第2話【戦争から解放された平和な世界】
グローリアに促されるまま大衆食堂に戻り、そして二階にあるグローリアの執務室に通されたスカイ。ユフィーリアとショウは最後までスカイの体調を心配していたが、
いつもは戦術書や作戦を書き込んだ地図などが積み上がった影響で、足の踏み場もないぐらい汚いのに、今はすっかり片付いている。壁際に並んだ本棚には推理小説や大衆小説が並んでいて、戦術書は端の方へと追いやられていた。
グローリアは応接用のソファを指で示して、
「座って待ってて。すぐに淹れるね」
「……うん」
スカイは素直に指示を受け入れて、応接用のソファに座る。記憶にあるこのソファは本が山積みにされていたのだが、きちんと座れるぐらいに片付けられている。
このソファって柔らかかったんスね、なんて頭の片隅で思っていると、広々とした室内に花の香りが漂い始めた。
執務机の側にある戸棚から、陶器製のポットと人数分のカップを取り出したグローリアは、ポットへ茶葉を投入する。それから少しの時間を置くと、ポットを傾けてカップへ紅茶を注いだ。飴色の液体が綺麗なアーチを描いてカップに収まり、甘い花の香りがスカイの鼻孔をくすぐった。
「はい、どうぞ」
「……ども、ス」
グローリアから淹れたての紅茶が入ったカップを受け取るスカイだが、湯気が立つ紅茶に口がつけられずにいた。
この世界は、スカイの知らないことだらけだ。
グローリアが紅茶を好むことは知っているし、淹れるのが得意なことも記憶にある。だが、こうして進んで他人に振る舞う姿は見たことがない。カップの中で揺れる飴色の液体を見下ろせば、スカイの沈んだ表情が映り込んでいた。
「毒は入ってないよ?」
グローリアはスカイの対面に設置されたソファに腰かけると、スカイの持つカップと同じものに口をつける。悠々とカップを傾ける姿は、一枚の絵画にでもなりそうなほど似合っている。
温かさを伝えてくる陶器製のカップを両手で包んだスカイは、恐る恐ると言ったような風にグローリアへ問いかけていた。
「……天魔は……戦争は、終わったんスか」
「そうだね。天魔は去ったよ。ある日突然、この世界からね」
グローリアはあっさりと肯定した。
「理不尽に殺されていくことを嫌だと感じたのか、それとも僕たちに立ち向かったところで勝ち目なんてないと思ったのか。空から降ってきた天魔は、空の向こうに帰っていったよ」
「帰った……?」
「それはよく分からない。僕はスカイと違って、世界中を見渡せるような能力を持っていないから」
幻想的に輝く紫色の瞳が、穏やかな光を湛えている。
優しくて他人を安心させる、精神に届く甘い毒のような彼の言葉は、混乱の状況に陥ったスカイの精神に染み渡っていった。
「ねえ、スカイ。この世界は文字通りの平和を獲得した。もう人類は、地下で怯えながら過ごさなくてもいいんだ。僕も、君も、もう戦わなくていい」
カチャン、とカップをソーサーに戻したグローリアは、自分の腹心であるスカイへと朗らかに笑いかけてくる。
「だから、君も君の平和を過ごすといいよ。ずっとずっと、戦ってばかりだと疲れるでしょう? 奪還軍の最高総司令補佐官という地位を今だけは捨てて、ただのスカイ・エルクラシスとして過ごすのも悪くないんじゃないかな」
「…………そ、スね。戦いがなければ、ボクもやることはねーッスし」
スカイは少しだけ冷めた紅茶に、ようやく口をつけた。
蜂蜜でも入っているのか、ほのかに甘い。喉の奥に落ちていく紅茶の味をしっかり記憶に刻み込んで、スカイは肩を竦めた。
「でも、平和って味わったことがねーから、なにをすればいーのか分かんねーッスわ」
☆
ちーん、じゃらじゃらと音がする。
かつて【
平和を味わったことがないというスカイは、奪還軍でも最強の
連れ込まれた先は、イカサマをしなければ勝てないと言われるイカサマ師の戦場――カジノ『ジャックポット』だった。
「コール」
スカイはカードを広げて言う。
全てスペードで揃えられて、なおかつ一〇、J、Q、K、最後の一枚はジョーカーの手札。すなわちポーカーにおいて最強にして、よほどの幸運がなければお目にかかることができない配役。
同じテーブルに座るユフィーリアとその後ろで控えるショウ、そして他の博徒も彼の手札に目を剥いていた。ぱらりとカードを落とす客もいるぐらいだ。
「……スカイ、ロイヤルストレートフラッシュは何度目だ?」
「これで一三回目ッスね」
口元を引き攣らせるディーラーは、もう涙目だった。
ポーカーをやらせれば必ずその手札はロイヤルストレートフラッシュ、ブラックジャックでも勝ち続けて、ルーレットすらもあっさりと勝利を収める。この賭博場において、彼は勝利の神と化していた。
