超不機嫌=無邪気
夜空に浮かぶ大きな銀盤を連れた、空に手が届きそうな高層ビルの屋上。その角の細い柵の上に、すらっとした人が立っていた。
その瞳はスミレ色。遠くの地面まで切り刻みそうなほど鋭利。その一言に尽きる。
高度の高い場所での強風に、その人の針のような輝きを放つ、銀の長い前髪がサラサラと揺れ動く。
「守る価値などないだろう……」
月明かりを1人浴びながら、羽根がフワッと舞い上がるように、上空へゆっくり登ってゆく。
「どのようなおつもりだ?」
星空の向こう。さらに遠く離れた場所へと向けられる。奥行きがあり少し低めの男の声が、純粋に疑問という色を持って。
「いい、調べてやる。ありがたく思え」
俺さまな声が響くと同時に、柵の向こう側へすらっとした体が傾く。銀の光を浴びたその姿は、最低限の筋肉しかついていない体躯。
それは、空を真正面で見る形で、背中から落ちて行く刹那。重力のかかる方向が変わる瞬間の立ち止まりで、男の右手が星空へ向かって構えられると、
スバーンッッッ!!!!
という銃声が、あたりを引き裂かんばかりに響き渡った。その衝動で、男の体は猛スピードで落ちるロープの切れたエレベーターのように、ビュッと急降下した始めた。
身1つで体を守るものが何もない。それなのに、風に乗った鳥のように悠然と、ビルの谷間を落ちてゆく。窓明りが男の両脇を特急列車のように次々と過ぎていった。
だが、不思議なことに途中で、男のすらっとした姿がすうっと消え去った。すると、光る羽根が1枚身代わりのようにユラユラとゆりかごみたいに揺れながら、夜の都会の海に吸い込まれていった――――
――――デパートの前に設置された柵に、瑞希のピンクのミニスカートは腰掛け、途方に暮れていた。
おかしなの+きついの=ノーリアクション。
どうにも手が出せない相手。出だしを渋っている背中――紫のタンクトップとブラウンの長い髪を見ている、スミレ色の瞳があった。
それは、ロータリーを真ん中にして反対側。さっきまでいなかった全身黒で決めている男。襟元が複雑に切り込みが入ったシャツ。その布の一部分をネクタイのように絡ませてある。貴族的な雰囲気を醸し出す結び目。
細身のズボンは、ひざ下が皮地と綿。洗練されたデザインで縫い合わせてあるオシャレ感。先の尖った黒いショートブーツが、足元で気品を匂い立たせている。
すっかり日も落ちて暗い街並み。男は不意に手に出てきた、顔の線を消すような大きめのサングラスを目にかけた。怪しさ全開である。
まさか背後からターゲッティングされていると思わず。瑞希は無防備な背中を見せたまま、首を右に左に傾けていた。
それは、チャンネルの合わないラジオのような、ザーッという雑音の中に混じってくる、いくつかの人の声。銀の長めの前髪が、不機嫌にサラサラと横へ揺れる。
「……放置だ」
瑞希と駅をつなぐ横断歩道の奥へ、サングラスに隠された鋭利なスミレ色の瞳が切り刻みそうな勢いで刺されていた。
「……俺は今は無理だ。他のやつがやれ」
人に何かを譲ろうとしているようだ。だが、誰かがそばにいるわけでもなく、携帯電話を使っているでもなく。男は瑞希が柵から立ち上がった後ろ姿をターゲッティング中。他のことは置き去りにして。
それでも、雑音の中の状況は変わらないようだった。鋭利なスミレ色の瞳はほんの少し、瑞希から目を離し、ショートブーツで悔しそうに石畳を蹴りつけた。
「くそっ!」
瑞希がデパートへと、人ごみを横切り始めたのを、視界の端に映したまま、男の姿は信号待ちの人が動き出す死角の中で、すうっと消え去った――――
――――駅近くの大通りから少し中へ入った、一方通行の薄暗い道。ビルの壁を背に、男3人に囲まれた女の表情は完全にこわばっていた。
「ねぇ、いいじゃん?」
「俺たちといいとこ行こうよ」
