第6.9話 火の国の魔人スルト、復活し黄金の林檎を追うこと、ならびに魔狼フェンリル、三剣の力で蘇ること

「嘘………」

 小さな呟きを聞く余裕ができたのは、目の前の炎の巨人の発する温度が急激に下がり、その形を保てなくなったからだ。見る間に炎巨人の身体は溶け、薄れ、消えた――初めからそこに何もなかったかのように。

 ヘルは背後を振り返る。前方でシグルドと対峙していた炎の巨人も形を失っていた。原因が何かと考えれば、それはこの炎巨人の大本である〈火の国の魔人スルト〉に異常が起きたと考えるべきだろう。


 だが炎巨人の消失理由を探るよりも、ヘルは目の前の光景に目を奪われた。


 イドゥンはウルに担がれていた。シグルドは先頭に立って危険を見極める役割があり、いくら軽いとはいえ女のブリュンヒルドがずっと背負い続けて走れるほど彼女は軽くなかった。だからウルが担いで運んでいた。でなければ、彼女はフェンリルの元へと戻ろうとしていただろう。であれば、荷物のように運ぶしかなかった。

 短し手足を動かして脱出を試みていたはずのイドゥンは、しかしもはや抵抗してはいなかった。その両手で握っていたのは首から提げている《金環ブリーシンガメン》だとかいう〈神々の宝物〉。その力を封じるためか、フェンリルは別れ際にその蓋が開かぬよう糸で巻いた。臓腑に絡みついた《銀糸グレイプニル》で、だ。その糸はぼろぼろに崩れ、もはや《金環》の蓋を留める役割を果たしてはいなかった。なんで、どうして、と小さく叫ぶイドゥンが握りしめる先から先から、糸は崩れていった。

 ヘルは肩に載っているヨルムンガンドの尾の先を見た。力を開放せぬよう、ヨルムンガンドの《竜輪ニーベルング》もまた《銀糸》によって尾に結ばれていた。だがその糸も、ヘルの見ているまえで崩れ去っていった。


《銀糸》の持ち主、フェンリルが死んだ。ヘルにもそれは理解できた。

 いまさら驚くでもなかった。地上で別れたときに、こうなることは予想はできていたから。それなのに、瞳から何かが溢れた。


   ***

   ***


火の国の魔人スルト〉という存在は、その熱と浄化の様子から炎に例えられることがあるが、厳密にはそれは正しくはない。炎とは害であり、所構わず焼き尽くす、九世界に仇なす存在だ。スルトは逆で、熱量を操り、この九世界に侵入してきた者や、九世界において異物となり果てたものを処刑する任を負った機能なのだ。


 腹に刺さった〈世界樹〉の根は抜けない。だが一度死んだスルトの身体は溶けるように崩れ、灰となって根から解放された。どんなにか殺そうが、スルトは九世界が存在している限り死なない。浄化の意志が消えない限り。

 灰となったスルトの身体は時間をかけて元どおりになり、根の傍で完全に再生した。牙に貫かれた鎧も食い千切られた髪も元どおりだ。


「一度死んだか……こんな犬ごときに」

 いや、狼か。こいつは自身でそう言っていたな――とスルトは思い出した。

 なんにせよ、負けたことは違いない。此度の〈力の滅亡ラグナレク〉での敗北は二度目だ。一度目はもちろんフレイなのだが、今回も含め、相手はどちらももともとの敵であった〈災厄〉や〈呪われた三人〉ではないのだから、情けなくなってくる。


 視線を下ろせば、そこには未だ〈魔狼〉の死体があった。耳が千切れ、目は焼かれ、皮膚は焦げ付き、下顎が落ちた死体。こいつは九世界に害をなす可能性のある亡者ではあった。スルトに立ち向かおうとしてきた。であれば、殺すのは吝かではない。使命を果たすことがスルトにとっては最も喜ばしいことだからだ。

 だがそれにしても、敵対した者を蔑ろにするかというとそうではなかった。フェンリルという〈魔狼〉は亡者であり、殺すべき存在であり、邪悪だった。だがスルトの浄化の炎を目の当たりにしながら、最後まで引かなかった――立派だった。

「せめて来世では正しく生きるが良い」

 スルトには九世界に奉仕する以外の信仰はない。だが人神が死ぬ際、その身を焼くことは知っている。この生命も、本来は九世界を構成する細胞のひとつであったと思えば、手切れくらいはしてやろうと感じる。

 指先をフェンリルの毛皮に近づけ、温度を上げる。血塗れの毛が燃えるまでには時間を有したが、一度点いた火は燃やしきるまでは消えない。全身に回った炎は銀色の体毛も赤黒い血も山吹色の瞳も、すべて等しく灰に変えた。


