第116話 お江戸の朝御飯


 なぜか死織は食べずに、ヒチコックと真冬の様子を窺っていたが、ヒチコックはもちろんそんなこと気にしない。容赦なく、そして遠慮なく、朝御飯にかぶりついた。


 パクリとシャケを口に放り込んで、「あれ?」と目を見開いた。

 目の前で死織がにやにやしている。

「おいしひ……。なんすか、この魚」

「シャケという魚だ」

 うれしそうに死織が目尻に皺をよせた。


「いや、ほれは、いつも食べへるシャケと、全然ちがいまふよ!」

 食べながら主張する。


 焼きシャケというと、すこし身が硬いイメージだが、このシャケはふわふわしていて、身もほろほろと崩れる。しかも水っぽくなく、まるで焼きたてのパンケーキのように柔らかい。味は魚の味なのだけど、しょっぱくなくて、甘みが凄い。

「うまいっす! こんな美味しい魚、たべたことないっす!」

 口からおもわず、シャケの破片が飛び散った。


「飛ばすなよ」

 文句をいってから、死織はうれしそうに解説する。

「炭で焼いてるからだよ」

「そうなんすか?」


 隣で真冬もにっこり微笑んでいる。

「ガスで焼くと魚って、べちゃってなりますよね。炭火で焼いた場合、魚ってもう全然おいしさが違いますよね。ヒチコックちゃんは、炭で焼いたお魚ははじめて?」

「初めてっすよ、こんなおいしいの」

 感心しながら、こんどは味噌汁をひと口。

「!!」

 またも目を剥く。

「なんすか、これ。めちゃくちゃうまいっす」

「あ、ほんとだ」

 真冬も驚いている。


 にやりとして死織は、自分の味噌汁を啜り、うんとうなずく。

「まあまあだな」


「いやー、めちゃくちゃ美味しいです。こんな味噌汁初めて飲んだっす!」

 ヒチコックが興奮して大声だすと、となりで真冬もうなずいている。


「へへ、むかし少しだけ和食の仕事やってて、そこで知り合った味噌汁マスターに教えてもらったんだ」

「これも炭ですか?」

「いや、これは薪だけど」死織は苦笑しながら、解説する。「うまい味噌汁は火加減。それにつきる。ほとんどの人が勘違いするのは、味噌汁を煮込み料理と混同するとこだ。味噌汁はあまり火を通さず、さっと作る。あと、出汁だしな」


 死織はご飯を口に運びながら、簡単に説明する。


「まず、出汁って、飲んで味がしたら濃すぎだ。あれはベースの味だから、おもてに出てきちゃあ駄目なんだ。で、出汁はそもそも逆転の発想で取るのがいい」


 死織は味噌汁をひと口のんで続ける。


「出汁ってみんな、この素材なら、この分量で、この温度で、この時間煮る、みたいなことをするもんだと思ってるんだろうが、そんな複雑なことする必要がない。鰹なら鰹、昆布なら昆布。それをおいしく煮ることだけ考えればいいんだよ。そう考えると、鰹節なんて、ぐらぐら沸騰したお湯で何十分も煮たら、おいしくないの分かるじゃん。昆布だって、おいしく煮ようとしたら、ぐつぐつといつまでも煮立てない。いきなり熱湯に突っ込んだりしたら、おいしくなくなるのは目に見えてるだろ。みんな出汁をとるとき、お湯の方に目を向けがちだが、実際には鰹や昆布や飛魚あごの方に注目するんだ。つまり、鰹や昆布がおいしく煮えたとき、のこっている液体に味はなくとも、『いい出汁』が取れているもんなんだ」


「おー、なんか分からんけど、すごいっす」

 ヒチコックはひとしきり感心すると、ごはんに集中した。

 隣では、ふむふむとうなずきつつ、真冬が朝御飯を堪能している。


「ま、これは、家庭で簡単に出汁をとるときのコツであって、料亭ではちがうやり方、してるんだろうけどな」

 死織は満足そうに、茶碗を取り上げる。


 さらにヒチコックはご飯もかっこむ。

「なんでこのご飯、茶色く焦げているとこがあるんすか?」

「釜で炊いてるからだよ」

「この焦げたとこ、おいしくないですか?」

「おいしいよね」

 真冬も同意して、目がなくなるくらいにっこり微笑む。


「真冬さんはいつも、こんなの食べてるんですか」

「いえ……」真冬の顔から笑顔がさっと消えて真顔になる。「あたし、料理はしない派ですから」

「それ、あたしも一緒っす」

「やっぱ、旦那さんは、お料理出来る人がいいよねー」

「ですよねー」

 女子二人で盛り上がってしまう。


「どうでもいいが、料理しない派のお二人。食べ終わったら、洗い物くらいは手伝えよ」

 死織に呆れたような声で注意された。



 朝食のかたづけが終わると、ヒチコックは神田上水まで河童の捜索に出た。今朝は死織と真冬も付き合ってくれる。


 もっとも、死織は川沿いにある水茶屋のわらび餅がおいしいという話を真冬に聞かされて、すっかりそっちに気持ちがいっている様子。


 真冬も妻恋坂を歩くとき、すっかり頬が緩んでいる。あれは絶対、わらび餅の味を想像しているにちがいなかった。


 まず真冬が最初に案内してくれたところは、江戸だというのに、なんか地方の観光名所みたいな場所だった。切り立った崖の間を流れる川。そこには何艘かの船も浮いていて、都会だというのにちょっとした景勝地だ。

 その向こうに、人が渡るのとは違う、木でできた四角い橋がかかっていた。


「あれが有名な、神田上水の掛樋ですよ」真冬が指さす。「神田川にかけられた水道の橋で、あれで飲料水を神田や日本橋あたりまで運んでいるんです」


「へー」とか「ホー」とか言いながら、死織とヒチコックは川沿いを歩く。

 崖が低くなり、岸辺に何軒もの商家が現れたあたりで、真冬がそのうちの一軒を指さす。


「あそこのわらび餅が絶品なんですよ」

 嬉しそうに目を細める。


 なるほど、茶店の店頭にはいくつもの床几が並べられ、すでに客でひしめいている。たいそうな賑わいだ。可愛い着物の女子にまじって、駕籠かきや馬子といった屈強な半裸の男たちも、小皿にも盛られた和菓子と煎茶を前に笑顔をみせている。


「よーし、じゃあ、俺らも休憩するか」

 と、死織は真冬とともに、ハイテンションで茶店に突撃していったが、ヒチコックは一人川岸に立ち、流れる水を見つめる。


 澄んだ水は、底まではっきり見透かせる透明度。泳ぐ魚の影も見える。とてもこんな場所に河童がいるとは思えない。やはり河童が現れるのは夜なのだろうか? だが、江戸の町は、夜になると人通りが絶える。通りのあちこちで木戸が閉まって、移動することもできないと真冬に聞いた。


 しかも、この場所。

 川沿いに道は走っているが、立っている店は茶屋だったり土産物屋だったりだ。夜は閉まってしまい、人通りは絶えるはず。河童が出ても、襲う相手がいない。


「ふうむ」

 ヒチコックは顎に手を当てて推理する。

「とすると、やっぱ河童は昼間にでるのかなぁ?」


 眉間に皺を寄せていると、


「きゃあぁぁぁぁぁ!」

 女性の悲鳴が響いた。


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