エヌ氏のあうたぁ★とりっぷ
gaction9969
IN←&→OUT
「……失礼、出てもよろしいでしょうか」
応接セットを挟んで対峙する相手に断りを入れつつ、スーツの内ポケットからスマホを取り出す。
どうぞどうぞ、と如才ない笑みを浮かべるその男の顔を、私は着信がどこからか確認するふりをして一瞬だけ振り向けたスマホの画面に収めると、背後の扉から廊下へと出た。
あいつは、誰だ?
逡巡の間も無く、少し大振りの画面には顔認証により検索された情報が展開していた。
<
その情報は正確なのだろう。だが私の記憶を何ひとつ揺さぶることは無かった。いや、だとしても……この情報が頼れるということは「記憶している」。
<……271113/初面談:『自律的
つらつらと流れて来る「情報」を逐一頭に叩き込んでいく。
<……趣味は上司に勧められてハマったゴルフ、※271218時、お子さん(女)誕生の旨、当時生後1か月。最近はラウンドを回れていない……>
こんなところでいいか。あまり待たせるのもあれだ。それにこの「儀式」は一分以内と自分の中で決めている。そうやって追い込んだ方が、集中して記憶できるものなのだ。応接室に戻り、ソファに身を預ける。
「……いやあ、申し訳ない。セカンドさんが来るとは伝えていたんですが、どうも間の悪い上司でして。ああ、冷める前にどうぞ……幸島さんの娘さんはもう首が座る頃でしたっけ……? へぇ、そうですか、かわいい盛りで結構ですが、まだしばらくコレは封印ですな」
両手を組み合わせて、くいっと振る私の動作に、幸島氏は顔をほころばせる。相手のリアクションでしか、私の「記録」の正誤は確認できないものの、今回もつつがなく終えることが出来そうだ。
失礼、最近は何でもコレでして、と断りを入れつつ、手に持ったスマホにペンを躍らせていく。字を書くなんてことはここ数十年、ほとんどやってこなかったが、最近ではフリックに匹敵するほどの速度で「記入」が出来るようになった。一筆目から予測単語が表示され、それを保持した左手の親指で選択決定していく。度し難い私の悪筆をも「学習」して先回りしてくれるので、ほぼ頭の中で思ったことが羅列されていくといった具合だ。
値は張ったが、これが今の私の生命線と考えれば安いもの。「メモを取る」という姿勢は古来から見慣れたものであるらしく、年配諸氏たちにも嫌な顔をされたことは無い。かえって聞いてます風な熱心さが伝わっているようで、おおむね好印象、と私の「記録」にも記されている。文字を書くという行為は脳の活性化にも繋がるという医者の言葉もあって、それにすがる気持ちもあるが。
……半年ほど前から兆候は出ていた。
―
医師との画面越しのやり取りが、動画ファイルとして残されている。
―『7日間』、正確に言うと『6日と20時間』、それが貴方の『エピソード記憶』が保たれる限界と出ています。
いたたまれなくなって、何度ファイルを消去しようと思ったか分からない。いや、そう思った記憶もおぼろげであるので、本当に判りようはないのだが。
しかしこの事だけは、脳に、異状をきたしてしまったが変えようの無い私の脳に、忘れようとも何度も刻み付けておかなくてはならない最重要事項だ。
私は、一週間分の記憶しか持てない状況で、今なお何とか「日常生活」にしがみついている。家族にも、会社にも伏せたまま。……まだ小学生の息子ふたりを抱えて、あっさりとドロップアウトするわけにはいかないのだ。
日常業務には支障はきたしていない、自分ではそう思っている。逐一をこのスマホに書き込んで、それを元に記憶を構築しているからだ。
イカれて同じ領域に上書きを繰り返すしか出来なくなったハードディスクを補助する体で、高性能な外付けを差しているような感じだ。実際こいつは、私の脳よりも遥かに出来がいい。仕事もまあ、大枠を抑えていれば特に問題は見当たらない。毎日毎日、失われた部分を見つけては再び脳に
ただ、月いちくらいで訪問する業者とのやり取りは今のように綿密な「予習」が必要となっている。一切合切が抜けているのだ。毎回初対面の相手と対峙しているようなものであり、相手は自分のことをよく知っていると思うと、いささか空恐ろしさも感じるのだが。