乙女の大ピンチ! 表舞台から外れた脇道。遠くの方に人はたくさんいるのに、自分たちのまわりには誰もいない。これもまた、都会の死角であった。
「離してくださいっ!」
手首を馴れ馴れしく触られている女が叫ぼうと、様々な騒音にかき消されてしまう。ふざけた感じで、どこにもいそうな男が全身をなめ回すように見てくる。
「嫌よ嫌よも、好きのうち〜?」
「違います。誰か助けてください!」
正論のように見える女のSOS。だがしかし、こんな人通りのない場所をなぜ、通っていたのかが少しおかしい。
「誰もこないよ〜」
男たちがさらに手を伸ばそうとした起き、カチャッと金属がすれる音がした。男の1人のこめかみに冷たい感触がにわかに広がる。そうして、その向こうから、奥行きがあり少し低めの上品な男の声が、こう言ってきた。
「貴様の頭に風穴を開けてやる。ありがたく思え」
殺されるのに、感謝しろとはこれいかにである。だが、そんなことに突っ込む人は誰もおらず、邪魔するな的な感じで、こめかみに冷たいものが今も触れたまま、男が振り返った。
「あぁ?」
そこには、拳銃、44-40口径モデル、フロンティア シックス シューターの銃口が向いていた。鉄の玉を頭に打ち込まれ、即死。容易に想像できる構図が、嘘でも冗談でもなく、シリアスに展開中だった。
カチカチと銃弾を叩き出すハンマーが後ろへ向かって倒されてゆく。最大限まできた。あとは、指をかけているトリガーを引けば、死体が1つ出来上がるという寸法である。
「うえぇっっ!?」
裏道で銃が向けられている。しかも、相手の格好は警察でも何でもない。黒一色の196cmもの長身。目は口ほどにものを言う。かけられたサングラスで、瞳はうかがい知ることができない。
拳銃所持という非日常。その上、相手の怒りがメラメラと燃える炎ではなく、地底深くでグツグツと煮えたぎっているマグマのような重厚感を思わせる。火山が爆発ししたら
いつ、自分の頭に銃弾が撃ち込まれてもおかしくはない。恐怖とはまた違った、威圧感。ビーム光線を差し込まれ、鋭利に切り刻まれるような殺意とも言い換えられる。それが銃口から嫌でも伝わってきた。
「うわっっっ!!!!」
男たち3人は叫び声を上げながら、大慌てで逃げてゆく。乙女のピンチから解放された女は、安堵のあまりアスファルトの上にヘナヘナと崩れ落ちた。声をかけもせずに、先の尖ったショートブーツは180度振り返って、立ち去って行こうとする。
1mmのズレも許せないと言わんばかりに、整えられた襟足の銀の髪。女は目を潤ませて、最低限の筋肉しかついてない男の線の綺麗な背中に手を伸ばした。
「あ、待ってください! 助けてくれて、ありがとうございました」
男は振り返ったが、地べたに座っている女に近寄ることもなく、サングラスもはずされることもなく。
「貴様の頭はなぜ、そんなに壊れている?」
「え……?」
不思議なものでも見つけたように、男はサングラスをかけたまま、パーソナルティースペースを完全無視して、女とキスができる位置まで近づいた。唇の形だけでも、美形であるのがわかるほどの秀麗。
だがしかし、そこから出てくる聖句はこうだった。
「なぜ、俺が貴様を助ける義務がある?」
「え、どういうことですか?」
ゴーイングマイウェイ。相手が理解しようとしまいと、自己解決で勝手に進んでゆく会話。
「あいつらが、あと1つ罪を重ねたら地獄行きになるから、罪を犯す前に助けたまでだ」
女ではなく、男たちを助けにきたのだ、この男は。銀の長めの前髪を持つ男は、見ている角度がどうやら他の人と違うようである。
「あっちを助けた?」
意味不明という嵐に巻き込まれた女。話が通じていないのを見て取った男は、とうとう怒りが火山噴火した。
「貴様、こっちに来い!」
「え、えっ!?」
女は立ち上がる暇もなく、引きずられ始めた。男は自分の歩幅でどんどん大通りを目指して歩いゆく。
