第4.11話 白き対狼の母 - 1

狼の母ロキ〉が腰掛けていたのは、アースガルド西の大草原にある三平面を貫く〈世界樹ユグドラシル〉の幹のうちのひとつの枝であり、彼女の身体は第一平面アースガルドから遥か高くにあった。だからアースガルドの惨状は見ていなかった。


 彼女は枝に脚を絡めて逆さになり、それから反動をつけて元の腰掛ける姿勢に戻った。回転運動でぼさぼさになってしまった髪を直す。溜め息を吐く。

(なんでわたしはこんな性格なんだろう………)

 ロキの中で今最も大きくなっていた感情は悲しさと恥ずかしさだった。


 勘違いをしていた。ずっと。トールも、きっとロキのことを好いてくれるのかと思っていた。

(だって、そう思うよ……)

 トールはアースガルドで迫害されているロキの友人になってくれた。一緒に食事をしたり、訓練に付き合ったり、二人で旅に出かけたりもしたこともある。ヴァン神族との和睦が結ばれてフレイが第一世界グラズヘイムにやってくるまでは、彼が唯一ともいえる友人だったのだ。それに……それに、トールはロキのことを何度も助けてくれた。ミッドガルドではトールは身を挺してロキのことを守ってくれたのだ。だから。


(ずっと勘違いしてた………)


 トールはロキのことを女性として好きなわけではないのだ。

 ただの、友達として。

 彼は優しいのだ。

 強くて優しいのだ。


 そう。


 もしかするとロキのことは友人としても好きなわけではないのかもしれない。ただ彼は優しいから、孤立していたロキを哀れに思って慰めてくれていただけなのかもしれない。

 トールと恋仲だというアース神族の女性、シフ。

 可愛らしい女性だった。巨人族であるロキにもなんら隔てなく会話をしてくれた。明るく、朗らかで、傍にいたいと感じる人物だった。

「辛いよ………」

 オーディンがいなくなってからというもの、ロキはヴァラスキャルヴでひとり孤独に過ごす毎日だった。だから積極的に近づいてくれたトールという人物に好感を抱いた。でも、今はそれもなくなってしまった。恋心だったかもしれない感情は消えてしまった。

「オーディン………」ロキの瞳に涙が溢れ、やがて涙は重力が張力との均衡を破って落ちた。太腿に落ちた水滴はそのまま脹脛に伝い、膝の裏を通って爪先まで滑り落ちた。「早く帰ってきてよ………」


 一通り泣いたロキは深呼吸をした。たぶん目元は腫れているし、何もかもが前向きにとは行かないまでも、多少でも心の内はマシにはなった。

 ロキはユグドラシルの枝に座ったままで身体を後ろに倒し、半回転してから今度は足を離して落ちた。広げる《双翼ナルヴァーリ》はミッドガルドでの消耗を受けて小さいが、幾分かは快復した。落下を中和する《羽靴》の力も合わせ、ゆっくりと〈世界樹〉の根本に降りていく。

 緩やかに下降していれば、しぜんと眼下の光景が目に入る。そこでロキはようやく第一平面アースガルドで起きている異常事態を知った。燃え盛るヴァルハラ都、崩れる石壁、暴れまわる〈世界蛇〉ーー我が子、ヨルムガンド。


 そして最大の異常事態は目の前にあった。


「ヘイムダル………」

 思わずロキは彼の名を呼んだ。〈白き〉ヘイムダル。これまで一度、二度と俊敏に動いたり神出鬼没だったりしたことがあったものの、こうして目の前に突如として出現したのは初めてでーーしかもその表情に人神じんしんのような色が浮かんでいるのであれば、絶句せずにはいられなかった。未だ年月を経た石像のような埃や苔を纏いながら、ヘイムダルの瞳は丸くなっていて、それはロキが初めて見る、〈白きヘイムダル〉の感情だったのだ。

 すぐに何かを理解したように、その瞳は細められる。手が腰元の剣の柄へと伸びる。自然な動き。いままで彼からは考えられないほど。

「〈呪われた三人〉………」

 その声がロキから発せられたものでなければ、ヘイムダルが発したものに違いなかった。低い、男の声。耳にして初めてわかる、落ち着いた男性の声調。風雨に晒されて白くなった彼の身体に、初めて若さのようなものを感じた。年老いてはおらず、しかし幼いというほどではない、壮年の、男性。

「やはり間違っていたな。あいつらは呪われていたんだ」

 

(ヘイムダルがギャラルホルンを鳴らす。それが終わりの合図だ)

 ロキはかつてオーディンが言っていた言葉を思い出した。まさしくそのとおり、ヘイムダルの腰から引き抜かれた《楽刀ギャルホルン》は奇妙な音を上げた。それは魔曲。この世界が終わろうとしている合図だった。


