2019.7.1~2019.7.15

 真の美に触れると、身の内は全くのからっぽになる。感嘆あるいは落涙といった感情の発露は、あくまで二次的なものにすぎない。肉体が輪郭だけを残して消失している……この状態を私は《杯》と呼んでいる。美を通して人間はひとつの杯となる。なだらかでやわらかな、ただひとつの杯である。

(2019.7.1)



 駐車場の砂利に並んだ、ふくふくとした雀のお団子。ぽかぽかのお日さまを浴びて、こんがり香ばしく焼き上がっている。スマホを構えてそっと近づいたけど、慌ただしく飛び立ってしまった。悪いことしちゃったな。雀はくるくる回って電線の上に落ち着く。丸が四つに棒一本……あれ、串団子?

(2019.7.2)



 人はみな、幸せになりたいと願う。しかしいまだかつてその願いを叶えた者はいない。当然だ。手の中のぬくもりに気づかず上ばかり見て、足元の涙を探して悦に浸っているような生きものに、幸せなど訪れるわけがない。注がれる水は口に届くことなく、いつまでも暗い底を湿し続けるだけだ。

(2019.7.3)



 愛した男は死んでいく。肉体的に。社会的に。降板を告げられた役者のように、ひとりまたひとり舞台から去っていく。

 ある男は死に際に言った。

「きみの愛し方は、毒だ。たちの悪い猛毒だよ」

 溢れる涙はほんものだ。悲しい心はほんとうだ。許して。私は、毒のようにしか生きられないの。

(2019.7.4)



 すべてはまどろみながら見ている夢かもしれない、あるいは私自身が、ひとひらの蝶の夢かもしれない……君の言うとおり、この世に確かなものなんてひとつもない。

 それでも…夢だろうとなんだろうとも、僕の目に映っているあいだは、ほんものだと信じている。

 君は紛れもなく、ほんものだ。

(2019.7.5)



 駅前に立つ男性の銅像。『おじさんの像』と呼ばれ、待ち合わせ所として有名だ。本当は哲学的なタイトルが付いているが、知る者はいない。それが刻まれた台座は雑草に埋もれている。作者とて伊達や酔狂で付けたわけではないのに。本体と解離した想いは、いったい誰が供養するのだろうか。

(2019.7.6)



 会社を出て家路を歩く。煙草屋の角を曲がると、ふっと潮の香が鼻先をかすめた。港までは距離があるが、この時間は内陸に向けて風が吹き、海が香るのだ。紫色に流れる空を見上げて、私は一日のおしまいを感じる。帰ったらタリスカーのハイボールを作ろう。アクセントに黒胡椒を浮かべて。

(2019.7.7)



 きみを抱きしめたいのに、僕は踏み出せずにいる。それは胸に宿る狂暴な鼓動のせいだ。きみがこの獣に触れて、壊れてしまわないか不安なのだ。

 お願いだ、胸を重ねるから、きみも狂暴な鼓動で迎えてくれ。そうすればふたつは打ち消され、鏡のような水面の上で、僕たちは静かに抱き合える。

(2019.7.8)



 きれいなものを書くことのできる人が、きれいな人間であるとは限らない。逆もまたしかり。よくよく考えれば分かるはずなのに、思想が絡むと人は異常に潔癖になる。三ツ星レストランの料理を屑みたいな人間が作っていたら、ゴミ箱に捨てるのか?出されたものをそのまま食べられないのか?

(2019.7.9)



「会社の発展のためには、過去の否定まで踏み込む必要がある。先達の偉業は偉業だが、今にそぐわなければ切り変えねばならない。される側は不愉快だろうが、拒絶してはいけない。許すのとも違う、許しは上下を生むからね。物事を素直に捉えなさい」

 会長はそう言って、盆栽の枝を切った。

(2019.7.10)



 氷のようなシャワーを浴びて、脱衣場の鏡の前に立つ。白子みたいな身体に刻まれた女の歯形。まるで継ぎ接ぎだらけの人造人間だ。ひと際黒く聳える突起に手を添える。火傷しそうな疼きを握り込み、千切れんばかりに擦り上げると、薄い欲情が鏡面に散って垂れた。明日は誰に抱かれようか。

(2019.7.11)



 今日も天気予報は外れた。部屋の窓に見えるベイブリッジは、靄の中に溶けている。車列を目で追いながら午後を消費していると、程なく睡魔が訪れる。閉じていく瞼。その隙間から、橋桁に立つ人影が見えた。なぜと思う余裕はない。人影が宙空に舞い、目が合った瞬間、私は眠りへと落ちた。

(2019.7.12)



 カタコト日本語の外国人と、カタコト英語の日本人……空港のロビーで話す二人は、信じがたいが初対面だ。待ち人が着くまでの暇つぶしに、お互いの言語を交換して遊んでいるのだ。やがて飛行機到着のアナウンスが流れ、二人はごく自然に別れた。日常のわき道には、こんな奇跡も落ちている。

(2019.7.13)



 冷たい雨がアスファルトの上を忍び歩く――こんな午後にはビル・エヴァンスを。『When I Fall In Love』のたゆたうようなピアノに揺られながら、深煎りのコーヒーを少しずつ口に運ぶ。うとうとと時を過ごしていると、いつのまにか濡れた路面に灯がともり、街は青く薫る夜気に包まれている。

(2019.7.14)



 博多に日常が流れ始める。つい一時間ほど前まで、この町は男たちの熱気で溢れていた。勇ましい「オイッサ」が響いた往来を今は車が行き交う。勢い水から立ち昇る陽炎が、あのひと時を空に連れていくのか。まるで幻のように。

 雲が去り青空が覗く。山笠が終わって、博多に夏がやってくる。

(2019.7.15)

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