第28話 ペンギンのついた合鍵

 澪の手を繋いだ日のことは遥か遠い昔の日のことのようだった。

 忘れよう、なかったことにしようと努めていた。僕の知る彼女のすべてをかき消してしまおうと思った。全部を忘れようとしても、彼女の肩下で揺れる髪が何度も目の前にちらついた。

「君、その本借りていくの?」

「あ、いや。返してくるよ」

 気がつけば閉館を告げる音楽がひっそりと鳴り始め、学生たちはそろそろと荷物を片付け始めていた。僕は荷物と一緒にまるでめくるだけだった本を持つと、それを返却用の棚に返した。一花はまだ荷物を片付けていた。ふと見上げると、同じ棚に本を返しに来た澪がいた。澪の手には、僕が以前勧めたミステリー小説があった。

「……。これ、面白かったです」

「声をかけてくれると思わなかった」

 澪の顔がパッと上がって、僕の目をじっと見た。僕はずっと彼女の姿をじっと見ていた。

「謝ろうとずっと思ってて」

 その時、不意に視線の外から田代が現れて、澪の肩を押した。澪は口を噤んだ。

「松倉、またな」

 顔を上げると田代の顔が見えて、当たり前のようにその半歩後ろに澪の姿があった。

 もっと声が聞きたかった。写真のように目に映るだけの存在ではなく、ここにいるという証拠に、声を聞きたかった。僕の名を、呼ばれたかった。

 そう思い始めると蓋をしていた幾つもの感情が吹き出して、僕の心の中に黒い流れが渦を巻く。目の前の澪は、戸惑った瞳で僕を見ていた。声も出さずに。

「澪」

 彼女の瞳が大きく弾けるのを感じた。まだ僕らの間に何かがあるという手応えを感じる。戸惑いを超えて、彼女は動揺していた。

 彼女の唇は何かを言おうと開きかけた。僕はその第一声を待った。こんな時でさえ甘美な瞬間だった。田代も僕の発言に驚いて動かずにいた。

「丞? 帰ろう?」

 不意に後ろから一花の声がして、澪の顔が凍りついた。振り返った田代が口の端で笑うのを僕は確かに見た。

 殴ってやりたかった。殴って、その階段を無様に転げ落ちればいいとさえ思った。

「あ、田代くんと澪ちゃん、お久しぶり。奇遇だね」

「俺、レポート終わってなくて」

「わたしも同じなの。まだもう少し家で書かないと」

「お互いがんばりましょう」

 空々しい会話が通り過ぎる中、僕たちは目を逸らさずに向かい合っていた。澪の目はどこか虚ろで、僕の目は彼女にどう映っているのかわからなかった。それでも僕たちはまだ見つめ合っていた。

 ――このまま、手を掴んで連れ去ってしまえばいい。

 そう思っても体は動かなかった。指先さえ、彼女に届くことはなかった。

 と、ごく自然にするりと横から一花が腕を組んで、それじゃあね、と二人に告げた。

 階段を下りる間、僕たちは何も話さなかった。一花は難しい顔をして黙り込んでいた。僕は彼女に言いたいことは何も無かった。

「仲良さそうだったんじゃない? まだ妬けちゃう?」

「……いいんだ、そのことは」

「顔が、良くないって言ってる」

 クリスマスに送ろうと思っていたマフラーは、すでに別の物が一花の首に巻かれて寒さから彼女を守っていた。

「ねえ、忘れて? わたしたち、今のままでいようよ。わたしは君を傷つけないって約束するから」

 うん、という肯定ではなく、ただ首を項垂れた。自分の無力さに心が痛かった。それは何かに敵わなかったという意味ではなく、自分から何も出来なかったことに対する無力感だった。

