第5.14話 魔狼フェンリル、天の淵の心の内を覗こうとすること

「ヒュミルの城壁造りは、スリュムヘイムの巨人族からの依頼なのです」

 透けそうなほどに薄いスカートから伸びる足取りは遅かった。緩慢というよりはゆったりとしていて、これが彼女のペースなのだろう。であれば、エリヴァーガルは人神じんしんの行き交うスリュムヘイムの昼に我先にと急ぐ生き方は向いてそうには見えなかった。

「そういうのって、あるんだね」

「いえ、わたくしが知る限り、巨人族から何かを依頼してきたというのは初めてのことです」

「でも、エリもスリュムヘイムに来るのだったら、一緒に来れば良かったね」

「それはそうも……」エリは言葉を濁して外壁の外を一瞥する。「いかないですね」

 彼女の視線はヒュミルの存在を示唆しているのだろう。


 亡者ヒュミルは現在のところ、大人しく作業を続けているが――フェンリルは思い出す。彼の館での出来事を。フェンリルたちが隠れているとエリが嘘を吐いた場所を、彼は躊躇なく破壊した。

 あるいは逃げも隠れもせずに、エリにフェンリルたちを客人だと紹介してもらっていたら、彼は何もしなかっただろうか? いや、エリのあの様子を考えれば、あれ以前に彼の暴力に晒された旅人がいたのであろうことは間違いない。それは旅人ではなく盗人だったかもしれない。フェンリルたちは盗人ではなかったが、既に彼の心が見た目と同様に頑なになってしまっていたのだとすれば、どんな言葉の槍先も彼の心臓までは届かなかっただろう。そんな彼と同行して旅をするなど、土台無理なことなのだ。


「だから今後のことが、少し心配ではあります」

 と言い添えたエリに対して、フェンリルもイドゥンも首を傾げた。どういうことなのか、という疑問を汲み取ったのか、エリが言い直した。

「ええと、壁を直す報酬なのですが、この街の近くに住まわせてもらうことにしたんです」

 エリはまたヒュミルがいる方向を一瞥した。

「街の近くだと物々交換も楽ですから……勝手にこの近くに移り住むと無為な争乱の引き金になりかねませんので、先の戦争からずっと打診はしてはいたんです。ヒュミルは力がありますから、先の戦争で壊れたスリュムヘイムの壁の修復を代償とできれば良いと思っていたのですが、それはさほど重要視していないと拒まれてしまっていました。ですが、先日の〈力の滅亡ラグナレク〉から、やにわに防壁の建造が需要を得始めたようで………」

「近くって、どこなの?」

「バリという森がすぐ近くにあって、そこに家を作るつもりです」


 フェンリルはヒュミルがスリュムヘイムの近くに居を構えるということがイドゥンにとってどんな影響を及ぼすかということを考えた。彼が平和を望んでいるのであれば良いが、そうでないならスリュムヘイムの危険度は増えるかもしれない。であれば、そこに逗留する彼女は、もっと安らげる場所を探すべきなのかもしれない――そんなふうに、イドゥンをここに置いていくことに反対意見を作り出そうとする自分に気付く。


「ただ、条件も出されてしまいました」とエリは眉根を寄せる。「期限内に壁の修理が終了しない場合、報酬は支払えない、と」

「つまり……期限以内に仕事を終わらなければ、スリュムヘイムのひとたちがある程度修復された城壁を得て丸儲けってこと?」

「そうなりますね――でもそれは仕方がないのかもしれません。わたくしたちが要求しているのはお金や食料といった切り売りできるものではなく、自分たちが棲まう権利なのですから。それに、もう工程の半分は終わっていますから、この調子でいけば問題ありませんよ」

 エリという女は小柄で儚げだったが、言葉を交わしているうちにその印象が幾分か変わってきているように感じた。彼女は自分の考え方を持っているし、生きていく方法も心得ているのだろう。


 共連れで歩いているうちに、中心街にほど近い路地のやや奥まった場所にある宿に到着した。ヘルたちを呼んで昼餉にするためだったが、「ご飯、一緒に食べる?」とフェンリルはエリのことも誘ってみた。

「ありがとうございます。でも、ヒュミルが待っていますから」

 とエリは首を振った。彼女は街で食事を取るのではなく、食材を買って塀の外に戻り、そこでヒュミルと食事にするらしい。期日までに工事を完成させるため、食事には気を遣わないといけないということだった。