   ***

   ***


「やばいやばいやばい」

 フェンリルがぶつぶつと呟きながら全力疾走していたため、ヘルは彼の身体から投げ落とされないようにするのに苦労した。幸い彼の毛は羽毛のようにふわふわとまではいかないまでも、《銀糸グレイプニル》の拘束を受けていたときに比べればずっと柔らかくなっていたので、それを掴んで振り落とされないようにすることはできた。

「さっき、何かいた。すごいやばそうなのがいた。きっとあのミイラだ」


 ヴァラスキャルヴの塔から飛び降りる瞬間に見た〈火の国の魔人スルト〉のことを説明してやろうかと思ったが、この九世界に関する知識を並の人神じんしん程度にしか持たない彼にしても、すぐには理解してはもらえまい。少なくとも人でも神でもなく亡者に分類されるヘルとフェンリルにとって〈火の国の魔人〉と相対したときに遁走するというのは間違っていないため、黙っておくことにした。どうせよくわからない脅威という点では動くミイラでもスルトでも同じだ。

 ヘルは振り落とされないようにしっかりとフェンリルの身体にしがみついたまま、首だけ動かして後方を確認する。塔に、スルトの姿は見えない。ヘルとフェンリルを追ってくる気はないらしい。ほっとする。


「あのミイラ、追っかけてきてる?」

 フェンリルが不安そうに訊いてきたのが面白くて、「来てるよ」とヘルは返事をしてみた。

 フェンリルの疾走速度がさらに上がる。

「ごめん、うそうそ」落ちそうになったのでヘルは言ってやった。

 フェンリルの速度は変わらない。

「嘘だって。何も追っかけてきてないよ」

 それでようやくフェンリルの速度が落ちた。未だ駆け足ではあったが、馬でいえば襲歩ギャロップからだく足ジョグ程度に移ったので、毛に必死に掴まらなくてもよくなった。


「あぁ……怖かった」

 とフェンリルは?足のまま、臆病が透けて見えるような息を吐いた。

「フェンリル、ヨルムンガンドを助けに行って」

「まだ母さんを見つけていないよ」

「ヴァラスキャルヴを見てみていなかったら、ヨルムンガンドを助けに行くって約束だったでしょう?」

「そうだっけ?」

「恍けてないで……お願い」

 ヘルの懇願に答えず、フェンリルは?足のままヴァルハラ街の砕かれた路面を疾走し続けた。


「フェンリル?」

 彼の様子の変化を確かめようとした瞬間、フェンリルが急に立ち止まったので、ヘルは前方に投げ出されそうになった。立ち止まった狼は天を仰ぐように視線を持ち上げ、千切れた場所を《銀糸》によって修復したために歪になった耳をぴんと立てていた。

「女の子の声が聞こえた」

 そりゃあ聞こえるだろう、とはヘルは思いながら、周囲を見回した。

 なにせ、九世界で最も巨大な〈世界蛇〉であるヨルムンガンドと、九世界最強とも名高い〈雷神〉が戦っているのだ。アースガルドのヴァン神族を吸収し、ミッドガルドまで侵攻して巨人族を打ち倒し、栄華を極めたアース神族の難攻不落のヴァルハラ街の長城が破られたのだ。おまけに巨大な〈魔狼〉が街を疾走し、その上には全身に鎧を纏った〈半死者〉までいるのだから。

 ここがヴァルハラ都だと言われて信じられる人神がどれくらいいるだろう。壁は倒れ、家屋は倒壊し、舗装された石畳は砕かれている。倒れ伏して動こうともしない人神の姿も珍しくない。この被害を巻き起こしたのは、未だ戦い続けているヨルムンガンドと〈雷神〉だけではないだろう。《狼套ウーフヘジン》によって洗脳されていた人間族の〈狼被り〉たちは暴走し始めて使役者であるアース神族に牙を剥いたばかりか、彼らに吸収支配されていた巨人族やヴァン神族も反乱を起こしているらしい。そうした混乱がフェンリルとヘルにとっては幸いし、積極的にふたりを追ってくる敵の姿はない。

 これまでにも第一平面アースガルドで戦は幾度となく起きた。たとえば前回のアース神族とヴァン神族との戦争だ。だがその中でも、血みどろの虐殺が行われることはなかった。神々は己の住む大地が血で汚れるのを嫌っていた。汚れるのはいつもミッドガルドか――でなければヘルモードだった。

 

 此度は違った。


「フェンリル、女の悲鳴なんてどこからも聞こえている。そんなの――」

「悲鳴じゃないんだ」あくまできょうだいの元に向かおうとするヘルに対し、フェンリルは食い下がる。「でも、普通の声でもない。痛そうな、苦しそうな、泣きたいんだけど、うまく声が出ないような、そんな声で……」

 なぜフェンリルがそんな声に固執するのか、ヘルは悟った。痛くて、苦しくて、泣きたくて、それでも何もできなくて――それは少し前までのフェンリルそのものだからだ。《銀糸グレイプニル》によって心の臓を締め付けられる〈魔狼〉の姿だからだ。

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