第47話 病院

 ――今年の夏は猛暑というほどじゃないけど、やっぱり暑い。

 そう思いつつ原川静香はスクールバッグからハンカチを取り出して首を伝う汗を拭う。

 彼女は鐘樹中学の終業式を済ませ、独りスマホのマップで目的の場所を目指していた。

 1週間前、で怪我を負った佐藤剛の居る場所に。


「ここ、かな」

 原川静香が立ち止まったのは雑居ビルの前。

 ビルの窓は中を覗うことは出来ないほど煤けた外観だったが、彼女は躊躇うことなくそのビルに入った。

 薄暗く全く物が置かれていない1階の奥にエレベーターがある。原川静香はそれに乗って目的の階のボタンを押した。

 年季が入っているせいなのかガタつくような感覚を伴って上の階へと昇っていき、目的の階に到着するとドアがゆっくりと開く。


 その階の内装に原川静香は息を吞んだ。

 ビルの外観からは想像できないほど白い壁の空間。受付にはナース服の女性が2人おり、その受付前には10脚以上の椅子が置かれている。

 まるで開業したての病院クリニックといって差し支えない場所だ。

 ――ここがが患者を治療する場所なの!?

 彼女は驚きながらもエレベーターから降りた。

「やぁ、来たかい。メイからきみが見舞いにくるとは聞いてるよ」

 受付前の椅子に座っていた闇医者の老婆――ヤブが杖をつきながら原川静香へ近づいてきた。

「こ、こんにちは。ヤブさん」

 彼女の落ち着きのない反応にヤブは面白がってニタニタと笑う。

「思いの外、本物の病院と変わらないのが意外だろう? 他の同業者にはどんな奴でも診るもんもいるが、私はカネのない患者は診ないからねぇ。だけど積まれたカネの分はしっかり治療する。その為には清潔でそれなりの設備がある場所が必要なのさ」

 ヤブは杖で1本の通路を指し示した。

「剛ちゃんがいるのはあの一番奥の部屋さ。行きな」

 原川静香はお辞儀をして、つかつかと早足に佐藤剛のいる部屋の前まで来るとノックもせずに部屋に入る。


 彼女の目に映ったのは、佐藤剛が白いベッドで上体を起こして窓を見ている姿だった。

 彼の見つめる窓の外側は煤けているため外の景色などほとんど見えないのだが、それでもじっと黒い瞳で窓を見つめている。

「佐藤久しぶり。ちょっと色々あって、お見舞いに全然来れなくてごめん。……怪我の方はどうなの? 」

「両足が動かない」

 ごく普通の調子で彼は答えて、窓から原川静香に視線を移す。

「後遺症のことはメイから聞いただろ? 」

 そう言うとまた視線を景色の見えない窓に戻した。


 佐藤剛の父親を殺したネームレス、『七志』との戦いで脊椎損傷を負った影響で足が動かなくなったことは、彼の言う通り彼女はメイから聞いている。


 静まった空気に包まれる中、喋る素振りもないが部屋を出ていく気配もない原川静香に対して『もう帰れ』と佐藤剛が口にする前に彼女は言う。

「復讐、諦める気? 」

 そう問われた佐藤剛は窓を見つめたまま何も言わないが、眉間に皺が寄った。

「アンタの父親を殺した相手をこのままにしていいの? 」

 原川静香がずけずけと放つ言葉に、意識せずとも両手に力がこもって強く拳を握る。

「きっと、今もあの男はのうのうと生きてるのに。……まさか、アンタの復讐心はその程度で折れたの? 」

「うるせぇよ!!! 」

 佐藤剛の怒鳴り声に、びくりと彼女の体が震えた。

「今も殺してやりたい気持ちは変わってない!! 父さんを、両目潰してあんなにズタズタに殺したんだ!! 赦す気なんてねぇよ!! でも、こんな体でどう殺せばいいんだ!? こんな体じゃ殺すどころか碌に探すこともできないだろうが!! 」

