第15話【深淵救出劇の果てに】
ほぎゃあ、ほぎゃあ、と深淵に赤子の泣き声が響く。
疲れ切った様子の黒髪の女は、ひと抱えほどもある白い包みの中で泣く赤子をあやしながら、さながら洞窟のように底が見えない黒い瞳でユフィーリアを見つめていた。その瞳で見据えられただけで、どうしようもない不安に駆られる。
ユフィーリアは大太刀の
「おう、どうした【
忍び寄る不安を払拭するように、ユフィーリアは黒髪の女に挑発の言葉をぶつける。
対する女は、泣き叫ぶ赤子を抱きしめる腕に力を込めると、
「ほしい」
カサカサに乾いた唇を動かして、疲れ切った声で言葉を紡ぐ。
「ほしいほしいほしいのあなたがほしいのその銀髪がほしいのその青い瞳がほしいのその美しい顔がほしいの私が持っていないなにもかもを持っているあなたがほしくてほしくて堪らないの!!」
女が叫んだものは、欲望だった。
赤子を抱きしめて、しかしその視線は対峙するユフィーリアに注がれている。背筋に寒気すら走る狂気をぶつけられても、ユフィーリアは一歩も退くことはなかった。
涙が枯れるほど泣き叫ぶ赤子を胸に抱き、女は痩せ細った腕をユフィーリアに伸ばしてくる。爪は割れ、皮の下で脈動する黒い血管が浮いた細腕を、懸命に伸ばしてきた。
「だからちょうだいちょうだいちょうだいよ、あなたのことがほしくてほしくて堪らないの!!」
「させるか」
グイッと、急に背後から肩を引っ張られる。
ユフィーリアが「は?」と間抜けな声を上げたのも束の間のこと、女とユフィーリアの間に飛び込んできたのは書生姿の男だった。艶やかな黒髪を翻して、その手には赤く輝く銃剣を握りしめている。
肉厚な刃を女の鼻先に突きつけ、男は刃の根本に融合した
「
闇の中に火の粉が舞う。
パラパラと、さながらそれは紺碧の空を彩る星屑の如く。
しかし次の瞬間、闇の中に飛び散った火の粉が次々と膨らんでいき、爆発の連鎖を引き起こす。
「ぎゃああ!!」
ボボボボボボボッッッッッ!!!! と立て続けに轟く爆発音。爆風と衝撃波をモロに喰らった女は、当然無事では済まない。
顔面の皮がずる剥けになり、歯列や鼻の穴が見えてしまっていた。皮が剥けてしまったせいで、神経や筋肉などが露わになってしまっている。
女は膝から崩れ落ちると、忌々しげに男を睨みつけた。赤子を抱えていない方の手のひらで自分の顔を覆うと、
「おのれ……おのれ、裏切り者のくせに……!!」
「なんとでも言うがいい、君はここで私と共に果てるのだから」
「残念ながら、そいつは許可できねえ」
男が「え?」と振り返ると同時に、ユフィーリアは座り込む女の腕を切断する。赤子を抱えている方の腕を切断したので、白い包みがこぼれ落ちてしまった。
甲高い悲鳴を上げて、取り落とした赤子を慌てて拾い上げる女。そんな彼女を見下ろして、ユフィーリアは男の詰襟シャツの襟首を引っ掴んだ。
「な、なにを!!」
「はい、これ持って」
「脈絡がなにも見えないのだが!?」
放置してあったカンテラを拾い上げて男に持たせると、ユフィーリアは彼を俵担ぎにしてその場から逃亡を図る。カンテラが周囲を照らしてくれているおかげで、なにかに躓いて転ぶという無様な真似はしないで済みそうだった。
女は恐ろしい形相で「待て!!」と叫ぶが、誰が待つと思うのか。
「君、私のことはいいから――――!!」
「うるせえ黙ってろ、舌噛むぞ!!」
じたばたと暴れて騒ぐ男の主張をピシャリと一蹴し、ユフィーリアは迫りくる瘴気の波から脱兎の如く逃げ出した。
☆
走って走って走った果てに、ようやく目の前に光が溢れたその時は死ぬほど安堵した。
