池田屋

 六月五日早朝。

 桝屋主人、古高俊太郎が捕まった。

 古高はかねてよりの尊皇攘夷論者であり、師には、安政の大獄にて捕縛された梅田雲浜うめだうんぴんがいる。

 福岡藩黒田家御用達であった古器骨董商、枡屋に養子として入り、枡屋喜右衛門を名乗り古道具、馬具を扱っていた。商いのなかで尊皇攘夷志士と交流を密にしていたようで、情報活動や武器調達に尽力したと言われている。

 とはいえ、これは伝えられた歴史の話。

 実際はどうだろう──と隊士に探りをいれると、案の定、大量の武器弾薬や血判書等が隠されていたようだった。

 古高捕縛と、桝屋からの押収物によって、今までの過激勤王派の動きとは違うと踏んだ近藤、土方が動き出す。


「…………」

 前川邸の蔵前に、隊士が野次馬をつくっていた。

 何事かと女ふたりが近付くと、人だかりの外にいた山野八十八がやんわりと手で制す。

「おふたりは聞かんほうがええ」

 山野は眉を下げて言った。直後、蔵が開く。

 中から出てきたのは、土方だった。

「おい、やっぱりさっきのをくれ」

 はい、と近くにいた隊士が土方に手渡す。

 なんだろう。葵が首を伸ばす。

 しかし手元が見えぬまま、土方はふたたび蔵の中へ身を引っ込んだ。

 蔵の戸が閉まる刹那、聞こえたのは

「殺せぇッ、殺してくれえ──」

 という、男の泣き声。

「────」

 葵は先ほどの隊士に、なにを渡したのかを聞いた。

「五寸釘だよ。さっきは三寸でいいと言っていたけど、やっぱり五寸のが据わりがいいんだろう」

「据わり?」

「足の甲から打ち入れて、そこに百目蝋燭を立てるのさ」

「…………」

 葵は絶句した。

 いったいどんな環境に身を置けば、そのような拷問を思い付くのか。葵は青白い顔になって綾乃の袖を引っ張る。

「……こわい」

「本当に」こくりとうなずく。「ひどい人」

「私が桝屋って言わなかったら──」

「関係ないって。うちの監察は有能だもん。遅かれ早かれ分かったことだ」

「そう、だけど」

「あらら、いけませんね。あの人」

 張り詰めた緊張感を一気に削ぐような声で、いつから居たのか、沖田はひょっこりと後ろから顔を出した。

「お、」

「朝から血生臭いなァ」

 沖田は続けた。

「前川さんに申し訳ないや」

 血にまみれているであろう蔵を思ってか、心底気の毒そうにつぶやく。

「土方さんって、昔からあんな感じなの」

「まさか」と沖田が首を振る。

「昔からバラガキのトシ、なんてえ異名はつけられていましたがね。楽しい人ですよ。としさんのお餅つきなんか傑作で──」

 でも、と寂しそうにつぶやいて

「京では、そのとしさんはちょっとおやすみしているんですよ」

 と笑った。綾乃は蔵に視線を戻す。

 涼やかな目元の奥には、恐らく女にはわからぬ憎悪が籠められている。

 思えば芹沢のときも、土方は瞳に憎悪という感情をためていたように思う。

 その憎悪がなにに向けられたものかはわからない。

 しかし彼は、そんな憎悪の力を借りて、鬼になっている──と綾乃は思った。

「……出てきた」

 沖田の声が冷たく耳に響く。

 しかし土方は妙にさっぱりした顔で、井戸端で身体についた血を洗い流す。

 最中、近くにいた隊士に「蔵の中を掃除してくれ」と声をかけた。

「沖田、朝餉だ朝餉。稽古中の奴らにも声をかけてやれ」

 葵をちらと見てから、土方はこちらに近付いてさらりと言った。

「はーい」

「────」

 綾乃には一切目もくれずに去っていく。

 そのうしろ姿を目で追いかける綾乃が「沖田くん」とわらった。

「わたしたちが、声かけてくるよ」

 そのまま返事も待たずに稽古場へと歩き出した。


「めぇえんッ!」

 夏も間近のこの季節、熱気のこもる稽古場は地獄のように蒸している。

 しかしそんな暑さをものともせず、稽古場の中では藤堂と永倉の立ち合いが行われていた。

「浅いッ」

「ぐふっ」

 藤堂の気合いもむなしく、永倉の突きによって藤堂はがたんと倒れる。

 が、すぐに立ち上がって面を取り、頭を下げた。

「はあ──やっぱり永倉さんの相手は斎藤か沖田か」

 かなわねえや、と藤堂が突かれたおでこを触ると永倉が竹刀で頭を叩いた。

「ばか、現場じゃそんなこと言ってられねェぞ」

「わかっちゃいますがね、なかなかあんたより強い奴なんかいないですよ」

「お前はここに隙を出しすぎる。気をつけろ」

 と、永倉が藤堂の額を撫でる。

 藤堂はそうですかァ、と呑気な声を出して笑った。稽古場の入り口に、綾乃がいる。

「みなさん、朝餉にしましょう!」

 彼女の掛け声で、殺気を迸らせていた侍たちは一気に食べ盛りの男たちへと戻っていた。


 ※

 それから間もなく、古高が自白した。

 苦痛──足の裏から甲にかけての五寸釘打ち込みと、そこに立てた百目蝋燭攻撃──に耐えかねたのだろう。

 古高の供述は、

「六月下旬の強風の日に御所に放火して、混乱してる隙に松平容保以下佐幕派大名を殺し、天皇を長州へ連れ去ってしまおう」

 というものだった。

 その上、すでに計画実行予定の志士が多数京に来て潜伏しており、近々市中で同志の集会があることも判明したのである。


「京の焼き討ちだァ?」


 古高から聞き出した過激派の計画に、近藤、土方は動揺を隠しきれない。

 天皇を拐かして京の町を犠牲にするなど、許されるものではない。

 近藤を中心に、新選組はすぐさま警戒体制へと入った。

 ──はずだが、桝屋で見つけた武器を昼頃に全部奪取されてしまったのである。これには新選組も敵を褒めざるをえなかった。

 この状況で我らの目を盗み、武器を取りにくる度胸は相当のものだろう。

 しかし褒めてばかりもいられない。

 近藤は、武器が盗られたならば──と、過激派浪士の会合場所を自白させようとさらに古高を攻め立てた。

 しかしもはや一刻の猶予なく、隊士総出で京の市中を徹底的に捜索。

 当然、会津にも話を通して、一橋、桑名、町奉行所たちと打ち合わせをした結果、新選組が昼頃から武装していた祇園の町会所に、夜五ツ頃に集結することを約束されたのだった。

