第三十六幕 不倶戴天(Ⅱ) ~嫉妬と焦燥

 マリウスの執務室。主たるマリウスの他にヴィオレッタ、エロイーズの2人の姿があった。自身の執務机に座るマリウスの間に、応接テーブルの対面に腰掛ける2人という構図だ。


「奴等が本当に台頭してくるとはね。君の予想が当たったね、ヴィオレッタ」


「ええ……余り当たって欲しくはなかったけどね」


 ヴィオレッタは難しい顔で腕を組んだ。


「ミハエルは勿論だけど、他にもジェファスやボルハ、ゲオルグら人格はともかく能力面では優秀な政治屋が揃っている事もあって、簒奪した割にはスロベニア郡全体は大きな混乱もなく治まっているらしいわ」


「そうか……」


 マリウスも苦虫を噛み潰したような顔になる。ガレス達が国内の混乱を収めるのに手間取ってくれればそれに越した事はなかったが、そう甘くはないらしい。ミハエルはそれも見越してジェファス達も傘下に引き入れたのだろう。


「となると、やはり奴等に対する戦略を早めに決めておかなきゃならないね」



「……私達もセルビア郡全体を領有しました。ここは焦らずに内政に注力して力を蓄え、万全の態勢を整えた上でしかる後に決戦を挑むべきかと」


 エロイーズが自分の意見を述べる。内政担当の彼女らしい意見ではあるが、主体的な考えというよりも何か意見を言って会議に参加しなければという焦りのような物があった。


 しかしヴィオレッタがかぶりを振った。


「そんな悠長な事をしている暇はないわ。時間を掛ければ奴等もまた力を蓄えてしまう。そうなったらもう手の出しようがなくなるわ。危険は承知の上でこちらから今の内に攻勢に出るべきよ」


 自分の意見をにべもなく否定され、エロイーズは瞬間的にカチンときた。これも常の彼女には珍しい現象であった。


「しかしそんな事をすればこちらの被害も甚大な物となってしまいます。現状では奴等との戦いは厳しいから戦力強化の必要があると、ヴィオレッタ様自身が仰っていたではありませんか」


「……!」

 自分の言葉を引き合いに出しての反対意見にヴィオレッタが不快そうに眉をしかめた。


「状況が変わったのよ。奴等は私達の想定以上に早く動き出して、また地盤も固めつつある。何でも杓子定規のあなたには解らないかもしれないけど、世の中には臨機応変という言葉があるの。敵にはあのミハエルがいるのよ? あいつに時間を与えたら増々手が付けられない事になるわ!」


 強い調子で自分の意見を押し通そうとするヴィオレッタ。杓子定規などと揶揄されたエロイーズも更に感情を昂らせる。


「兵とて我が国の大切な民です。国政を預かる者として、民に無謀な戦を強いる事は認められません!」


「……は? 今、認められないって言ったのかしら? あなた何様?」


 ヴィオレッタの目付きが変わる。だが柄にもなく感情が昂っていたエロイーズはその感情の赴くままに言葉を重ねてしまう。



「聞こえませんでしたか? では言い方を変えます。あなたの私怨・・に兵を付き合わせる事は認められません、と」



「…………何ですって?」


 目付きだけでなく声の調子も一段低くなった。同時に部屋の温度が下がったような錯覚。


「失礼ながら今のヴィオレッタ様は、ミハエルの所在が明らかになった事で冷静さを欠いていらっしゃいるご様子。少し頭を冷やされては如何ですか?」


「――――」


 ヴィオレッタの様子を察しながらも言葉が止まらない。根底にあるのはマリウスに必要とされたいという焦りにも似た感情。そこに政務、外交、戦争と多方面で活躍しマリウスからの信頼を一身に受けるヴィオレッタへの嫉妬の感情が上乗せされていた。


 綯い交ぜになったそれらの感情が、彼女に対する攻撃的な言動へと繋がっていた。分かっていても止められなかった。


「この……もう一遍言ってみなさいっ!!」


 咄嗟に立ち上がったヴィオレッタが、片手で対面のエロイーズの服の胸倉を掴んで乱暴に引き寄せる。もう片方の手が振り上げられる。そのまま振り下ろせばエロイーズの頬に直撃する軌道だ。


 その手が振り下ろされようとして――



 ――ドンッ!!