「ヒュミルは細かい作業が苦手なんです。だから、わたくしが工事の計画や確認をしてあげないと……」


(このひとは………なぜヒュミルなんかと一緒にいるのだろう)

 改めて、そんな疑問が舌を覗かせた。最初は、単にヒュミルの奴隷にされているのだろうと思った。次には彼女は肉欲のためにヒュミルと離れられなくなっているのだと理解したつもりだった。

 だが日を経て落ち着いた中で会話をして、それらは彼女の一面を表してはいるが、正確ではないと気付かされた。彼女は自由だし、ひとりで生きていける。止まり木も、身体を満たす相手も、何もかも自分で手に入れられるはずだ。なのにあの亡者のヒュミルとともにいる。それは――愛ゆえにだろうか? いや、彼女がヒュミルの話題を出すときはどこか苦しげで、可憐な表情には似つかない憎悪さえ垣間見える。愛ではない。


 エリは別れ際、フェンリルのもとに屈み込み、そっと手を伸ばしてきた。

「あなたは可愛いですね」

 耳の裏を掻きながら目を細める。慈しむようなその表情を、ヒュミルの館でも一度見たことがある。フェンリルたちが亡者であると言い当てたとき、彼女は同じ表情だった。


「フェンリル、わたし思ったんだけど………」

 背を向けて去っていく尻が見えなくなった頃、イドゥンが発した言葉にフェンリルはびくりと震えた。身体が急な反応をしてしまったのは、イドゥンの持ち出そうとする話題の予想がついたからだ。彼女のこれからの動向についてだ――街に残るのか、それともフェンリルらと旅を続けるのか。

 街に残る。そうだろう。亡者ヒュミルが街の近くにいるということは危険要因ではあるが、フェンリルたちと旅を続けるよりはずっと安全に違いない。いや、ヒュミルの存在を受けてフェンリルと一緒に旅立つと言ってくれるかもしれない。そうなったらいいな、いいな、でも、いつかフェンリルの仕出かしたことを知られるかもしれないと思うと恐ろしく――。

「《竜輪ニーベルング》って使えないかな」


 だが、イドゥンが発した話題はフェンリルが想定していたのとはまったく異なるものだった。


「へ?」

「ヒュミルだよ。フェンリルもヨルムンガンドも、それを付けていまの姿になっているでしょ?」とイドゥンはフェンリルが《銀糸グレイプニル》を通して首からぶら下げている指輪を指し示した。「だったらヒュミルも、それを嵌めれば人神みたいな大きさになれるんじゃないかな? あんなに大きいから、どこに嵌めるのかっていう問題はあるけれど、ヨルムンガンドでも尻尾の先に入ったわけだし」

 しばらく彼女の言葉を反芻した。確かに《竜輪》のおかげでフェンリルもヨルムンガンドも〈魔狼〉や〈世界蛇〉の姿から、害のない犬や蛇の姿に変身できている。ならば同じ亡者であるヒュミルも、人神の大きさになれるかもしれない。そうなったら、壁の建造に関しては滞るだろうが、その後の生活に関しては暮らしやすくなるだろう。

「すごい、頭良い」

「でしょ?」

 賞賛に、イドゥンはどこも出っ張っていない胸を仰け反らせたあと、少し悩ましげな表情になった。

「少し、考えていたんだ。その、〈神々の宝物〉ってすごく貴重なものだから、ブリュンヒルデのものを勝手に使う提案をしてもいいのかな、って。でも、あのひとたちのためになるなら、ブリュンヒルデも貸してくれるかもって思って………」


 イドゥンは壁の上でヒュミルの作業を眺めている間、どこか思案する様子を見せていた。その原因がヒュミルの醜悪さにあると思っていたが、彼女はそれ以上のことを考えていたのか。

「イドゥン、きみはヒュミルのことが怖くないのか。気味が悪いと思わないのか」

 とフェンリルは尋ねずにはいられなかった。

 その問いの中で、ヒュミルに己を重ね合わせていた。おれは、おれはどうなのだ。巨大な〈魔狼〉であり、きみの庇護者を食い殺したおれはどうなのだ、と。そんなことは口には出せなかったが。


「思うよ。怖いし、なんか、危ないのかな、って思うよ。でも………」

 イドゥンの言葉の先は続かず、だからフェンリルは彼女の心の裡を知ることができなかった。だが、もしかすると彼女自身もその言葉の先は知らないのではないかという気がした。

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