 その計画実行も、と土方が鎖帷子をいじくる。

「古高が捕まったことで破綻どころか早まっちまうに違いねェ」

「早まるってなぁどのぐらいだ」

「知らねえよ。だがもう長州にしてみたら失敗は許されねえ。早けりゃ明日か、──会合は今日も有り得る」

「む、────」

 祇園町会所にて。

 臨戦態勢をとる隊士たちを前に、近藤は唸った。


 ※

 町奉行所が来る半刻ほど前。

 新選組は、すでに待ちきれなくなっていた。

 まったく、血の気の多い烏合の衆である。他隊の集結も待ちきれず、単独で捜索を開始したのだ。

 ここ最近、新選組内では病気や脱走が相次ぎ、わずか三十四名の出動だった。


 ──ここからは、綾乃と葵が後日談として聞いた話である。


 祇園町会所から午後八時に出発することになり、隊は近藤隊と土方隊に分けられたそうだ。

 近藤隊は、率いる近藤を抜けばわずか九名。ここには沖田や永倉、藤堂といった腕利きのベテランが固まっていた。

 彼らは、祇園町会所を出発後に河原町通を北上。三条小橋まで出て、三条あたりの旅籠や料亭を虱潰しに、池田屋に目星をつけるまで約二時間半ほど探し続けた。

 一方の土方隊は、率いる土方を抜いて二十三名。この中には井上、原田、斎藤がいる。近藤隊との数の差は、捜索範囲の広さが違うためである。

 彼らは、縄手通を北上。午後八時半頃には祇園界隈を捜索する姿が目撃されている。

 へへへ、と原田が槍を担いだ。

「根こそぎ俺の槍の餌食にしてやるぜ。近藤局長の隊に取られてたまるかッ」

「なんで仲間内で争ってんだ、馬鹿」

「どうせ副長は目星ついてんでしょうや。どこです」

 土方は首をくいとかしげた。

「──監察が報告したなかにゃァ、旅籠の池田屋か四国屋、そのどちらかが多いらしい」

「じゃあそっちいったらいいじゃねえか」

「まあ待て、先にここら辺を漁るんだよ。のちのち裏をついてここらにいたとなりゃ、それこそ面目丸つぶれだ」

「それもそうか」

 そののち、彼らは三条大橋を直進して右に曲がった先の四国屋へ行くことになる。


 ──午後十時半頃。

 旅籠池田屋の前に、十人の男がいた。

 近藤隊である。

 目つき鋭く、近藤は隊士を見回した。

「幹部以外は裏手とここ、表口に待機しろ。何匹たりとも逃がすな」

 低く唸るような近藤の声に、隊士らは声を抑えて「はっ」と頷く。

「よし、幹部は俺とともに来い」

 近藤は、冷静に言った。

「──行くぞ」

 三人は、無言で刀の鍔に手をかけた。

「御用改めであるッ!」


 ──この一言により、後の世で語られる池田屋事件は始まった。


 このとき永倉は玄関から入って直進した先の炊事場で、藤堂はその少し先の中庭に下りて待機した。

 近藤の声に驚いた池田屋の主人は慌てて二階に駆け上ろうとするも、すでに階上には抜刀して待ち受ける三十名ほどの志士たち。

「新選組の御用改めである。無礼すまいぞッ」

 大声で叫ぶ近藤とともに沖田は玄関から直進した先にある、その階段を駆け上がった。

 そこからは二時間余りの大乱闘となった。


「あぁっちぃなちくしょうッ」

 逃げてくる敵を斬り捨てる藤堂は、額当てを逃れた汗が目に入ってくることにイラついていた。

「っくそ、見えねえしあっちいしよォ──」

 言いながら目前の敵を斬り捨てて、額当てをはずして汗を拭う。


「あっ」


 戦場に休みはない。

 彼は当たり前のことを、いま思い出した。

 額から猛烈に血を吹き上げながら。

「へ、平助ッ!」

 永倉のあわてた声が聞こえる。

 こんな狭い室内で。

 志士が群がるこの戦場で、いま、額当てをとる馬鹿がいるものか。

