江戸へ
八月も下旬のこと。
会津藩主に対して、一部の隊士より『近藤批判の建白書』が提出された。
五箇条として書かれた内容は、
『隊の運営が専制的で、わがまま。
同志のことを家臣扱いしている。
自分に従わない者は殺してしまい、
脱退希望も脱走しか手立てがなく、
もう新選組は瓦解寸前である』
というもの。
これら一箇条でも近藤が言い訳することが出来れば我々の切腹を、もし一つとして申し開きが出来なければ近藤の切腹を──と脱退覚悟で求めたのは、永倉、原田、斎藤、島田、尾関、葛山の六名だった。
結果として、仲裁に入る容保に迷惑はかけられない、という理由から最終的にはお互いに手打ちとなったのだが──。
「────」
座敷に入室するなり、座する六名に対して土方が睨みをきかせた。一瞬、ひとり離れたところに座る斎藤と土方の視線が交わる。
斎藤はすぐに目をそらした。
土方が口を開く前に、なにも間違っちゃねえぜ、と原田は鼻をならす。
「嘘は書いとらん」
永倉もムッとした顔でつづけた。
「芹沢先生が殺されてから、日を増してひどくなる。近藤先生も、──あんたもだ。俺たちはいつから近藤さんの……加えて言やァあんたたちの家臣となった。そもそもの目的が変わってきてるたぁ思わねえか、土方さん」
永倉が土方に食ってかかる様子を見て、後ろで巨体を縮みこませる島田は汗をぬぐう。
しかし、土方は怯まない。
「その男についてきたのは誰だ」
無表情に、原田と永倉を見つめ返す。
「金もなく道場に転がり込んだお前等を、イヤ事ひとつ言わねえで無償で養っていたのはあの人だろうが」
「それとこれは話が違ェ! このままじゃ新選組がもたねえんだよ──怖くって名乗り上げられねえだけで、ここにいる六人のほかにも多くの隊士が同じことを思ってる。このままじゃあいつか近藤さんやあんたが寝首をかかれる日が来ることだってあらァ!」
そんなのはイヤじゃねえか、と永倉は拳を畳に叩きつけた。
「こんな烏合の衆、いまのままじゃ確実に内から崩れっちまう。俺たちは新選組が憎くてこんなことを言っているんじゃねェ、あんたと同じだ。……」
わかるだろう、とか細い声で呟くと、それきり永倉は黙りこむ。隣にいた原田も口を尖らせて身体を揺すった。
後ろに控える尾関は青い顔をして、いまにも倒れそうだ。しかし葛山はどこか冷めた目で永倉の背を見つめている。
土方はじっくりと三者三様を見据え、
「そうかい」
言い分はわかった、と手元に持っていた建白書を畳に投げた。そして土方は押し殺したようなため息をひとつ、吐く。
どうしてこうなった。と──原田はうつむき眉を下げた。
なにも考えず、ただ己の腕を高めあったあの頃が懐かしかった。同時にそれがとても遠い過去のように感じて、切ない。
「…………」
口を開きかけて、しかしなにも言えぬまま原田は土方をちらと見る。
土方は、無言のまま部屋を出た。
いままで黙っていた斎藤がおもむろに立ち上がり、その後ろ姿を追い掛ける。
残された座に残るのは、重苦しい沈黙だった。
近藤の部屋に向かう。
道すがら浮かべていた渋面を指でほぐし、土方はいつもの涼しげな顔でふすまを開けた。
「入るぜ」
いつの間に後ろについたか、斎藤も共に入る。ご苦労、と呟く近藤は目に見えて落ち込んでいる。
聞いてきた、と言うなり土方はどかりと胡座をかいた。
「永倉も原田も、──新選組を憂いてのことだった。島田は永倉を慕っているからついていったんだろう。尾関、葛山もおなじだ」
そのすこし後ろに、斎藤も静かに腰を下ろす。斎藤から──と土方はちらと彼を見た。
「永倉や原田が俺やあんたに立腹している、という話を聞いていた。だからあいつらの本音を聞いてもらおうと」
働いてもらった、と労るように斎藤の肩に手を乗せる。
斎藤も射るように近藤を見据える。
本当に、と落ち着いた声色で言った。
「今、新選組が分裂の危機にあると確信した。だから、──新選組を続けるために永倉が、あの原田までもがあれほど必死になったのです。でなけりゃ、腹を切る覚悟なんざするわけがない」
斎藤の言い分に、近藤は何度も何度も頷いた。
「──そう、そうだろう。そうだろうとも……」
神妙な顔の近藤はお構いなしに、そこで、と土方は顔をあげた。
「葛山に腹を切ってもらうことにした」
「えっ?」
近藤はすっとんきょうな声をあげた。
「こうでもしねえと、もっと反抗する奴らが出てきて今度こそ終わる」
「しかしそれじゃあ同じことじゃないか!」
