大和屋
「た、助けてくだされ!」
とある夕刻。
前川邸に、新徳寺の和尚が駆け込んできた。
「どうなされた」
すかさず永倉が駆け寄り、原田がなかへ招こうとするが和尚は震えて動かない。
「なんだ、いったいどうしたというんです」
「か、かたじけのうございます──それが」
奇妙な話であった。
新徳寺の墓に、夜な夜な武士の亡霊が出てきては「許さぬ、許さぬ」と呟くという。
「相手が亡霊なら、坊さんは何か出来ろう」
原田は言った。
「坊主と言えども、刀持った武士は怖うて無理どすがな!」
「おいお」
「いや」
言いかけた原田の肩にポン、と手を乗せて。
「武士たる者、死んだら最後。亡霊にまで成り下がるとは情けねえ奴よ。どれ、俺たちが行って退治してやる」
いつの間に後ろにいたか──やけに楽しそうに言い放った土方に、その場の全員がぽかんとした。原田は、
「何言ってんだよ、土方さん」
と止めようとしたが、副長の決断は早かった。
明日の夜に決行してやる、と約して和尚を帰し、この場にいる永倉と原田に『肝試しをやる人間を集めろ』と命じたのである。
そのあいだ、土方の顔は終始にやついている。なにかわけがあるのだろうが、それなりの付き合いになる永倉はいささか驚きを隠せない。
「らしくもねえ。肝試しにノるなんざ」
「なーに」
土方はいたずら小僧のような顔で、
「総司がその手のものにめっぽう弱いんだ」
と笑った。
翌日の朝。
永倉が事情を説明すると、綾乃と葵はすんなり了解した。
「いいね、面白そう」
が、しかし沖田は違った。
(えっ?)
と言いたげに永倉を見つめている。
「いやだから新徳寺で肝試しやるからよ」
「だからって……なんで私まで」
「副長が、お前は絶対って言っていたから」
「…………」
沖田は一瞬間をおいた。
「あの女狂い──」
「いいじゃねえか、亡霊なんてどうせ嘘っぱちだ。それに副長は言っていたぜ」
そこで黙る永倉に、沖田は嫌そうに顔を向ける。
「なんて」
「いるとなりゃタマのちいせえくそったれだ。それでも怖けりゃ斬り捨てっちまえ──ってさ」
──なにも。
土方とて、純粋に沖田を遊ぶために肝試しを受け入れたわけではない。この肝試しは土方からすれば、和尚に恩を着せる絶好の機会であった。
ここで役に立っておけば、今後の壬生浪士組の活動においてもきっと力になってくれるだろうと踏んだのである(力にさせるという方が正しいか)。
しかし、巻き込まれた方はたまったものではない。
「鬼、悪魔、たらし、唐変木、女狂い、うんこ」
沖田は呪詛を呟いている。
メンバーは、対外的な意味も込めて近藤と、土方、沖田、綾乃、葵、斎藤、野口の七人。
野口を先頭に肝試しがはじまった。
出ると言われた墓場の近くは、一行にもピリリと緊張感がただよう。が、
「出ねえな」
土方だけはニヤニヤしている。
ああもう、と沖田は早口にまくしたてる。
「もう嫌だな。帰りたいな。お布団入りたいな」
「総司、餓鬼じゃあるめえし。大人になれ」
空気も読まずに説教をはじめた近藤に、葵がシッと口に指をあて、
「なんか聞こえる」
と眉をひそめた。
(おや、これは)
野口が、墓の前でかがんだ。
「────」
「お、お経」
「うわあっ」
耳を澄ました葵のことばに、沖田が土方に飛びつく。
が、土方はこれを肘で押し返した。
「副長、これは亡霊などではないようです」
野口が言った。
なに、と土方が歩み寄る。
「先より歩く道歩く道、草にまぎれて藁が落ちておりますぜ」
「わら」
「ええ。この刻限にこれは、丑の刻参りかなあ」
と、手に持つ藁の一部を月明かりにかざす。それを見て綾乃は目を丸くした。
「歩く暗視スコープかよ野口さん」
「でも、丑の刻参りって男もするの」