「お前は馬鹿か!」

「…………す、すみま」

 永倉の怒声に、藤堂は必死に階段下へ隠れようと身を動かす。

「ちくしょう平助、覚えてろッ」

 おかげで永倉は、藤堂を守りつつ一階部分を任されることになる。


 その頃、一本三条大橋側の道へ入ったところにある四国屋にて不発を起こした土方隊は、即座に池田屋へと矛先を向けた。

「行くぞ」

 土方の一言に、原田や斎藤は率先して戦場に飛び込んだ。

 ──飛び込んできた原田をチラと見て、永倉が剣先の血をパッと払いながら二階を指差す。

「上は局長と沖田しかいないッ、加勢を頼む」

「二人なら十分だ。それよりここはお前一人じゃねえか。藤堂はどうした」

「やられた! 俺の後ろで寝てるッ」

「えっ」

「くそっ」

 原田は驚いて階段下を覗き込む。と、同時に永倉の元に再び敵が群がった。

 すかさず斎藤が加勢に入る。二人は、会話こそあまりしないが仲が良い。息もぴったりだった。

 それを見た土方は藤堂に駆け寄り、一刻も早くここから連れ出そうと担ぎ上げる。

「──す、すみませ」

「喋るな、体力を温存しろ。邪魔だオラッ」

 斬りつけられ、土方はそこら辺にあった布をバサリとかけた。抜いて、慌てる志士を布の上から斬りつける。


「オラオラオラオラオラァッ!」


 藤堂が土方によって外に運ばれたのを確かめて、原田は威勢のいい声をあげた。

 得物は彼のトレードマーク、長槍だ。

「串刺し御免ッ」

 中は大丈夫だろう、と判断した原田は、外に出て入り口から二階の窓下にかけてを受け持った。

 と、いうことは。

 二階から地上へ飛び降りる志士には、表口で待機していた原田や隊士が群がる。

 近藤、沖田の猛勢からかろうじて逃れた志士には、腕の立つ永倉と斎藤、土方が。

 新選組に死角はない。


 ──二階。

 すでに、沖田や近藤が斬り捨てたものや路上に逃げた志士たちが多く、生きた敵はいない。

「……っは、──はあ」

 沖田は、視界のかすみが気になっていた。

(今日はあまり動きがよくなかった。──いつもなら避けられる返り血を、まざまざと浴びてしまったし)

 ああ、血だらけだ。自分が血生臭い。

 沖田は壁に寄りかかりながら鼻頭にシワを寄せる。

 それにしても、京に上がるまでは人など斬ったことはなかったが、よくここまで斬れるようになったものだ。

 最初に斬ったときは、もちろん足が震えたというのに。

 くらり、と眩暈がする。

(……ああ、いかん)

 少し暑すぎやしないか、今日は。

 京の夏は恐ろしいと誰かが言っていたけれど、あながち間違いではなさそうだ。

(くらくらする──)

 いけないな、と沖田は瞳だけを動かして周囲を見た。近藤は階下の様子を見に行ったらしい。

 じり、と刀を畳に突き刺して、体重をかけながらゆっくりと階段の方へ歩いた。

(残党狩りがあると近藤先生が言っていたのに、こんな風に刀を杖代わりにしたら刃こぼれしちまう)

 まるで頭がのぼせたようだ。

(少し、少し休むならいいか)

 階下から、土方の声が聞こえて、沖田はくすりと小さく笑った。そして、心のなかでごめんなさいと呟く。

 少し休もう。

 このまま立っていたら、死にそうだ。

(いや、死にはしないけれど)

 膝をついて、ごろりと横になる。

 ちらりと横に目をやれば、死体が目の前に転がっていた。

 死体のそばで寝ッ転がるなんて気持ち悪ぃ、と眉根をひそめ壁の方に向き直る。

(ぐるぐるする、頭の中────)

 そこから意識を落とした沖田は、どのくらい眠っていたのだろうか。がやがやと耳元が騒がしい。

「────!」

(…………)