「いいんだよ。副長の独断でやったことにするんだ。幸いに今度、近藤さんが東下するだろう。あんたは何も知らないまま江戸へ行った。それでいい」
と、土方。
しかし斎藤は「それではあんたが悪いということになる」と呟いた。
「大将が隊士のご機嫌を伺っちゃァナメられるだけだ。しかし副長っていう鬼がいりゃあ、自然と隊士は鬼より強い大将を頼ることになるだろう」
そして切れ長の瞳を険しく歪め、言った。
「この件は、あんたが悪かった。──そしてあんたをそうさせたこの俺が悪かった」
「────」
「俺とあんたは、葛山の死をもって、こののちの一生涯──この件を背負うべき自戒とするんだ」
外で雨が降りだした。
雨戸にバタバタと当たる雨音がやけに響く。近藤はがっくりと項垂れるように、うなずいた。
それからすぐの九月四日頃、近藤は永倉と武田、尾形を連れて江戸へ向けて出立した。近藤と永倉が気まずいのでは、と心配して綾乃も随行している。
先に隊士勧誘のために東下していた藤堂とも、向こうで落ち合う予定だ。
そして、土方の宣言どおり、その二日後の九月六日。
葛山は切腹をさせられたのである。
────。
元治元年九月半ば。
高杉晋作邸。
「辞表出してきた」
ぼそりと呟いた夫の言葉を聞いて、妻の雅はぽかんと口を開けた。
身重の妻がひとり。
つまりもうすぐ家族が増えるこの時に──などという、ケチ臭いことは武士の妻として言うことはなかったが、内心では何故、という疑問がある。
「……まあ」
「こがなとこでじっとしちょったら、死んでしまわぁ」
「で、では晋作さん、」
「うむ、藩抜ける」
「────」
また、いきなり。
なんてことを言い出すんだこの男は。
それから、一週間ほど経った頃に「またしばらく戻らんけえのう」と険しい顔で言ってきた。
その手には、荷物を携えている。
「なに言うてるの」
と、詰問をしたかったが。
雅はぐっと唇を噛んだ。
「危のうございましょうに」
「なに、ここにおる方が死ぬけん」
「えっ」
「ちぃと、気が付いたら敵が多なってしもうた」
どうしてこの人はいつもこう──なんて考えは、もう幾度となくしてきた。
そんなところを好きになったのだから、仕方ない。
雅はキョロキョロと裏口から外を見て、人の通りがないのを確認すると、夫に顔を向けて頷いた。
高杉晋作は、頬かむりをして自慢の長い刀は持たずに脇差だけを差している。
きっとどこか別の場所に隠しているのだ。
のんきにひょいと手を挙げて「じゃあの」と快活に言い、手に持った巾着袋を振り回して歩き出す。
──この数日前、
そのことを、高杉はまだ知らない。
酒癖の悪い奴だが、なかなかに有能で、憎めない人間だと思う。
高杉からすれば、一回りも年上の男だった。
一度、脱藩の罪で野山獄に投獄されたとき、酒に酔った周布が刀を抜いて、振り回しながら乱入してきたっけ。
ふと、そんな思い出を懐かしく思い返しながら、くすりと笑う。
あの時、彼は自分に向かって
「それでええッ。それでええぞ高杉。正直に生きれ、そしてこん国を引っ張ってゆけッ」
と、叫んだ。
あの言葉が、高杉の中で支えになったときもある。
間違っていない、と言ってくれる人間がいるのは、本当に心強いことだ。
──その後、山口へと向かった高杉は、
※
時は戻り、九月の初め。
江戸への出立組である。
「先立って藤堂くんが向こうに行っているが、我々も江戸で隊士募集を行う。お供に永倉くん、頼めるかな」
「ああ、もちろん」
近藤の誘いに、無愛想ではあったが、永倉はしっかりと頷いた。喧嘩を引きずらないのが、彼の良いところである。
「じゃあわたしも」
綾乃が、サッと手をあげたのは、永倉の同行が決まってから、コンマ二秒後のことだった。
「綾乃に同行はお願いしていないぞ」
「大丈夫、なんとかなります」
「────」
「葵と、携帯で連絡取れる人がいた方が、便利じゃないです?」
渋る近藤の前に携帯電話をちらつかせると、意外にも土方が頷いた。
「いいだろう。行ってこい」
「おい、トシ」
「心配ない。──すすめてくれ」
土方が言うのなら、と近藤も腹を決めたのかにっこり笑って「なればゆこう」と承諾してくれた。
さて、江戸への道中である。
「死ぬ──あと一メートルでも歩いたら確実に死ぬ!」
──と、綾乃は足の痛みに目眩を起こしていた。なんとか永倉や尾形の声援を受け、江戸までたどり着いた頃にはもう、九月の半ばになっていた。
「大丈夫だよ。ほら見ろ、もう江戸だ。よく頑張った」
「……江戸入った? 入ったの?」
「ああ入ったよ。良かったなァ」