葵が首をかしげる。
「それですよ。和尚が聞いたのは武士って言うくらいだから、男の声だろうし」
「チェッ、なんだ。亡霊じゃねえのか」
「土方さんの馬鹿……」
と吐き捨てた沖田の両目には、わずかに涙が溜まっていた。
野口が、墓場の端っこに佇む枝垂れ柳の幹を調べると、どうやらここで釘を打っていた奴がいたようだ。
「男が丑の刻参り。さしずめ衆道の気がある奴といったところでしょうな」
「ふむ、そっちの奴らはどうやら女以上に嫉妬が強いと聞く。それか」
土方も誰かの墓に寄り掛かり、ため息をつく。
「先ほどの、お経は」
「おそらくは新徳寺の和尚でしょう。寺の坊主はいつも床入り前に経を読むそうですから」
という野口に、
(おどかしやがって)
と、沖田は珍しく憎々しげに舌打ちをした。
「とにかく、このことは明日にでも和尚に言っておく。今日は帰ろう」
土方はさっさと踵を返した。
──この肝試し自体は、特段なにも問題はない。
問題は、この媚売りの肝試しに賛同していない者たちである。
「新徳寺に媚びへつらっていやがるんですよう。葵嬢も野口さんも取られたし──武士の意地ってのァないんですかねえ」
と、佐伯が顔を歪めて酒をつぐ。
芹沢がつがれた酒をあおり、ちらと平山の顔を見た。平山の顔も歪んでいる。
佐伯はその空気には気が付かぬ。ふたたび口をひらいた。
「そうだ芹沢先生。先日ね、私が佐々木愛次郎のやつにあぐりと駆け落ちをしたらよいと進言したんです。今度八坂で興行がありますでしょ、そのときにでも逃げっちまえって」
「────」
「あ、もちろん本気じゃありやせんよ。そこで私があぐりをかっさらって先生のもとへお連れするってな算段です。へへ、あぐりの味を見たいとおっしゃっておられたでしょ。佐々木にはその場でお陀仏してもらおうかと」
うれしそうな佐伯に、芹沢は不気味にわらうとまた酒をあおった。その表情を見た平山と平間はぎくりと顔をひきつらせる。不機嫌だ。
「酒がまずい。帰る」
案の定、芹沢が立ち上がった。
ああほらと平間が肩をすくめて、あわててそのあとに付き従う。
佐伯が「まずい酒を出しやがって、しめましょうか」と立ち上がり追いかけると、すかさず平山がその襟首をつかんで引き倒した。
「おい、調子に乗るなよ。──首を斬られずにすんでよかったな、貴様」
「な、なんだ。平山先生……ははあ。嫉妬かい」
「あ?」
「腰巾着のわりに、私のほうが芹沢先生の信頼を得ているからって──」
「──なにを言う、おまえ」
平山はゾッとしたような顔でつぶやいた。
この男は本気でそう思っているのか。いや、思っているのだろう。なにせあの背筋が凍るような空気に気づかぬのだから。平山の内心は、怒りを越えて呆れが押し寄せる。
「……もういい」
とたんにやる気をなくした平山は、佐伯の横っ面を張り倒して捨て置き、店を出た。すこし先を行く芹沢に追い付かんと足を早める。
まもなく平間の後姿が見えて、平山は頬を緩めた。
「芹沢先生」
「おお──あの腰巾着はどうした」
「え? ……ふふ、捨て置いたままですわ。ありゃあだめだ、重症ですよ」
「ま、手並を拝見といこうや。──佐々木愛次郎めがどこまで抵抗できるか見ものだな」
「やらせるんですか、佐伯に」
平山はすこし驚いた顔をする。
「わしにそれを止める理由はない」
と、芹沢はうすら笑いを浮かべた。
それからまもなくのこと。
佐々木愛次郎は殺害された。
あぐりとの逢瀬の最中に斬られたらしい。そのあぐりも、佐々木が殺害されたのを見てすぐに舌を噛み切り死亡したそうだ。
非業の死を遂げたふたりを悼み、綾乃と葵はふた晩泣いた。
隊士たちも好青年であった佐々木を好いていたし、あぐりは壬生浪士組御用達の食事処で働いていた看板娘でもあったから、それはそれは惜しまれた。