「──うじ、総司ッ」

 ぱちり、と目を開けて、ぼうっとする頭が冴えるのを待った。

 目の前には怖い顔の近藤がいる。

「あ、」

「どうした、斬られたか」

「いえ少し……眩暈が」

「────無理をさせたな」

「そんなことっ」

 もう大丈夫です、と立ち上がるも再び眩暈によってバランスを崩した。

「そんな青白い顔して何を言う。もうすぐ屯所にいた奴らが来る。少し待て」

「残党狩りには私も」

「お前のような病人がいても邪魔になる。しっかり養生して、役に立つようになってからだ。いいな」

「…………はぁい」

 沖田は、つまらなそうな顔をして呟くように返事をした。

 しかし、近藤の言うことはもっともだ。自分が彼の立場でもそう言う。

「血がぐしょぐしょで、気持ち悪い──」

 こういうとき。

 心がどんどん固まるような気がする。

「……替えの着物、持ってきてくれるかな」

 呟いて、沖田は小さく苦笑した。


 ──屯所に戻ってきた男たちは、文字通り血で血を洗ったかのような有り様だった。

 死亡した奥沢栄助や、瀕死の安藤早太郎、新田革左衛門、藤堂平助の引き取りに向かった監察は、程なくして帰ってきた。

 沖田は青白い顔で土方に添われこそしているものの、自分の足で歩いている。

 葵の手が震えた。

「帰ってきた──」

「…………」

 結局、沖田は血みどろの着のままだった。

 その姿を見た葵は黙りこくり、綾乃は「おかえり」と手を振る。

「山崎、怪我人の寝る場所はまだあるか」

「はい。八木の主人が使ってくれとのことで、病人はほとんどあちらに」

「ありがてえ。急げ、安藤と藤堂は血を出しすぎた」

 沖田を縁側に座らせて、土方は担架に乗っている藤堂の元へ慌ただしく駆け寄る。

 ホッ、と一息ついてから、沖田は自分を見ている葵と綾乃の存在に気が付いた。

「あ、」

「沖田くんっ」

 と駆け寄る葵に沖田は笑った。

 だめだめ、と着物を脱ぎ捨てて井戸端へ近寄り、そのまま井戸で手をゆすぎだす。

「──血が、すごいから」

 手ぬぐいでしっかりと手を拭き、襦袢姿でこちらに歩み寄ってきた。

「もう夜も遅いのに、起きていたんですか」

「あ、うん──大丈夫なの」

「ぜんぜん、へっちゃらですよ」

「…………」

 快活に言うわりに青白い顔をした沖田に、戻ってきた土方が「何がへっちゃらだ馬鹿、寝ろ」と一喝して、そばにいた山崎に声をかける。

「近藤さんと合流する。俺たちがいねえ間、頼むぜ」

「承知しました」

 頭を下げた山崎の髷が揺れる。

 一瞬、土方の目が遠くなる。やがて彼はぼそりとつぶやいた。

「怪我やら病やら本当──大変だろうが頑張ってくれ」

 疲れた顔は一切見せない彼だが、きっと心労は溜まっているのだ。

 似合わぬ優しい言葉に山崎は眉を下げて微笑んでから、しっかりと頭を下げた。


 伝え聞いた話だ。

 望月亀弥太が、長州藩邸前で自決した。

 坂本はそれを江戸で聞いた。

「……死ぬることだけが、武士ではないろう。馬鹿野郎が、────」

 坂本は泣いた。

 彼らは、国を変えるために死んだのではない。

 ただ、死に急いだだけだ。

 やりきれない虚しさに、坂本はただ、壁をたたいたのである。


 ※

 六月八日。

 池田屋事件報復のため、長州藩浪士が新選組屯所に押しかけるのでは──という噂が立った。

 屯所の周りは警備で固められ、緊迫した雰囲気が漂う。

 張りつめられた空気のなか、綾乃が見張り隊士──司馬良作の脇腹をつついて遊んでいたときのこと。

「あのう」

 と、ひとりの女がしなを作って寄ってきた。顔も鼻も口も小さくて、切れ長の目が大変色っぽい。

 その色香に当てられたか司馬は頬を赤らめた。

 再度彼の脇腹を肘で小突いてから、綾乃は女を見る。

「なにか御用ですか」

「土方はんを──」

「はい?」

「土方はんどす」

 土方はん、女は三度言った。

「吉井屋のお初言うたらわかります」

「……あぁ、はいはい」

 司馬がぼそりと言った。なにやら知ったような口である。

 知ってるの、と聞けば、司馬はにっこり笑って「もちろん」と言った。

「染物屋ですよ、巡回中に前を通るので隊士はみな知っています」

「へえ──」

 綾乃は頷く。が、この緊迫したなかで女一人のために土方を呼ぶわけにもいかない。

「いま土方さん忙しいので、御用件をお伝えしますよ」

 いや、と女は首を振った。

「顔見て、お話したいことがおますのや」

「…………」

 顔に似合わず頑固なアマだ──とは言わない。

 司馬に女の相手をしてもらい、綾乃はしぶしぶ副長室へと向かった。


「失礼します、土方さん」

 遠慮がちに入ってきた綾乃に、部屋の主は迷惑そうな顔を向けた。

「何だよ、いまおれァ忙しい」

「表に吉井屋のお初さんが土方さんに会いたいって。いまは見張りの司馬さんにお相手してもらってますけど」

「おはつ、…………」

「追い返しましょうか」

「────いや」

 と、いきなり立って部屋を出て行った。

 ざわりと綾乃の胸が騒ぐ。

(まことお忙しいようで)