永倉は、初めこそ近藤と一緒に、なにを話そうと気まずい思いだったが、正直綾乃がいたことでそれどころではなかった。
特に、箱根から小田原にかけての山越えは、相当厳しかったようである。道中の宿泊地から出発しようというたび、青い顔で永倉の裾を掴むのだ。途中で馬を借用しようかと思案したほどである。
しかし綾乃はなんとか徒歩で乗りきって、江戸の地を無事に踏むことが叶ったのだった。
「やったァ"ーーーーーッ、はっこねっのやっまはぁ天下のケン──っとくらぁ!」
「うるっ、うるせえなァ耳元で……!」
「ざまあみやがれ天下の険がァ! 箱根から小田原越えりゃァあとはレベチなんだよ──大磯、茅ヶ崎、藤沢、神奈川、川崎……」
ざまぁみろォ、と足を震わせる綾乃は永倉の肩を借りたまま快活にわらい飛ばした。平成人からすれば、JR東海道線を踏破したのだ。感無量である。
品川近辺であろう現在地を見渡す。近藤はえくぼを浮かべた。
「ここから多摩へ行く。先についてるだろう藤堂くんは、深川佐賀町の伊東道場に行くと言ってたから、向こうは向こうに任せよう」
「深川佐賀町──」
たしか江東区門前仲町のあたりだ。
ふうん──とつぶやいてから、綾乃は耳を疑った。
「多摩っておっしゃった。ここから?」
「うむ、日も高いし──」
「馬鹿だ、バーカ。殺す気か!」
品川から多摩など二十キロはあるはずだ。綾乃は今度こそ死んでしまう、と幼稚にわめき散らす。
「だ、だから辛い道のりになると言っただろうが」
「箱根は耐えたッ。明日なら頑張って歩くけれどもっ、今日はもうむり!」
「駄々っ子だなァ、ったくもう」
永倉が疲れた顔をした。
「近藤さん、しょうがねえからあんたはさきに多摩へ行ってくれ。コイツはこっちで引き取るよ」
「しかし」
「芳賀という俺の知り合いが江戸にいる。今日はその人に会いに行くよ」
近藤は苦笑して頷いた。
「ならばここから自由行動としよう。綾乃は、永倉くんについていけ。キミもあとで多摩に来るだろ」
「もちろん」
「その時にまた落ち合おう。尾形くんと武田さんも、多摩で。それまで自由行動だ」
「はい」
「応!」
こうして一行は離散した。
永倉は、深川冬木町に芳賀宜道がいるんだと微笑む。
「ふうん」
「今日はお前の足が死んじまうからここに泊まって、明日は──江戸城でも見に行こうぜ。でかいぞ」
「やったー!」
「うってつけの案内人がいるが……今じゃあもう立派な幕臣だろうし、なぁ」
という永倉のぼやきに、綾乃は首をかしげる。
「新八っつぁんだって、幕臣じゃん」
「いや、格が違うんだよ。あいつお坊っちゃまだから」
「お坊っちゃま?」
永倉の知り合いで、幕臣で、お坊ちゃま。
綾乃は思い当たる人をひとり知っている。
「そんな、ッハハ! 歴女に都合のいいように展開が繰り広げられるなんて──まさかそんな」
「
「ハイ来まちたよォ~♡」
「えっ」
どん引く永倉。
対する綾乃の血潮は、躍り猛った。
“滞りなく大津についた”
という文とともに、唐突に始まる日記は、現代の世で「征西日記」として知られている。
史料の正式名称は、『御上洛御共之節旅中並在京在坂中萬事覚留帳』。
鰻を食った、お菓子を貰った、鯛を貰った、観光をした、虫歯になったから稽古休む、小遣い貰った(高額)、宿は粗末、島原は粗末、暑くて難儀、ことごとく雨に降られて難儀、道に迷ったetc……
つらつらとこのメモ帳を執筆した人物が、伊庭八郎その人だ。
「話は聞いたッ。江戸はこの伊庭の小天狗にお任せあれィ!」
将軍警護を任務とする親衛隊、奥詰所属の伊庭八郎。
翌日起きて、綾乃が外へ出ると、永倉とともに月代を剃ったひとりの青年が立っていたのである。
「んっ?」
「歳三さんにご執心ってェのは、お前さんかい。三橋綾乃さんだろ」
「なに、やだ。貴方が──ええっ」
興奮のあまり、おでこを赤く染めた綾乃が永倉に目をやる。永倉は、にかっと笑って男の肩をがしっと組んだ。
「俺たちの江戸にいた頃の仲間だ。伊庭八郎ってんだけども、今じゃあ奥詰にお勤めの幕臣よ」
「好きです……」
「え?」
「あっ、しまった。積もる歴史への想いがあふれでてしまって」
「こいつ、ちょっとおかしいんだ。気にしないでくれ」
という永倉のフォローに、伊庭は戸惑いながらも頷く。綾乃は、永倉をぶった。
伊庭はよし、と笑う。
「江戸城下行くんだろう。案内してやらァ、早く行こうッ」
「あい!」
それから、綾乃は永倉とともに、伊庭に連れられて江戸城へと一歩一歩近付いた。
伊庭は楽しそうに話を振ってくる。
「歳三さんにご執心なんだって?」
「ご執心ってほどじゃ──ありますけど」
