三、オッタルの賠償金

第3.1話 世界蛇ヨルムンガンド、己の仲間を見つけること

「彼は昼間はカワウソの姿をしていた。一日じゅう川の中か、川のそばで暮らしていたんだ」とファヴニルが言いました。

「そして、獲物を父親のもとに運んできた」

「新鮮な魚を供給したんだ」

「おれたちの兄弟だったんだぞ」

「われわれはそのことを知らなかった。もし知っていたら、ロキも決して殺しはしなかったろうに」とオーディンが言いました。

「死んだものは死んだのだ」とフレイドマルが言いました。

K. クロスリィ・ホランド(著), 山室静(訳), 米原まり子(訳), 『北欧神話物語』, 青土社, 1983.「二十六 オッタルの賠償金」より


 ***

 ***


 暑さも寒さも〈世界蛇ヨルムンガンド〉には関係のないことだった。


 ここは周りに何もない場所だ。そう思っていた頃があった。実際にそんなことはなく、周囲には水があるのだということを知ったのは海面から顔を出せるようになってからだったが、それ以前は海水というものは何もないのと同義なものであり、存在なんて気にも留めなかった。

 ヨルムンガンドは何も考えていなかった。怒りも悲しみも、親を憎む気持ちも愛する気持ちもなかった。ただ、ただ生きて――生きてはいたが、生きていく理由はなかった。ただ死んでいないというだけだった。


 それでもやはり、仄暗い海底の底でヨルムンガンドは生きていた。


 海中にはヨルムンガンドに似た姿の生き物がいくらかいたし、そうでない生き物ももっとたくさんいた。しかしどちらもヨルムンガンドを仲間として受け入れてくれることははなかった。縄張りに近付けば追い払われ、天敵が近付けば囮にされた。周りすべては敵であり、仲間は存在しない。それが海水の存在より先に学んだ知識であり、己以外に頼るものが存在しないということを理解したあとでは、世界はより生きやすく、かつより残酷になった。


 ヨルムンガンドが海に投げ落とされてから長い年月が経過した。長い……長い年月が。蛇の身体は年月に見合う程度に成長していて、自力で蟹や貝、小型魚などの獲物を取れるほどになっていた。

 それでも何もかもが自由になるほどでもなく、大型魚や蛸のような巨大な天敵が近付いてきたときは岩場や砂の下に逃げ込んだ。一度天敵に出会ってしまうと長い間隠れている必要があり、そうしたときに死んだように息を潜めた。死んだように。死んだ。それはこれまでとずっと同じだ。ヨルムンガンドは生きていたが、生きる目的はなく、だから死んだも同然だった。

 怪我をしたのはそんなふうによく知っている天敵から身を隠しているときだった。岩場に身を隠していたヨルムンガンドに、それよりふた回り、いやもっと大きいウツボが襲いかかってきた。その鱓もヨルムンガンドと同様に天敵から身を隠している最中だったが、彼にとってはヨルムンガンドは同じ敵を持ち共に隠れる仲間ではなく、自分の隠れ家に飛び込んできてくれた、ただの獲物だったから。

 長い背中を傷つけられ、ヨルムンガンドは血をだらだらと流しながら逃げた。ただ逃げた。そうするべきだから逃げた。生にしがみつくためではなく、死から逃れるためだけに逃げた。ヨルムンガンドの周りだけが赤く染まった。


 どこをどう泳いだのかわからず、来たことのないような海域まで辿り着いていた。そこでは呼吸がいつもより楽で、身体が浮いてくるような感覚があった。あとで知ったが、そこはいつも大蛇が生きている場所よりもずっと浅い海だった。


 光が迸った。


 一瞬のことで、何が起こったのかよくわからなかった。光はすぐに消えてしまった。辺りにはまったく変化がない。もう一度、光。上からだ。海の外から。海面の上から。光を目指してヨルムンガンドは泳いだ。怪我も省みずに泳いだ。ヨルムンガンドに初めて芽生えた感情は、好奇心だった。


(ああ)


 海面という天井の仕切りを抜けると、そこはまったく違う世界だった。ヨルムンガンドが海底へと落とされる以前に生きていた、大気のある世界だった。ヨルムンガンドは怯えて海中に戻りかけ、しかし踏みとどまり、空を見据えた。


(ああ、ぼくと同じだ)


 黒々とした雲に包まれた空を流れた金色の光は、ヨルムンガンドと似た姿をしていた。細長く、素早く、そして奇妙な鳴き声をあげていた。その金色は空から地上に襲いかかったり、逆に地上から空へと飛びあがったりしていた。


(ああ、ぼくの仲間だ)


 その金色が見えなくなってからも、ヨルムンガンドは何度も何度もその光景を思い出した。そして、金色が生み出す光が見えたときには常に海面へと上がるようになった。それだけではなく、ヨルムンガンドはこれまでよりも果敢に行動するようになった。これまで逃げていた天敵にも逆襲し、ありとあらゆるものを食した。なぜなら、空を駆ける金色はヨルムンガンドよりもずっと巨大だったからだ。なんでも食べて、あんなふうに大きくならなくては釣り合わないと思ったからだ。あの金色に近づきたいと思ったからだ。


(ああ、ぼくの唯一の仲間なのだ)


 そうして、ヨルムンガンドは成長を続けた。身体はどんどんと巨大になり、力は激しさを増していった。人間には〈世界蛇 ミズガルズオルム 〉とも呼ばれるようになるほど力を得た大蛇は獲物を取ることに苦労はしなくなったが、それは喜びではなかった。


 望みはただひとつだけ。

 あの金色のにょろにょろと同じくらいに大きくなって、あの金色のにょろにょろに近づいて、あの金色のにょろにょろと――仲良くなりたい。


 ある日、〈世界蛇〉はいつもよりずっと近い場所に金色のにょろにょろが現れたことに気付いた。第二平面ミッドガルドと呼ばれる大地の上、奇妙な背の高い建物の近くにはヨルムンガンドと同じくらい巨大な泥の塊があり、そこににょろにょろが襲いかかっていた。

 ヨルムンガンドは海から飛び上がり、翼で羽搏いた。かつて 鱓に傷つけられた傷口からは、いつの間にか海面に時々浮いている少し食べにくい生き物――鳥と同じ羽が生えていた。泳ぐのに邪魔なだけなものだと思っていたが、そのとき初めて、ヨルムンガンドは自分の身体に生えている翼の使い方を知った。


 そしてもうひとつ知った。ミッドガルドの巨大な平面の上、巨大な泥の塊と相対する巨大な建造物の上に小さな小さな生き物がいた。そして、それが金色のにょろにょろの正体だった。それは〈雷神〉と呼ばれる生き物だった。

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