 ひとり肩をすくめ、そのあとをこっそりと追った。


「──お初さん」

「まあ、良かった」

「何故来た」

「忙しいゆうて来てくれへんから」

「ああ、今は見てのとおり忙しい。一段落ついたらまた行くから待ってろ」

「四国屋の旦那はんに聞きましたえ。土方はんが刀をもって──ほんでそのあと、あっちの旅籠へって。怪我なんかしとらんやろかって、心配で……」

「その件もあって忙しいんだ。それに屯所は危険だ、来るんじゃねえ」

「せやかて、土方はんぜんぜん来ェへんし」

 と、土方にぴたりと寄り添う。

 目が陶酔している。この男に本気で惚れているのか。

「いいから──戻れ。ここは女の来るべき場所じゃねェ」

 そんな土方を、お初はじっと下から見つめて口を尖らせた。

「ほんなら、さきのおなごはなんどすのん」

「あ? あぁ、────」

 居候だよ。

 面倒くさそうに答えた彼に、散々文句を垂れてからお初はようやく帰っていった。

 後姿を見届けて、土方は溜め息をつく。

「チッ」

「いたッ」

 端に避けて聞いていた司馬の背中を叩いた。迷惑な八つ当たりである。

「────」

 陰から覗いていた綾乃は、じっとりと土方を見つめる。

「なんだよ」

「いえ? べつに」

 つん、と横を向いた。

 これはジェラシーである。

 完全に自己責任とはいえ、出会った初日からぞんざいな扱いを受けた自分と違い、忙しい合間を縫ってまで顔を見せてもらえるお初が、とても妬ましかった。

 そして同時に、綾乃はこの感情がかなりまずいことだというのにも気付いていた。

(これはいかんぞ)

 と、バツの悪い顔で門を出る。

 すると土方は、あわてたようにその後ろ姿に声をかけた。

「おい、どこへ」

「散歩です」

「いまは危ねェと言ってるだろうが」

「大丈夫ですよ」

 すぐ戻ります、と顔も見ずに言って綾乃は壬生寺方面へ歩き出した。

 なんだよ、とつぶやき立ち尽くす。

 ふと視線を感じて横を向けば、また少し距離をあけて司馬がこちらを見ていた。

 一瞬見つめ合い、やがて土方は仏頂面で踵を返す。

「チッ」

「いたァッ」

 ついでに背中を小突かれて、司馬は悶絶した。


 一方、とはいえ行動範囲の狭い綾乃には、ここくらいしか逃げ場はない。

 壬生寺である。

「────」

 ああ、と小さく声を漏らした。

 喉元がイライラする。無性に叫びたくなった。

 ──これはまずい、と。

「ジェラシーって、なんだよ!」

 綾乃にとって目下緊急事態はこれである。

 いままで好きだなんだと吹いておきながら、今さら──とも思うが、綾乃は焦っていた。

 ジェラシーとは、つまり相手の感情がこちらに向いていないことに対する怒りや悲しみのこと。

(そんなもの)

 向いてどうする、と綾乃は思った。

 五ヶ月前に現代へ戻ってから、その気持ちはますます強くなっていた。

 所詮は生きている時代が違うのだ、と。

 この世界で一生を終える覚悟もないくせに、感情を向けてもらおうなどおこがましいではないか。

「好きでいるだけで良かったのに……」

 途方にくれたように呟く。

 しかし土方の言葉を頭のなかで反芻すれば、

(──居候か。しょっぱいな)

 と渋面をつくる。

 欲張る気持ちを抑えられない自分に、綾乃は項垂れた。そのとき、

 てん。

 という音がした。

「あや姉、あや姉げんき?」

 てん、てん、と綾乃の足元に転がった鞠を追いかけて、八木家の息子、勇之助が走ってきた。

「おお──げんきだよ。勇坊も元気だね」

「あや姉泣いたら、勇も泣くで」

「泣かないよ。──それよりこんなところにいたら危ないじゃんよ。早く戻りな」

「あや姉は戻らんのん?」

「戻る戻る。いっしょに戻ろう」

 七歳足らずの子どもに心配されてしまった。綾乃は苦笑して鞠を拾い上げた。

「勇坊は、好きな子いるの?」

「──おらん!」

 そっぽを向いた耳が少し赤い。

 きっといるんだろう、と綾乃はほくそ笑んだ。

「できたら言いな、あや姉が手伝うからね」

「いやや、あや姉はあてにならん」

「なんで──」

「土方やろ、あや姉の」

「なんだって?」

 焦る綾乃に、勇之助は鞠を手のなかで転がしながらにやりと笑う。

「為兄が言うてはったよ。あや姉はな、土方が好きなんやけどな、土方は知らんぷりしとるて」

「大きなお世話じゃッ」

「ほんでもな、なに言われても泣かんからな、あや姉はすごいぞて」

「お前たち──」

「ほんでな、原田がな、それは頭がマヒしとるだけやて言うとった」

「あンの脳筋抜け作が……」

「あや姉、女を泣かす男はだめやて父様言うとった。男は土方だけやないで」

「こ、この────」

 クソガキめ、という言葉は呑み込んだ。

 代わりに勇之助のぷっくりとした頬を撫でる。

「違うんだよ。別に土方さんに泣かされた訳じゃなくて、嫌いになれないから泣いてるの」

「なんで?」

「なんで?」

「あや姉に嫌われたら、土方泣くんちゃうん」

「はァ? ────」

「はよ戻ろう」

 勇之助は、嬉しそうに手を引いてくれた。


 さて──。

 結局噂に終わったちいさな騒動だったが、いまだ心の休まるときはこない。

 後の世にいう、明保野亭事件が起こったのである。

 概要は、

「明保野亭に長州が集会を開いている、という情報を得たため御用改めに行った。するとそこに長州はおらず、たまたまそこで飲んでいた麻田時太郎という土佐藩士を刺しちゃって、あら大変」