 声を荒げ目を剥いて原川静香を睨んだ。

 光を失っていた目が一変し、強い怒りや憎しみの感情でくべられた焔が彼の瞳に宿っていた。

 まるで犯人を捉えているような瞳で睨まれる彼女はしばらく固い表情で佐藤剛を見つめていたが、突然口元が緩み笑いだした。


 声を出して笑う原川静香に佐藤剛は呆気にとられる。

「なんで、笑う? 」

 一体何が可笑しいのかさっぱりわからない。しかもその声音が嬉しそうなことも彼には不思議でならなかった。

 ひとしきり笑うと原川静香は微笑んだ。

「良かった! 復讐に対する気持ちが無くなったのかと思ってたけど、怒鳴る元気があるなら大丈夫ね! 」

 くすくすと笑う彼女に、佐藤剛は顔を顰める。

「なにが大丈夫なんだ? 足が動かないんだぞ」

「佐藤、リハビリは始めたの? 」

 彼は顰めた顔のまま目を逸らした。

「リハビリしなよ。アンタの体はなんでしょう? 佐藤の師匠さんが言ってたじゃん」

「どこで聞いた?」

「佐藤と佐藤の師匠さんがUGFCの控え室で話してた時。そーいう体質ならなんとかなるよ」

 ――師匠から『ネームレス』との試合を棄権しろと言われたあの時か。

 思い出した佐藤剛は舌を打つ。

「確かに言われてる。でも、何が特殊なのかを聞いてもはぐらかされるし俺自身実感もない。……だいたい どんな体質だろうがこんな足じゃ――」

「無理だ、なんて口にするのは何もかもをやり尽くしてからにして」

 急に冷えた言葉の温度に驚いて彼は原川静香を見た。

「佐藤は直接殺したいらしいけど殴り合って殺すだけが復讐じゃない。方法はいくらでもあるはずよ。私は、佐藤に復讐を諦めて欲しくないの」

 佐藤剛は依然として顰めた顔でいるのを見て原川静香は彼の握りしめる拳に手を触れた。

 触れてきた彼女の手に驚いて佐藤剛は拳を引っ込めようとしたが彼女は強く握る。

「佐藤は独りじゃない。アンタには協力してくれる人達がいるんだから。例え足が動かなくても、アンタなら……。佐藤ならやり遂げられる! 」

 無言で彼女を見ながら、励まされる彼は思う。

 ――感情任せの願望を言っているだけだ。まるで祈るように口に出しているだけだ。ただそれだけなのに……。

「必ず復讐できるから」

 ぎゅう、と強く握りしめて原川静香は佐藤剛の顔を覗き込んで言った。

「絶対に諦めないで」

 ――なんで、俺はこの言葉を力強く感じるんだ?

「……佐藤、聞いてる? 」

 無言の彼に原川静香は顔を近づけた。今までの中で一番近い顔の距離に息が詰まった佐藤剛は慌てて手を振り払おうとする。

「てて、手ぇ放せっ」

 手を振り払おうとする彼に対して、原川静香は先ほどよりも強い力で握ってくる。

「絶対諦めない、て誓えたら離す」

「一体なにに誓うんだ!? 」

「もちろん私にでしょ」

 真剣な表情で見つめてくる彼女の手を佐藤剛は振り払った。

「別にお前に誓わなくても、諦めねぇよ」


「よかった」と原川静香は笑んだ。その表情から佐藤剛は目を逸らしつつ言う。

「静香。今度からは制服で行動しない方がいい。変な噂たつから」


「あー……、今日は終業式でその後に直接ここに来たから――」

「行事の帰りなら尚更だ。あの白髪しらが執事がうるさそうだけど大丈夫か?」

 彼女は唐突にバッグからスマホを取り出して画面を見る。

「あー! そろそろ行かないと! 」

 そう急いで部屋から出ていこうとする。

「それじゃ! ちゃんとリハビリしなよ! 」

 扉の前まで行った原川静香を佐藤剛は呼び止めた。

「お前が言っていた裏社会ここに関わることで得られるメリット、てなんだ?」

 彼女の動きがぴたりと止まって間が空いた。


「佐藤の想像に任せるよ」

 ――まだ言う気がないのか?

 そう思った佐藤剛だが、今の彼女の様子には違和感を覚える。

「バイバイ」

 振り向くことなく原川静香は部屋を出た。


 ――今、声が震えてたように感じたのは気のせいか?

 静寂に包まれた部屋の中で彼は首を傾げた。

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