「あ、あの!」
バックの中身がアスファルトの上にぶちまけられようと。女の足がもつれて、まともに歩けず、膝やスネを地面にすりつけようと。男は気にせず、力ずくで女の手首をつかみ、ショートブーツはゴーイングマイウェイで進み続ける。
「っ!」
大通りの灯りがショートブーツのつま先に差し込むと、男は女を物でも扱うように、歩道に放り投げた。いや、突き飛ばしたようにも見えた。
「っ!」
平和な人ごみの真ん中に、勢い余って倒れた女が急に現れた。近くを通っていた人々はびっくりして立ち止まり、ドーナツ化現象が急成長。男にとってそんなことはどうてもいいのである。この地べたに横座りしている女に、文句を言うが先だった。
「貴様、俺に手間をかけさせるとは、どういうつもりだ! 少しは自分の身をわきまえろ! 貴様程度のくだらない女に、声をかけてくるやつなんか、レベルの低い体目的か金目的の男に決まっているだろう! ウカれてついて行くとはどういうつもりだ! 自分の身も守れないくせに、対策もせずに動くとは、貴様の頭はガラクタか!」
身もふたもなさすぎである。しかも、天へスカーンと抜けるような怒鳴り声が、都会の喧騒をかき消すほどの勢いで炸裂した。泣かない方がどうかしている。女は両手で顔を覆って、案の定嗚咽をもらし始めた。
「うぅ……」
人垣という傍観者たちが男に抗議の眼差しを向けようと、しれっと簡単に無効化。綺麗な細い腕は腰のあたりで組まれ、人差し指が苛立たしげにトントンと叩きつけられる。
「貴様が全て招いたことだ。大通りを歩いて、真っ直ぐ家へ帰れ! この俺の時間をさいて……」
泣いている女を無情にも置き去りにして、モデルのようにクルッとターンし、黒のショートブーツは遠ざかってゆく。文句を吐き捨てながら。
「くそっ! 見失った。どこだ? あの女の人間……」
他の人が背中をにらんでいる中で、男の針のように鋭く輝く銀色の髪と、すらっとした黒真珠のような気品漂う長身は、人々の目線の先で平然と消え去った――――
――――瑞希のどこかずれているクルミ色の瞳は、今はしっかりとしていた。自身の得意ジャンル、CDショップ。様々なジャケ写がアーティストという個性を見せる、新作CDを手に取っては、人ごみモード。心の中で熱く語り中。
(最近、CDじゃなくて、データで買っちゃうから、久々お店に来たね。いつも歩かない景色が見れただけても、よかった。ふふ~ん♪)
背表紙が並ぶ棚へ振り返ると、ブラウンの髪が背中でサラサラと揺れ、香水があたりに漂った。
(あっちに行ってみよう! 何かいいものがあるかも~♪)
好きなものに囲まれた空間。瑞希は天国の白い雲の上をスキップするような気分で進んでいた。邦楽ではなく、洋楽コーナーへと入り込む。
(ん〜〜? あっ、MUZEだ!)
オルタナティブ ロックのCDの背表紙を指先で横になぞってゆくが、あるタイトルで運命的な出逢いをし、ピタリと立ち止まった。
(うわっ! このCDあったんだ! 10年前に出て、ネット上でもどこにも見つからなかったんだよね。こんなところにあった! この中に入ってるカバー曲がまたよくてさ。Can't Take My Heart Off You!)
瑞希は瞳を閉じで、夢見心地で右に左へ体でリズムを取り始めた。瞬時に、妄想世界へワープ。5万人の観客席を前に、スポットライトを浴びて、スタンドマイクを斜めに倒し気味で熱唱する。
(♪~~♪~~。いいんだよね。この曲、カバーしてる人たくさんいてさ、超有名な曲なんだけど、サビにこないとわからないんだよね。でも、サビに来たら、絶対みんな知ってる! って言うんだよね、この曲って。♪~~♪~~。しかも、MUZEのアレンジはポップスの曲なはずなのに、ロックなんだよね。うまい具合に、王道をさける……。素晴らしい!!)
