04. ジョルト

 自分を追跡する車も人間もいないことに、潤は少し拍子抜けした。

 たっぷり五分は必死で走ったことだろう。

 国道沿い、大型ドラッグストアに差し掛かった彼は、店舗前の広い駐車場を越え、更にシャッターの閉まった建物の裏へ回り込む。


 暗闇の中で暫く道路の様子を窺ったものの、近付く者は見えない。

 乱れ切った彼の呼吸音だけが、壊れた洗濯機並にうるさく響く。


“――絶対に接触はするな!”


 指揮官らしき声は、確かにそう命じていた。敵の怯え方からしても、潤の間近に寄るのを嫌がっていたと思われる。

 指示はガスが撒かれる直前の話で、最初から銃撃などしてこなかった。


 ――プレなんとかを確認したと、言ってたっけ。


 ガスマスクの上げた悲鳴は、感染を恐れてのものだろうか。もっと単純な、猛獣や毒蛇に対した時の反応に近い気がする。

 二つは似たようでいて、一点大きく違う。攻撃性の有無だ。


 まさか、彼の持つカラーボックスが怖かった訳ではあるまい。

 潤が攻撃しようとした、その意志が彼らを後退させたのだ。


「とすると、アレ・・だろうな」


 少しは息が落ち着き、周囲に人影が無いと確定したのを見て、潤は裏口近くにまとめられたゴミ袋の山へ歩み寄った。

 空のペットボトルが詰まった手前の袋へ右手を翳し、力の発動を念じる。


「吹き飛べっ」


 転がるマスク連中を思い出しながら、衝撃波を再現しようと腕の筋肉を強張らせた。

 数秒間の息を止めた緊張……そして、弛緩。

 こんな街中でも、虫のは聞こえるもんなんだな、というのが結論だった。


 これでは、ヒーローに憧れる小学生である。

 ピクリとも動かないゴミ袋に自嘲はすれど、全く手応えを感じなかったわけでも無い。

 偏頭痛のようなこめかみへのプレッシャーと、ほんの刹那ブレた袋の像は、コーポ前で味わった感触に似ている。


 任意に発動できるまで、練習する価値はありそうだと、潤は自分の手を見つめた。

 護身用にも頼もしいし、降って湧いた異能に気持ちも昂ぶる。

 問題は、どこで練習するか、だ。


 再び国道のガードレールまで歩いて行き、来た方向を眺める。

 大学とは逆方向に走ったために、土地勘の働かない場所に来てしまっていた。

 区の境界線を越えたようで、ここはもう大学やコーポのある中央区ではない。


 道路上方の標識に拠ると、現在地は東区一丁目、行き先を示す矢印は三つ。

 逆戻りすれば大学、右折が城浜駅で、左の脇道を行けば市民公園らしい。

 顔見知りを探すなら大学、警察に頼るなら駅だろう。


 しばし考えた彼は、三つ目の選択肢、左の道を選ぶ。

 拘束されたくない、そのやや本能的な欲求が、公機関に駆け込むのを躊躇わせた。

 行動を起こすのは日中、少しでも情報を集めてからにしようと、潤は夜道を歩き始める。


 看板や電柱の陰に隠れ、たまに振り返りもしつつ公園へ向かった。

 途中、いきなりダッシュしてみせたのは、尾行を警戒したからである。

 刑事ドラマの受け売りだが、特に何事も起きず、市民公園には十五分ほどで到着する。


 目立つ遊具はブランコと突起だらけにされたコンクリの小山くらいで、他は土のグラウンドが在るだけだ。

 公園と言うより校庭が近く、サッカー場くらいの広さはあるだろうか。

 公園の外周はプラタナスの木立が囲み、小奇麗な遊歩道で一周出来るようになっていた。


 入り口から左手に進むと、公衆トイレと水飲み場があり、どちらも潤にはありがたい。

 清潔で黄ばみとも無縁のトイレで用を足し、少し離れた飲み場で喉を潤す。

 上向けに水が吹き出る飲み場は、どこの公園でもよく見かける設備だ。

