第39話
「ヴィクター? 今日は元気がないわね」
目の前の癖毛の男性は、とても綺麗な人だった。伏し目がちの目元に長い睫毛が影を作って、眉を八の字に潜めて整った顔を歪めている。
「君はやっぱり世界から分離している」
顔を上げて目線を合わせ、力なく笑う。貝殻みたいなティーカップを片手に紅茶を啜った。学院を卒業して、地元に帰ってきた時に2人は再会した。それ以来、定期的にいつものカフェに来ては製作の進歩状況を報告し合っていた。彼は絵を、彼女は小説の。
「それは、わたしがあなたの事情を考えてないという意味かしら。前にも同じことを言われたわ」
だから、もう飽き飽きしてるの。面白くない話を……自分の嫌われている部分を何度も言われるのは苦痛だ。
「そう。覚えていたんだね。いつもの君は興味のないことはすぐに忘れるだろう?」
「いいえ、忘れてないわ。鍵のかかる箱に入れているの。鍵はあなたの言葉。あなたが鍵をくれた時に開けて取り出せるの」
少年みたいに、ヴィクターは瞼を開く。よく、わたしの目を空を映した鏡みたいだとヴィクターは言う。ヴィクターだって同じだ。若草の絵の具を閉じ込めたガラス玉に見えるんだ。
「人はそれを忘れるって言うんだと思うよ」
「忘れるのは消えてしまうことよ。わたしは奥に閉まっている……それだけなのよ」
ヴィクターが呆れてくすくす笑ってる。昔から、わたしの話に付き合ってくれる。その中でわたしから世間一般で言う屁理屈を聞かされる度にこんな風に笑うの。
「……あなたの元気がないのはわかるわ。パティが亡くなってまだひと月だもの。わたしも、グランマが亡くなった時は随分と頭のネジが外れたものだわ」
「大変だったよね」
ヴィクターは優しいから、こんな時にも怒ったり悲しんだり、そんな顔は見せない。ヴィクターは昔からずっとそう。病気のパティを支えながらずっとずっと笑ってる。
彼が辛いのは知っていた。パティのことが苦痛なのも、意地悪な女王アリアのことも。それなのに、幼馴染みのわたしは自分のことばかりだ。昔も今もこの関係は変わらない。
「現実からの逃避行は、悲しみから自分を守るためだと学院の先生が言っていたわ。悲しみを箱に隠して、閉じ込めておいたの」
わたしは過去に散らばったいくつもの糸を手繰り寄せて、言い訳にもならない言葉を紡ぐ。
「ごめんなさい。あなたを傷つけていたわ。そして、これからも……あなたを傷つけてしまうんだと思う」
大きくて細長い指が、わたしの手を滑り包み込んで握って、指を少し恥ずかしげに絡ませる。
「謝るなんて、君らしくないよ」
「たぶん謝るのはこれで最後だわ」
一度だけ手を握り返して、そっと彼の手から逃れた。瞬きの間の後に彼は目を細めて、頬杖をついてまた微笑んだのだった。
「そう良かった……。だからこそ僕は君の世界に、惹かれていたんだよ」
「ねえ、ヴィクター。もう絵は描かないの?」
その言葉にヴィクターはまた俯いてしまう。深く表情が陰りゆっくりと重たく口元が動いた。
「……やめると、決めたんだ」
「そう……なら、もうお茶会も必要ないわね。製作の報告会だもの」
彼をまっすぐ見据えて、そう答えた。彼との繋がりは創造だった。わたしの空想の物語を現実に具現化してくれるのがヴィクターだ。その彼をわたしは尊敬していたし、なくてはならない存在とも思っていた。だけど、でもちょうど良かったのかもしれない。彼との関係をもう断つべき時なのかもしれない。
目線の先でヴィクターはなんだか泣きそうな顔をしていた。わたしが学院に行く時も駅まで見送りに来てくれて、こんな顔をしていたっけ。ヴィクターは寂しがりやの兎さんだから。
「待って。それでも、最後に君を描きたい。今度、君の家に行っても良いかな」
ため息をつく。紅茶の香りが鼻の奥に通り抜けていく。ヴィクターはわたしと一緒で温かい紅茶が好きなの。ここのカフェの紅茶は特に、ね。
「最近、実家にはほとんどいないわ。外れの、アトリエにいることが多いから」
