孤高の座

こたろうくん

孤高の座へ

 幾度目の夏がやって来ただろう。

 この日、遂にその間固く閉ざされ続けていた門が開かれた。

 その事に驚いたのは他ならぬ、門の前に立った胴着姿の男であった。

 あの日よりこの日に至るまで、ひたすら開けてやろうとしていた門が開かれたのだから当然だ。

 それまではこの夏、この日、この時間まで。男は門の前で、開かぬそれを眺めるだけであった。

 どれだけの人間と、どれだけの猛者と、どれだけの死闘を演じてきたか。

 親のずっと前の代から変わらぬ人生。

 それは、強くなること。

 他の何より、他の誰よりも強くなること。

 男の人生も、親や先祖の人生と変わらない。

 己より強い相手と闘い。己を鍛えた親と闘い。

 そしてそのいずれをも打ち負かしてきた。

 果たして己が越えるべき壁はもう無いのかと男が絶望をした時、まるでそれを知ったかのように現れたのがあの女性だった。

 鍛えた技が己の力が、最強であると自負する己の自信が、これまでの男の全てが一瞬にして瓦解した。

 それほどまでに、その女性は強かった。

 硬く、高く、最強に相応しい壁を前に男は胸躍らせときめいた。

 しかし彼女への挑戦は、男の眼前に現れた門により閉ざされてしまった。


 ――ほんとうに誰よりも強くなったなら、その時に再び相まみえましょう。


 女性はそう言って男に微笑んで、門を閉ざしてしまった。

 それから男は闘って闘って、一族の誰よりも闘い続けて、力を付けた。

 誰よりも強くなる為に。

 今か今かと、己に進歩を感じる度に門の前に出向き続け、そして振られ続けてきた。

 それが今、酷くあっさりと開かれてしまった。

 呆然とする男の前には、一人の老齢の女性が立っていた。

 お呼びです。その老女は男に頭を垂れながらそう告げると、案内をすると言って男に背を向けて門の向こうへと歩き出した。

 男は何も言わず、半ば呆然としたまま老女の背について歩いた。

 門を潜り、庭を抜けて屋敷に上がり、池のある中庭の見える廊下を進んだ。

 その先の、障子戸の前で老女は足を止めて男へと再び頭を下げた。

 男が戸の前まで歩み寄るのに合わせて老女は道を譲り、その前に男が立つと、戸の向こうから鈴の音のような声がして老女を下がらせた。

 その声に男は息を詰まらせる。

 遂にこの時が来たのだと、気が付けば呆然としていた気持ちは何処かに消え失せ、これまでに無い胸の高鳴りが苦しいくらいになっていた。それが現実しんじつを隠すものだとも気付けないほどに。

 入るようにとその声に促され、男は戸を開け放つ。そして彼は言葉を失った。

 あの時よりも逞しくなった。その言葉はまるで蚊の鳴くような声で紡がれた。止めろと男は内に言葉を紡ぐ。

 あの時よりもずっと強そう。その言葉を血色の無い唇が紡いだ。これは夢だと男は内なる悲鳴を上げた。

 戸の向こう、部屋の中にいたのは床に伏せ、寝間着である白衣を纏う痩せ細った蒼白い肌の女であった。

 見間違うことは無い。

 どれだけ痩せて血色を欠こうと、頬がこけてその長い髪が艶を失おうとも、その女を男は決して見間違うことは無い。

 故に違うと男は思いたかった。目の前に居るのは誰でも無い別人であると願いたかった。

 だが男を見上げ見詰めるその瞳は、その声は間違いなく男が突き当たった壁のそれである。そんなはずは無い。男は血が滲むほどに唇を噛み締めた。

 そして立てと、立って闘えと、男は俯きながらようやくのこと言葉を声に出した。それは震えるほど拳を固く握り締めながら、やっとのこと絞り出したものであった。

 そしてそのか弱さも過ぎる、消え入りそうな声の主は男に拳を痛めると忠告する。しかし男は聞かず、それにまた立つのだと今度は声を荒げた。

 すると控えていた老女が狼狽しながらその姿を現し、男に止めるようにと懇願しだした。だが、それを止めたのは、老女が気遣うその本人であった。

 彼はこの時の為に修練を積んできたのだから、その願いを叶えてやる義務が己にはあると、女は酷くゆっくりとした動作で上体だけで無く膝を立てようとする。

 緩慢なだけでなく、動作一つ一つに乱れが起こる。まるで錆びた歯車で無理矢理に動くからくりのように。

 立ち尽くす男の脇を抜けて、老女が女の元へと駆け寄る。

 今にも倒れそうになりながらも、とうとう立ち上がった女であったが、震える膝は痩せて枯れ葉ほどもないであろうその体重を支えられないのかすぐに屈し、女の体が傾いた。

 老女はそれを見越して支えに向かったのである。

 男は相変わらず顔を俯かせたまま、静かに両腕を持ち上げて構えを形作る。足を開き、腰を落とし、拳を解く。かつてはまるで歯の立たなかった技を繰り出すその姿勢。

 見違えるという言葉では生温いなと、老女に支えられながらの女はやつれきった顔に笑みを浮かべて言った。

 そして女も老女に離れるように告げると、それを渋る老女の肩を手で押した。が、最早その手には老女一人押し返す力も無い。

 その両目に一杯の涙を溜ながらも、女の大丈夫という一言と笑顔に遂に老女は心折れ、口元をその節くれ立った手で被いながら女の元を離れて部屋の端へと下がって行く。

 待ち兼ねたと言って改めて男を見た女の表情には相変わらず不敵でも痛々しい笑みが浮かぶ。男は俯いたまま何も返事しなかった。否、言葉だけ無かったと言うべきか、構えこそがその返事であった。