 腰の辺りの高さがある台座に蛇口が取り付けられており、家庭用と同じく金属製のハンドルを回して使う形式だった。


 彼が飲むには直角に近く身体を折り曲げないといけないが、これは小さな子供でも届くようにとの配慮であろう。

 冷水に顔を晒し、汚れを擦り落とした彼は、左腕に巻いた布を解いた。

 切り傷は塞がっており、出血も止まっている。

 取り敢えず両腕も丁寧に洗い、すすいだ布でもう一度傷を保護した。


 深夜の市民公園に、潤以外の人間はいないようだ。

 この街に来たばかりの彼は、昨年まで浮浪者の溜まり場だった公園の様子を知らない。

 大学での説明会で、少しだけ事情は説明された。


 治安向上を掲げて当選した市長は、公園や駅前にたむろしていた者たちを、半ば強制的に支援施設へと移送する。

 国際会議の予定も多い城浜市において、対外的なイメージアップの効果も狙った政策だろう。

 肝心の治安については、この一年で更に悪化したのだから、皮肉なものである。


 トイレの近くには公園周辺の案内板も在り、それで自分の居場所が確認できた。

 彼が入って来たのは南口らしく、他に東西の出入り口が存在する。


 北側は中学校が隣接し、更に北上すれば保育園、そして神社の建つ丘に行き着く。

 区役所や公民館といった公共機関を除けば、東区の大凡おおよそは住宅地で、地図上にも無味乾燥とした区画番号が振られているだけだった。


 三方の入り口を見渡せる場所を求めて、潤は数メートルおきに植わる街路樹に挟まれた遊歩道を歩く。

 ちょうど北中央に設置されたベンチは南に向いており、枝葉が目障りなものの、そこからなら進入者を見張れそうだった。

 北側は背の高い鉄柵が立っているため、背中を警戒する必要は無い。


 朝の人波に紛れて移動し、あわよくば大学構内へ入る、そんな計画は無謀だろうかと思案する。

 大人しく誰かに助けを求めるべきだとは、彼も理解していた。

 それを十分承知していながらも、謎の集団に関わりたくないという欲求が上回る。


 警備員に事情を話すという案は、待ち伏せを心配して却下した。

 コーポにまで来た相手だ、彼が城浜大の学生であるのは、もうバレていよう。

 それでも一文無しを解消するには、財布を渡した女の子をつかまえなければいけない。

 早朝から大学の正門を見張れば、中に入らずとも彼女に会えるのでは――ベンチの背に身体を預け、潤は今後の方策に頭を悩ませた。


 そこそこ決断力に自信があった彼も、この時の思考は堂々巡りを繰り返す。

 分からないことが多過ぎるのだ。

 勘で動くには、事が重大過ぎる気がした。


 何故、自分は襲われなくてはいけないのか。

 拘束に来たのは、何者なのか。警察は味方なのか。

 自分の放った力も、現実離れしている。


 ――衝撃波、か。超能力? 幼稚な発想かな……。


 右手を閉じ開きしていた潤は、ドラッグストアの時のように前方へ突き出し、意識を集中させた。

 瞬間、空気が震える。

 見間違いではなく、確かに木々や縁石の輪郭がブレた。


 危険な超能力者が生まれたため、秘密組織が捕らえに来た、そんなストーリーが頭にぎる。

 漫画の見過ぎとそしられようが、この説明が今の彼には最もしっくりと腑に落ちた。


 力の発動を目指し、再度のトライ。

 ブレを逃さないように意識を切らず、紐を手繰り寄せるように沸き上がるを掴む。

 脳を揺する波、これが力の鍵だと彼は感じ取っていた。


 視界をダブらせるのも、最初のうちは数回の試行でやっとという頻度だ。

 面白い、と熱中しそうな自分に嫌気が差して、溜息が漏れる。


「こんなことしてる場合かよ……」