照れたようにうつむく。
自覚したのは、最近だ。
「むかしは悪ィお人だったぜ。女はたぶらかすし手前ェの義兄さんには金をせびるし──剣振り回して傷付けた奴に薬押し売りするし、もう滅茶苦茶」
「へえ」
綾乃からしてみれば、すべて伝え聞いたことのある話ばかりだ。そんなところも、可愛らしい、と思うのだから、末期である。
「沖田総司くんは、どうでした」
「年上に囲まれていたから、すっかり甘えん坊だったな。おいらァよくあの人が、近藤先生や源さんに引っ付いてるのを見たことがあるよ」
という伊庭に、永倉もそうだなぁ、と懐かしげにうなずく。
ふーん、と噛み締めるように呟く綾乃の顔は、綻んだ。
「でも、剣は本当に確かだよ。神童」
「やっぱりスゴかったんだ、昔から」
「うん。ただ飽き性だから──もし仮に近藤先生が剣をやめちまったら、やめちまうんじゃねェかってくらい、先生中心の思考なんだよ、ありゃ」
「いまもそこは変わらんな」
「はは、そうかい。──あぁ、おいらもみんなと京に行きたかったなぁ」
「どうして行かなかったの」
綾乃に歩調を合わせてくれているのか、あまり息切れをしない。伊庭はおいらの親父どのがね、と肩をすくめる。
「許してくれなくって。まぁ、元々江戸を離れて何かしようてなァ思ってなかったし」
彼の家は代々、幕末江戸四大道場とも呼ばれる、心形刀流という流派の道場、練武館を営んでいる。
心形刀流宗家の跡取りである伊庭八郎は、いわゆるボンボンなのだ。
「俺が声をかけに行ったんだぜ。最初は、ノリノリだったのにな」
親父に反対されるやコロッと変えやがって、と永倉が肩を揺らす。
ばつが悪そうに笑う伊庭だが、ハッとした顔ででも、と言った。
「この間京に行ったよ。将軍様の警護で」
「本当か」
この将軍警護には、新選組も同行した。
伊庭はこの将軍上洛の警護について、日記に「見物人が蜂のようで、狭い場所だがとても賑わってた」という感想を残している。
それほど人がいたのならば、新選組がいることにも気付かないだろう。
「じゃああそこに近藤先生たちもいたわけかぁ。惜しいことしたな」
「京、どうでした」
悔しがる伊庭に綾乃が聞く。
途端にテンションが上がり、くるくると飛び跳ねながら興奮したように言った。
「すごかったッ。鰻が金串使ってて、味が悪かったのはまあ仕方ないとして、島原もわりと大したことなかったけど──三十三間堂や天満宮は凄いもんだった。本堂なんか何もかも綺麗ェでさァ」
「島原、大したことなかったのかよ」
永倉は、がははと笑う。
たしかに彼の日記にもそのような記述がある。思い出して、綾乃も笑った。
「吉原のがすげェ。でも、京の人間が吉原見たら、きっと島原のがすげェって思うんだろうさ」
「まあね」
「それにさ、卵焼きも鯛も、馬鹿高ェだろう。物価がちげェのなんのって。あと、あれもよかったな、金閣樓ッ。すんげえ綺麗ェで見所いっぱい!」
よほど楽しかったのだろう、激しい身ぶり手振りを加えながら、説明してくれる。
その激しさに、綾乃が思わず永倉を見ると「元々、こういうやつなんだ。面白いだろう」と耳打ちした。
お堀がだいぶ近い。
伊庭はそういやぁ、とにやりと笑う。
「壬生にさ、戸田裕之助って人がいったろ」
「戸田──ああ!」
元治元年二月二十五日頃。
新選組の屯所に、佐藤安次郎を訪ねにやってきた男がいた。
それが、戸田裕之助である。
そのとき、彼は泥酔して屯所内でなにやら暴言を吐いた。そのため、隊士に捕らえられて奉行所に突き出されたことがあったのだが。
「あったね、そんなこと」
「それ、おいらの先輩」
「えっ」
永倉は驚いた顔をして、声をあげた。
「そうなのか」
「あの時はまだ講武所所属でな、戸田さんは奥詰にお勤めされてたんだけども」
「へえ──あの人、結局奉行所行ってどうなった」
「あははは、上がり屋(牢屋)に入れられたよ。ついでにおいらたちも謹慎。迷惑なこった」
はーあ、と深いため息をつく伊庭だったが、次の瞬間にはくすくすと肩を震わせている。
ころころと表情の変わる男だ。
「父上も参っちまって──三日間くらい謹慎したかなあ。退屈だったよ、ほんと」
とどまることなく話し進めていると、やがて、江戸城が見えてきた。
「う、うわ──ァ」
綾乃の口から、息が漏れた。
「へへへ、すげえかい。ちなみにおいらあそこにお勤めしてます。将軍様がおわすんだ、広いだろ」
なんということだ。
千代田区千代田の一丁目に位置するあの場所から、神田辺りまでずーっと伸びた敷地もといお堀。
