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下のラウンジには、ソファに腰かけた村上先輩と空汰が居た。声をかけると、二人とも反応してくれた。
「なにを、してるんですか?」
村上先輩は、ちょっとチューハイの缶を掲げて見せて、
「なに、晩酌さ」
などと言った。
「旅先でこうやって晩酌するのは、酒が飲めるようになってからの習慣だ。もう、楽しみにすらなっている。いつも一人なんだが、伊藤……じゃないな、空汰が寝れないようだったから連れてきたのさ」
そのあとに、空汰がトイレと布団を行ったり来たりしてせわしなかったからな、とも言った。空汰は少し苦い顔をした。
「どうにも落ち着かないんですよ、自分の家の布団じゃなきゃ。あまりにふかふかすぎる」
空汰はそう、不平を吐いた。普段より快適なはずなのに、彼はとても不快そうであった。村上先輩は、じきに慣れると微笑みながら言った。
「どうだ、お前も。眠れないなら、先輩に付き合っていくか?」
私は、当然これを快諾した。断る理由もなかった。時間が何時だったか、覚えてはいない。ここに時間という縛りはなかった。必要なかったのは、時間だけではなかった。会話も、強制されるものではなかった。村上先輩は、ぽつりと言葉をこぼしては、酒を含んでいたし、空汰は頬杖をついてぼーっとしていた。私はこの空間がいたく気に入った。だから、こんな言葉を漏らした。
「いいですね、こういうの」
村上先輩が、酒を飲みこんだ。酔っぱらっている様子はなかったが、いつもと少し違った。
「ああ、そうだな。旅行っていうのは、一種自由なものだ。別になにかを見つけなきゃいけないとか、学ばなきゃいけないとか、そういうもんじゃない。フォーマルだろうが、ラフだろうが、自由な時間が絶対にある。昼でも夜でも」
「自由、ですか」
空汰が、久しぶりに口を開いた。少し、面白そうにしていた。
「ああ、自由だ。2泊3日とか、そういうのはもう最高だ。なんでか分かるか? どうでもいいことを考えずに済むんだ。例えば、バイトだとか人間関係とか、そういったしがらみ的なものはここまでひっついてこない。とても、気が楽なのさ。俺にとってのそれが、今ってわけだ」
村上先輩はそういってから、軽く笑った。楽しそうだった。
「まったく、また入ったばかりの後輩に変なこと言ってしまったなあ。大丈夫か? 眠かったら寝ていいんだぞ」
「いや、面白いです」
「僕も、興味ありますよ」
「そうか」
ならいいんだ、そう言葉を溢して、村上先輩はチューハイを飲み干した。ちょっともう一本買ってくる、と村上先輩は自販機に酒を買いに行った。村上先輩の姿が遠くなると、空汰がこう言った。
「面白い人だな」
「……そうだね」
その問いには、同意した。もはや、否定する理由は見当たらなかった。
私はこの時から、村上先輩に、より強く惹かれていたと思う。それが、村上先輩の性格や考えが面白かったからか、それとも私が盲目になってしまっていたせいなのか、それはよく分からない。ただ、想いが抑えきれなくなるほどに、強くなってしまった。切ない、というやつだろうか。話には聞いていたが、その感覚は決して快いものではなかったし、ただ苦しく、苦しく。
私はこの感情の抑え方を知らなかった。私がもし、女性であれば、虎視眈々と村上先輩のことを狙えたかもしれない。いや、女性だったとしても、私は抑えきれず、負けてしまっただろう。どちらにせよ、私は恋愛の仕方が下手くそだったということだ。今でもそう思う。私は、日々膨らむ感情に圧迫され、苦しみから解放されたく、とうとう沙穂に相談した。夏休みも終わった秋頃。沙穂に変に思われるかもしれない、そんな考えが一瞬頭をよぎったが、大丈夫だと思った。沙穂のことは信頼できた。その日は、いつものようにどこかの店で昼食を摂っているときに、話したと思う。
「沙穂。少し、相談があるんだ」
沙穂は口につけていたコップを離し、微笑んだ。
「ええ、いいわよ」
「ありがとう。ちょっと、その、変な相談なんだ」
確かに彼女のことを信頼していた。しかし、いざ言おうとすると、喉に突っかかってしまった。男が好きで悩んでいる、なんて、言えそうになかった。沙穂の顔色を窺うと、彼女はいつも通り待っていた。急かすでもなく、放るでもなく、ただじっと待っていた。二人の間に、無言の時間が流れた。どのくらい長かったか、覚えていない。でも、ちゃんと話せたのだけは覚えている。
「村上先輩のことが、好きなんだ。人として、とかじゃなくて、恋愛対象としてさ。……隠してやり過ごそうと思った。でも、どうしても我慢できなくなってしまったんだ。どうにも苦しくて仕方ない。切なくて仕方ない。……どうすればいいのか、わからないんだ」
沙穂は、表情を変えなかった。ただ小さく微笑んだだけだった。そのことに、ひどく安心した。しかし、彼女の次の質問でまた私は緊張をするのだった。
「あなたは、どうしたいの?」
「どうしたい……?」
私の望みは、明確であって、明確でない。それを不明瞭と呼ぶのかもしれないけれど。私はどうしたかったのだろう。結局その答えは今も見つかっていない。いや、今だからこそ見つかっていない。私は、村上先輩になにを求めていたのだろう。そしてその望みははたして、彼が実現しうるものだったのだろうか。
本筋に戻ろう。私はこのときと、どうしても村上先輩に近づきたかった。肉体的なものでなく、精神として。その方法が、村上先輩と恋人になるという安直な解決策だった。私は息を吸って、動悸を落ち着けてから、沙穂に告げた。
「僕は、僕は村上先輩と恋人同士になりたい。きっと。そうなんだ」
沙穂は、予想していたのだろうか、表情は変えなかった。いつしか女神像のように固まってしまえ、などと思ったけど、これはこれである意味固まっている。でも、微笑むだけの像でないことを、私は知っている。しばらく間が空いた。しかし、私は別に焦らなかった。
「そう。……正直なところね、私にアドバイスできることは少ないわ。あなたの助けになることもできないかもしれない。私は、同性に恋した経験はないから。ただ、一つの指針を示すのなら、告白、ぐらいかしら」
ひどく、基本的で、愚直だった。それに、作戦もなにもなかった。恋愛というのは駆け引きと聞くが、このときの沙穂はそれを一切放棄していた。そんなものは無駄だとでもいうように。ただ告白するだけ、というのはおそらく成功しないだろう。さらに相手が同性ならその確率はかなり低い。1パーセントを下回ってしまいそうな勢いだ。しかし、私には出所不明の活力が沸いてきていた。きっと、自分の中ではそうしたいと思っていたんだろう。本当は、後押しが欲しかっただけなのだろう。そう考えていた。
「うん、うん……そうか、ありがとう」
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