瑞希は両足をしっかりと開いて、CDの真正面に立ちはだかった。しがないフリーターにつきまとう貧乏という悪魔と対峙するために。
(よし! これは、明日からの食費をなしにしても買う、だっ!)
決死の覚悟をした瑞希。彼女の右手が、3日も飲まず食わずにさせるCDという代価に伸びてゆく。それと引き換えにしても、音楽という恵みの雨を与えくれる1枚のディスク。瑞希は満面の笑みで、かがみ込んでいた。
あと1mmで、お目当てのものにたどり着きそうになった時、自分の斜め上から繊細な手が降りてきた。
「ん?」
CDを棚から引き出そうとすると、2人分の力で全貌を簡単にあらわにした、限定版CD。だがしかし、誰かの手が上から同じ面をつかんでいたのだった。小さく細い四角に手が2つ。ある意味、密着度満点である。
(え……?)
収録さてている曲はマニアックなのに、同じCDを同時に取る。は、オーソドックス。いや、それを追い越して古典的。
瑞希は驚いて振り返ろうとしたが、奥行きがあり少し低めの男の声がずいぶん上の方から降ってきた。
「貴様、離せ。俺の方が先だ」
自分の頬にまで引き上げられたCDに映った瑞希の横顔は、瞬発力を発して力んで、
「っ!」
CDを自分の元へ強く引き寄せた。だが、瑞希の頭に突き刺さる。超不機嫌俺さまボイスが。
「貴様、離せ!」
他の人ならば、震え上がってしまうところだろう。しかし、瑞希は違った。CDを軸にして振り返るが、綺麗に止めれた黒のシャツのボタンが眼前に広がった。相手の顔は見えない。
「私が先です! 離してください!」
商品は45度向きを変えられ、男との間で、ジャケ写の表と裏をそれぞれ見せる形になった。お互い譲る気などさらさらない。同じ側面を持ったまま――超至近距離で、男が自分の方へ今度は引き寄せる。
「俺が先だ!」
「いや、私が先です!」
買うと決死の覚悟をした乙女心は、大地のように揺るぎなかった。そうして、男と瑞希の間で、CDがシーソーのように、ゆるい8の字を線を描く宿命を背負うこととなったのである。
「俺だ!」
「私です!」
「俺だ!」
「私です!」
そばにいた他の客たちが一斉に振り返った。限定版CD戦争の激戦区で、2人の声は店中に機関銃や爆弾のように大きく響き渡っていた。
「俺だ!」
「私です!」
「俺だ!」
「私です!」
他の人が入れないほど殺気立っている瑞希と男。いつまでもどこまでも続いていきそうな、子供が物を取り合うような、いざこざ。だったが、男のもう片方の手に、いきなり現れた長方形の薄い紙。
「っ……」
「?」
きっちりつかまれたままの指先だったが、力が抜けたので、瑞希は思わず顔を上げた。自分が映る男のサングラス。1枚のCDをめぐってのバトル中。それなのに、気がそれているみたいな男。
だがしかし、彼から瑞希の顔前に、長方形の紙――最終兵器が突きつけられた。そうして、勝利をかっさらっていこうとする。
「やる。よこせ」
瑞希は焦点が合わないながらも、男が差し出したものを見つめた。それは、1万ギル札。これで、手を引けというのだ。瑞希の表情は怒りで一気に歪み、サングラスの向こうにあるであろう瞳をきっとにらみ返した。
「人の心はお金では買えません! 1万ギル渡されても、私は諦めません!」
男は紙幣を持つ手はそのままに。CDをつかむ指先もそのままに。言い返すでもなく、諦めるでもなく、終始無言。すなわち、ノーリアクション。
「…………………………………………」
サングラスがアイコンタクトの邪魔する。反応がない。表情1つ変わらず、1mmも体が動かない。36cmも背の高い男の顔をのぞき込もうとする。瑞希の白いサンダルはつま先立ちをして。
「あ、あの……」