綾乃の双眸から、ぼろりと涙がこぼれる。
「なんだ、どうした」
江戸城を、眩しそうに見上げていた永倉は、自分より背の高い綾乃の瞳から、涙が一筋溢れていることにぎょっとした。
「──ちがう、まって」
「お、おい……」
ずっと、見たかった景色だった。
綾乃にとって、平成に残る堀の石垣が、どれほど涙を誘ったかわからない。
かつてそこにあったであろう時代の傷跡を、とてつもなく愛おしいと思えば思うほどに、切なくて切なくて仕様がなかった。
まるで恋をしたような感覚だった。
その景色が、いま目の前に広がっている。綾乃は無量の喜びに震えている。
「生きていて、──こんなに感動したことないかも……」
「おまえも、感動して泣くことがあるのか」
俺はそのことに涙が出そうだ、と永倉がおどける。綾乃は、永倉をぶった。
立派だろう、と笑う伊庭に深くうなずいて涙をぬぐう。さすがに城の中までは、いくら幕臣がついていようと入れない。
さて、と周囲を見渡して
「腹が減ったからなんか食べよう」
と伊庭は言った。
彼は、よく食う。
彼の日記にも、食い物のことが出てこない日はほとんどない。時には一日何食食ってるんだ、という日もある。
「あそこの鰻がうめえんだ。江戸の鰻は竹串だからいいよな、味が落ちなくてさぁ。昔から鰻ってのは精がつくからっつってよく食ってたけどね──まあ、精がつくってだけの理由ではもちろんねえわけだけどもさ。十日に一回は食いたいくらい好きだね。だけどやっぱり金かかるからさ」
唐突にはじまった鰻語りに、綾乃は戸惑った顔を永倉に向けた。
彼は「元々、こういうやつなんだ。面倒くせぇだろ」と真顔になった。
「もし生まれたての赤子に、生まれて初めて食べるおすすめはなんだと聞かれたら、おいらは迷わず鰻と答えるよ!」
「聞かれねェから安心しろ」
永倉は吐き捨てるように言った。
その後、一行は深川方面へ向かい、先行している藤堂と落ち合うことにした。藤堂とも面識のある伊庭は一緒についていくという。
「ようし、じゃあ鰻食ったら出発するか。おい綾乃──歩けるかい」
「まかせな!」
「……そう言ってほぼ全行程愚図っていたのはどこのどいつだよ」
「鰻食ったらもう大丈夫、いやほんと!」
「…………」
それからすぐに鰻屋へと入り、江戸は竹串の鰻を食べた。たしかに、京に売っている金串の鰻よりも味がいい。
口のなかで身がとろける。綾乃はほうとため息をついた。
「吾が人生に一片の悔いなし──」
「大げさに言いやがって」
永倉は笑った。伊庭も、笑った。
日はすっかり昇りきっている。
※
『佐久間恪二郎、入隊致候事』
その頃、土方は勝海舟に向けて一通の手紙をしたためた。
佐久間恪二郎──元治元年七月に倒幕派浪士に暗殺された佐久間象山の遺児である。齢十六歳という若年ながら、父の仇をとりたいという志から、江戸と平行して京阪でも隊士募集をかけていた新選組に、勝海舟の紹介状を携えて入隊希望に来たのである。
勝海舟の紹介とあらば、たとえそれがどんな人間であろうと、無下に追い返すわけにもいくまい。
そう、たとえどんな人間であろうとも。
──それがたとえ、親の威光を最大限に振りかざすクソ生意気な青二才であろうとも。
「いや、自分佐久間象山の一男ッスけども。その痛そうな訓練、自分もやるんすか」
「…………」
土方のこめかみに青筋が通るのを、隊士一同はヒュッと息を呑みながら見つめていたのだった。
最初の方は良かった。
まだ謙虚という言葉を知っていて、父親の影こそ出してはいたが、それでもまだ純粋に仇討ちを目指す好青年であった。
しかし十月に入り、近藤の側近と申し付けられてから、何かにつけて親の威光を振りかざすようになってきた。
十月も下旬になると、土方は胃の腑に穴が開きそうなほどストレスゲージが限界だったのである。
「失礼しまぁす」
夜、土方の部屋に沖田が訪れた。
新入隊士の教育係をどうするか相談がしたい、と土方から声をかけられたのである。
沖田からすれば、それは十中八九、佐久間恪二郎のことであろうと察していた。無論、沖田が部屋に入るなり、土方は「おいなんとかしろ」と難題をふっかけてきた。
「あの愚息に、最低限の礼節を徹底的に叩き込め」
「むちゃくちゃ言うなぁ──私だって、礼儀がなってるわけじゃあないのに」
「最低限でいいっつったろう。俺の腹を立てさせねェ程度でいいんだよ」
「いやそらァ無理ですぜ!」
苦笑した沖田に、馬鹿野郎、と土方はすごんだ。
「このままじゃァ、あいつは死ぬことになるぞ」
「えっ、なぜです」
「俺が斬るからだ」