「いい加減にしないかっ!」



「……っ!?」

 隻腕で執務机を強く叩いての一喝。ヴィオレッタの動きが硬直する。マリウスが珍しく視線を厳しくして女性達を睥睨していた。


「……今のはエロイーズが悪いね。ヴィオレッタとミハエルの因縁を知っていながら、それをこの場面で引き合いに出すなんてちょっと無神経じゃないかな?」


「……っ」

 他ならないマリウスにはっきりと断言されて、エロイーズの顔から血の気が引いて青ざめる。


「ぁ……わ、私は……。……っ。も、申し訳ありませんでした、ヴィオレッタ様」


「……まあ、いいわ。私も確かに自分の意見に固執し過ぎてた部分はあったし」


 青ざめた顔で表情を歪めて謝罪するエロイーズの姿に、ヴィオレッタも渋々と言った様子で彼女の胸倉から手を離して座り直した。


「エロイーズ、どうかしたのかい? 今日の君は少し様子が変に思えるけど……」


「……っ」

 マリウスの不思議そうな視線にエロイーズは恥じ入って、穴があったら入りたい心持ちになっていた。今の自分の感情を知られる訳には絶対に行かない。


「……何でもありません。失礼致しました。どうぞお話の続きをお願い致します」




「ふむ……そうだね。じゃあ僕の考えを述べさせてもらうよ」


 この場で余り深く追求しない方が良いと判断したのか、マリウスはそのまま元の話題へと転換する。


「基本的に短期決戦には反対かな。一番の理由はこちらの戦力が整っていないからだ。僕がこんな身体になってしまったから尚更ね。敵にはあのガレスは勿論、他にもギュスタヴを筆頭に強者が揃っている。酷な話だけどソニアやアーデルハイド、キーア達だけで奴等を相手取れると思うかい?」


「……っ!」

 ヴィオレッタも反対意見を言えずに押し黙る。こちらの実行戦力はソニアの他、アーデルハイド、ジュナイナ、キーアしかいない。後は成長途上のミリアムくらいだ。新規加入のアナベルはまだ未知数だが、敗残してきた事からもそこまで過度な期待は出来ないだろう。


 対してガレス軍はどうか。指揮能力でもアーデルハイドを上回るドラメレクの他、ロルフ、タナトゥス、そしてギュスタヴなど一騎当千の強者が揃い踏みだ。ゲオルグだってそれなりの戦力だろう。加えて何よりも君主・・のガレス自身が無双の豪傑なのである。


「…………」


 考えなくても分かる。無理だ。それは残酷な現実であった。現状のマリウス軍で最も武力が高いと思われるソニアでさえ、この中の誰と戦っても勝負にならないだろう。兵力自体は大差ないので一見互角に思えるが、実際の戦力差は絶望的だ。


 彼等を破ってきたマリウス自身が五体満足ならまだ戦い様もあったかも知れないが、それも今はもう存在しない仮定の話となってしまった。更に敵軍には元々ヨーアキムの配下だった連中も加わっているのだ。



「それが一つ目の理由だね。もう一つの理由としては、スロベニア郡は険しい山岳地帯が広がる天然の要害だ。特にグレモリーなんかはヨーアキム伯もそれで攻めあぐねていたくらいだしね。短期戦で落とすには色々と消耗が大きい」


「…………」


 問題を列挙される毎に勝利は不可能と思えてくる。ヴィオレッタも確かに自分は冷静さを欠いていたと認めざるを得なかった。



「だがだからと言って時間を掛け過ぎるのも駄目だ。それこそヴィオレッタの言う通り奴等もより力を蓄えてしまうし、戦争が長期化すればするだけイゴール公に後背を突かれる可能性が高くなっていくからね」


「……!」

 今度はエロイーズが唇を噛み締める。立地上セルビア郡は北のモルドバ郡と南のスロベニア郡の中間に位置しており、双方から挟撃されるとかなり不味い事になる。ミハエルがスロベニア郡を拠点に選んだのはその立地上の優位性も見越しての事だろう。