だが、動きがあった。サングラスに映る彼女の顔が大きくなってきた。他の客から見ると、男が無言のまま前かがみになって、相手の顔に近づけて、文句というマシンガンをお見舞いしそうな前触れ。
「…………………………………………」
瑞希は後ろに回避を取ろうとしたが、商品棚があって、無情にも叶わなかった。
「っ!」
パーソナルティースペースを完全無視で、男の顔は接近してくる。しかし、CDという戦利品を逃すわけにもいかない瑞希は、エメラルドグリーンのピアスに視線を移した。
「え〜っと……」
「…………………………………………」
それでも、止まることなく、男のサングラスはどんどん迫ってきて、とうとうキスができるくらいの距離になってしまった。
ここで反撃しないと、このまま直撃である。キスという戦法で、CDも持っていかれるという惨敗どころの話ではない。
「な、何を――」
唇が触れてしまうほどの位置で、男が不意に言葉を発した。
「いい。ありがたく思え」
意味不明。ゴーイングマイウェイ。無遠慮すぎ。瑞希の頭の中に、何に感謝するのかというハテナマークがクルクルとメリーゴーランドを楽しみ始めた。
「はぁ?」
「…………」
思いっきり聞き返しした瑞希には構わず、男のお金を持っていた手は彼女の脇を通り過ぎた。何とか意識が戻ってきた瑞希が振り返ると、1万ギル札が、CDの棚に挟み置きされたところだった。
「え、え……?」
また意味不明、ゴーイングマイウェイ……たちが繰り返されそうになったが、瑞希の視界がブラックアウトし、店内に流れていたBGMが消え去った――――
――――こんなことはもう2度目だ。瑞希も滅多なことでは驚かない。すうっと瞳を開けると、夜色が広がった。
「今度はどこ?」
ローヒールのサンダルがカツカツと進んでゆく。ダウンライトのオレンジ色の暖かな明かりが木々の隙間から差し込むように、いくつもの縦の線を描いている空間。
「ん?」
瑞希の足元に、黄色の
「また〜? どこのタワーマンション? ――っていうか、シチュエーションがかぶってる!」
文句ダラダラで、やけに交通量が少ないテールランプの赤を眺める。なぜか、瑞希以外に誰もおらず。CDの行方も不明。だがしかし、彼女は別のことに気を取られてしまった。
「よし! 今度は絶対に帰ってやる!」
白いサンダルは落ち着きなく右往左往する。ガラス窓を自身の服で拭き掃除するような勢いで。
「目立つ建物ないかな?」
目を凝らして必死に探す。今度こそは、この一方的で摩訶不思議な場所移動から、自分の身を解放しようと、瑞希はやっきになっていた。だがしかし、彼女の目の飛び込んできたものは、自身の想像を超えたものだった。
「あれ?」
綺麗にライトアップされた塔が、少し遠くにひかえめに
「トライツリーじゃなくて、
だが、何かがおかしく。ブラウンの髪は首を傾げたことにより、肩からサラッと落ちた。
「赤じゃない……黄色だよね?」
もう一度、景色を指差し確認。
交通量が少ない。
大きなビルが建っていない。
スパイダー型の道たち。
とうとう瑞希は突き止めた。自分が連れてこられた場所を。
「いや〜!」
彼女は頭を抱えて、大理石の床の上に力なく落ちた。ペタリと冷たい石の感触が両足に広がってゆく。
「あれは、ゼッフェル塔! 私がいる場所は
事件ファイル2。遠いお空の下に誘拐、である。爪を立てて窓ガラスを上から下へ、ギギギギーッとホラー映画みたいになぞってゆく。
「帰れない……」
躍れされっぱなし。完敗、瑞希。ヨロヨロと立ち上がり、後ろに振り返った。そこには、椅子はなくテーブルのみが静かに息を潜めているだけ。
「――っていうか、どうやって、ここまで来たのかな?