「……それは──うぅん、困りましたねェ」
沖田は眉を下げて背をそらした。胡座を基点に上半身がぐらぐらと揺れる。
土方は苛立ちを隠すことなく、文机を指でトントンと叩いた。そしてちらりと物置部屋に視線を向けた。
「こういうときに限って、居やがらねえ。……あとひと月は戻らんだろうし」
「えっ。……いや、それはいくらなんでも無謀です。佐久間くんに綾乃さんをあてがったら、それこそ内乱勃発でしょう。あの人ド短気なんだもの」
いいんだよ、と土方は着物の袷を弛めてごろりと横になった。己の右腕で頭を支え、沖田を上目に見据えて笑う。
「それであのクソボンが自ずから辞めるってなりゃァ万々歳じゃねえか」
「綾乃さんがイヤになって、出ていくなんて言ったら──」
葵さんだってついていく、という言葉は寸でのところで呑み込んだ。しかし土方は余裕綽々に笑う。
「言うわけねェだろ」
「どうして」
「俺がここにいるんだから」
「…………」
沖田は呆れたように黙った。
いったい三橋綾乃はこの男のどこが好いのだろう──。つくづく思った。
と、同時にふすまの外から聞こえた足音に、敏感に反応する。
「土方さん、徳田です」
葵だった。入れ、と土方が身を起こす。
すらりと襖が開くと、携帯電話を持った葵が正座をしていた。
「どうした」
「夜分にすみません──綾乃から連絡があって、新八さんと一緒に、一足先にこちらへ戻っているみたいです。新入隊士は近藤さんと平助くんにお任せしたって」
「そうか。首尾は」
「人数は結構集まったって。平助くんの知り合いで、影響力のある人が入ったからそれにつられて──っていうかんじ」
「影響力だァ? …………」
土方は一瞬むっつりと黙り込む。その後ろから沖田が「どんなお人です」と顔を覗かせた。
学がある人みたいだよ、と言った葵の頬はすこし熱い。沖田の顔を見るとつい熱があがるのだ。悟られないように、と葵はさっさと立ち上がる。
「それじゃ、失礼しました」
「アッ、まて」
土方は葵の腕を掴んだ。
「いつ戻るって?」
「ええっと、たぶんあと二、三日──」
「そうか。よし」
いいだろう、と満足げにうなずいて、土方は再びごろりと横になる。
すっかり機嫌が治ったようで、土方はお節介な親戚のおじさんのように「しかしじれってえな、お前ら」などと言い始めた。
こうなると面倒くさい。沖田はサッと立ち上がる。
「ねえ、私ももういいですか」
「ああ──しかしお前もしっかり見ておけよ。教育係がお前なのは変わらねえからな、総司」
「えェーッ」
「俺の鯉口が切られる前に頼んだぜ」
「やんなるなあ、もうっ」
沖田はむくれた。
※
綾乃や永倉が戻ったのは、葵のもとに連絡がきてから二日後のことであった。
「待ってたぜ、よく戻ったな」
土方はにっこり笑う。
帰還の報告を受けるや前川の門まで出迎えて、綾乃が前川の門を跨ぐなり肩までたたいて労る始末。
「わ、」
彼が自分を快く迎え入れるなど、経験したことがない綾乃にとって、それは喜びを越えて恐怖であった。
「……わたし今日死ぬの?」
「なにをバカなことを言いやがる。いやなに、女の足で江戸までの道をよく頑張った」
「え、こわ……」
なにが言いたいんですか、と訝しげに綾乃が問う。すると土方は一気に笑顔をなくして、いつもの涼しげな瞳を鋭くさせた。
「なんだよ、俺の歓迎に涙を流して喜ぶかと思ったのによ」
「不気味なんですよ、いきなりそんなこと言われても!」
「お前は語れば無駄だが黙ると不気味だな」
「帰営早々喧嘩売ってます?」
「じつは──おまえに頼みがあってだな」
「この流れで!?」
目を剥いた綾乃をなだめ、とりあえず場所を変えよう、と言った。自室に戻り、ついでに沖田と葵も呼び寄せて佐久間恪二郎についての話をした。
「はぁ──その恪二郎くんっておいくつ?」
「たしか齢十六だったような」
「十六歳……」
「高校生だねぇ」
と、葵は呑気につぶやく。その声を聞いて、あんたは、と綾乃が口を開いた。
「会ったことあるの」
「そりゃあ、同じ屯所にいるしね。でも話したことはないかな──向こうは女中なんか相手にしないっていうような態度だし」
「ふうん……」
葵の言葉に沖田のこめかみがピクリと動く。綾乃はとはいえ、と言った。
「わたしも会ってみないことには」
「綾乃、佐久間くんについては年表にいなかったの?」
「わたしだって全部網羅してるわけじゃないんだから」
「よほど興味がなかったのね──」
「いつ戻る?」
「もうまもなく戻る頃ですよ。あっ、ほら」