隊内がその話で持ちきりであったのも、何より犯人が特定されていないこともあったからであろう。
ただ一人、
「…………」
死体検分をおこなった斎藤は、その斬り口を見て思うところがあったようだが。
八月十日。
佐々木愛次郎とあぐりの葬式が終わったばかりのこの日、新たな死体が出た。
「佐伯又三郎?」
綾乃が声をあげる。史実どおりだから驚きこそしなかったが、その顔は険しかった。話をふってきた藤堂は神妙に頷いた。
「こっちもホシがあがらねえんだとよ」
「へえ──辻斬り?」
「どうだか。芹沢さんにべったりだったから鬱陶しがられたんじゃねえのかい」
と、藤堂はわらって井戸へ向かう。
「おっ、先客か」
井戸で、斎藤が汗を流している。
藤堂は言いながら斎藤の脇腹をつかんだ。見向きもせぬままあしらわれるその姿はまるでじゃれつく子犬のようだ。
「なあ斎藤はどうおもう」
「なにが」
「佐伯の件さ」
「──やつは佐々木とあぐりを殺した。すこし目立ちすぎたのかもしれん」
「へえ?」
藤堂は目を見開いた。
「佐伯が殺したとはまたどうして」
「佐々木の死体を見たからだ。あの斬り口は佐伯のものによく似てる」
「佐伯の剣筋を知っとるんか」
「昔に」
「そんなものかね」
「うん」
それきり斎藤はむっつりと押し黙った。
このふたり、同い年なのであるが、藤堂と比較すると到底思えないほどの渋さが、斎藤の表情からただよっている。
結局、佐伯殺しの犯人が特定されることはなかった。芹沢は「長州あたりの浪人だろう」などとうすら笑いを浮かべていたが、真相は闇のなかである。
「ここにいても、分からないもんだね」
葵は言った。
「むしろ歴史書のほうが詳しいくらい」
「真実はホシのみぞ知るってか」
不服そうに綾乃がつぶやく。
いまは八月──現代では九月の半ばであろう。
蒸すような残暑が、ふたりの胸に不気味な焦りを生み出していた。
※
残暑厳しい八月のころ。
「やあ。お暇ですか」
と、壬生寺を掃除する女ふたりのもとに、山南が笑顔でやってきた。
綾乃はじとりと山南を見る。
「聞くまでもなくわたしたちは今、金食い虫のニート野郎ですよ。どうぞ罵って」
「そ、そんなことしませんよ──いえね、先日からずっと、八坂神社の境内で相撲興行を行なっていたでしょう、それが明日は壬生で開くことになったのですよ。聞いておりますか」
「相撲」
「相撲です」
と、頷いた山南は微笑む。
「ぜひ、いらしてください」
その言葉に、綾乃はパッとわらった。
「いいじゃない、相撲」
「見るか」
葵も、元気良く頷いた。
その日、綾乃と葵は掃除のあと一条付近で甘味屋めぐりをした。ついでに壬生興行を宣伝するためでもある。
そこで興味深い話を聞いた。
「大和屋さん」
「そう。葭屋町んとこの……ほらすぐここから近くのとこにありますやろ。糸問屋の」
お店が幾分か暇になったのであろう、看板娘──というよりはもう年増と呼ばれてもおかしくないが──が、大きなお尻を座敷に乗っけて眉を下げた。
「ええ、ありますね」
「このあいだ仏光寺高倉んとこの油商のお人が晒し首にされはったやろ」
「ああ、────」
つい先日のことである。
過激尊攘志士の下手人が上がった事件だ。
その時の捨札に、同じ目にあわせるぞ、という脅しの意味でその大和屋庄兵衛の名が書いてあったのである。
「あそこの人が何してはるんか、そんなん知らしまへんけどね、あの人が性格悪いんは確かやわ」
「おばちゃん嫌いなの」
「おば?」
「お……お姉さん、嫌いなの、ですか」
あまりの眼光の鋭さに、綾乃はたじろいで丁寧に聞き直す。
