冷たい檻の中で、君に愛を囁く
雪桜
檻の中の君へ
「必ず、迎えに行くから──」
懐かしい夢を見た。
大切なあの子と、約束を交わす夢。
まだ、幼かったあの頃、泣いている彼女を必死に慰めたあの日、俺達は、離れ離れになった。
「今頃、どうしてるかな……」
それは、いつもより少し遅い目覚めで、俺はむくりとベッドから起き上がると、その後、窓際の机の前に立った。
古びた机の一番上の引き出し。そこから白い日記帳を取り出す。五センチばかり厚みのあるその日記帳は、あの日、彼女と別れてから書き始めたものだった。毎日ではなく、書きたい時にだけ、書いているもの。
ギシ──と、木製の椅子が軋むと、まだ一日は始まったばかりだというのに、俺は、その日記帳にペンを走らせた。
彼女を思う気持ちを、ゆっくりと文字に変えていく。
会いたい──彼女に。そう思ってしまうのは、夢を見たからだろうか?
できるなら、もう少し彼女の夢を見ていたかったなんて、目が覚めてから思っても、どうすることも出来ないのだが、せめて、夢の中くらいは……そう思ってしまうのは、俺が彼女のことを、それほどまでに、愛しているから。
◇
「え、日本に?」
小ぶりのトランクに必要最低限の物を詰め込んだ俺をみて、友人の男が声をあげた。
五年前、ここフランスに移住してから仲良くなったその友人は、俺の黒い髪とは対象的な、鮮やかな金色の髪をしたフランス人だった。
「本気で、逢いに行く気?」
あの子に?──そう聞かれ、俺は静かに頷いた。だが、そんな俺をみて、友人は少しだけ眉をひそめる。
「やめた方がいいんじゃない? 行ったところで」
「……分かってる」
友人の苦言が、なにを意味するのか分からないわけではなかった。
それでも、夢の中で泣いている彼女を見て、どうしても会いたいと思ってしまった。
ほんの少しでもいい。
せめて、一目だけでもいい。
『夢』ではない君に、会いたいと思った───
◇
◇
◇
桜の咲く、四月下旬──俺は五年ぶりに日本に帰ってきた。
十二歳で彼女と別れてから五年。十七歳になる今まで一度も会うことなく、今日まできた。
履きなれたスニーカーで、一歩一歩踏みしめながら彼女の家に向かう。
通い慣れたはずのその道は、五年前からすると少しだけ姿を変えていた。
昔あったはずの店がなくなり、オープンと大きく書かれたノボリと共に、あたらしくパン屋が出来ていた。今日、開店したばかりのその店は、どうやらメロンパンが売りらしい。
そういえば、お昼を食べていなのに気づいて、俺は手早く昼食をすませようと、ふらっとその店に立ち寄った。
比較的、落ち着いた時間帯だったのか、オープン初日にしては閑散としたその店の中に入ると、そこは香ばしいパンの匂いでいっぱいになっていた。
焼きたてのパンの香りに自然と食欲を刺激され、店員のススメで言われるままメロンパンを買って店を出た。とっとと平らげてしまおうと、店先の壁にもたれかかって、手にしたパンにかぶりつく。
五年ぶりに、日本の物を口にした。
新しくオープンした店の、初めて食べるメロンパン。それなのに、不思議と懐かしい味がして、俺は日本に帰ってきたのだと、胸の奥で、何かが込み上げてくるのを感じた。
俺は今、日本にいる。もうすぐ、会える。ずっとずっと思い続けた──彼女に。
✣
その後、メロンパンを平らげたあと、足早にその先へと進むと、久しぶりに彼女の家の前に立った俺は、目の前に
青い屋根の西洋風の屋敷。
重厚な門構えと、高い塀に囲まれたそれは、五年前と何も変わらなかった。
門の前に備え付けられたインターフォン。それを二、三秒ほど見つめたあと、俺はトランクを手にしたまま、塀伝いに屋敷の周りを歩いていく。
遠路はるばるフランスから尋ねてきても、俺は、あのインターフォンを押して、彼女を呼び出すことはできない。
なぜなら、俺たちの関係は、誰にも言えない秘密の関係だったから。
あの頃、二人を繋いでいた唯一の道は、この屋敷の壁にあいた、50センチばかりの小さな穴だけ──
「さすがに、もう無理か」
屋敷の裏に回ると、その壁の一角に空いている穴を見つけた。赤いレンガが崩れて出来たその穴は、あの日のまま変わらない姿をしているのに、俺はもう、そこを通ることは出来なかった。
背も伸びた。声も変わった。
