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 先輩は違和感に気づいていたようだった。そう、この世界は小さいながらも大きく改竄されてしまった。そのことに先輩は、気づきかけていたし、おかしいと感じていたのだ。


 これは私が遺す唯一の告白だ。私はこれを吐き出さねばならない。少し退屈かもしれないが、聞いてほしい。


 春のお話だ。いつの春だったか、三年前だった気もするし、五年前だった気もする。いや、一年前だったかもしれない。とにかく、あの春の日、私はまだ普通の男子大学生であった。それも、入学したての一年生であった。入学して、右も左も分からない状況ではあったが、私には友人がいた。彼女の名前は沙穂、新月 沙穂。私の生涯でこれほどまで関係の深い友人はいないであろう。

 そんな彼女と出会ったのは、小学生から、などではなく、この大学である。大学で学科ごとに実施されたオリエンテーション、そこで学生同士の討論が行われた。

 いや、討論といってもだいぶ易しめのもので、「近くにいる人と将来について話しなさい」などという、大雑把な教示がなされたのだ。入ったばかりで不安な大学生に、友達作りのきっかけを作ってあげようという好意であったのだろうが、私はその当時、知らない人間と話すということが苦手であった。更に悪いことには、周りは女子ばかりで、コミュニケーションが苦手な私にとって最悪な環境が整っていた。 顔でも伏せてやり過ごそうか、などと考えていたところに、隣の女子が話しかけてくれた。私には、女子は女子で固まってしまうだろう、という推測が根底にあったから、彼女の行動は意外に思えた。彼女は一人で、わざわざ私に話しかけにきたのだ。それがとっても奇怪で、不思議に思えた。

「あなたは、どうして、何のためにここにいるの?」

 その女性が、沙穂である。沙穂は出会ったばかりの私に、挨拶もなく唐突にこの問を投げかけた。呆然とした私の顔を見ると、彼女は、やってしまった、という顔をした。

「ごめんなさい。人との関わり方が、この年になってもよくわからないの」

などと言ってみせた。彼女は柔らかく微笑んでいた。これが、彼女との関係のきっかけになる。

 彼女と会話をするのに、苦労を感じることはそれ以降なかった。彼女は初対面で人と話すと、どうしてもああなってしまうようだ。初対面であんなにも根源的な質問をしてしまうというのは、妙な話なのだが、人間にはそういった、幾つか原因不明な部分がある。例えば、私もそうだ。後に詳しく記すのだが、私は狂気を抱え持っている。この世とあまりにも噛み合わせの悪い、奇妙で不気味な信念を。もしかしたら、いや、必ずと言っていいぐらいだけど、それはあなたにもあるのではないだろうか。しかし、こんな大仰なことを言っておいて、彼女のそういう行動の理由が「緊張していたから」と言われれば反論できない。

 話が逸れた。とにかく、彼女と過ごすことになんら大きな支障はなかった。彼女は常識から少しばかし足を外していた人間ではあったが、私に興味を持って接してくれたし、私とともにいることに、不快さは感じていないようだったから、沙穂とのコミュニケーションに問題はなかった。

 私は大学内で、多くの時間を彼女と過ごした。それは私が狂気を抱え持った時でも変わらなかったし、彼女の狂気をこの目にするまでは、この耳に聞くまでは、ほとんど毎日のように顔を合わせていた。ここで、誤解を招かぬように言っておくが、私は沙穂のことを、女として見ているわけではなかった。私は彼女のことを、友人であると考えていた。とても気の合う友人であると。沙穂は、この私のあり方に賛同していたと思える。彼女も、私のことを男としてみることはなく、また、そう意識することもほとんどなかった。本当に私たち二人は、気の合う友人でしかなかったのだ。

 ただ、過度に仲のいい友人でもあった。あまりにも二人の関係は閉鎖的で、密接であった。ほとんどの時間を彼女と過ごしたと言ったとしても、過ぎた言い方ではないだろう。私と彼女は、どちらがなにを言うでもなく時間割を合わせていたし、入るサークルも合わせていた。当時、周りに恋人同士、などと誤認されることもあったが、私たちの振る舞いを省みれば仕方のないことであろう。