「うちは好きやおへんねぇ。なんや、どっちにもいい顔しはったいうやないの。どうせ、ろくでもないことしたんとちがう?」
「ふうん」
その晒し首事件の後、大和屋は佐幕にも勤王にもかなりの賄賂を渡し、命を助けてもらおうと働きかけをしたという噂は、壬生浪士組にも届いている。
言うだけ言って、重たい腰をあげると、「いやあね」とへらへら笑いながら厨房に戻っていった。
「綾乃、大和屋って」
「うん。大和屋焼き討ちでしょ──」
綾乃はお茶を一口すすった。
大和屋焼き討ち──新選組ファンのなかでまことしやかに囁かれている事件のひとつである。
事件概要は名の通り、大和屋が焼き討ちに合うというもの。
主犯格は芹沢鴨で、内情は金貸しの要求を拒否したことによる芹沢の暴挙──というのが通説となっているが、実のところこれは正史ではない。
子母澤寛著の新選組史伝書──新選組顛末記に記された物語であって、証拠はないのである。
葵が不安げにつぶやく。
「芹沢さん、──」
「本当のところがどうなのか、今度ばかりは確かめないとね」
しかし綾乃の口角はあがっていた。
翌日。
壬生寺境内では、大坂力士達がウォーミングアップを行なっている。
現代の力士に比べて体格が小柄に見えるのは、みな日本人だからだろうか。綾乃と葵がその様子を眺めていると、運営係として白ハチマキを額に巻く藤堂が走ってきた。
背丈とそのナリだけ見れば、中学生の運動会である。
綾乃の頬が綻んだ。
「平助。なにかお手伝いすることある」
「いやいい」
と、藤堂は首を振る。さらに声をひそめて顔を近づけてきた。
「いいか、この相撲興行は“壬生浪士組は優しいのよ”ってとこを京のみんなに見せるためのもんなんだ。だから二人は余計なことしないで、おとなしくしててくれよ」
「なんで途中オカマになったの──」と、葵。
「いつもおとなしいですがなにか?」綾乃はキレ気味に言った。
「お前のどこがおとなしいんだよ。いいから副長を怒らせるようなことはするなよな、あの人が怒ったらたちまち優しい浪士組は泡沫の夢だ。京女の所作を学ぶいい機会だと思って我慢してくれ。な」
「…………」
散々な言われようである。
席でも取っておとなしく座ってろ、と小さな身体で胸を張る藤堂を睨みつけてから、客席の方へ向かう。
入場制限をかけているのだろう、席はガラガラだった。
「VIP席だ、ラッキー。ここ取ろう」
「すごい見やすい位置だけど──綾乃ったら相撲、そんなに興味あるの」
「ないよ」
「ないのかよ!」
「いいじゃん。ね」
と、座った直後。
「おい、そこは駄目だ」
頭上から声が降る。
なんだなんだと顔を上げれば、ふてぶてしい表情をした侍がいる。綾乃は眉をひそめた。
「は? 席はみんなのものですけど。早い者勝ちですけど?」
「なんだとうッ」
男は、刀の柄に手をかける。
うなり声が聞こえてきそうなほどにらみ合い、緊張の糸が張りつめる三人だったが、後ろから聞こえた声でその糸は解かれた。
「良い。わしが参るのが遅かった」
「しかし」
「その方らが言うことにも一理ある。みっともないぞ、秋月」
その、特徴ある貴族顔を見た瞬間、綾乃は動きを止めた。
写真で見た顔だ。──知っている。
秋月という名の臣下を持ち、浪士組に大層な縁を持つ貴族顔の男を──知っている。
あまりの驚きに口を開閉してから、綾乃は自分の下に敷いていた座布団を引っこ抜く。パンパンと軽くはたいて「どうぞ」と男の前に差し出した。さらには葵の方へ精いっぱい身を避けて「こちら空いてございます」とスペースをつくる。
押される葵はおだやかではない。
「なに。なに綾乃」
「三谷幸喜の大河ドラマで見たこの展開」
「はあ?」
「若旦那然で来てるんだッ」
とうとう綾乃が頭を抱えた。
若旦那然──?