「女性一人で、あんなところに。危険じゃないのかい?」
人気のない、魔女でも出てきそうな森の道を抜けた先にある。グランパが昔狩猟をしていた時に使っていた小屋で、一人になりたいからとパパに無理を言って使わせてもらっている。切り立った崖の上にあって、窓を開けると唸るような荒波が見える。鬱蒼としてるけどとても綺麗なの。小説を書いて、時々お裁縫や料理をする……秘密の場所。春には白詰草が咲くから、毎年花冠を作って飾っている。今は花を飾る気分じゃなくて、花瓶が空っぽなんだけど、久々に花屋で買って帰ろうかしら。
「そう思うなら、なるべく早く来て」
「じゃ、じゃあ来週の休日……は、用事があるんだ。だから、その次で行くよ」
「ええ。なら、それまでに完結させるわ。わたしの夢の続きの物語。もう少しなの」
困ったように言葉を詰まらせていたヴィクターの顔が嬉しそうに華やぐ。
「ようやく君の物語が読めるんだね!! 楽しみにしてるよ」
ヴィクターはそう安心したように言って立ち上がる。
「そろそろ時間だ。僕はこれで失礼するよ。またね、セーラ」
ヴィクターが店員に2人分の紅茶のお金を支払って、お店のテラスから出ていくのを眺めていた。道に出た時に振り返って、小さく手を振る彼にわたしも手を振り返した。
「ヴィクターの絵の中の……」
カフェのテラス席で退屈そうにしていた彼女だと、サクラは思った。……ということは、ヴィクターの絵の世界を創り上げていたのが、このセーラという女性なのか。
なぜ、サクラは自分自身がこの映像を見ているのかを考える。きっと、誰かが見せているんだ。
「後悔してるのよ」
セーラの声が白紙の中に響く。あたりは何もかもが霞んで消えて、セーラだけが俯いたまま立ち上がる。
「人知れず、死刑宣告をされた場合。あなたはそれを誰かに伝えるかしら」
「……」
「わたしね、昔から自分本位で人を傷つけてばかりだったのよ。だから、誰にも知られずにって思っていたの」
セーラは声も肩も震わせて、話を続ける。
「だけど……それがヴィクターを傷つけてしまったんだと思うわ」
沈黙が流れる。彼女はきっとブラントの絵にたくさん描かれていた少女のモデルなんだ。セーラの目は見えないけど空を映したような瞳なら、もしかして──
「あなたが、チェリー・ブロッサム?」
サクラが恐る恐るそう聞くと、セーラは顔を上げて、ゆっくりと振り返る。
「気づいてくれて、ありがとう」
綺麗な輪郭でそっと微笑んだ彼女の、その瞳は鉛筆で真っ黒に塗り潰されていた。
「大人の肩書きなんて、欲しくなかったわ。言いたいことも言えなくて、自分の気持ちにも蓋をせざるを得ないもの」
セーラはまた俯いて、黒髪を重たく垂らす。
「もう、あなたと話すのは最後だわ。そうは見えないだろうけど、口を塞がれてるの。だから、わたし、抗って……今だけ他愛ない話ができるの」
「そう……」
少しの沈黙の後に、セーラが口を開く。
「ねえ、お願いサクラ!! わたしを助けに来て!! 辛くて……苦しくて堪らないの!!」
顔を上げたセーラの瞳から黒鉛の涙が流れて、白紙の世界を少しずつ黒く染め始める。見るに耐えなくて、サクラは思わずセーラの頬に手を触れた。その瞬間に焼き付くような激痛が走った。サクラはそれを耐えて、セーラの涙をそっと拭った。
「……わかったよ、セーラ。敵が誰なのかわからないし、マルルのことは信じたい。だけど、約束する。あなたを必ず見つけてあげる」
辺りが急激に、黒の絵の具をかけたように暗くなる。激痛は手先から腕へ体へと伝わって、セーラに軽率に触れたこと、今少し後悔している。だけど、わたしはここで、とびきりの笑顔を作れる。
「わたし、だって魔法少女だよ!! 泣いてる女の子を見捨てたりなんてしない。だから、待っていて!!」
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