 というもの。

 この捜索活動には会津藩士が五人ほど加わっていたため、今後、会津と土佐の間に亀裂をいれるのも得策ではないと、会津が謝りに行くことになる。

 すると、「麻田も挙動不審だったし」と土佐藩の人間が言ったことで、あっさりと麻田は切腹させられてしまった。

 しかし、それならば会津も黙ってはいられない。

 こちらも悪いことをした──という念を込めて、誤殺人を犯した柴司しばつかさが自ら命を絶つことで、この両藩の亀裂は円満に片付いた。

 新選組、とくに土方はその事件の後処理に追われ、ようやく非番が取れたのは六月も下旬に入った頃であった。


 土方は朝餉を食い終えるなり、

「……あぁ、疲れた──」

 と言葉を漏らす。

 珍しい、と綾乃は笑った。

「良かったですね、非番が取れて」

「少しくらい休んでも罰は当たるめえ」

 これほど働きづめだと、過労死しやしないかと冷や冷やしたが、さすがは武士というべきか。心身ともに鍛え方が違うようだ。

 綾乃が、土方の膳を下げようと手をかけたときである。

「……三橋」

「はい」

「八坂の方にでも、行くか」

「はい?」

「──嫌ならいいが」

 とんでもない。

 これはデートのお誘いではないか。

「いえ。……行きます」

 しかしいま、綾乃の脳裏には染物屋のお初がよぎっていた。

 一段落ついたら会いに行くと言っていたことが気になった。

 黙って見つめてくる綾乃に、土方はばつが悪そうな顔で「なんだよ」とつぶやく。

「俺の気が変わらねえうちに、さっさと支度しろ。俺は短気なんだ」

「はいはい」

 まあ、いいか。

 彼が忘れているのならばそれでいい。

 まるで暴君だわ、と笑いながら、綾乃はそそくさと膳を下げた。


「あや姉ェ」

 門から出たときである。

 勇之助が声をかけてきた。

「勇坊!」

 どうしたの、と勇之助の目線に合わせるために腰をかがめた。後ろでは土方が「なんだ」と声をあげている。

「勇坊、なにか」

「────」

 言いかけた綾乃の耳に口を寄せ、勇之助はキラキラした目をしてこそりと囁いた。

 その言葉に、綾乃は照れか怒りかで顔を真っ赤にして「ばかたれ!」と言った。

「おい、三橋どうした」

「い、──いやッ」

「いってらっしゃい」

 綾乃は、顔を伏せた。

 なんだよ、と土方は面白がって顔を覗きこんでくる。

 その子どものような笑顔に、綾乃はギリ、と奥歯を噛んだ。

 

 ──あや姉、土方といっしょのときは、女の子やねえ。かいらしな!


