第3.16話 雷神トール、贖罪の旅を決意すること

 終戦後に起きた出来事――たとえばさまざまな取り決めなどについて、トールは口出しをすることができなかった。巨人族の国ヨツンヘイムでの〈世界蛇ヨルムンガンド〉との死闘のあと、トールはそのまま倒れてしまったからだ。度重なる戦闘による疲労と失血が原因で、あとで聞いたところでは、死んでいてもおかしくないほどの怪我だったらしい。


 アース神族は巨人族に勝った。勝ってしまった、と勝利の報を聞いたときにトールは思った。

 勝利は当たり前の結果で、何せ巨人族の首都から海岸にかけての地域一帯が〈世界蛇〉によって蹂躙されてしまったのだ。特に〈雷神トール〉と〈世界蛇〉が戦った首都ウドガルドは酷いものだった。天然の要塞である巨大な山脈は、より巨大な〈世界蛇〉によって平らにされてしまい、そこへ進軍してきたアース神族が雪崩れ込んできたのだ。決着はすぐに着いた。

 勝敗は明確であり、〈世界蛇〉によって多大な被害は受けはしたが、戦争が激化するよりも被害そのものは少なかっただろうとは思う。それでもトールは、アース神族が巨人族を弾圧せぬような協定を結ばせたかったし、自分が戦争で多大な貢献をすれば、終戦時にそれ相応の発言力が生まれると思っていた。ヴァン神族との戦争のときと違い、今回は和平交渉があって終戦となったわけではない。最終的にはアース神族が巨人族の国を侵略したのだ。巨人族たちにとって良い条約が取り決められるはずがないだろう。戦争の功労者であるトールならば、条約決定の会議の際にも大きな顔ができたはずで、だがそれが行われているときにずっと眠っていたというのは情けないことだった。トールが目覚めたときには終戦から一月ほどが経っていた。そのうちにヨツンヘイムは完全にアース神族の管轄に置かれた。


 自分は滑稽だと思った。アース神族が憎いわけでも、巨人族が憎いわけでもなかった。ただただ戦争というものの存在そのものが厭で、それを終わらせるために戦ってきたつもりだった。だが最後に残ったのは巨人族への弾圧だった。

 もちろん戦争を終わらせるだけで何かが変化するわけもなかった。それはわかっていた。だが自分の情けなさこそがトールの中では響いた。

 自分は結局何もできなかった。


「そんなことないよ」

 そう言ったのはロキだった。彼女も怪我と疲労で大変だったらしいが、トールのように戦いが終わってすぐ倒れてしまったということはなかったらしい。というより、彼女まで倒れていたらトールはおそらくは敵地の真っただ中で――死んでいた。いくら街を壊滅に追い込んだ〈世界蛇〉を倒したとはいえ、敵は敵だった。それに巨人族は知らなかったかもしれないが――おそらくは〈世界蛇〉は〈雷神〉を追ってきていた。巨人族にはトールを殺すだけの理由があり、その敵意からトールを守ったのがロキだった。

 二度、助けられた。海とウドガルドで。その恩を、ミッドガルド東端からの帰還という形で返せたのかどうかは自信がない。

「結局何もできなかったのはわたしのほう」

 とロキは言った。場所は第一平面アースガルドの第一世界グラズヘイムのヴァルハラ都の中央、首長の館兼戦争用の総合施設でもあるヴァラスキャルヴだった。戦争の爪痕が残る場所よりも、戦地から常に隔絶されていたアースガルドで休むほうが安全だろうという話だったが、もしかするとトールが早めに目覚めても口出しされないようにという意図もあったのかもしれない。

「トールがいなかったら今も戦争は続いていただろうし、ウドガルドを攻め落とすときにも死者がいっぱい出てた。それに……それにたぶん、わたしも死んでた」

 だが、実際に努力をしたのはロキだった。彼女は戦後、トールが第一平面アースガルドへ護送されるのを確認したあとは、ウドガルドに長いこと留まっていたらしい。彼女は巨人族で、けしてアース神族に対して発言力があるわけではないが、同種族なりに何かできることがないか探していたのだろう。

「そうだな」と同意したのはフレイだった。彼はスリュムヘイムの決闘の後、アースガルドへ戻っていたので戦後のいざこざことはほとんど知らず、トールへの見舞いついでにロキの話を聞きに来たということだった。「そしておれがいなければスリュムヘイムは奪い返されて、戦争はやっぱり長続きしていただろう」

「フレイ………」とロキはフレイの軽口に冷たい視線を向ける。

「まぁ、ともかくとして、おれも戦争が終わったのは嬉しいよ。それがどんな結果であれ」フレイは真面目な口調で言った。「これからのことが決まったとはいえ、それも努力次第で変化していくことだ。巨人族だからといって迫害されることがないようにな。おれ自身ヴァン神族で、アース神族から異種族だし、何より、可愛いあいつのためにも」

 フレイの言うあいつ、とは、フレイの細君、ゲルドのことだろう。決闘後、フレイは巨人族の娘、ゲルドと結婚していて、いまはグラズヘイムのヴァルハラ都からは離れた田舎でふたりきりで暮らしているのだという。

「ゲルドは可愛いからな、お願いされたら断れない。仕方がない。もう何もかも。全身全霊をかけてやることはやる。ゲルドのために。ゲルドのために」

「大丈夫だ、お前には期待していない」とトールは言ってやった。

 その後、三人で世間話をする。くだらない話だった。戦争が終わったからこそできるようになった話でもあった。


 やがて暗くなり、ゲルドが待っているから、と言ってフレイがトールの病室を出て行く。

「フレイとゲルド、仲良くやっているみたいね」フレイが出て行った扉を見つめて、ロキが呟くように言った。

「見てないからなんとも言えんな。あいつが惚気てただけだし」

「そう?」と微笑むロキ。「でもフレイだったら良い旦那さんになると思うよ」

 確かにフレイは女性に優しいので、夫としては良い人物になるだろう。アース神族が最も強い勢力である中、ヴァン神族のフレイと巨人族のゲルドというのは苦労する夫婦になるだろうが、応援してやりたい。自分が似たような立場であるという意味でも。

 ロキは小さく俯き、何か声を発した。

「え?」と聞こえなかったので、トールは聞き返す。

 ロキは顔をなぜか真っ赤にしていた。「トールはそういうのって、ないの?」

 答え難い質問だ、とトールは思った。昔もそうだった。昔の妻とは幼馴染の仲だったが、トールから好意を伝えるのは彼にとっては至難の業だった。苦労して苦労して、なんとか想いを告げられたものだ。端的にいってしまえば、トールは色恋沙汰を表現するのが苦手だ。

 言いよどんでいると、扉の向こうから足音が聞こえてくる。女性の軽い、しかし激しい足音。


 扉が勢い良く開かれる。入ってきたのは一目でアース神族とわかる艶やかな黒髪と緑色の目の女性。焦ったような、目を見開いた表情だった。

「トールっ……!」彼女はロキには目もくれず、トールのベッドに走り寄って抱きついてきた。「起きたの? 起きたんですね?」

「見りゃわかるだろう」

 彼女はシフという。オーディンに誘われてアース神族軍に入って以来の知り合いだ。彼女はトールの得体の知れない出自を知っても差別することなく、良くしてくれた。戦争も終わった。近いうちに結婚することになっているが、それを良き友人であるロキに打ち明けるのは少々気恥ずかしいトールだった。

 だが彼女との幸せな――二度目の結婚生活は叶わぬことかもしれない。その前にやるべきことがある。トールは、贖罪をしなければならない。

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