第5話 もしや家でも落ち着かせてくれない?
よし屋で昼食兼夕食をかき込んで、商店街の灯りを背にアパートへ歩く。
油と出汁の混じった匂いが、背広の裏地にまでしみ込んでいる気がした。
ふと、胸の内で警鐘が鳴る。
――この生活続けてたら栄養バランスガタ落ちだな。
いくらリーズナブルでも、健康を削ってまで通う店じゃない。
任務が長引くときの体調管理は、退魔師時代にしつこいくらい叩き込まれたはずだ。
弥彦は、小さくうなずく。
自炊、再開しよう。
必要なのは包丁とまな板。
先日、愛刀・斬虎でキャベツを刻もうとして、まな板ごと両断してしまった。
床に「すぱーん」と爽快な切断面が走り、しばし無言。
適材適所。
武器は戦場、包丁は台所。
学び直し完了である。
スーパーでカゴを腕に引っかけ、記憶の献立表をめくる。
本日の仕入れは――
・鯖一匹
・レモン
・味噌
・長ネギ(2本)
・豆腐一丁
・油揚げ
・たくあん
・米5kg
・醤油
・塩
・胡椒
・卵
・全粒粉のパン
タンパク、発酵、食物繊維。
退魔師の指導要領にも載っていた黄金三点セットだ。
レジ前で「これ、いくらいくんだ……」と一瞬冷や汗が出るが、意外とお手頃。
斬虎より重い米袋を肩に担いで、任務完了。
***
「俺の金銭感覚が狂ってるってことが、ここ数日で如実にわかったな……」
オンボロアパート備え付けの小さな冷蔵庫。
今日の戦利品を詰め込んだら、庫内は肩を寄せ合う鯖と豆腐で満員御礼だ。
「あ、いけね。飲み物買うの忘れたな……水道水なんて飲んだことないぞ……」
蛇口をひねる。
銀色の口から、透明な糸が走る。
恐る恐るコップに注ぎ、ひと口。
「……フツーに飲めるじゃん。冷やしたらペットボトルの水と変わんないな……」
芥見家のライフスタイルは、たぶん世間一般から半歩どころか三歩は浮いていたのだろう。
そんな贅沢が、今は少し可笑しい。
「さて、そろそろ調理に取り掛かりますか!」
まな板に鯖をのせる。
腹を開き、骨を指でなぞり、包丁の重みで滑らせる。
長期任務で組んだ米国の退魔師・オリバー直伝の“生き延びるための料理術”が、手つきを勝手に動かす。
「鯖はやっぱり塩焼きだよな〜」
熱した網に脂が落ち、ぱちぱちと火のさざ波がはぜる。
香ばしい匂いが部屋の壁紙にまで染み込んでいく。
土鍋の蓋は小気味よく踊り、味噌汁はぐつぐつ。
長ネギと油揚げが湯気の向こうで揺れていた。
「よし、今日は半分食って、もう半分は朝飯に回す。さっきよし屋で牛丼と卵いってるしな……」
と、そこへ。
ピンポーーーーーン。
インターホンが、静かな部屋に一本線を引く。
「ん? こんな時間に誰だ?」
玄関の小窓を、そっと指二本ぶんだけ開ける。
見慣れない影。
そして――
「あのぅ、夜分遅くにすみません 私、隣に越してきた黛と申します」
「ーーーーは?」
弥彦の夢の学園生活に、教室でも容赦なく水を差してきた張本人。
黛ヴァニラ。
なんで。
なんでアイツがここに――。
胸の奥で、古い警鐘がもう一度鳴る。
正体に感づかれて追ってきたのか。
霊魔の王、純血の吸血鬼。
攻め入ってくるなら迎撃は不可避。
だが、芥見家の家訓が耳の奥で囁く。
――「やり過ごせ」。
弥彦は一つの結論に至った。
居留守。
「あれれ、いないのかな……」
ピンポーーーーーン。
ーー居留守をする弥彦。
「おかしいなぁ……明かりはついてるし、魚の美味しそうな匂いも……」
ピンポーーーーーン。
ーー居留守をする弥彦。
「……」
廊下の足音が遠のく。
シン、と空気が軽くなる。
去ったか。
安堵とともに小窓をもう一度――
真紅の瞳が、向こうから覗いていた。
「あのぅ、いますよね? 私、わかるんです。 居留守しないで出てきてくださいよ〜!」
「……ッ!」
心拍が一段跳ね、体内の警戒アラートが天井を突き抜ける。
弥彦はさりげなく斬虎の位置を確かめ、扉のチェーンを外した。
吸血鬼を、迎え入れる。
「ああ! こんな時間にすみません ……でも、ひどいですよぉ 居留守するなんて」
「あー……えっと、その……」
「あれ……あなた もしかして」
退魔師だと勘づかれたか。
懐へ伸びる指先に、力が入る。
「隣の席の芥見さんですよね まさか、お家も隣になるなんて こんな偶然あるんですね〜」
黛はにこりと笑って、紙袋を差し出す。
袋の口から、ほんのりレモンと砂糖の香り。
「これ、ご挨拶のクッキーです それと……さっきから、鯖の匂いがずっとしてて お上手なんですね」
火加減を落とすために振り向いた瞬間、弥彦は気づく。
網の上で、鯖の皮がちょうどいい狐色。
そして玄関には、純血の吸血鬼。
どちらも、目を離せない。
土鍋が「ぷしゅ」と鳴き、味噌汁が静かに湯気を立てた。
扉の向こうの赤い瞳は、穏やかに細められている。
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