 ヴィオレッタの戦略としては素早くセルビア郡を統一して、スロベニア郡に統一勢力が立つ前に電撃的に進出してしまうつもりであった。


 だがガレスの出現により全ての戦略は崩れ去り、マリウスは不随となり、勢力全体が窮地に立たされる事となってしまった。彼女はミハエルにしてやられたのだ。 



「で、でも、それじゃどうすればいいのよ? 短期決戦も長期戦も駄目じゃ打つ手が無いわ。奴等に攻め滅ぼされるのを待つしかないの?」


 ヴィオレッタが途方に暮れたような表情になる。軍師の彼女にも現状を打破する方策は浮かばなかった。だが何故かマリウスは全く悲観していなかった。


「いや、あるだろ。イゴール公に後背を突かれるのが問題ならまた彼等と同盟を結べばいい」


「な……簡単に言わないで頂戴! 私達は既にイゴール公との約束を反故にして勢力を拡大し、あなたは彼と並ぶ刺史にまでなってしまった。既に同盟は破談になってるわ。同盟どころかいつ攻め込まれたっておかしくない状態なのよ!?」


 少なくとも再度同盟を結び直すなど不可能だ。ヴィオレッタの指摘に、だがマリウスは肩を竦める。


「確かに何事もなく、僕等が順調に勢力伸ばしていたらそうなっていただろうね。でも現実はそうじゃない。ガレス達の台頭はイゴール公やアドリアンにとっても予想外だったはずだよ」


「……!」

 ヴィオレッタがハッとした表情になる。マリウスの言いたい事が解ったらしい。


「そうか……。しかも簒奪でのし上がったガレスは対外的なイメージはかなり悪い。加えてグレモリーを攻め落とした際の彼等の残虐無道な戦いぶりは確実にアドリアンの耳にも入っているはず」


 マリウスは頷いた。


「そう。ガレス達が僕等を滅ぼしてセルビア郡まで領有したらもう誰にも止められなくなる。ガレスは破壊衝動の塊のような危険な男だ。僕等を滅ぼしたら次は確実にモルドバに攻め寄せるだろうね。災害の洪水みたいな物さ。そして洪水対策には『防波堤』が必須だ。そうだろう?」


「……つまりあなたは私達の存在を『防波堤』としてイゴールに売り込めと言ってるのね?」


「そういう事。勿論僕達だってイゴールから見れば『敵』には違いないけど、要は彼等にとってどっちが与しやすそうに見えるかって話だね。随一の猛将だった僕自身が戦線離脱し女性ばかりの柔弱な軍・・・・か、ガレスを筆頭に犯罪者スレスレの危険な猛将ばかりが集う野獣の群れのような軍か……。君だったらどっちが隣人の方が安心・・出来る?」


「…………」


 ヴィオレッタは言葉もない様子だった。ただ呆然と聞いているだけのエロイーズは勿論である。


(た、確かに……それなら上手く行く、かも……?)


 そう内心で思うばかりである。



「勿論本当に弱いままじゃガレスに滅ぼされてお終いだ。戦力強化は必須だけど、とりあえずイゴールと同盟を結び直す分には、僕等の『弱さ』はむしろプラスに働くはずだ。その上ジェファスやゲオルグなど元イゴールの幕臣を重用しているのも彼等からすればイメージが悪いだろうし、交渉材料・・・・に使えると思うよ」


 そして一旦同盟を結んでしまえば、定められた期間内は安全である。同盟期間中に一方的に同盟を破棄して攻め込む行為は、その君主の悪名を高め信用を地に堕とす。そうなればもう二度とその君主は中原のどの勢力とも同盟を結べなくなる。天下統一間近ならともかく、今の群雄割拠の情勢でそんなリスクを背負う君主はまずいない。



「ふ……ふふふ……。全く、軍師形無しね」


 ヴィオレッタは俯いて肩を震わせた。そして次の瞬間にはバッと顔を上げる。その目にはもう迷いはなく、強い光が宿っていた。


「献策が出来なかった代わりに、イゴールとの交渉は私に全面的に任せて頂戴! 必ずこちらの希望通りの同盟期間で締結して見せるわ!」


 同盟自体を結ぶのに問題が無ければ、交渉のポイントは具体的な同盟期間をどの程度にするかが鍵となってくるだろう。短すぎるとガレスとの戦争中に切れてしまう可能性があり、その時の状況次第では後背を突かれてしまう。逆に長すぎるのも仮にガレスとの決戦に勝利したとしても、こちらからイゴールの領地に攻め込めなくなるので、それはそれで問題だ。