 自嘲は本心から出たものだが、そう呟きつつも集中は止めない。言い訳ならいくらでも思いつく。

 自分の身に起こった現象を把握しておきたい。本当に異能が駆使できるなら、怪しげな連中にも対抗し得る。

 なぜ拘束されそうになったのか、原因を探る手がかりにもなろう――。


 どれももっともらしい理由だが、湧き上がる興奮は、もっと別の要因がもたらしたものだ。

 外へ溢れ出そうとする力が、潤の脳に、血中に充満し、行き場を寄越せと訴える。

 食欲や性欲と何も違いはない、原始的な欲求が彼を突き動かした。


 何度も挑戦する内に、二回に一度、更にはほぼ毎回成功するようになる。

 微かだったブレも激しさを増し、二重が三重に、三重が四重にと像の多重化が進行した。

 初期震動、プレシバリングの発生である。


 この時の潤を第三者から観察すれば、彼自身が像を重ねているように見えただろう。

 初期震動こそ能力者の証であり、肉眼で判定できる第一症例だった。


 足元からコトリと音がする。

 黒ずんだスニーカーの先にある小石が、彼の気合いに耐えかねて僅かに向きを変えた。

 もっと、もっと強く。

 食い縛った歯の隙間から息を吐き出し、ありったけの力を小石にぶつける。


 石は軽く蹴られたように地面を転がって行き、同時に細かな砂埃が舞い上がった。

 二段階目の症例、前衝動フォアジョルト

 敵を弾いた衝撃には到底及ばない弱さであっても、常人では不可能なジョルトの発動だ。


「どうだっ……」


 深呼吸で息を整えながら、彼は地面を動いたささやかな成果を眺めた。

 ショボい移動距離だろうが、念じただけで弾いた、これが肝要であり、彼の気持ちを更に高揚させる。

 緊急事態だとしても、異能を実証できたという事実は重大であった。


 ――前言撤回だ。ヒーローに憧れて、何が悪い。


 一度成功すると、練習にも張り合いが出るというもの。

 自身の立場も脇に置き、暗い公園の一隅で彼はジョルトのコツを掴むべく、時間を費やした。


 数センチ刻みで石を動かしていた試行も、ちょうど十回目で鼓膜に刺さる炸裂音を生む。

 衝撃波が小石をグラウンドまで飛ばし、ベンチ周りの砂利を一掃した。


 達成感と共に立ち上がった潤だったが、唇から顎へと落ちるしずくを感じて、慌てて鼻下に手を当てる。

 脳と全身の血管に負担を掛け続けた彼は、弱い毛細血管を破裂させて血を垂らしていた。

 歯茎や爪の付け根にも血が滲み、鉄の味が口に溢れる。

 主に鼻血が原因だとしても血塗れでは不審者極まりなく、再度顔を洗うため、彼は小走りで水飲み場に急いだ。


 徐々に白じみ始めていた空からぬるい陽射しが差し込み、並木の長い影が縞模様を作る。

 朝を迎えても、公園内で動くのは潤だけだ。


 この日、城浜市の日の出時刻は午前五時二十一分だった。

 半時間ほど練習に励んだつもりの彼だが、実際には二時間以上ここで過ごした勘定である。


 彼の錯誤、いや失敗がもう一つ。

 発見されるのを避けたいのなら、公園に立ち寄るべきではなかった。


 治安を向上させるという市長の新政策に従って、浮浪者対策以外にもいくつか行われたことがある。

 落書きの消去もその一つであり、スプレー跡だらけだった公園のトイレも、白く塗り替えられた。

 定期清掃を厳格に実施し、新たな被害を防ぐ目的で、公衆トイレの上部角には監視カメラが設置される。


 映像は“研究所”にも流され、探索担当によって矢知へと伝えられた。

 研究所と公園は、車で四十分ほどの距離だ。


 準備を整えた矢知の対策班が再出動するのに、二時間は充分な時間だった。

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