第19話 乙女の鎧、です
誰もが呼吸を忘れたように、静まり返る音楽室。
永遠にも思えた長い長い数秒の沈黙の後、はじめに静寂を破ったのは、
「……どういうこと?」
奈緒ちゃんの言葉でした。
「スピカが、スピカじゃなくて……キヨミツ、くん? 楽器屋の娘で……ううん、息子……ってこと?」
怒ってるわけじゃなさそう。でも、その声には困惑が満ちていました。
心の底から、どういうことかわからないという疑問。
ひとつひとつ咀嚼するような言葉に、それでも誰ひとり現状が飲み込めずにいます。
だって、どういうこと?
スピカちゃんが、キヨミツくんで、女の子じゃなくて、男の子?
なんで? どうして?
そんなわけないでしょう。だって、スピカちゃんは絶世の美少女だよ?
顔も、声も、言葉遣いも服装も、全部女の子のものだよ?
ねえ、違うなら、違うって言えばいいのに。
だけど、血の気の引いたような顔で黙り込んでいるスピカちゃんの態度は、つまりはそれらの事実を肯定する沈黙で。
「えっ……マジ? マジネタなの?」「じゃあ、あれ女装……?」「んなバカな。男だったら余裕でわかるだろ」「でも、ガチじゃないならあんな必死に否定しなくない?」「そういえば体育の時……ほら、一人だけ保健室で着替えてた」「ヤダ……じゃあ、男のくせに女子に混ざってたってこと?」
やがて破られた沈黙の中から、ざわざわと、疑念や非難、嫌悪する言葉が漏れ出し始めて。
まずい、と思ったラン先輩がみんなを宥めようと言葉を発するより一瞬だけ早く、奈緒ちゃんがぽつりと言いました。
「どうして、隠してたの?」
「隠してなんかない!」
ようやく、スピカちゃんが言葉を絞り出します。
悲鳴のような、つらい叫びを。
「私は、隠した覚えはないわ! 女子だと自己紹介したこともないし、スピカって名前もそう呼んでほしいから名乗ってるだけ! みんなを、騙そうとしたつもりはない!」
必死な剣幕に、みんなも言葉を失います。
確かに、スピカちゃんの言う通り。
女の子だと思ったのも、姫って呼ぶのも、私たちが勝手にしたことです。
……でも、それで誰が納得できたでしょう。
「だいたい、何の問題があるのよ! みんな私のこと女子だと思って接してきたのは、そう思うような外見だったからでしょう? 見た目は変わらないままなんだから、今まで通り接してくれればいいじゃない! たまたま性別が男だったからって、一体そこに何の問題があるっていうの!」
「……そこまで」
ラン先輩が、何もかも手遅れという無力感を顕わにしながらも、ざわつく一年生と昂るスピカちゃんを宥めます。
「スピカくん。うちのバカ二人が申し訳ない。……いや、昨日キミの入部届を受け取った時点で、私にはキミのことがわかっていたのだから、二人にも釘を刺しておくべきだった。バカは三人だ。すまなかった」
頭を下げたラン先輩を、スピカちゃんが複雑そうな表情で見つめます。
「事情は聞かないよ。けど、私たちに手伝えることがあったら、何でも言ってほしい」
「……どうして、そこまで」
「もうキミは、同じ天音部の仲間だからだ」
真剣な眼差しで言い切ったラン先輩の手を、……スピカちゃんは、振り払いました。
「知った風なこと言わないで! 私の痛みなんてわからないくせにッ!」
「……っ」
悲しそうに目を伏せるラン先輩の想いが、痛いほど伝わってきます。
私は、想像できるから。差し伸べた手を振り払われる痛みを。
そして、スピカちゃんの気持ちもよくわかる。
手を取るのが、優しさに甘えてしまうのが、怖いのでしょう。
「……何よ」
不安そうな顔、何か恐ろしいものを見るような顔、そして嘲笑うような顔。
様々な表情で自分を見つめる一年生たちに向かって、スピカちゃんはまたしても感情をむき出しにします。
「みんなが私に言ったんじゃない。男のくせに、って」