 大学に入って一か月が経った頃、私は大学生という身分に慣れてきた。沙穂の方はと言うと相変わらずで、会った当初からあまり変わっていなかった。別に私もなにかが大きく変わったわけではないけど、沙穂は出会ったときの雰囲気がそのまま崩れなかった。また、大学の空気に馴染むこともなかった。目立ちもしなければ、埋没もしない。沙穂は一種、大学自体から外れた人間だったと言えるだろう。そんな妙な二人組であったが、していることは大それたものではない。私たちはいつも二人で行動していて、その日もそうであった。私たちは昼食を摂ろうと大学の外へ出た。沙穂も私も、大学の学食の、学生がぎゅうぎゅうに詰められているあの感じは好きになれなかった。加えてあまりにうるさかった。普通に話す私たちの声は、音の濁流に呑まれていく。そんなところで昼食をゆったりと味わいながら、穏やかに話すということができようか? それに、あまりにあの場所は、速度が速すぎた。時間も早すぎた。

 沙穂はこれについて、少し毒のあることを言っている。

「あそこで話している人たちは何を求めているのかしら? それとも何も求めていないから、速度を求めるのかしら?」

 私が今さっき使った、速度という表現は実は彼女から来ている。彼女は不思議な言い回しをしていたけれど、私はそれをすんなりと理解していた。楽しい会話、それも極度に楽しい会話というのは、もはや会話ではないのだ。頭が深いところで何かを考えることも叶わず、口が回り、楽しいと錯覚する。そう言った会話は、頭がちゃんと働いていないから時間が過ぎるのがあまりにも早い。テンポもまた速い。まずテンポなどというものがある時点で、あまりにも早いし、考える時間が限られてしまうのだ。そういう意味では速度が速い、とも言える。考えなかった会話ほど、あとに残らないものはない。一部の鮮烈な印象だけが頭の片隅にこびりつく。それを手がかりに会話を続ける。もしかしたら、これが正しかったのかもしれないけど、私たち二人はそういう性分の人間ではなかった。……もちろんこれが正義だ、などというつもりはない。ただこんなことを言うくらい私と沙穂は、学食という場の雰囲気が苦手であった、と理解していただきたい。それだけ理解してもらえればそれでいい。

 私と沙穂は、決まってどこかの場所で昼食を摂るわけではない。適当にぶらぶらしながら、昼食を摂る場所を探した。それが個人経営のイタリアンでもよかったし、チェーンのファーストフードでもよかった。私たちは、本当に、単にあそこの空気が嫌いなだけだった。その日に入った店は、確か、ファーストフード店だったと思う。あんなに書類を広げながら話せる場所と言ったら、それぐらいしかないだろう。

「ねえ、サークルの締め切り、そろそろだけど、なんか決めた?」

 彼女は、唐突にそう言った。私にはその当時、どこかのサークルに入る、などという考えは全くなく、沙穂も同様だと思っていた。だから私には、その質問がひどく突飛なものに思えたのだ。私はその問いに対して、首を横に振り、そしてこう答えた。

「別になにも決めてないよ。それに、どこかに入るつもりもない。ほら、君も知っているだろう? 僕は人と話すのが苦手だ。人間関係というやつも、なかなか好きになれない。……サークルってやつはまさにその典型だろう?」

 沙穂は、その時意地悪な笑みを浮かべた。別に、私のことを蔑むわけではないが、どこか見下すような笑い。しかし優しい笑み。もしもだが、女神が人間にちょっかいを出そうとするときは、こんな表情を浮かべるのではないだろうか。彼女はこつんと頬杖をついた。

「私にはそう思えないわ。だってあなたは私とこんなにも話してる。こんなに密接な人間関係を築いている。それも誰に強要されるでもなく、自分の意思で。違うかしら」

「……ちょっと、考えさせてくれ」

 私はいつも、思考に詰まるときがある。どうにも会話のテンポには乗ってられないたちなのだ。こうして、一々待ってもらわないと、私はしっかりと喋れなかった(人はそんな僕のことを「頭の回転が遅い」と言っただろうか)。だから、こうして沙穂に待ってという時があった。沙穂はいつもそれを快諾してくれたし、急かすでもなく、興味を失うでもなく、彼女はミルクティーを啜っていた。僕がちらりと視線を送ると、彼女はそれに気づき、薄く微笑む。そういう気遣い、いや、一種の無邪気さが焦る僕の心を沈めた。

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