 勇之助の言葉で、綾乃は悟った。

 自分で抑えていたはずの感情が、外に漏れるほどに大きくなっていたことを。


 ※

 閑話を挟むことにする。

 とある日の昼下がりのことである。

 会津藩のトップは、近藤を呼び出して密命を下した。これは当然歴史に残ってはいない。その内容は、

「余の息子を捜してくれ」

 と、いうものだった。


 詳しく言えば、こうだ。

 容保の正室敏姫は、ある一人の男子を産み落とし、わずか十九歳で逝去した。

 世には、側室が産んだ容大が長男とされているが、実はこの若き正室も一人の男子を死に際に産んでいたのである。

 名を、容興という。

 彼は生まれつき右頬に大きなアザがあった。そのうえ出産時に母体が絶えたとあって、忌み子ではないか噂をされたのである。

 容保の側近により、世間に知られぬよう育てられたため、閉塞的な日々を子どもながらに送っていたという。


 そんな七歳の子どもが、ついに殻を破って下界という異世界に飛び出してしまった。

 慌てた容保は、体調不良である己の身も構わずに、息子の存在を知る数少ない側近のみに事情を話し、そこから何故か巡り巡って近藤までたどり着いた、というわけだ。

「──と、トシ。これは一大事だ」

「んな慌てるようなことでもねえだろ。ガキ一匹に」

「トシ!」

「わかってるよ──なるべく知られることなく探せってんだろ。ったく、うちは迷子探しはやってねえってんだよ」

 面倒くせえなあ、とブツブツ呟きながら、組頭を集めて事情を説明。

 ここから、新選組の極秘捜索が開始されたのである。


 ──壬生寺では、綾乃と葵が遊んでいる。

 物が溢れる平成の世から、娯楽に枯渇する江戸時代の世に来てわかったことは、娯楽は物などなくても生み出せる、というものだ。

「もういーかい」

 柱に向かって目を閉じて叫ぶのは、葵。

「まーだーだよ」

 いい隠れ場所がなくてうろうろしているのは、綾乃だ。

「もーいーかい」

 間髪入れずに叫ぶ、葵。

「まーだーだよ」

 焦る、綾乃。

「もーいーかい!」

「まーだだってば!」

「はーやくしろ!」

「うるせーッ」

 だんだん、お互いの声色にイラつきが見えはじめたころ、ようやく綾乃は草陰に身を潜めた。

「もういーよ」

 その合図に、葵は顔をあげる。

 ふと目の前に大きな痣を右頬につけた少年と目が合った。

 どうやら、遊びたがっているようすである。

「────」

「もういーよッ」

「…………」

「もーいーよってば」

「…………」

「…………」

 探す気配がない。

 綾乃は、隠れていた場所から顔を出した。葵は知らない少年と見つめあったまま動かない。しびれを切らして綾乃は草陰から出た。

「だれ、どこの子」

「綾乃みっけ」

「ずるい!」

「ずっとこっちを見たまま動かないの」

「君、どこの子」

 綾乃の言葉には返答せず、どこか上品な面立ちの少年はじっと黙っている。

「……じゃあ、一緒に遊ぶ?」

「!」

 途端、彼はキラキラと目を輝かせた。

 召し物も上質に見えるが、どこの迷子だろうか──と綾乃は腰をかがめる。

「綾乃って呼んでね、こっちは葵。お名前は?」

「松平容興」

「まつだいらかたおき?」

「まつだいらかた──」

「まつだいら……かた?」

 脳裏によぎるのは以前壬生興行の際に三言交わした組の上司である。

 まさか、と葵は綾乃を見た。しかし容興などという息子がいたとは聞いていない。綾乃は感心したように唸る。

「なにを、しておったのだ」

 少年はぼそりとつぶやいた。

 恥ずかしそうにうつむいている。きっと若い女性と話すことに慣れていないのかもしれなかった。

 ならば遊ばせよう、と女ふたりは立ち上がる。

「かくれんぼ。したことある?」

「かくれんぼ──」

「鬼がひゃく数えるあいだに、どこかに身を隠す遊び」

「ふむ──?」

 容興は首をかしげた。

 葵が樹の幹を叩いてにっこりと笑った。

「じゃあ、つぎは綾乃が鬼ね。いっしょにかくれんぼしよう」

「まってよ。つぎって言うけどいまのはノーカンじゃないの?」

「はい、ひゃく数えて。容興くん、いこう」

 綾乃の言葉に聞く耳はない。葵は容興の手を引いて駆けだした。取り残された綾乃は仕方がないので樹の幹に顔を伏せる。

「もう──いーち、にー」

 かくして、新選組のターゲットを交えたかくれんぼが、壬生寺にて唐突にはじまったのである。

 しかしその頃、目と鼻のさきにある向かいの新徳寺、真隣の八木邸、またその向かいの前川邸では大変なことになっていた。

「どうやら伏見方面に行ったかもしれないという話だッ」

「とりあえず細かく隊を編成しよう──沖田、原田の隊は俺と共に祇園の辺りへ。藤堂、源さんの隊は近藤さんと共に伏見へ行く。ほかは通常隊務だ」

「けど土方さん、私たち、そのお坊っちゃんの顔もなにも知りませんよ。右頬の痣だけで探せっていうんですか」

「俺だって知らねえよ」

「えっ」

 ぽかん、と沖田は口を開ける。

「ほとがらも人相書きもなんもねえのに、わかるわけねえだろ」

「じゃあ探しようがねえじゃねえか」

 原田は頭を抱えた。しかし土方は虚ろな目で首を振る。

「総司、原田、お前らは貴族の顔を見たことがあるか」

「え、あ──壬生興行の際に謁見しましたけど」

「あんな顔だ」

「あんまりだ!」

 原田は音をあげた。


 近藤隊は、それから一刻ほどで伏見にたどりついた。

 黒い羽織を身につけて用心深く周囲を探る様は、周囲の住民にとっては気が気ではない。

「ぬぅっ」

 ここにもひとり、警戒をする男がいた。

 七月に起こす戦のため、伏見の町へ先発潜伏していた久坂たちである。

 なにやら外をうろつく新選組に驚いた。

「け、計画がバレたか」

「そんなことはありえん。何かを探しておるようだ」

 と木島又兵衛は普段無鉄砲な親父のくせに、こういうときばかり暢気なことを言う。

「それが長州としたらどうする」

「奴らの顔を見よ。我らを探すのだとしたらもっとお前みたいな顔しとるわ」

「失礼な──」

 久坂がはばからず大きな声をあげたと同時に、

「ああもう!」

 と通り向こうの藤堂が声をあげた。

 長州の豪傑二人には気が付かず、近藤さん、と声をかける。

「本当にどうします。痣があるからって顔や様相が分からなきゃ、探そうにも探せませんよ」

「ふむ、…………」

 弱りきった顔で辺りを見回す藤堂に、近藤は唸った。

「とにかく、何も知らないのだそうだ。今まで外に出なかったそうだからな。行動が何か一つでも怪しいと思ったら声をかけてみよう。七つだというから、そうでかくもないはずだ」