その「みんな」は、きっと今目の前にいるみんなのことじゃありません。
スピカちゃんの心に、治らない傷を刻んだ相手。
「男のくせに細くて弱っちいって。男のくせに声が高くて変だって。男のくせに女みたいにナヨナヨして気持ち悪いって。男のくせに、男のくせに、男のくせにッ! うんざりよッ!!」
どんどん熱を帯びていくスピカちゃんに、ブレーキをかけられる人はもういません。
「だからいっぱい頑張って、努力して、こんなに可愛くなったんでしょ! なのに、どうしてまだ、男のくせになんて言われなきゃならないのッ! 勝手に期待して、勝手に失望して……! あなたたちの理想の『男の子』なんかを、これ以上私に押しつけないで!」
突き刺さるような、気持ち。
お姫様を守るイバラがいっせいに牙を剥くような、棘と痛みで溢れた言葉。
ううん、イバラじゃない。あれは鎧です。
否定されて、拒絶されて、罵倒されて、たくさん傷ついたスピカちゃんが、それでも逃げ出さずに立ち向かうために纏った、「女の子」の鎧。
俯いて顔を背け、前髪で光を塞いで、目を閉じた私とは、大違い。
『スピカ』は、彼女の誇りなんだ。
「男のくせに」なんて言葉を、軽々しく突き立てていいものじゃないんだ。
「……なあ。熱くなってるとこ口挟んでワリーんだけどさ」
そんな言葉で沈黙を破ったのは、部長先輩でした。
「男とか女とか……正直どっちでもよくね?」
「……は?」
呆れを通り越して理解不能、という声がラン先輩の口から出ます。スピカちゃんも、険しい表情のまま言葉を失っていました。
「なんつーの、アレだ……男らしくとか女らしくとか、そういうのに引きずられること自体よくねーっつうかさ。女装して女子校に潜入―、みたいな明らかに悪いことやってるわけじゃねえんだから、別に好きにしたらいいじゃん……?」
「……もう少しわかりやすく話してほしいな」
「難しいんだよ。んー……あ、じゃあさ、ラン」
ぽかんとしているスピカちゃんを放置して、部長先輩はにかっと笑って言うのでした。
「ランドセル、何色だった?」
その意図に気づいたとでも言うように、ラン先輩はふわりと笑って答えます。
「……黒だよ」
「俺は赤。カッコイイからな!」
小学校のランドセルは、いろんな色があります。私は赤でした。私の周りでも男の子は黒か青、女の子は赤やピンクが多かった気がします。きっと、早見島でもそうなんだと思います。
そして、お姉ちゃんから聞いたことがあります。ちょっと前までは男の子は黒、女の子は赤って決まっていたって。男の子が赤いランドセルを背負っていると、それだけでからかわれたりもしていたそうです。
男のくせに……って。
「男だからこう、女だからこう。若いからこう、大人だからこう……なんて標識はさ。俺たち未来ある若者が、一番くっだらねーと思ってる概念なんだよ。可愛いカッコが似合うんだったら、思う存分可愛くなったらいいじゃん。男とか女とか、どうでもいいよ」
言い方はちょっと問題ありかもしれませんが、そう告げることで部長先輩は示そうとしたのでしょう。
さっきラン先輩が言った通り。自分たちは、スピカちゃんの味方だと。
「簡単に言わないで……!」
……でも、それでもスピカちゃんの心には、まだ届かなくて。
「そんな理想論。ランドセルが赤いってだけでいじめられたことがないから言えるのよ」
とうとう涙を流してしまったスピカちゃんが、その一言を最後にくるりと踵を返して音楽室から出て行こうとします。
いつものように凛とした表情で、胸を張った姿勢で、流れるような歩き方で、……けれど目からは大粒の涙を流しながら。
誰も、そんな彼女を引き留められませんでした。
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