葵はちらりと貴族顔の男を見た。ぼんやり見た。じっと見た。じいっと穴が空くほど見つめて、ようやくとあるひとりの偉人に行き着いた。
ハッと口に手を当て、葵もあわてて頭を垂れる。
譲られた男は困惑した面持ちで、
「よいのか」
とつぶやいた。
身に着けた装束のなんと高そうなこと。
高い鼻に切れ長の瞳、細面のこの御方こそ、会津藩預かり壬生浪士組上司、京都守護職松平容保公にちがいあるまい。
秋月はフン、と鼻をならした。
「えらく私の時とは態度が違うな──まあいい、若に免じて許して遣わす」
「
吐き捨ててから、綾乃はちらりと会津守を見つめる。
──見つめるといっても、ちらちらと視線を寄越すだけ。
さながら好きな男の子を盗み見る乙女──というよりは獲物を狙うストーカーのようである。
視線に慣れているのか、容保は気にせずに周囲の様子を見て微笑んだ。
(…………)
その堂々とした姿勢に、綾乃は感嘆のため息をつく。
いつの世も、支配者は下々から嫌われる。
松平容保もまた、重税を苦に思う会津領民の一部には疎まれていたそうだ。
けれどそのような嫌われ役は、あくまでも支配者という立場での話であって、本人の人間性だけを鑑みればそれがすべてではない。
綾乃は、平成の世で聞いた逸話を思い出していた。
文明開化を迎えた明治期、尾張徳川家相続の話を持ち掛けられたが辞退したという話だ。
彼は、
「──己の不徳によって起きた動乱で死んでいった者達は、数千人は下らない。そして、その家族は数万人にもなるだろう。彼らを差し置いて、私だけが会津を離れ、そして富貴な身分を楽しむことなどとてもできることではない」
といったという。
上に立つ者として当然の感情だ、と言ってしまえばそれまでだが、綾乃はこの心意気にひどく感銘を受けた。
支配者とて、人間だ。
時代の動乱を己の罪とし、生涯その罪を背負って生きていかんとする勇気を、すべての支配者が持ちうることは難しい。本物だけにあるものだと思う。
なにより彼は、この壬生浪士組もとい新選組を、動乱終結間際まで見捨てないでいてくれた恩人だった。
それだけで綾乃の胸はいっぱいになる。
「……ありがとうございます」
思わずつぶやいていた。
容保は、きょとんする。
綾乃が慌てて「相撲にお越しくださって」と付け足すと、彼はああと微かに笑んで頷いた。
「──あの壬生浪が、どんなものかと思うて」
「どんな、ものでしょう」
そわ、と身を揺らして横から葵が問う。
彼はわずかに口をとがらせて思案したのち、そこここで機敏に働く浪士組の面々をまぶしそうに見つめた。
「わしはもとより、聞くほどはわるくないと知っている」
「────」
「まあ、少々やんちゃだけれど」
と、はにかんだ。
葵の胸が切なくなる。
(嗚呼すごい)
──この人のためならば命を賭けられる。
そう思わせる人だ、とおもった。
「京都守護職が貴方で本当に良かったです」
口からこぼれ出た言葉。本心だった。
容保公は目を見ひらく。やがてキュッと唇を噛み締め、小さく微笑んだ。
興行が大成功をおさめた夜。
松平容保が帰宅後、前川邸の奥座敷にて力士を囲んでの大宴会がひらかれた。
力士といえば、この時代の代表的なスポーツマン。壬生村中の女子がその勇姿を近くで見ようと、前川邸前に集まった。
決して壬生浪士組の面々を見にきたわけではないのだが、原田や藤堂は「おれたちの時代来たなコレ」と悦に入っている。
しかし。
宴もたけなわという頃、一報が入る。
「大変ですッ」
隊士のひとりが駆け込んできたのである。
彼は近藤、土方両人のもとへ足早に赴き、声を抑えて報告した。
「一条の大和屋から火が──」
「火事か?」
「それがどうも、壬生浪士組を名乗る者が火をつけているらしい、と」
瞬間、近藤と土方が立ち上がる。
ふたりの脳内には、すでにひとりの人物が浮かんでいた。土方はぎろりと座をにらみつけた。
「助勤の者はともに来い。永倉は山南さんとともに力士の皆さんをお送りしろ」
「応ッ」
勇ましく駆け出す近藤の背中に、みな引っ張られるように走った。
しかしそのなか、女ふたりの姿はない。
彼女たちは四半刻前からすでに現場へと向かっている。
────。
「あれだ。大和屋」