「それしかなさそうですね……了解」

 こうして、潜伏浪士をこんなに血眼となって探したことがあるだろうか──というほど草の根を掻き分ける勢いで、組をあげての大捜索となったのである。


 その捜索対象者である容興は、壬生寺にてある種の恐怖体験をしていた。

「どォこだァ──」

「ひっ」

 かくれんぼの鬼が一巡し、ふたたび綾乃が鬼となったころには容興もだいぶ慣れてきた。

 が、しかし草陰に隠れたのがまずかった。

 鬼役の綾乃が、さきほどから草むらめがけて長い木の棒を無遠慮に刺しているのである。案の定草陰に隠れていた容興はいつ刺されるやらと気が気でない。

 すると後ろから葵が忍び寄ってきた。

「!」

 ジェスチャーで草陰から離れろという。頷いてから再度綾乃の居場所を把握しようと草の間から覗くと、目の前にぎょろりと剝いた目玉が飛び出してきた。

 ひゅッと息が詰まり、一瞬遅れてから盛大に尻もちをつく。

「ぎゃあっ」

「みぃーつけた」

 にたぁ、と笑って木の棒を担ぐ綾乃に、後ろで隠れていた葵が「タンマタンマ」と怒った顔をして出てきた。

「あんた、ホラーゲームじゃないんだから。もうちょっとマシに探せないの?」

「気分盛り上がっちゃって」

 綾乃は汗をぬぐい、にっこり笑った。

 すっかり腰が抜けた容興を引っ張って立たせてやる。

「小腹もすいたし、休憩もかねておまさちゃんのとこで汁粉食べよう」

「いいねえ」

「私も、食べたい」

 すっかり笑顔に戻った容興は、とてもとても嬉しそうにふたりの手を握った。


 そして、新選組。

 結局見つからぬまま屯所前に再集結したのは、もう日が暮れる頃であった。

「──今日はしょうがねえから捜索は終わりだ。あ、最後あいつらに聞いてみるか……おい総司、あの女ども知らねえか」

「あぁ、朝は壬生寺行くって言ってましたけど。今もいるかなあ」

 と、言いつつ足を壬生寺へ運ぶ。

「あっ、いた」

 そこには、確かにいた。

 うずくまりガリガリと地面に物を書く綾乃と、後ろで少年とともにその字を覗き込む葵の姿が。

 パッと顔がほころんで、沖田が手をあげる。

「おーい……────」

「ツッパリかくれんぼだオラァ!」

「…………」

 あげた手をそのままに、沖田はフリーズした。

 綾乃はものすごい形相で木の棒を振り回している。

「容興ィ、藩主の息子なら特攻できんだろコラ!」

「は──はいっ」

「うっしゃあッ、喧嘩上等ォ!」

 気合を入れて、綾乃が容興を担ぎ上げる。

「あそこに葵が隠れてんぞ、すっ飛んでってやき入れてこいコノヤロー!」

「うわああッ」

「待て待て待て待て」

 と、少年を思いきり草むらへ放り投げようと構えた矢先、怒涛の勢いで駆けこんできた十名の新選組隊士により綾乃はお縄となり、容興は無事保護されたのであった。


 ──京都御所。

 捕縛されたふたりは近藤と土方に連れられて、青白い顔色をしている容保の屋敷に通された。

「────」

 静かに入室してきた容保。

 横には容興が緊張した面持ちでついてきた。

「面をあげよ」

「────」

 と、言われてもそのままでいた二人だが、「よい、主等とはまた話がしたかった」という容保の言葉に二人はパッと顔を上げる。

「お……覚えて──」

「壬生の興行以来だな、忘れはせぬ」

「────」

 感動のあまり声が出ない葵は、容興がこちらをずっと見ていることに気がついた。

「余の身内が、主等に大変な迷惑をかけたと聞いた。まこと申し訳ない」

「め、迷惑なんて」

「むしろ彼のほうが迷惑だったと──」

 と不安げに呟いた綾乃に、容興はようやく口を開く。

「わ、私は────主等と遊べてとても楽しかった。……と、」

 友達になってくれて、ありがとう。

 彼は、恥ずかしそうに呟いた。

「容興が出会うたのが主等で良かったぞ。余からも礼を言う。誠にかたじけない──新選組も、大義であった」

 葵は、首と胴が繋がった喜びをしみじみと実感し、綾乃は容保からの有りがたい言葉に、感涙した。


「まったく、お前たちはなにかと変な運を持っていやがる」

 帰途、土方は苦々しくつぶやいた。

 近藤はがははと笑っている。

「いったいなにをして遊んだ?」

「いろいろですよ、いろいろ」

 綾乃は、ふふんと鼻をならして笑った。

「あの担ぎ上げのほかに、非礼はせなんだろうな」

「…………非礼」

「してないですね」

 目を逸らす。

 いったいなにが非礼なのかがわからない。

 考えてみれば、態度すべてにおいて非礼だったかもしれない。

 しかしふたりは満足していた。

「おいおい、藩主の子息になにかしたとあれば──」

 心配そうに近藤が眉を下げたが、

「子どもが笑顔になったんだから、これでいいのだ!」

 とふたりはカラッとした笑顔で沈む西日に目を向ける。

 夕焼けがいままでにないほど鮮やかだ。明日はきっと晴れるだろう。

 そう思った。

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