「だぁぁぁあああらっしゃい!!」
「君、女性だろうに。そんな口調は、少々品性を疑うのだが」
「るせえ!! もやしみたいにヒョロヒョロでガリガリのくせに!! 悔しかったら腕力で俺に勝ってみやがれ!!」
吹き荒ぶ黒い竜巻から飛び出したユフィーリアは、おおおお、おおおおお、おお、おおおおおと背後からじりじりと距離を詰めてくる竜巻から離れるべくさらに走る。
肩に担がれている男は「それは無理な話だ。天地がひっくり返っても不可能な訳だが」と冷静に自分自身を分析できる辺り、余裕があると見える。カンテラを落とさないように両手で抱えた状態は、まるで幼子のようだ。
迫りくる竜巻に舌打ちをしたユフィーリアだが、次の瞬間、竜巻が唐突にピタリと動きを止めた。
「――【伊奘冉】が動きを止めただと?」
肩の上で男が怪訝な顔を見せるが、ユフィーリアには誰の仕業か見当がついていた。まさかこんな芸当までやってのけるとは、全く恐れ入る。
崩れ落ちた瓦礫の山を通り過ぎ、半壊した建物の群れを横目に、男を担いだ状態のユフィーリアは
「――グローリア!!」
「ああ、ユフィーリア!! ごめん今僕ちょっと忙しい!!」
「見りゃ分かる!!」
ようやく水牢御殿の前に戻ってきたユフィーリアが目にしたのは、黒い竜巻に向かって懐中時計の埋め込まれた死神の鎌を突きつけている上官――グローリア・イーストエンドだった。
彼の額に脂汗が浮かんでいるところを見ると、黒い竜巻の時間を止めることによほど集中しているようだった。いつもは朗らかな笑顔を浮かべている彼が、いつになく真剣な眼差しで黒い竜巻を睨みつけている。
その横では地面に胡座を掻いたスカイが、鴉や鼠を大量に捕まえて情報収集をしている様子だった。なにやらぶつぶつと「そっちに行ったらまずいッスか」とか「あっちも崩れてやばそーッスね」と呟いている。
さらに上官コンビの近くでは、八雲神が札を何枚も虚空に浮かばせて、こちらもぶつぶつと懸命になにかを唱えていた。黒い竜巻の調伏作業でもしているのだろうか。
「グローリアはダメだとして……八雲の爺さんかスカイ、こいつの回復作業できるか? 腹に傷をこさえてやがんだ」
「八雲神さんは外側から【伊奘冉】って天魔の瘴気が拡散しねーよーに調伏してんのと、グローリアの術式の強化を同時進行中ッス。ボクが代わりにやるんでそこ座らせておいてくだせーッス」
「助かる、スカイ。無理をさせて悪いが頼んだ」
担いでいた男をスカイの側に下ろしてやると、ユフィーリアは首筋を撫でた殺気に素早く反応した。
地面を転がってその場から離れると、今までユフィーリアがいた場所に水で作られた弾丸がビスッ!! と音を立てて地面を抉る。水も勢いよく放たれれば攻撃に転用できるという事実が嫌でも分かる。
「この……よくも【伊奘冉】様を暴走させたわねぇ!!」
豪奢に飾りつけた黒髪をボサボサにして、マスケット銃を担いだ花魁――イノリ・サイオンジが犬歯を剥き出しにして叫びながらやってきた。歯の高い下駄を難なく履きこなし、戦いにくそうな着物を身につけた状態でも戦場に立とうとするその心意気は称賛に値する。
ユフィーリアはやや乱れた状態で現れた花魁へ嘲笑を送ると、
「どうしたどうした、そんなに着崩しちゃって。ここは濡れ場じゃねえぞ」
「喧しいわよ、このアバズレがぁ!! アンタが大人しく【伊奘冉】様の贄になっていれば、こんなことにはならなかったわぁ!!」
「どうだかなァ、もしかしたらなにかの奇跡が起きて【伊奘冉】って奴を打ち負かしちまうかもなァ」
