四葩の色

更科 周

桜の森の満開の下ではなく図書館で

「私はきっと、四葩になります」


 彼女は、どこまでも自由なひとだった。

 同時に、どこまでも儚いひとでもあった。


***


 ぱさり、と本のページを捲る音だけが耳に響く。雨と古い本が混ざったような、セピア色の匂いがする。ここは、純文学しか置いていない小さな図書館だ。

 僕は、毎週水曜日と週末をここで過ごすことにしている。本音を言えば毎日でも訪れたいところなのだが、学生の身分である。学業やアルバイトのことを考えると、これが限界なのだ。そうしたわけで、週に三度、ここに訪れている。

 いつものように文庫本を一冊棚から引き抜き、窓際の個人席に着く。どうやら雨が降っているようだ。しとしとと音がする。

 雨の日の読書というものは、世の中に愛されてしかるべきだと思う。そんな考えを頭に忍ばせてゆったりと読み進めていたところであった。


「『桜の森の満開の下』いい作品よね」

 そんな声が聞こえて、読んでいた本が手の内から消えた。意識なんてものは本の世界に放り込んでいたので、驚きのあまりに声も出ずに固まってしまった。数秒を待って意識を取り戻し、振り返る。不敵に笑う女性の表情が僕を待っていた。

「突然話しかけたりしてごめんなさいね。読書中に声をかけるなんて野暮なこと、いつもはしないのだけれど」

 特に悪いとも思っていないような顔だ。僕は、ついに問いかけた。

「なんのつもりですか」

 随分と冷たい声になってしまったように思う。そこまで自覚していなかったようだが、読書の時間を邪魔されたことに案外腹を立てていたのかもしれない。

 「君のことが、前から気になっていたの。私と、本の趣味が似ているから」

 少し、驚いた。本の趣味が似ているなんてことは、よくあることだ。しかし、僕は自分の趣味がそうありふれたものではないことを知っている。

「この本だってそう。『桜の森の満開の下』。坂口安吾の作品ね。こんな本を手に取るような同年代の人間を私は見たことがないわ」

 どこか嬉しそうな顔をして言う。

「僕も、この作品を読んだことのある人に出会ったことがないです」

突然人が読んでいる本を取り上げるような人が、常識のある人間だとはとうてい思えなかったのにも関わらず、僕は自然と彼女のペースに巻き込まれていた。

「私は、四つの葉と書いて、四葉(よつは)というの」君は、と大きな瞳が問いかけてくる。

「僕は、五月(さつき)といいます」


これが、僕らのはじまりだった。

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