 澪に対する自分の気持ちはこんなものなのか、と、心は深く抉られた。






『相談があるんだ』

 どうしようもなくなって、躊躇いながらスマホを打つ。拒まれたらどうしようかと思う。それが今さらでも僕の気持ちも逼迫ひっぱくしていた。

『明日、サークルにいるよ。夕方でいいんだろ?』

『助かる』

 誰かの力を借りずにいられるなら、借りずにいたかったけど、僕たちに行先はなかった。




 ノックをすると、空気だけがその先の部屋を震わせる音がして約束を間違えたかと不安になる。ここに来たのは1年半以上前のことだった。

「よう、松倉。いつか来ると思ってた」

「予知?」

「ちげーよ。お前の顔に『困ってる』って書いてあるからだよ。もっと早く来ればよかったのに。相談に乗るって言っただろ?」

 小野塚はいつもと変わらない人好きのする笑顔でそう言った。心の中の何かが、ふっと軽くなった。

「まあ、ヤロー同士で真面目に恋の相談てのもなかなかないかー」

「そういうわけじゃないけど。……要するに煮詰まったんだよ」

「煮詰まったねー。最近また、一花ちゃんと歩いてんじゃん?」

 僕はできる限り詳しく、話せる限り「僕たち」の話をした。僕と一花と澪と田代の……。

「なかなかややこしいことになってんのな。外から見てたら全然、わかんなかったよ」

「それで」

「松倉はさ、なんでカッコつけてんの? どんな事情があったって、実際に動かせるのは自分だけだろ? 自分からアクション起こさなきゃ何も変わんないよ」

「でもさ」

「『でも』って一番いらねー言葉。よく考えてみろよ。言い訳して欲しいものを無くしていくの? 好きなものは好きって言えよ。結果がどうなるのかわかんないけど、無駄な足掻きでもしないよりだよ。ま、田代はそもそも気に入んねーけどな。理由はないけどどこか気に障る男だよ」






 月日は少しも立ち止まることを許さず、もうすぐ冬休みを迎えることになった。世の中はめっきり冷え込んで寒い北風が吹きすさんだ。今年のクリスマスプレゼントは、やはりあのマフラーに似合う手袋にしようと考えていた。

「ちょっと出かけてくるよ」

「どこへ?」

「買い物。小一時間で戻るからさ」

 少しがっかりした顔をしながら、一花は僕を見送った。玄関のドアを開けるとすぐに部屋に戻りたくなるような寒い日だった。

 電車で一駅のC駅に自転車で向かう。駅前に自転車を停めて、女の子の気に入りそうな店がたくさん入ったビルを目指して人混みを歩く。チリチリと乾燥した空気の中、人々は無口で早足に街を通り抜ける。

 どうして、離れていてもわかるんだろう?

 長さが変わることなく切りそろえられた後ろ髪を、僕が今までどれくらい見つめてきたのか思い知る。忘れようと記憶の片隅に追いやった人は忘れてしまった訳ではなく、ただ心の片隅にずっといただけだった。こうして目の前にすると、心の中は彼女でいっぱいになる。

 自然に早足になる。今捕まえなければもう捕まえられないという焦燥感に駆り立てられる。人混みを追い抜くようにして、縫うように彼女を追う。

 ようやく追いつく、というところで信号に隔てられる。目で追う。見失うわけにはいかない。今日こそ、彼女の声を聞きたい――。


 その隣には、田代がいた。

 二人がクリスマスの大きなリースのかかったビルに入っていくのをはっきりと目にした。手を繋いで、彼女はいつもは伏せ目がちな瞳を上向きにしてうれしそうに。

 信号が再び、赤から青に変わる。一歩も踏み出せない。後ろから来る人たちは訝しそうに僕を追い越して行く。

 一体、僕は澪の何を知っていると思っていたんだろう?