いや、それしきの事で臆している場合ではない。日常を、毎日をつつがなくこなす、それだけを、よすがに私はいま生活している……生きているといっても過言ではないからだ。
定年までのあと二十年、こんな状態の私でなくとも途方もない道のりに思えるだろうが、実に驚くことに、この
だがそんな莫大な情報量を、自分の
睡眠時間を削って、試験前の一夜漬けのように「明日の予習」に費やす毎日は、しんどいことはしんどいが、何とか行うことが出来ているし、仕事の精度も上がって上司からのおぼえもめでたくなっている。いい方向だ、と自分では思っている。
そうこうしている内に、もう昼時か。間抜けなチャイムが告げてくるが。
さて、今日はどこへ行こうか。
<火曜日:さか善/定食屋:『本日の定食』を選択すること>
コートを羽織って寒空の下へ出てみれば、懐で震動が起こる。「どこへ行こう」では無かったな、ルーチンだ。曜日ごとに決めた店を回る。そうしておかないと、同じ店に毎日通って同じものを毎回頼む妙な客、との印象を植え付けてしまいかねない。「病気」のことは神経質になるほど私は気を遣っているのだ。
大通りを行く人々は、皆、何事もなく、何にも縛られずに自由に歩いているように見える。錯覚なのだろうが、レールに乗って地べたを這っているかのように周る私を、あざ笑うかのように自由に飛んで見下ろされている……私には確かにそう見えるのだ。
いかんいかん、余計なことを考えて脳の領域を使うな。スマホの道案内に目を落としながら、周りの光景をあまり見ないようにして、私は足早に今日の食事処を目指す。いつもと変わらない日常、それのどこが悪い。そう改めて思うことで私は平常心を取り戻していく。
しかし、だった。
<本日臨時休業させていただきます。店主急病のため>
何だと?
ど、どどどうすればいい、他の店……先週の水曜木曜金曜に行った店は……ええとそうだ、いや、こいつに任せっきりで店名や場所は覚えていない、呼び出せ、水曜中華「好々食堂」木曜カレーチェーン「印度壱番」……ああそれ以外だそれ以外、それ以外に飯が食えるところであればどこでもいいッ。
この頃はよくある「発作」だった。ちょっとでもイレギュラーな事が起こると、途端にパニック状態に陥り、思考が定まらなくなるのだ……呼吸も荒くなり、鼓動も耳奥で響いてくる。落ち着け落ち着くんだ。大したことじゃない。
コンビニだコンビニで何かを買っていや会社に食堂があったか?自席で昼食を取ることは禁じられていなかったか会議室?いや若いコらが占拠していなかったか……
スマホを掴んで道の真ん中でおろおろするおっさんが邪魔だったのだろう、前から来た若者の集団の内のひとりが、舌打ち混じりに私にわざと肩を入れてぶつかってきた。手からスマホが離れ、宙を舞うのがスローモーションのように感じながら見える。次の瞬間、私はそれを追い、身をひるがえしていた。
これだけは、こいつだけは離してはいけない。アスファルトに角から落ち、一回跳ねた後はくるくると回りながら車道へと滑っていく。轢かれたらアウトだ。明日から私はどうすればいい。
つんのめりながらも、何とかその
<警告:車両接近>
その真っ赤な表示と、耳をつんざくタイヤの擦過音が、私が知覚できたさいごのかんか
…………
………
……
「!! ……意識が戻られましたね。よかったです」
白い部屋だ。目の前にいるのは医者だろうか看護師だろうか。ここは病室だ。それだけは認識できる。慌ただしく部屋を出ていく、その若い白衣姿の男をぼんやりと見送っていると、私が仰臥しているベッドの傍らにいた女性が、涙混じりに何事かを話しかけて来た。よく見ると、その横にはふたりの小さな男の子の姿もある。
……この人たちは誰だろう。
スマホを探してみるも、側には見当たらなかった。まあいいか。それよりも。
……私は誰だろう。
いや、それもまあ、どうでもいいことか。
今の私は、何というか、清々しい、身体の隅々にまで清浄な風が吹き込んできているような目覚めを感じている。何にも縛られない、自由の身になったかのような。
自由。私は自由。それだけで充分だ。
……さて、今日はどこへ行こうか。
(終)
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