 死した際に手放した《炎斧レヴァンティン》を拾い上げ、その三日月斧の先を振って燃え盛る馬を作り出す。馬に乗ってから、スルトは周囲を見回した。フェンリルの死体は見た限りではわかるほどの腐敗はなかったので、死んでからそれほど時間は経っていないらしい。とはいえ死んで復活するまでには一定の時間があったはずで、となればフレイの妹であるイドゥンという少女は既に逃げ延びてしまっただろう。

「目指していたのは〈第七世界ニダヴェリール〉か……?」

 フェンリルに早贄にされる直前、放っておいた炎巨人たちがイドゥンたちに追いついたようなのだが、その直後に本体であるスルト自身が殺されてしまったせいで、回収ができなかった。そのため炎巨人が見聞きしたことの情報伝達は曖昧だ。とはいえ、イドゥンたちが進んでいた地下通路のだいたいの向きは把握しており、向きを考えればミッドガルド南方にあるニダヴェリールのどこかが目的地であることは間違いないだろう。


 現状では、〈呪われた三人〉も〈災厄〉もフレイも行く先がわからない以上、曖昧な情報でもそこに向かって進むしかない。スルトは馬首を南へと向けた。


   ***

   ***


 思い出したのは胎児だった頃の記憶だ――いや、胎児の頃の記憶なんて残っているものなのだろうか。生物は生きている間に経験を積み、目の前の光景を正しく理解し、思考することができるようになるものだ。だから胎児に目があり、耳がついているからといって、目の前の光景を正しく処理できているかというと怪しいものだ。

「母さん」

 だが、胎児だった頃の記憶に間違いはなかった――そう、それは間違いない。母のことを思い出すからだ。優しくて、美しい母。己が成長するにつれて、その気持ちは強くなっていった。幼い頃は見上げるようだった母は小柄で、自分のほうが大きくなったくらいだ。可憐な母。守ってやりたい、可愛らしい母。いつも優しく撫でてくれた母――それに対して、父親のことは大嫌いだった。母への愛情が募れば募るほど、父のことは嫌いになっていった。


 腕を伸ばす、ということ。

 指を曲げる、ということ。

 足で身体を押し上げる、ということ。

 その全てが初めてのようで、思った通りの行動が取れているのかどうかさえよくわからなかった。それでも動かなくてはいけない――生きるためには。苦しかった。呼吸ができないから。呼吸の方法を忘れてしまったのかもしれない。あるいは空気がないところなのかもしれない。とにかく、ここを出なければ――生きなければ。

「なぜ?」

 己への疑問。

 その解答は、一度死んでもなお心に焼きつく女性の姿。

 母親ではなかった。母のように豊満ではなく、小柄で細身で、長い栗色の髪を三つ編みにした、活発な瞳の少女。

「イドゥン………」

 身体を纏うすべてのものが一変したことで、彼は己の身が今まで閉じ込められていた場所から抜け出したのだということを理解した。薄ぼんやりとだが目は見えるようになってきていた。目の前は赤く、擦ってもなお赤かった。天頂のアースガルドの燃え盛る炎が赤く映っていたのだ。

 仰向けになっていた身体を起こし、深く息を吸ってから吐く。噎せて、咳き込む。呼吸を整える。それらの動作のひとつひとつをとるたびに身体には針で刺すような痛みが走ったが、すぐにそれはぼやけてしまった。生まれるということはなかなかに痛いことなのかもしれない。


 ゆっくりと周囲を見回す。己が寝ていた地、薙ぎ倒された木々、盛り上がっている〈世界樹〉の根、そして巨大な燃え滓。彼が出てきたのはその燃え滓の中からだ。まったくの灰ではなく、銀色の毛が残っている部分があり、その燃え滓がかつては〈魔狼〉と呼ばれた獣であったことを示していた。

 彼はゆっくりと己が両の腕を持ち上げた。腕。手。掌。人神じんしんの完全なものがそこにあった。こうありたいという姿だった。

 そして彼はその手――己が以前の存在と別物になったことの証左――を燃え滓の中へと差し伸べた。掌を握ると、そこに掴んだものがあった。引き抜いたのは、剣。《魔剣ティルヴィンク》と呼ばれるその剣は、かつて〈魔狼〉がとある人神ごと食らったものだった。 


 剣を地面に刺し、それを杖代わりに立ち上がる。身体はいまだ覚束ず、両の足でまっすぐに立ち上がることさえ難しかった。だがそれでも、その剣以外に何一つ持たぬまま、纏わぬまま、一歩一歩と歩き始めた。脳裏に残る少女、イドゥンのあとを追って。

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