第176話 お茶と剣と、そしてビール


「じゃあ、光希さんは旅に出られるんですか」

 花魁姿の死織は、きちんと正座して着物の襟を直した。


「ええ。このままここにいても仕方ないでしょう。佐々木といっしょに、腕試しをかねて冒険の旅に出ようと思っているのです」

 華やかな赤の着物姿の水戸光希は、柄杓を手に取る。

 彩り鮮やかな稲穂の柄の振袖。真っ赤な生地に描かれた黄金の稲穂が艶やかである。美少女はなにを着ても良く似合うと、死織は感心した。


「まあ、それもいいかも知れねえな」死織は光希が片口を手にする所作を眺めながら、腕組みし、両手を着物の袂に突っ込んだ。「この町を出る、いまが潮時かもしれねえや」


 光希は炉にかかる釜から柄杓で湯をすくうと、慣れた手つきでそれを茶碗に注ぐ。

 ラーメンどんぶりを小さくしたような形の黒い茶碗。

 茶筅を手にした光希は、静から動へと茶筅をふって、お茶を点て、その黒い器を死織の前に出す。湯気と香りがただよった。


 ここは水戸家下屋敷の庭にある茶室。小さな東屋である。畳には炉が切られ、奥の床の間には、「諸国漫遊」と書かれた軸がかかっていた。開いた障子窓から入る風に、軸の風帯ふうたいがかすかに揺れていた。


 死織は茶碗に両手を伸ばし、「うっ」と呻いた。


 黒い茶碗。そのなかに、鮮やかに緑色の抹茶がふんわりと泡立っている。だが、そのお茶を彩る景色は……!


 茶碗の表面に無数の斑紋が、星のように輝いている。その景色はまるで満天の星空。


 鮮やかな暗紫色。夜の闇かと疑う黒地に、絢爛たる綺羅あたかも銀河のごとき星々の輝き。

 器の釉薬のうえに浮いた斑紋が、月夜の虹のように煌めき、微細なプリズムの集積回路のように光彩を千変万化させている。

 散りばめられた光子が星月夜のように煌めき、明るく夜空を照らしていた。


「きれいでしょ」

 光希の言葉に、死織が目を上げると、半分嬉しそうに、残り半分は悲しそうに、水戸光希が微笑んでいた。

「曜変天目茶碗です。三つの国宝の内、徳川家から水戸家へ伝えられたひと碗です」

「これが……」

 お茶が冷めるのもかまわず、器を眺める死織。そこには、一服の茶がそそがれた、広大な宇宙があった。

 はっと気づき、あわてて口をつける死織。だが、それでも、器の美しさから目は離せない。いや、目を離さずとも、お茶は飲めるのだと気づいただけのことだ。それほどまでに、その器は美しかった。

 器を傾け、その宇宙に鼻さきをつっこみ、その夜空を独り占めする。


「え!?」

 ひと口つけた死織は、今度は本当に驚いて光希のことを見る。

「これ、抹茶ラテ!?」


「はい」

 光希は花のようににっこり笑って首を傾げた。

「ヒチコックさんに言われて、試しにやってみました」


 そして、傍らの片口を取り上げる。

「ミルクを手に入れるのに、苦労しましたが」






「え、真冬さん、道場ひらいたの?」

 注がれた酒杯をほしながら、死織は目を瞠った。


「そうなんですよ」

 死織の返杯を受けながら、真冬はすこし困ったように眉根を寄せる。

「周囲からのリクエストが多くて……」


 ここは初めて死織が真冬と会った寿司屋の、あのときと同じ座敷である。


「でも、真冬さん、公儀介錯人の御用もあるんじゃないの?」

「あ、いまはさらに将軍家指南役も勤めてるんです。といっても、上様はそんなにお城にいないし、介錯も、切腹する人なんて滅多にいないから、暇なんですけどね」


「ああ、そう」

 死織は寿司皿の上から、鯖の握りを取り、ひと口かじくる。

「でも、真冬さん、これからは外に出てダーク・レギオンと戦うんだって、言ってなかったっけ?」


「そうなんですけど、剣術を教えてくれって言うプレイヤーの人がたくさんいて、それがちょっと断り切れないほどの大人数なんです。まあ、プレイヤーの人たちに剣術を教えることもダーク・レギオンと戦うことになるのかな?って思って、しばらくは希望者に剣術を教えることを続けようかと思ってるんです」