綾乃は、燃えさかる家屋をにらみつけた。
屋根の上で何者かが叫んでいる。火付けの指示を出しているらしい。伝聞どおりならば、それは芹沢一派のだれかのはずだ。
が、いたのは見たこともない顔であった。
綾乃は目を見開く。
「芹沢さんじゃない……」
「あっ」
葵が声をあげた。視線の先には、芹沢が平山や平間、新見らとともに地上からそれを見物する姿がある。
「天誅じゃあッ、火をつけェい!」
と、火付けの指示を出す男が叫んだ。
芹沢はがははと嗤っている。葵はそのそばに駆け寄った。
「芹沢さん、なにわらっているんですか。あいつら取締らないと──」
「なんだおまえも見物に来たか、葵。結構なことじゃあねえか。どのみち奴らがやらねどもわしがやっておったわ」
「…………だけど芹沢さんがここにいたら」
「また壬生浪の芹沢か!」
葵が言いかけたとき、後ろの野次馬から声が飛んだ。綾乃がぎろりと後ろをにらみつけ、
「だれだいま言ったのァ」
と怒声をあげる。
まもなく、近藤や土方が到着した。
すでに来ていた女ふたりを見て驚くが、近藤は芹沢を見るや「おやめください、芹沢局長!」と叫んだ。
彼はこの騒動が芹沢発端だと勘違いしている。
「芹沢の野郎、やりやがったなぁ」
原田もすっかり芹沢だと思い込み、感心する。感心しとる場合かと近藤は声を荒げた。
「芹沢さん。彼らは何者ですか、いますぐやめさせていただきたい!」
「────」
葵が「ちがう」と声をあげる。が、芹沢はそれを制止した。
それからゾッとするような笑みを浮かべる。
「近藤さんよ、あんたは危ういな」
「は──」
「そんなことではいつか己の道を見誤るぞ。その背は、組を背負っていることをわすれるな」
「何を」
いったいなにを言っている、こんな時に。
近藤は一瞬呆けた。
「貴様はすこし、目を覚ました方がいい。道を疑うことを知らぬ将は、足元を掬われるものだ」
「────」
それは、芹沢から近藤への警告であった。
しかしあまりにも抽象的なその表現では、この近藤という男は理解に及ばず。
ただ戸惑うのみ。
そんな近藤の陰で、土方は助勤にこそりと指示を出し、消火活動の手筈を踏む。屋根の上にいた男も、すでに原田と藤堂の手によって引きずり下ろされていた。
浪士組が消火活動にあたるなか、芹沢のそばにずっとついていた葵がぼそりと言った。
「芹沢さん、もうやめて──」
声がふるえた。
葵は、このまま芹沢の評判が下がってしまうことが怖かった。史実を知っていればこそ、彼がこれ以上誤解される状況は避けたかったから。
わずかに芹沢の顔が歪む。
「お前も──」
「え?」
「葵、お前はなにか勘違いをしている」
声色は優しかった。
「わしは生半可な気持ちで浪士組をやってきたわけではない。手ぬるい奴らのやり口では、いずれ浪士組は幕府と共倒れだ。この大和屋の惨状がなにを語るかを奴らは分かっておらん」
「この惨状が、語ること──?」
「攘夷を急くは愚かだが、幕府への盲信もまた愚かなものよ。近藤にはその心眼が足りぬ。わしはそれに警鐘を鳴らさねばならん」
「────」
まさか、と。
葵はおどろいた。
芹沢がそれほどまでに先を見据えているとは思わなかった。まして、幕府が倒れることを危惧するなど──。
おどろき固まる葵を横目に、芹沢は懐から酒を取りだした。
ぐいとあおって自嘲する。
「しかしそれも手遅れか。ふふ、獅子身中の虫……なるほどあの腰巾着めうまいことを言う。おれこそ、まさにそうじゃ。はよう駆除せんと内から崩れるわな」
「な──」
「佐伯がよ、死に際にようやくまともなことを遺していきおった」
芹沢はわらった。
「この芹沢をころすべき、とな」
葵の顔が、サッと青ざめる。
脳裏によぎった。平成の世で見た八木邸の鴨居の傷。
このままでは、あの傷ができる日も近い。
なのにどうしてこの男は笑っている。まさか自分が殺されるはずはないと、タカをくくっているのか──。
「なんで」
葵の瞳から涙が一筋こぼれた。
「そこまでわかっていて、どうしてわかってくれないんですか。……私の気持ちも、自分の気持ちも、芹沢さん何にもわかってない」
「なんだと」
