第1話【さあ、始めよう】

 深淵を揺蕩たゆたっていた意識が、誰かの手によって掬い上げられる。

 重い瞼を開けば、目の前に広がっていたのは雲一つない青い空だ。燦々と陽光が大地に降り注ぎ、遠くでなにかが崩れる音と同胞たちの怒号と絶叫が起き抜けの脳味噌を刺激する。


「…………?」


 地面に寝転がっていたショウは、ゆっくりと上体を起こした。

 白い塔で【素戔嗚スサノオ】と戦って、それから上官であるグローリアとスカイが生きていたと確認できたところで意識が途切れた。それからの記憶がなく、何故白い塔の外へ移動させられているのか分からない。

 状況を飲み込めないショウが見たものは、


「……そんな」


 崩壊していく白い塔だった。

 陽光を浴びて白く輝く壁にはヒビが入り、ガラガラと崩れていく。壁の破片を頭に受けないように同胞たちは撤退をし始めていて、ショウもまた白い塔から離れた場所で安置されていた。

 崩れていく白い塔を呆然と眺めるショウは、ゆっくりと立ち上がる。

 まさか、記憶がないうちに天魔との戦争は終わってしまったのだろうか。だとしたら、相棒のユフィーリアは帰ってきたのか?


「ユフィーリア……? ユフィーリア、いないのか?」


 周囲をぐるりと見渡してみるが、知っている顔はいくつか確認できたものの、ショウの求める存在はいなかった。

 嫌な予感がする。ユフィーリアやハーゲンのように第六感が優れている訳ではないが、何故かとてつもなく嫌な予感がした。

 弾かれたように白い塔を見上げたショウは、崩れかけて危険度が増しているにもかかわらず、塔へ駆け寄ろうとする。どうにかして彼女の元へ行かなければ、一人にしてしまう。


「どこに行くの、ショウ君」

「……イーストエンド司令官」


 ショウの腕を取って塔へ駆け出そうとする彼を阻止したのは、最高総司令官であるグローリア・イーストエンドだ。


「塔に近づくのは危ないよ。あんな感じで崩れているんだ、中にはもう入れないよ」

「行かせてくれ」


 ショウは懇願する。

 危険だということは百も承知だ。下手をすれば空中に投げ出されてしまうかもしれない、ということも。

 それでも、ショウは白い塔へ戻ることを望んだ。あの塔の最上層に、大切な人を残してしまったのだ、彼女の元へ戻らなければならない。

 グローリアの腕を振り払って、ショウは上官の肩を掴む。彼であれば、白い塔の上層部と空間を繋げられるかもしれない。そうすれば、相棒の元まで辿り着ける。


「頼む、イーストエンド司令官。行かせてくれ。塔の内部にユフィーリアが残っているんだ!!」

「……本当に危険だよ」


 グローリアの紫色の双眸は、真剣な光を宿していた。

 彼も崩壊寸前である塔が危険なことを理解している、本来なら部下であるショウを塔の内部へ再び送り込みたくない。

 しかし、グローリアは「分かった」と迷いも見せずに、ショウの懇願を聞き入れた。懐中時計が埋め込まれた死神の鎌を構え、


「座標の計算は終わってる。あとは君を、あの酸の海がある階層まで送るだけだ」

「イーストエンド司令官……感謝する」


 ショウがお礼を伝えると、グローリアは「ただし」と伝える。


「絶対に、ユフィーリアと一緒に生きて帰ってくること。これは命令だよ」

「…………」


 グローリアは命令であることを強調した。

 だからこそ、ショウは自分の意思でその命令を了承する。


「ああ、必ず」


 グローリアはいつものように朗らかな笑みを見せると、術式を発動させる。


「適用『空間歪曲ムーブメント』」


 とぷん、とショウの足が地面に埋まっていく。

 ずぶずぶと体が地面に埋まっていくが、不思議と怖さはない。グローリア・イーストエンドという青年は、やる時はやると知っているのだ。


「いってらっしゃい、ショウ君」

「ああ、いってくる」


 その身を地面に潜らせ、上官に見送られながらショウは再び白い塔の内部へ戻っていく。


 ☆


 暗黒の空の下、天魔の女王と最強の天魔憑きによる睨み合いが続いていた。


「まずは賛辞を送りましょう。人類代表、あなたの名前を教えてくださる?」

「ユフィーリア・エイクトベルだ、冥土の土産に覚えておくんだな」


 余裕綽々とした態度の女王へ、ユフィーリアは自らの名前を明かす。

 口調だけは飄々としたものだが、視線は彼女の一挙手一投足を見逃さない。相手がどのように出てきても対応できるように、緊張の糸を巡らせている。

 天魔の女王はコロコロと笑うと、


「わたくしは【黒輝夜姫クロカグヤヒメ】と申します。どうぞ、お見知り置きくださいませ」

「そうかい。まあ、美人だから名前だけは覚えておいてやるよ」


 倒したらすぐに忘れるがな、という言葉は飲み込んだ。

 目の前の女王――【黒輝夜姫】から与えられる威圧感は吐き気がするほどのものであり、常人であれば動くことはおろか会話さえ成り立たないだろう。ユフィーリアも強がってはいるものの、すでに精神的にも限界に到達しようとしていた。