「まあね。それもいいかもね」


「それに……」

 真冬はちいさく嘆息して、鮪の握りに手をつける。

「剣術がどんなに強くても、モンスターを倒すのはまた別の問題だな、とも思うんです。あの妖怪たちのバトルで、ヒチコックちゃんの戦い方を見ていて、痛感しました」


「いや、あいつの戦い方はさ」

 死織は口の中の寿司をごくりと飲み込んで続ける。

「特殊だからさ。だいたいヒチコックってやつは、ぜったい他のプレイヤーが真似しちゃいけないことばっかりやってるからさ。あれを参考にしちゃダメだよ」



 そのあと予定のある二人は、食事もそこそこに店を出ようとして、店のおかみさんに呼び止められた。


「ちょっと、真冬様! お支払い、お支払い!」

「あ、いけない」

 真冬は頭をかいて立ち止まる。

「お願いしますよ、真冬様。もう壬生の浪士じゃないんですから。名実ともに、天下のお旗本なんですよ。ただ食いはやめておくんなさいまし!」






「でも、良かったですよ。死織さんが元気にやってて」

 イガラシは、専用グラスに注がれたベルギービールに口をつける。

 この薄暗さは、お江戸の麦酒屋『井東屋』独特のもの。明かりは壁にかかったオイル・ランプだけ。


「そうかぁ?」

 そうでもねえだろ、と心の中でつぶやいて、死織もビールに口をつける。


 濃厚な香りと、とろりとした苦さ。微かな甘みも感じる。芳醇な味わいと厚みのある飲みごたえ。ビールを「液体のパン」と称する向きもあるが、まさにこれなどはその呼び名に相応しい。


 それにしても、さすがはベルギーの誇るトラピスト・ビール。一千年ちかい歴史を誇るトラピスト修道院が作っているだけのことはある。


「オルヴァルってうまいね。めちゃくちゃ濃い。まるでフルボディーのワインだ。黒いワイン」

 死織はもう一度グラスを眺める。


「いい味ですね」イガラシも同意する。「なんかカエデさんが、一度飲んどけってうるさかっただけのことがありますね。うわー、これ、こんど二郎系のラーメン食べながら、飲んでみたいわ」

「いやこれ、修道院でつくってるビールだからさ。なんか二郎系ラーメンとは、対極に位置してねえか?」

「そういう組み合わせが、いいんじゃないですか」イガラシはきらきらした瞳をあげる。「死織さんとヒチコックちゃんみたいに」


 死織は肩をすくめた。

「俺もあいつも、どっちも修道院って感じじゃないぜ。ラーメンって感じでもないけど」


「ほんとに行くんですか? 『死者の迷宮』」


「ああ、まあ仕方ないだろ」

「だけど!」

 イガラシが思わず強い調子で声を上げる。


 自身の大きな声に驚いて、彼女はうつむいた。

「だけど、帰って来られないかも知れないんですよね」


「噂じゃあ、出る方法は誰も知らないって話だな」

「……だったら」


「だが、帰ってきた人はいるはずだろ」

 死織はおどけた調子で両腕を広げて見せる。

「それが存在していることが知られているということは、帰ってきた人間が少なくとも一人はいるってことだ。ちがうか?」


 イガラシはうなだれる。

「そんなに大事ですか? あの子のこと」


「そんなんじゃねえよ」

 答えるのに、ちょっと間が空いてしまった。

「ただ、次に挑戦する面白そうなステージが見つかったって、だけのことさ」


 なんか、気まずい沈黙が流れた。


「あ、そうだ、イガラシ」ふと思い出して死織は袂から紙包みを二つ取り出す。ひとつの包みに五十両入っている。

「百両ある。あの両親を妖怪に殺された小虹って子に渡しとしてくれるか?」

「はい」

 うなずきつつも、問うような視線のイガラシ。


「ヒチコックならそうするだろうと思ってな。なぁに、立て替えるだけさ。あいつに会ったら、絶対返してもらうから」

「……はい」

 イガラシは口をつぐんで、紙包みを懐にしまった。

 それを確認した死織は、オルヴァルのグラスを一息にあけると、席を立つ。


「じゃ、ちょっくら行ってくるわ」


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