声が聞こえる、と沖田は妙に低い声でつぶやいた。
ガヤガヤと前川邸周辺が騒がしくなる。綾乃は立ち上がった。
「ま、十六歳が親の威光を借りる程度、可愛いもんじゃないですか。どれ、ちょっと見てこよう」
そそくさと部屋を出ていく綾乃の後ろ姿に、土方はにやりと笑う。
「おい、聞いたかいまの。あれがあとどのくらいで変わるのか見ものだぜ」
「寸の間でしょうな」
「見てくる」
葵は立ち上がり、そのあとを追った。
案の定、斎藤率いる祇園方面巡回組がわらわらと門前にいる。妙に大きな声で話しているひとりの青年を中心に、輪ができていた。
その様子を、すこし離れたところから眺めている斎藤に綾乃は駆け寄った。
「ハジメちゃん」
その姿に、彼は一瞬目を見開く。
「……帰ったのか」
「うん。ついさっきね」
「──ひとりで?」
「まさか。新八っつぁんと一緒に」
ああ、とうなずいて斎藤は眉をひそめながら口角をあげた。彼特有の笑いかたである。
「あれ──すごい盛り上がってるけど、どうしたの」
「佐久間恪二郎だ。……ヤツの親父がやれなにを言っていたってなことを、いつも言いふらしている」
「ほぉ、噂どおりね」
「副長に言われたのか」
「うん。なんとかしてくれって言われたから、どんな子なのかと思って」
「感想は」
「ふむ──もっと」
可愛げがあると思ってたな──と綾乃は口ごもった。佐久間恪二郎は鼻の穴を広げて、これでもかというほど親父の受け売りを垂れ流している。
周囲の隊士は、はやく休みたい──とでも言いたげに微妙な顔をしている。
「佐久間」
ふいに、斎藤が声をあげた。
達者な佐久間の口が止まり、隊士たちはハッと花が咲いたような笑みが広がる。
「は──なんッスか」
「どうも」
ハジメマシテ、と斎藤の後ろからひょこりと顔を出して、綾乃はにっこりと笑った。
すると、周囲にいた隊士が「綾乃嬢!」と嬉しそうに声をあげる。なぜか、女ふたりは破落戸のような呼ばれかたをしているのだ。
「あやのじょう──?」
「葵嬢のことは知っとるやろ。その人とおんなじで、いろいろわしらの世話焼いてくれよる」
「ああ、女中?」
佐久間はハッ、と鼻で笑った。
「それにしちゃあずいぶん態度が──あ、もしかして斎藤先生のコレですか」
と、小指をたててにやりと笑うものだから、普段めったに動かない斎藤の眉がぴくりと動く。
しかし綾乃は盛大に吹き出して、ゲラゲラと笑いだした。
「ああ、なるほどね。なるほど──ははは」
「なんなんッスか」
「いやァ、思い出した。父親の仇討ちのために、勝海舟の紹介でやって来たんだっけ。それであんまりの態度だから副長に目をつけられて──ふふ、」
笑うあまりに滲んだ涙をぬぐって、綾乃はOK、とつぶやいた。
「三橋綾乃です。よろしく」
「……はぁ、どうも──我が佐久間家では、女中が気軽に話せる環境ではなかったもんで。ずいぶん弛いんだなーって思って、ハハッ。あのう斎藤先生ェ、もういッスか」
と、返事を聞かぬまま前川邸内へと戻っていった。途端に、隊士が「助かりました」と斎藤に群がる。
「あいつ、話が長ェんだよ。父親の受け売りを話すんだけども、所詮受け売りだから大切なところが抜けていて、意味がわからんし」
「佐久間象山の言葉であるって言やァみんなが聞きたがると思っていやがる」
「ふうん──見事なまでの父親譲り、か」
ねえ、と綾乃は斎藤を見上げる。
「あの子、仇討ちの相手は知っているの?」
「ああ、熊本藩の河上彦斎だと」
「そう」
「どうする」
「どうしましょうね──」
とだけ呟いて、綾乃は黙りこんだ。
その顔が次第に闇のオーラをまといはじめる。案の定、ド短気且つ体育会系な彼女は佐久間の態度に言い知れぬモヤモヤを抱えたらしい。
「河上彦斎にあいつの暗殺でも依頼しようか?」
歪んだ笑顔でからりと言った。
思ったよりも怒っている。
斎藤と、影で見ていた葵は吹き出した。
※
十一月。
ひと足先に江戸からもどった永倉と綾乃。それから半月遅れて、藤堂ら江戸先発組が新入隊士を引き連れて戻ってきた。
そのなかにひときわ目立つ美男子がいる。
切れ長の瞳にすらりとした身体。黒々と結い上げられた総髪髷がとても雄々しい。
さながら、幕末の及川光博といったところか。
江戸深川に北辰一刀流道場を構え、江戸勧誘に赴いた藤堂とは旧知の仲である。
近ごろ、佐幕の一途をたどる新選組に対し疑問を持っていた藤堂が、真っ先にこの役に名乗り出たのも、伊東を勧誘することが目的のひとつであった。
なにせ伊東は、勤皇思想に厚いのである。