 腰から佩いた大太刀に手を添えて、ユフィーリアは【黒輝夜姫】を真っ直ぐに見据える。

 視界にあれば距離・空間・硬度さえも無視して、斬撃を届ける異能力――切断術。それさえあれば【黒輝夜姫】の首を一太刀で落とせる。


「あら」


【黒輝夜姫】は優雅に微笑みながら、白魚の如きほっそりとした指先を伸ばす。


「乱暴はよしてくださいな」


 天魔の女王たる彼女の指先から、黒い光線が放たれる。

 半円形の透明な天井を通過して、女王の指先から放たれた黒い光線がユフィーリアに迫る。


「ッ!!」


 ユフィーリアは、その場から飛び退って光線を回避する。

 回避された光線は白い塔の床に突き刺さると、急速に床を劣化させる。光線を浴びてしまった床の一部分は、触れれば崩れてしまいそうなぐらいにボロボロの状態へ変貌を遂げた。

 青い瞳をこぼれ落ちんばかりに見開き、ユフィーリアは「は!?」と驚愕する。


「こわ、え? 劣化?」

「建物は腐るという概念はありませんもの、劣化という表現が正しいですわね」


【黒輝夜姫】はひらひらと指を揺らしながら、


「わたくしの術式は『腐敗術』――あらゆるものを腐らせ、劣化させますわ」


 その指先に黒い光を灯しながら【黒輝夜姫】は言う。


「さあ、踊りになって? 愉快に足踏みをしながら、死んでいってくださいませ」

「はッ――誰が愉快に踊りながら死んでやるかってんだ。それはこっちの台詞だ」


 ユフィーリアは大太刀の鯉口を切り、視線の先に【黒輝夜姫】の腰から下から生えた花弁を置く。

 まるで黒い百合の花だ。なるほど、確かに名前の通りである。


(首を落としてトドメを刺してもいいが、首を落とした瞬間になにか起こっても困る。下半身を切り離しただけでも、出血多量による死亡が見込めるか――?)


 考えるより先に、ユフィーリアは抜刀した。

 対象は【黒輝夜姫】の下半身。黒い百合の花ような、腰から下の部分を狙う。

 距離を飛び越えた斬撃は、確かに【黒輝夜姫】の腰を切り飛ばす。赤ではなく、真っ黒な液体を噴き出しながら、黒い百合の花と化した女王の下半身が宇宙空間へ落ちていく。

 ボタボタと落ちる真っ黒な血液。不気味な色をした血を流す下半身を一瞥した【黒輝夜姫】は、不思議そうに首を傾げた。


「あらぁ」


 なにも気にした様子はない、そんな調子の声だった。

 ユフィーリアは不敵に笑うと、


「なんだよ、最後の敵だって言うから警戒してたってのに。案外あっさりと終わるんだな」

「…………あらあら、そう思うのでしたらとんだ慢心ですわね」


 下半身を切り飛ばされたと言うのに、【黒輝夜姫】は笑顔を消すことはなかった。


「黒い光線だけがわたくしの術式だと思いまして?」

「――――あ?」


 ユフィーリアがその言葉の意味を飲み込んだ瞬間、ボタボタと滴り落ちていた【黒輝夜姫】の真っ黒な血液がピタリと空中で止まる。

 黒い血液はひとりでに集まり、そして蛇のような怪物の様相を取る。鎌首をもたげる黒い蛇は口を大きく開くと、ユフィーリアめがけて飛びかかってきた。


「うおッ!?」


 慌てて回避するが、黒い蛇がユフィーリアの外套の裾に食らいつく。

 じゅう、という嫌な音。ボロボロと黒い外套の裾が崩れていき、布の破片が足元に落ちる。


「わたくしの血液すら、腐敗術の一部ですわ。傷つければ傷つけるほど、あなたの敗北は近づきますわよ」


 くすくすと楽しそうに笑う【黒輝夜姫】を睨みつけて、ユフィーリアは舌打ちをする。

 この女王、まさか相討ちでも狙っているつもりだろうか。


「上等じゃねえか、やってやらァ!!」


 自分を鼓舞するように叫んだユフィーリアは、最後の敵に挑む。

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