの顔を覗き込んできた。

「村上先輩のことかしら」

「あっ……」

 言い当てられて、小さく声がこぼれてしまった。

「告白、成功しなかったのね。それで会うのが、嫌なのね」

 沙穂は遠慮をしなかった。すらすらと言葉を紡いで、私に投げかける。私はこくりと頷いた。いじめられた子供と、母親みたいだ。

「どうして、断られたの?」

 沙穂の聞き方は、本当に母親のそれとおんなじで、優しくて、でもどんどん踏み込んできて、嫌じゃなくて、私は相変わらず小さな声で言った。

「……気持ち悪い、って。そう、言われて」

「うん」

「あまり覚えてないんだ。その、頭がぐるぐるしてて、なにを言われたか覚えてない」

「……まだ、村上先輩のことは好きなの?」

 思わず、え、と聞き返した。沙穂はいつもの表情でこちらを見ている。ただ、少し憐れんでいるような目だった。私は、村上先輩にひどい言葉を投げかけられても、まだ好きだった。今でも彼のことを思うだけで胸がチリチリとする。体がたまらなくなって暴れたくなる。私は再び頷いた。

「ん、そっか。ほら化粧落ちちゃうよ」

「え」

 沙穂は私の顔にそっとハンカチを当てた。すぅっと涙が染み込む。こんな人の多いところでなにを、と私は顔を下げ、目をぎゅっと閉じた。

「大丈夫、大丈夫よ」

 沙穂は私を急かしたり、泣くのを止めたりしなかった。ただ私の背を優しくさすってくれた。私は、声を立てまいと喉をぎゅっと締めた。声帯はそれでも震えて、しゃっくりのような声が小さく漏れた。ただ辛い号泣だった。傍から見ればあまりに愚かしい涙だろう。人の尊厳を踏みにじられたというのに、未だに恋情を捨てきれない惨めな女。

 沙穂は、背中をさすっている間、こんなことを喋っていた。

「それがあなたの意志ならそれでいい。あなたが望むなら何度でも」

 流石に次の告白が駄目ならば私は諦めようと思っていたが、この苦しさは彼に吐き出す以外に解消はされない。私は決意を固めた。


 私はなんだか疲れてしまって、この自己満足な告白を中断した。ノートパソコンを閉じ、ぐっと伸びをして、脱力。今まで満ちていた活力の代わりに、ぶわあっと胸の奥に、体の奥に、脳髄に、ゾワゾワした流体が広がった。いや、流れ込んだのかな? 

 とにかく、力が抜けると泣いてしまいそうでいけない。その証拠に、目の前の窓ガラスには、目に涙を溜めた私が写っている。あの顔を再現してみようか。ふとそんなことを思って、数度口角を上げたり、眉を上げたり。……どうやったって無駄だとは知っているのだが試してしまうのだ。あのころとは全てが変わってしまった。まさに不可逆であったのだ。無駄な試みを私はやめて、ベッドに寝ころび、スマホのメールを確認した。新着メールは、なし。沙穂から送られてきたメールが未だに一番上になっている。開くと件名はなく、メッセージだけがあった。

『これだけは、信じてほしいの。私はあなたを愛しているということ。異常も拒絶も嫌悪も、等しく受け入れること』

 これだけだった。私は、返信する気にはなれなかった。彼女に返信する時は、その時は―――。カチリ、カチリ。枕もとの目覚まし時計の針の音。静かなせいか、頭に響く。時間はもう、深夜の2時を回っていたが、最早私に時間なんて関係ない。何時だろうが、どうでもいいことなのだ。だから目覚まし時計の電池を抜く。そうして完全な静けさが訪れると同時、キーンと耳鳴りが始まった。どうしてもこの世界は、私を解放してはくれないのだった。完全な静寂を、私に提供してはくれなかったのだ。ぼんやりとその音を聞きながら、私はあることを思う。

 結局あの後、村上先輩への告白は成功した。先日にひどいことを言った、とも謝ってくれた。ただ、彼はなぜそんなことを言ったのか、自分でも分からないと述べていた。村上先輩が混乱していた様子は、彼のスマートフォンに残されていた日記からも読み取ることができる。当然だ。村上先輩が罵声を浴びせたのは、男の私であって、女の私ではない。昨今は同性愛も認められつつある世の中だ。だけども、私はひどい拒絶を受けたのだ。男性である、その一点のみで。

 でも私は幸せであった。村上先輩はとても紳士的で、そして、純粋な人だった。重そうな荷物があれば持ってくれたし、歩調も合わせてくれた。こういったことはカップルでは当然の事なのかもしれないけど、そういったエスコートとか心遣いの全てが私に向けられていることがとても嬉しかった。私はあの日の事を水に流すことにした。隣にいる人は、最早私に牙を剥き得ないのだから。それどころか、私を守ってくれる存在であった。我儘も聞いてくれる、優しい人だった。いくつもの逢瀬を重ねた。

 ただ、時間が経つほど、私は焦りを感じていた。この焦りの正体を、私はしばらく掴むことができなかったが、あの日、その原因を突き止めたのだった。

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