第3.12話 雷神トール、狼の母とともに巨人族の国に辿り着くこと

 リュングヘイドがトールの贖罪の約束を認めたのか、あるいは単にトールを殺すことを諦めたのか、その後何も仕掛けてくることはなかった。彼女がトールを避けてくれたので、トールのほうから何もする必要もなく、太陽が一度昇ってから沈み、また昇ってから沈んだ。

 トールとロキはリュングヘイドらの家に身を寄せてから三日後、出発した。目指すのは巨人族の国である第四世界ヨツンヘイムの首都、ウドガルドだ。第二平面ミッドガルドは東西を山脈で分断されているが、敵国の首都を通るのが、この山脈を越える最も安全なルートなのだ。


 フレイドマルの馬をこのまま借りていくことにリュングヘイドは反対しなかったため、また馬一頭での旅となる。トールの右腕はリュングヘイドの家に宿泊している間に徐々に癒え始め、だいぶん楽に動くようになっていた。おかげでロキを乗せたままでも馬に負担がかからない程度には急がせることができる。アース神族軍にはできるだけ早く合流したかった。ロキのためにも――いろいろな、いろいろなことどものためにも。

 道程はそう短いものでも、簡単なものでもなかった。四季の移り行きの激しいミッドガルド、冬の大地は寒々と凍えていた。雪が降り続けてほとんど前に進めない日もあった。山賊に襲われた日もあった。得体の知れない旅人であるトールとロキを快く受け入れてくれる家は少なかった。

(今年の冬は長いな………)

 トールは降り続ける雪の中で思った。自分がミッドガルドで生活していたころの冬はこんなに長かっただろうか。もうそろそろ春とはいえないまでも、雪は止んで幾分かの温かさを感じられるようになっても良い時節だったはずだ。

(〈力の滅亡ラグナレク〉か………)


独眼の主神オーディン〉がかつて言っていたことがある。〈力の滅亡〉はさまざまな形でやって来る。何事もないかもしれないが、異常な猛暑が続いたり、空から流星が注いできたり、はたまた冬が例年の三倍ほど続いたり、と。大地は冷えて、乾き、そして亡者を焼き尽くすために〈火の国の巨人〉がムスペルヘイムからやってくるのだ、と。

〈力の滅亡〉の伝説は、〈雷神トール〉も幼い頃の寝物語に聞いたような覚えがある。龍と竜の災厄〈火龍ファヴニル〉と〈邪竜ニドヘグ〉、栗鼠の災厄〈ラタトスク〉、犬の災厄〈獄犬ガルム〉、炎の災厄〈火の国の魔人スルト〉など、さまざまな名が出てきた。トールは実際にそれらの化け物を目にしたことはないが、オーディンがまるでそれらを見てきたかのように語ったのを覚えている。


(〈力の滅亡〉が起きたら………)

「トール、きみはね――」とかつてオーディンは言ったものだった。「きみが如何に強くても、あの災厄たちには勝てない。〈獄犬〉にも、〈火龍〉にも、〈歯〉にも、〈邪竜〉にも――〈火の国の魔人〉にも勝てない。あれらは生き物とさえいえない。自然現象のようなものだ。たとえ〈雷神〉だって、雷相手に戦おうとはしないだろう?」

「では座して死ねということか」

「そうではない。抗うなら抗えばいいさ。生きるために抗うことは素晴らしいことだ。だが、戦おうとはしてはくれるなよ、ということさ」

「おれを――おまえがおれを仲間に引き入れたのは、戦わせようとしているからではないのか?」

「別に仲間にしようと思ったわけじゃないよ。ただ放っておくと、あのときのきみは死んでしまいそうだったから」


 そうなのかもしれない。自分は別に戦士としてオーディンに協力を要請されているわけではないのだ。オーディンは見た目はひ弱ではあるが、膨大な魔法の知識と〈神々の宝物〉がある。強いとは言い難いが、戦って負ける姿は想像ができない。

 オーディンには戦士としての力を頼りにされているわけではない。逆にオーディンに保護され、アース神族軍にも斡旋してもらった身だ。

 では、自分の存在意義とはなんなのだろう。自分が戦い続ける意義というものはあるのだろうか。ただただかつての同胞を殺戮して、侵略して、蹂躙し続けていく日々。アース神族軍が戦争を終わらせて、オーディンは真に平和な世界を作れるのだろうか。その場にトールの居場所はあるのだろうか。


「トール……」

 掠れた声を発する〈狼の母ロキ〉はミッドガルドに着て羽が縮んでからはそうしているように、トールに抱きかかえられるように馬の背に座っていた。彼女はほとんどトールに背中を預けていたが、重くはなかった。重くはなかったが、それこそがトールにとっては負担だった。

「なんだ」とトールは応えようとしたが、こちらも声が少し掠れていた。今日初めて発した言葉なれば、当然かもしれない。

「今、どのへんかな……」

 トールの顔を見上げるロキの瞳は僅かに潤んでいた。小さな唇は罅割れていて、肌には色がなかった。深い雪道は突破しても、長旅は兵士ではないロキの身体を確実に蝕んでいた。

「もう少しでウドガルドのはずだな」

「そう………」

 ロキの体力がもう限界なのは明らかだった。


 この道程は常に考え続けなければいけない道程だった。果たして――果たして第四世界ヨツンヘイムの首都、ウドガルドを越えるのは正しい道なのか、と。道だけを見れば、ウドガルド越えは第二平面ミッドガルドを背骨のように走る中央大山脈を越えるための最も簡単な道程だ。だがそこが巨人族の国であり、〈雷神〉と〈狼の母〉の正体が明らかになれば当たり前の危険が訪れる。〈狼の母〉の羽が縮まっていて外套で隠せるのは不幸中の幸いではあるが、フードを押し上げる犬耳は少しの風で見えそうになるし、トール自身も〈雷神〉の相貌は戦場に立つ兵士なら誰もが知るところだ。だから、もし可能ならば――可能ならば多少道は険しくとも違う道を通って西側のアース神族軍に合流するべきかもしれない。

 だがロキは弱い。トールとは違い鍛えられていない女の身体のロキでは長旅がきついのも当然だろう。トールひとりならともかく、彼女がこの状態で黒妖精の国アールヴヘイムを通ったり、ミッドガルド中央部の大山脈の獣道を越える余力はない。やはり、多少の危険を冒してでもウドガルドを通るしかない。


 雪。


 小高い丘からトールは下方を見下ろした。白く覆われた大地の中に無機質な城壁が聳え立っている。ウドガルド。巨人族の国の首都。

 トールは馬に前に進むように指示した。とぽとぽと馬が雪の坂を下って行った。

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