あの日、"子供"だった俺は、もう"男"になっていて、あの頃みたいに、こっそりこの穴を通って、彼女に逢いに行くことなど、もう出来なくなっていた。
「せっかく、会いに来たのに……」
その瞬間『やめた方がいいんじゃない?』そう言って静止した友人の言葉が過ぎった。
わかっていた。会える保証なんて、どこにもなかったことくらい。
それでも──
「っ……」
冷たい壁に手をついて、再び屋敷を見上げた。この塀の向こうに、何年と思い続けた好きな人がいる。
必ず、迎えにいくから──そう約束した彼女がいる。
会いたい。せめて一目だけでも。いや、声を聞くだけでもいい。
心の中で、何度と彼女の名前を呼び続けた。
どうか、気づいて欲しい。俺がここにいること。君に会いに来たこと。
俺が君のことを、今でもずっと好きでいるということ──
だけど、どれだけ心の中で、その名を叫んでも、都合よく彼女の声が聞こえることはなく
「やっぱり……ダメ……か」
きつく拳を握りしめて、自分の無力さを噛み締めた。
背が伸びても、声がかわっても、身体が大人に近づいても、俺はまだ彼女を迎えに行くことも、彼女の夢を叶えてあげることも出来ない。
「ごめん……っ」
ごめん、ごめん。こんなにも待たせて。
必ず、迎えに行くと約束したのに、五年たっても俺はまだ子供だった。
なんの力もない。
無力で弱い、17歳の子供──
この檻の中で、君はちゃんと笑っているだろうか?
あの夢のように、泣いていたりしないだろうか?
「ごめん……っ、ごめん」
誰にも奪われたくはなかった。
だが、時間の経過と共に、焦りだけが募っていく。
どうか、あと少しだけ、俺を信じて待っていてほしい。
「必ず、大人になったら……っ」
君を、迎えに行くから──
◇
そう、彼女の屋敷の前で、再び誓ったあの日のことは、今でも忘れない。
自分の無力さを垣間見たあの日、結局俺は彼女に会うことはおろか、声ひとつ聞くことはできなかった。
それからは、またフランスに戻って、俺達は二人、全く会うことなく、数年の月日がながれた。
「変わらないなぁ」
あれから三年がたった春の日。再び日本に訪れた俺は三周年と大きくノボリが立つパン屋の前で、メロンパンを食べていた。
三年ぶりに食べたメロンパンは、あの日と変わらない味がした。
だけど、三年前のあの日から、大きく変わったものがある。
「行くか」
メロンパンを食べ終えると、履きなれたスニーカーではなく、真新しい革靴をはいて、俺は彼女の家に向かった。
あれから、数多くのことを学んできた。
語学や経済学だけじゃない。ピアノやダンス、更には料理の仕方まで。
フランスからイギリスに渡って専門の学校に通ってからは、この先必要となる知識は全て覚えてきた。勿論、日本のしきたりや礼儀作法、海外でわからないことも、独学で調べて身につけた。
彼女と『約束』してから八年。
この屋敷の前で、何も出来ず途方に暮れてから三年。
俺は今、二十歳になって、再び彼女の住む屋敷の前に立つ。
三年前と同じく屋敷を見上げると、今まで一度も鳴らしたことのない、インターフォンを鳴らした。
暫くして、格子状になった門が自動的に開くと、俺はトランクを手に敷地の中に一歩足を踏み入れる。
広々とした庭の中を暫く進んだあと、その先に、木製の両開きの扉が見えてきた。
スッと息を飲んで、屋敷の玄関の前にたつと、そこには彼女の身の回りの世話をするメイドが二人、俺を待ち構えていた。
「お待ちしておりました」
そのメイドの声に、俺は柔らかく微笑む。
「お出迎え、ありがとうございます。本日より、この屋敷の執事として、お嬢様にお仕えすることになりました。
軽く頭を下げて、これから共に働くことになるであろうメイドたちに挨拶をする。
「旦那様から聞いております。私がいくつか説明をした後、部屋を案内致します。宜しいですか?」
「勿論」
メイドに招かれるまま、屋敷の中に入った。
そう、これが、俺が彼女に会う唯一の方法。
今日から俺は『
だけど、きっと何も変わらない。
この関係が秘密であることも、簡単に結ばれることのない恋だということも。
だけど、それでも『
君の願いを叶える、その日まで──…
さぁ、お迎えにあがりましたよ。
俺の愛しい愛しい────お嬢様。
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