紫のタンクトップは窓ガラスに背を預けた。月明かりとダウンライトの2つの相互作用で、自分の影がかき消された大理石を見つめたまま。軽く握った手の甲を唇に当て、思考時のポーズを取る。
「それに、どうして、惑星の裏側なのに、夜なのかな? 普通、昼とかだよね? 時間どうなって――」
夜景へとまた振り返った瑞希とガラスの間に、何かが急に割って入ってきた。
「データは入れた。これは、貴様にやる。ありがたく思え」
今まで考えていたことが一気に吹き飛ぶほど、ゴーイングマイウェイ。
「え……?」
瑞希は驚いた顔を向けた。銀の長い前髪は右目だけを隠していて、針のように鋭利でありながら、美的ルネサンスを優美に奏でている。
「ん」
顔を隠すようなサングラスはもうなかった。綺麗で無邪気な子供のような可愛らしい面差し、素顔。それなのに、鋭利なスミレ色の瞳で台なし。だが、誰が見ても秀麗。そんな男が立っていた。
貴族的なイメージで、もう一度押し出されたCD。瑞希は素直に受け取った。
「あ、ありがとうございます」
そうして、遅れに遅ればせながら、やっと到着。男が今しがたした奇怪な行動の真意に。瑞希の首はウンウンと縦に大きく振られ始めた。
(あぁ〜、そういうことだったのか。自分はデータだけで、私にCDを渡すためだったんだ。さっきのお金はお店から、CDを持ってくるから、代金で置いたんだ。でも、お釣りよかったのかな?)
1万ギル札1枚だった。さっき棚に挟んだのは。目の間にあるCDは3000弱。少なくとも、7000はお釣りがあったはず。瑞希は口にはせず、ぼうっと立ち尽くす。お金に羽根が生えて、パタパタと遠ざかってゆく映像を頭の中で再生しながら。
すると、いつまでたっても動かない瑞希を、男が高い身長で見下ろして、バカにしたように鼻で笑った。
「釣り銭のことを気にするとは、所詮、庶民だな。貴様のそのなりによく似合っている」
また身もふたもなさすぎである。フリーターの瑞希。意識が現実へ戻って、悔しそうに唇を噛みしめた。だがしかし、稼いだお金はほとんど音楽活動に使い、7000もあれば1週間は生きていけるご身分である。それが実生活だ。
「む……。まあ、あってるので、何も言えないです」
さっきと同じような、お子さまバトルが勃発。するかと思いきや違った。男は気まずそうに咳払いをして、ガラス窓の外へ視線をやる。
「んっ!」
そこで瑞希は気づいた。極めて重大な違和感に。それは、会話がおかしいである。
「あれ? 今、声にして話したかな?」
つり銭の心配事は、瑞希の心のうちだけの話だった。それなのに、目の前にいる男は応えてきた。
男は腰のあたりで腕を組み、ビーム光線というワルツで窓を切断しそうなほど右へ左へステップを踏むを
どう考えても、様子がおかしい限りだったが、やがて、
「……言っていた」
放り投げるように、奥行きのある少し低めの声をよこしてきた。瑞希は何の疑いもなく、持っていたCDを唇に縦にトントンと当てながら、納得しかけたが、
「あぁ、そうか。知らないうちに、言葉を口にする癖がついた……ん?」
後半でやはり違和感が輪郭をはっきり持った。ループに
男のエメラルドグリーンのピアスは、オレンジのスポットライトの下で、反対方向に向く――横にずれた。
「………じょ………だ?」
ごくごく小さな声だったが、おかしな現象が起きている真っ最中。瑞希は何1つ逃さないように拾い上げた。CDを口に押し当て、唇を封印。
(ん? 何か言ってるみたいだけど、独り言かな?)
男はイラついていた。それは、地底深くで活火山のマグマがグツグツと煮えたぎり、密かに活動しているようなものだった。
「そうだ。独り言だ。気にするな」
またおかしかった。しかし、23歳、彼氏なし、
(綺麗な人だなぁ。天使が降りてきたみたいだ。でも、どこかで見たことある気がする……。どこで?)