「早かったね。何も買わずに帰ってきたの?」

 手ぶらで戻った僕に、一花はそう言った。気に入ったものが見つからなかったから、と僕は答えた。

 ――ひとりになりたかった。

 こんな風に思うのはすごく珍しかった。男ばかりの騒がしい兄弟の中で育って、誰かと一緒にいる方が気がつくと当たり前だった。

 でも今は、一人になって考える時間が必要だった。目を瞑っていた大切なことを、しっかりと見据える時は近かった。例え間違っていたとしても、欲しいものはひとつだった。

 小野塚は、目を逸らさないことの大切さを教えてくれた。大切なものは、何を失っても手に入れたい。

「……一花、別れよう。やっぱりダメなんだ。こんなに長い間、ずるずる引きずってごめん。もう、一人になりたいんだ」

 決意が鈍らないよう、一息にすべて話した。くつろいだ姿勢でテレビを何となく見ていた彼女は、持っていたクッションを握る手を弱めた。

「だって澪ちゃんはダメだよ。田代くんがいるもの」

「そういうことじゃなくて」

「君が傷つくよ。澪ちゃんのことは忘れて。すぐに全部は難しいかもしれないけど、その時まで待つから、別れるとか言わないで」

 一花はクッションを横によけた。そうしていつも甘える時のように僕に手を伸ばして……僕は彼女の手を受け止めることは無く、その手首を握って彼女を制した。

「ごめん。でもこんなのは間違ってるよ」

「間違っててもわたしは構わないよ。だからお願い、手首、放して……」

「もう一花を抱きしめられない」

「なんでそんなこと言うの……」

 一花の瞳からはボロボロと大粒の涙が落っこちては服に染みを作っていった。僕は両手で彼女の手首を握っていたから、今日は彼女の後ろ頭を撫でてやるわけにはいかなかった。

 抱きしめてあげればよかったのかもしれない。けど、本当に抱きしめたい人がいて例えその人が手の届かないところにいたとしても、今、一花を抱きしめるのは間違っているとやけに冷えた頭の中でそう考えていた。

「……澪ちゃんが、そんなに好き?」

「好きなんだ、一花は笑うかもしれないけど」

「彼氏がいても? 澪ちゃんと田代くん、仲がいいんだよ」

「出会った時にはもう田代とつき合ってたんだ。今と一緒だよ」

「……気持ち、決まっちゃったんだね……」

 一花の手から急に力が抜けて、すとんとその両手は下がった。彼女はもう、何かに逆らう気がないように見えた。

「田代くん、すごい親切でね、わたしの話よく聞いてくれたの。それから、澪ちゃんと丞の話も知ってることは全部、教えてくれて。澪ちゃんと丞が図書館でいつも会ってるって聞いた時、嘘だと思うなら行ってみるといいよって。そしたら丞、すごい分厚い参考図書で勉強してて、なぁんだって思ったら……後から澪ちゃんが来たよね。あの時言わなかったけど、見てたんだ」

 花が萎れていくようにちりちりと端から縮んで、一花も一回り小さくなった気がした。後ろから見られていたなんて、まったく気がつかなかった。

「それからね、できるだけわたしの辛い気持ち、澪ちゃんに自然に伝えてあげるよって言われて。それはさすがにやりすぎじゃないかって、自分で澪ちゃんに話した方が良くないかなって迷ったんだけど……難しいことは田代くんに任せちゃった。そうした方がきっと、田代くんと澪ちゃんも上手くいくんじゃないかって、勝手にいい方に考えたの。けっこう狡いの、わたし。絶対、君を手放したくなかったのにそれくらいしか出来なかったの。最低」

 一花は大きくひとつ息を吸い込んだ。

「帰るね。大丈夫、近いうちにきっとそんな日が来ちゃうんじゃないかって悪い予感、何度も何度もしてたから。怖くて眠れなくなる日もあったけど……。でもね、別れるのがこんなに辛いっていうのは、それだけ君といた時間が楽しかったからだと思うの。ありがとう、それからごめんなさい。わたしすぐに別れてあげなかったこと、後悔してる……」

 くるりと背を向けると一花の荷物は僕が知らないうちにすでにほとんどまとまっていて、何も言わずに旅行カバンに残りの大凡のものをまとめると、バイバイ、と小さく言って合鍵をパチンとテーブルに置いて出て行った。

 合鍵にはいつか一花が僕にくれたのとお揃いのペンギンのキーチェーンがついていた。僕はそのことに今日まで気がつかなかった。

 1年半続いた僕たちの生活は、こうして幕を下ろした。

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