最強の博徒となったスカイは、自分たちの賭博を観戦する博徒が多いことに気づく。誰も彼もが目を血走らせて、スカイのイカサマを暴こうとしているようだった。だが、残念ながらスカイのイカサマは、たとえ逆立ちしても彼らには見破れない。
配られたカードは、やはりまたロイヤルストレートフラッシュだ。スカイは胡乱げにカードへ視線を落とすと、
「もう飽きたッス」
「ええッ!?」
ポイと最強の手札を放り出したスカイは、あっさりと戦線を離脱した。
慌てた様子でユフィーリアとショウが追いかけてきて、彼女たちはスカイのご機嫌を伺うように尋ねてくる。
「え、大丈夫か? つまんなかった?」
「なかなか練習にはなったッスよ。今までは実行しようにも時間がなくてできなかったんスけど、理論的には確立されてるからできなくはなかったんスよね」
「なんの話?」
「…………まー、ちょっと難しいんで。飲みながらどーッスか」
スカイが行き着いたのは、賭博場に併設された酒場だった。無愛想な店主が
ユフィーリアが隣に座り、ショウは彼女の隣を陣取る。ショウは未成年であり酒を提供できないので、果実を絞ったジュースを注文していた。
「ボクの術式『共有術』は、五感だけを他人と繋げるだけの術式じゃねーッス。意識を保ったまま洗脳状態にするよーなモンッス」
「え、じゃあ今までのは」
「ディーラーを洗脳状態にしたッス。そのおかげで強い手札は配られ放題っつー寸法ッス」
面倒なのでやったことはないのだが、スカイの術式は自分の精神状態や思考回路に至るまで他人と共有させることが可能だ。自分の望みを共有させて飲み込ませることによって、スカイはディーラーから強い手札を配られていたのだ。
術式は、実に奥が深いものである。理論的には実現可能だろうが、戦時中の影響で試したことは
自分の術式が、どこまで磨けるのか。――スカイは、それが楽しくて仕方がなかった。
「グローリアもそーッスよ。時と空間を操るのに、なんで空間は繋げるだけなんスかね。それだったら空間の再構築なんて離れ技が可能なのに」
「……多分、頭が追いつかねえんじゃね……?」
「グローリアは頭がいーから余裕ッスよ。多分」
スカイは火酒を一気に呷って、
「ユフィーリアだってそーッス。ユフィーリアの場合は切断して殺すという属性があるなら、切断して離すって芸当も可能なんじゃねーッスか?」
「いや、もう俺は修行したくねえ……あのクソジジイの修行なんざ嫌だ……」
ユフィーリアは頭を抱えて、弱々しい声で主張する。そういえば、彼女の師匠であるアルベルド・ソニックバーンズが最近、奪還軍に加わったか。たまにキンキンと高速で剣を打ち合っている姿を目撃するが、あれはなかなか大変そうである。
スカイが苦笑いしていると、ユフィーリアの先からなにやら巨大な皿がカウンターから飛び出しているのが見えた。見ればショウが、大皿のナポリタンを食べ進めているところだった。
もしかして、この無愛想な店主が作ったのだろうか。何食わぬ顔で酒杯を磨いている店主だが、どこか疲れているようにも見えた。この大盛りのナポリタンを作れば、誰だって疲れるだろう。
「……ショウ君、いつのまに注文したんスか」
「話が長くなりそうだから、つい」
「ショウ君も
「お褒めに預かり恐悦至極ってか」
「褒めたつもりは毛頭ねーんスけどね」
グローリアが「ショウ君の態度が最初の時とは変わった」と言っていたのを思い出して、確かにその一面を目の当たりにする。
面と向かって、誰かとこうして語り合うのも、誰かとこうして酒杯を酌み交わすのも。初めてのことだった。いつもは使い魔を通じて見ることしかできなかった光景が、こうしてスカイの目の前に広がっている。それが新鮮であり、楽しくもあった。
「…………はははッ」
スカイは思わず笑ってしまった。
世界はこんなにも綺麗で、賑やかで、喧しくて、光に溢れている。スカイが閉じこもっていた薄暗くて大小様々な水晶の板の群れしかない、狭い部屋とは大違いだ。進んであの狭い世界にいたものの、やはり心のどこかで直にこの世界を見てみたかったという願望があったのだろう。自分にもこんな面倒な願望があったとは思わなかった。
空になった酒杯を掲げて、無愛想な店主に「もう一杯、同じの」と注文する。ユフィーリアはほんの少しだけ頬を赤らめて、
「酔っ払って吐くんじゃねえぞ」
「それもいーかもしれねーッスね」
火酒が注がれた酒杯を傾けて、スカイは恍惚と呟いた。
「だって、世界は平和になったんスから」
戦争の呪縛から解放された
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