「ははは、それは頼もしいね。君は充分頼れる軍師だよ。それじゃモルドバとの交渉は君に任せるよ。いい結果を期待してるよ?」


「ええ、任されたわ。見てなさい。必ず名誉挽回してみせるわ」


 そう言い捨てると、そのまま執務室を飛び出して行ってしまった。つい先程ハルファルから帰ってきたばかりだというのに何とも慌ただしい事である。それとも驚嘆すべきバイタリティと言うべきか。マリウスが苦笑する。


「やれやれ……彼女、軍師として献策できなかった事がよっぽど悔しかったみたいだ。見た目や普段の言動はあんなだけど実は物凄く負けず嫌いなんだよね、彼女。まあそのギャップが可愛いんだけど」


「…………」


 本当に愛しそうな表情で語るマリウスの姿に、チクリと胸に痛みが走る。


(……可愛らしく、そしてマリウス様を支えていけるだけの能力もある。彼女がマリウス様の寵を得るのは当然の結果です。それに比べて私は……)


 考える程自己嫌悪に陥り、気持ちが沈んでいく。



「……さて、エロイーズ? ヴィオレッタがいなくなって2人だけだから改めて聞くけど、何か悩みでもあるのかい?」


「……っ。実は……月の物が少し早めに来てしまい、それで少し気持ちが苛々していたようです。見苦しい所をお見せしてしまい申し訳ありませんでした。あと何日かすれば収まると思いますのでご心配なく……」


 月経と言われてしまえば男性のマリウスはそれ以上追及できなくなる。それを解っていて敢えて嘘を吐く。今自分の中にある醜く卑しい感情をマリウスに追及され悟られる事だけは何としても避けなければならない。


「ふむ……そういう事なら深くは聞かないでおくよ。本当に大丈夫だね?」


「はい、大丈夫です。ご心配をお掛けしました」


 いつも通りの穏やかな表情で一礼する彼女の姿を、それでもしばらくじっと見ていたマリウスだがやがて頷いた。


「……よし。それじゃ僕はちょっとアナベルの様子を見てくるよ。彼女がどの程度の強さなのかも知っておきたいしね。後の事はお願い出来るかな?」


「はい、お任せください。行ってらっしゃいませ」


 静かに頭を下げるエロイーズに見送られて部屋を後にするマリウス。




「…………」

 一人になったエロイーズは物思いに耽る。


(……ふふ、今日の私はただ狼狽えていただけで、一切何の役にも立っていませんでした。挙句にあのような醜態を晒してマリウス様にご心配をお掛けして……)


 ゆっくりと天井を見上げる。


(しばらく前から気付いていました。もうあのお方は、私など及びもつかない高みへと行ってしまわれた事に……)


 ガレスとの戦いで腕を失い戦線離脱した事で、むしろ更に君主としては老成したように感じる。


(ふふふ、本来頼もしくて良い事のはずなんですが……。何故でしょうか。最近無性にあの頃が懐かしく感じられます)


 マリウスと同志達だけで旅をした浪人時代。そして建国直後の人手も何もかも足りておらずに目まぐるしく忙しく、しかし非常に充実していた時期を思い返す。あの頃は自分が街を成長させているという実感があった。自分が他の3人よりもマリウスの力になれているという実感があった。でも今は……?



(戻りたい……。忙しくも楽しく、充実していたあの頃に……)



「……っ!? わ、私は何てことを……!?」


 そして一瞬の後には、自分が何を考えていたかを自覚して愕然とする。それはマリウスの覇道を支えるべき立場で絶対に思ってはならない事だった。


(……っ。い、いけません。私は……私はこんなに弱い女ではないはずです。こんな事では本当にマリウス様に失望されてしまいます。あの方に見放されたら私は……)


 それは想像するだけでも恐ろしい事であった。エロイーズは邪念を振り払うように大きく首を横に振った。そして自らを叱咤するように顔を叩く。


「……さあ、いつまでもこうしてはいられません。私は私に出来る事をやらなくては……。悩んでいる暇などありませんわ!」


 自らに言い聞かせるようにして気合を入れた彼女は部屋を整理し終わると、傍から見れば空元気にしか見えない足取りで退室していった。





 遂に台頭し巨大な勢力を持ってマリウス達の前に立ちはだかったガレス軍。マリウス自身という最大戦力を失ったマリウス軍は、モルドバとの同盟交渉に並行して自軍の人材強化の必要性に迫られる事となった。


 トランキア州を揺るがす大戦の気配が着実に近づいていた……


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