実際、天魔の肉の器になる為に生かされていたにもかかわらず、契約した途端に天魔の精神が深層意識の中に引きこもってしまった天魔憑きの存在を知っている。ユフィーリアが【伊奘冉】と契約した時には、そんな事象があってもおかしくはない。
イノリはユフィーリアの余裕綽々とした態度が気に食わないのか、金切り声を上げて地団駄を踏む。
「そんな軽口が二度と叩けないように、これからたっぷりと痛めつけてやるわよぉ!! なぁにが最強よ、こちとら
「待たれよ、サイオンジの。注視しなければならぬことが、他にもあろうて」
怒りを露わにするイノリを、どこからか聞こえてくる老人の声が窘める。
ユフィーリアが柳眉を寄せると同時に、イノリのすぐ側の土がモコモコと隆起する。小さな山ぐらいに盛り上がると、今度はボロボロと表面が崩れ落ちた。
土の中から出てきたのは、背筋が曲がった老人だった。枯れ草色の着物に真っ黒な羽織、そして平たいカンカン帽という品のよさそうな老爺である。ただし、枯れ枝のように細い手が杖の代わりに握っているのが、狙撃銃でなければの話だが。
東のアズマ家は口元、西のサイオンジ家は目元、南のナンブ家は顔全体を黒い布で覆い隠しているが、この老爺だけはどこも顔を隠していない。しわくちゃな顔に人のよさそうな笑顔を浮かべている。
「ミソギ……君はどさくさに紛れて逃げていたか……」
「黙らんかい、死に損ないが。【伊奘冉】様に楯突いた挙句、いまだ五体満足で生き残っていられるとは」
スカイの使い魔である一角獣に治療されている男の皮肉に対して、老人は吐き捨てるように言う。ミソギという名前から推測すると、最後の一つであるキタオオジ家の当主か。
「それよりも、アズマとナンブの当主二人はどこへ消えた? まさか逃げた訳じゃあるまいて」
「そんな訳なかろう。あの二人はアルベルド・ソニックバーンズ殿と共にアズマ家の屋敷に戻ったわい」
詠唱が一区切りついたのか、八雲神が札に力を込めながら言う。
怪訝な表情を見せるイノリが「なにしによ?」と問いかけると、
「お主らがアズマ家を飼い殺しにしたい理由――即ち、
「なッ――そんな、それは危険だ!! あの子になんてことを!!」
八雲神の言葉に血相を変えたのは、治療中の男の方だった。若干暴れたことによって傷口が開いたのか、呻き声を上げて大人しくなった。
イノリと老爺の二人組もまた、揃って苦虫を噛み潰したような表情を見せる。
「面倒ね、さっさとこの場で全員まとめて殺してしまいましょうよぉ。そこの女は【伊奘冉】様に捧げる為に半殺しにすればいいわよねぇ?」
「煉獄なぞ探したところで手遅れよ。我らが【伊奘冉】様に巫女を献上せねばなるまいて」
勝ったも同然とでもいうかのような口振りに、ユフィーリアは「ははッ」と笑い飛ばしてやる。
彼ら二人は舐めているのだ、ユフィーリア・エイクトベルという天魔憑きの実力を。幾度となく死線を潜り抜けて、常に最前線で戦ってきた最強の天魔憑きを舐めないでほしい。
「だったら地べたに這いつくばらせてみろ、四神家様よォ。こちとら高みの見物を決め込んでるお貴族様とは違って、血生臭い戦場で常日頃から暴れ回ってんだ。ちったァその実力を試させてもらおうかァ!?」
自分の隣に立つ為、という名目で日々成長を遂げるショウとは違って、こちらは戦闘経験などあまり積んでいない甘ったれどもだ。その舐めた口を矯正してやるのも一興だろう。
引き裂くように笑ったユフィーリアは、嬉々として二人の天魔憑きに飛びかかるのだった。
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