「私は芹沢さんに、生きていてほしいって思っているのに。自分だって生きたいと思っているくせに──どうしてそうやって拗ねたようなこと言うの。生きたいと思うのはわるいことじゃないでしょ。葉隠武士はそんなこと言ったの。違うでしょう! 私には分かります、芹沢さんがどんな思いでこの壬生浪士組を引っ張ってきたのかくらい!」
「貴様になにがわかる!」
「わかるよ、ずっと見ていたんだから。芹沢さんよりもずっと、芹沢さんのこと見てきたんだからッ」
「…………」
葵の怒声に、消火活動を眺めていた野口がおどろいてパッと視線を向けた。
いつ芹沢が葵に怒り出すかと、周囲もある種の緊張状態に陥る。
が、当の本人はかまわず叫んだ。
「だけどこんなの誰もわかっちゃくれない。こんなやり方じゃあ、芹沢さんが本気で伝えたいことも何にも、伝わらない。だから言ってるの!」
「うるさいッ」
芹沢は転がっていた木材を蹴った。
しかし葵は怯まなかった。
「芹沢さんの分からず屋ッ。自分の気持ちひとつ伝えられないやつが、国なんか変えられるわけないでしょうッ」
葵が、言い捨て走りだす。
「おいっ」
野口があわてて追いかけた。
「…………」
一部始終を見ていた。綾乃は動かない。
いや、動けなかった。
(これがあの、芹沢鴨か)
そう思うとふるえた。
槍を持つ相手が、彼の鉄扇ひとつで気圧されたというほどに威風を放つあの芹沢が、なんというざまであろう。彼はまるで、親の愛がほしいと泣く三歳児のようであった。
「────」
不思議な感情がつのり、思わず薄い笑みがこぼれた口元を隠すように綾乃は手で覆う。
思えば彼は、玉造党の折から不器用だったと聞く。
心中はただひたすらに尽忠報国を想う士であったはずなのに、このようなやり方しか知らなかったのだ。
芹沢はやがて「興醒めだ」と、踵を返す。
支配者とて、人間である。
先刻、自ら思ったことを繰り返した。
あの芹沢も人間なのだ。
消火を終えて屯所に帰営する浪士組の面々に声を掛けられるまで、綾乃は立ち尽くしたままそんなことを考えていた。
その夜、野口に添われて八木邸に帰ってきた葵は、涙で腫れたまぶたをこすりながら芹沢の姿を探した。しかし案の定、戻ってはいないようだった。
「…………」
「葵、もう寝よう。芹沢さんも明日には戻ると思う」
「……うん」
「大丈夫、お前は間違ったことは言っちゃいないよ。むしろ図星をついたくらいさ」
「────」
「さ、明日に備えてもう寝なさい」
野口は優しく諭すように言った。
その言葉に頷いて、葵も寝室へと向かい布団にもぐる。
もう二度とここに戻らなかったらどうしよう──とひとり不安を抱えたまま。
そんな不安が杞憂に終わるは、翌日の昼過ぎだった。
芹沢がひっそりと戻ってきたのである。いつ戻るのかと、一日中八木邸で待っていた葵は飛び上がって喜び、芹沢の手を取って言った。
「芹沢さん、おかえりなさい。あの」
「────」
彼女の瞼がわずかに腫れているのを見て、芹沢は眉をしかめて視線をそらす。
どうやら酒は入っていないようである。
「もう、戻ってきてくれなかったらどうしようって──ごめんなさい」
「なんのつもりだ」
「昨日は、勢いばっかりで──思っていることの半分も言えなくて。あの、聞いて。……くれますか」
おずおずと見上げてきた葵に芹沢は嫌そうな顔をしたが、しかし彼女は決して手を離そうとはしなかった。そのため彼は仕方なくその場に胡坐をかく。
「一晩経って考えたけど、やっぱり芹沢さんは間違ってる。そこはゆずれない」
「────」
「私は、芹沢さんのことたくさん知ってる。芹沢さんよりもずっと──だから悔しいの。芹沢さんのことなにも知らない人たちが悪いこと言うのが許せないの。だからね……」
と泣きそうな顔でわらう。
それから芹沢の手をそっと撫でた。
「たとえ芹沢さんが身中の虫だとしても、壬生浪士組は虫に負ける獅子じゃない。だって芹沢さんが育てたんだもの」
芹沢はその手を握りしめ、ふわりと笑う。
「ふん、虫が獅子を育てるかよ」
「育てたんだよ、虫がいるから強くなったんだよ」
と、今度はほがらかに葵は笑った。
彼女のちいさな手のぬくもりを、芹沢はただ黙って感じていた。
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