 心も強くなったと男に感じた女の笑みに生気が幾ばくか戻ると、遂に女も閉じ合わされていた両足を肩幅程度まで広げる。女の構えはこれだけ。

 あの日と変わらない。あの日、男はその構えをした女に敗北した。

 だが今は、かつて地をしっかりと掴んでいた女のその両足は己の体重すら満足に支えられずに震え続けている。恐らくは押せば倒れるだろう。踏み込む為に重心を移動させそれを支えることなどは到底不可能。

 それを知っていて、分かっているからこそ、男は先に一歩踏み込んで行く。

 前は逆であった。挑みかかるはずの男は女の神速に先手を奪われた。今の女は、動かない。動けない。

 老女の悲鳴の中、神速の域に達した男が己の間合いに女を捉える。女の体がふらりと揺れた。緩く握り、緩急により肩で放つにも関わらず速度と威力を両立した男の拳が、牽制の当て身として飛んだ。

 例えどれ程やつれていようとも、以前鬼神の如き強さを誇っていたあの女が易々と倒されるはずはない。今でもきっとこの時の為に力を蓄えているに過ぎない。見かけに騙されはしない。

 男の心中に様々な想いが渦巻いた。それは願望とも言う。目の前の幽鬼のような女が、己が目指し超えようとしていた壁であるだなどと男は信じたくなかったのだ。

 小手調べの当て身など、躱して当然。奥の手は既に用意してある。潜り込んでくるが良い。そう男は現実に目を背けながら、女へと期待を押し付ける。

 だが、男の放った突きを女は躱さない。無防備に立ったまま、それは彼女の顔面を穿とうとした。

 風を切る音が鳴る。すぐに静寂が戻る中、男の拳は目指した女の顔面を逸れて僅かに彼女の頬を擦っただけであった。

 それでも女の頬は裂け、白すぎる肌に鮮明に浮かび上がる赤を一筋流させる。

 女は男の突きを躱したのではなかった。男が自ら突きの軌道を逸らし、外したのだ。

 そして立ち尽くしていた女の体は揺れ動き、男の胸へと寄り掛かる。それは決して踏み込むなどと言った立派なものではない。

 既に立って居られず、男に寄り掛かることでしか姿勢を維持できないのだ。

 女の握った拳が、そっと男の腹に添えられる。彼女は目一杯の力で突いたつもりだろう。震えて今にも解けそうな拳もそうだろう。かつて男を昏倒させた、零距離からの打撃も最早放てない。

 しかし女は笑っていた、あの刻と変わらない不敵なその笑み。

 一本取った。まだまだですね。そう男の胸の中で告げる女の頭上では、男はいつの間にか涙を滝のように流していた。

 現実が一挙に押し寄せ、もう堪えることが出来ないでいた。

 最強の壁は、己が破壊するまでもなく崩れ消え去った。

 膝を屈し、男の胸から床へ跪こうとする女を、男は咄嗟に抱え止めた。

 私の負け。一転して、現実を受け止める女は笑みを引っ込めてそう呟いた。

 その言葉にふざけるなと、まだ勝っていないと、しっかり立って闘うのだと男の慟哭が響いた。

 誰よりも強くなるはずだった。男が声を荒げ、哭く。

 誰よりも強くなった。女が男へと告げる。

 女を倒すはずであった両手で彼女の体を支えながら男は、自分はこれからどうすれば良いのかと堪らずに、嗚咽と共に女に尋ねる。

 最早己に越えるべき壁は無くなってしまった。

 最後の壁は、挑む前に倒れてしまった。

 果てに広がる荒野に、何も無くなった男はただ絶望をする。


 ――誰かの壁に、貴方にとっての私のように、誰かの目標になってあげれば良い。それを次の生き甲斐にすれば良い。


 気が付くと、男の前に広がる無人の荒野に、一筋の道が出来ていた。そして彼の手を引いて、三年前のあの時と変わらぬ女がその先へと歩き出した。

 しかし手を引かれてなお踏み出せない男に、女は活力の充ちた笑顔を向けて言う。


 ――私に出来ることはこれくらいしか残ってない。時間も無いから、早く行きましょう。


 新たな挑戦だと締め括った女に、男は泣き顔を拭った。

 その笑顔を前にして泣き顔などは曝せぬと、いずれは己がその地平に立つのだからと、男の泣き顔は女と同じ、不敵な笑顔へと返り咲いた。

 歩み出した道の先で、男はやがて決して倒れず砕けない壁となり、そこを歩み行こうとする者の前に立ち塞がる。

 今日、幾度目かの夏のこの日、男は生まれ変わった。

 新たな孤高として。挑む者を待つ、最強の存在として。

 その悉くを返り討ちに出来るように、男の次なる闘いは幕を開けるのであった。

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