佐幕に寄りすぎている新選組に目を覚ましてもらおうと、藤堂が助太刀を頼んだ相手が伊東であったのは、当然のことなのかもしれない。
それと同時に、後の世にて新選組随一とも言われるほど剣技を持った、
文久三年の頃、横浜で篠原泰之進、加納道之助、佐野七五三之助とともに盟約を結んだためか、この江戸勧誘の折に三人ともに参加している。
──ちなみに七五三之助は、しちごさんのすけ、ではなく、しめのすけ、と読むらしい。
しかし、腕の立つ仲間が増えた、と万歳して喜ぶには、女たちは歴史を知りすぎている。
『新選組の瓦解』。
その足音が聞こえる気がして仕様がなかった。
「気に食わん」
とは。
バイトから帰った綾乃に、音もなく近付いた原田の呟きである。
驚きのあまり、綾乃は声も出さずに振り返る。
「ビッ──クリしたァ」
「気に食わんぞ、あの伊東とかいうやつ」
「え? ああ、頭脳派だしね──サノには合わないんだよ」
「引っかかる言い方だな」
原田のぼやきに「間違ってないね」と葵が茶々をいれた。手には隊士の洗濯物が積まれている。これから洗いにゆくところだった。
「これまで頭脳派は、山南さん一人のようなものだったけど──今回の募集は」
かなり来たね、という葵に、綾乃は周囲を気にしながら頷く。
「とくにあの人、なんとなくやばい」
その視線の先には、新入りの、服部武雄。
剣の腕前は相当だと聞いている。いつもむっすりと押し黙って、なにを考えているのか掴めない。
ちょうど廊下向こうから歩いてきた彼に、綾乃は片手をあげて「お疲れ様です」と声をかけた。
「──ああ、どうも」
服部は、かくっと首を微かに動かして礼をし、去っていく。
なんとそっけないことだ。
原田はその後ろ姿を睨み付けて舌を出す。子どものような嫌い方に、葵は笑った。
「あの人は、頭脳派の中でも肉弾戦が得意な方っぽいね」
「芹沢派閥がいなくなったと思ったら、今度は伊東派閥。ドラマチックな組織だぜ」
ったく、と鼻をならす綾乃に葵は問うた。
「綾乃はどっち派?」
「土方派」
「そんなのあるの!?」
「だって近藤さんは」
なんだか、伊東派に行きそうな予感。
原田に聞こえない程度に呟く綾乃に、葵は渋い顔をして、小さく頷いた。
※
すこしもどって、十月初旬。
壬生寺墓地にようやく、芹沢と平山の墓が完成する。
大きい墓ではないが、亡くなった彼らを偲ぶ場所が出来た──と葵は心から安堵した。
「良かった、いつになったら芹沢さんたちのお墓参り出来るんだろう、と思って不安だったんだ」
「遅くなっちまってすまねェな」
「土方さんが謝ることじゃないでしょ」
くすくす、と肩を揺らして笑う。
芹沢、平山両名の名前が刻まれた墓石は、平成で見たような色褪せはない。
それから毎日、葵は墓参りに出かけた。
これまで心のなかで済ませていた挨拶も、これからは彼らのための場所でできるのだ。
思わず、笑む。
心が軽くなったような気すらしている。
ある朝、墓石を掃除しようと、雑巾を片手に墓地へ入ったときだった。
「────あ。雨」
祝福の雨か。
濡れるのも構わず空を見上げる葵の頭上に、蛇の目傘が翳された。
「……………?」
「風邪引くぞ」
原田左之助だった。
片手には、名の知らぬ小さな花が摘まれている。
「サノさんもお墓参り?」
「ああ。花も摘んできた」
と傘を葵に託して、花を供える。
「ありがとう、芹沢さんも喜んでるよ。まさかサノさんがお花を摘んでくるなんて」
「からかうなよ。ほんの気持ちだ」
彼は口をつぐんで墓石を見つめた。
つられて、葵もそちらに目を向ける。
「立派な武士だったよ」
原田は言った。
「俺たち、お前から大切なものたくさん奪っちまったな。本当に、すまねえな……」
「────」
大切なもの──彼の言うそれは芹沢のことに他なるまい。原田は芹沢暗殺に加担したひとりでもある。
ただでさえ人情に篤い彼にとって、あの事件から一年が経過した今でもその想いは消えない。
「サノさんは」
新選組をどう思う、と葵が墓石を撫でた。
原田はさあ、と呟いてうつむく。そして「ただ」と続けた。
「守らなくちゃァいけねえと思うよ」
「…………」
「いろんなものを斬ってよ、斬って斬って斬り捨てて、それで俺たちにゃ今があろうもんよ。いまさら身勝手に潰しちゃァ、周りが黙っちゃねえやな」
「────うん」
手放してはなるまい。なるものか。
空を仰いだ彼の顔に、雨が降りそそぐ。
滴る水は、原田の頬をつたって、墓石に落ちた。
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