服はシワが1本も通らないほど綺麗な着こなし。ファッションがわからないから黒を選んだのではなく、こだわり抜いたあげくの選択。全てが完璧というように、男は立っていた。
瑞希はぼうっと
「気のせいだ」
「え……?」
また言っていないことに返事が返ってきて、瑞希は一瞬固まった。だがすぐに、体勢を整え直して、男の陣地へ着実な1歩を踏み込む。
「名前聞いてもいいですか?」
針のような輝きを持つ銀の長い前髪は1mmも動かない。
「……………………………………」
だが、鋭利なスミレ色の瞳は大理石の床を見て、ガラス窓の外に広る夜景を見て、応接セットを見て、最後に瑞希をまっすぐ見つめ返した。
「……イリアだ」
「そうですか……?」
温度管理までバッチリだと言わんばかりの、エアコンの風の下で、瑞希の髪はさざ波を立てていた。記憶力という引き出しのどこでも未確認なイリア。
「気のせいだった?」
瑞希はもう一度をよく見た。珍しい銀の髪。鋭利なスミレ色の瞳。天使のように可愛らしいのに、超不機嫌で台なしになっているが、誰が見ても秀麗。
それをもう一度堪能しようとしたが、いい匂いが急にしてきた。肉を焼いた香ばしい食欲をそそる香り。
イリアは人差し指を立て、自分の方へ2度ほど曲げて、Come here! と、無言で瑞希に指図した。
「…………」
「?」
円を描くように続き間になっている室内を、左手に夜景を引き連れて、黒のショートブーツは長い歩幅でどんどん進んでいゆく。瑞希は小走りになり、必死にあと追いかける。
いくつか間仕切りを通り過ぎると、ろうそくのアナログチックで儚げな炎が彩りを添えるテーブルが、窓際に1つセッティングしてあった。白いテーブルクロスの上に、若葉色の別の布地で8角形を作るように、45度わざと傾けた2色の洗練されたセンス。
ピンクの縁取りをされたクリーム色のカーネション。降り積もる雪のようなかすみ草。彼女たちは細く小さな花瓶で、可愛らしい顔を恥ずかしげに、ろうそくに照らし出されていた。
男はさっそうと向こう側の席に座り、
2人分用意されている食事。しかも、高級レストランも顔負けな、様々なフォークとナイフたちが横並びしているフルコース。
「貴様、こっちに来て、座れ」
どうやら、夜景を眺めながら、一緒に食事をと誘っているようだ。だがしかし、瑞希は仕切りのところに立ち止まったまま。甘い夢から覚めて、すぐに上から水をかぶったような災難に襲われた人みたいに、一気に表情は色をなくした。
今も手に持っているプレゼントされた、CDを握る手の力が強くなってゆく。
「お金を払ってないので、食べません」
おごってもらう気など、瑞希にはさらさらなかった。イリアは椅子の上で両腕を組み、堂々たる態度で華麗に足を組み替え、
「俺が払ってやる。ありがたく思え」
瑞希はテーブルまでパッと走り寄って、それに手をついた。
「いや、私が払います!」
「俺が払ってやる」
「私が払います!」
2人の微笑ましいやり取りを、間にいたカーネーションとかすみ草が、まるで視線を右に左にやりながら、うかがうような行為が繰り返される。
「俺だ」
「私です」
他に誰もいない空間で、言葉の応酬が続いてゆく。
「俺だ」
「私です」
今日初めて会ったわりには、どこか息が合っている瑞希とイリア。張り合ってしまうほど、仲がいいのだった。だがしかし、イリアの天使のように綺麗な顔がふと歪んで、瑞希に人差し指を突きつけた。
「貴様まで、ハルカと一緒で、ルールはルールか!」
いきなり出てきた別の人の名前。瑞希の怒りは驚きでどこかへ吹き飛び、顔を大きく前へ押し出した。
「ハルカ? 誰? 女の人?」
どの『ハルカ』か問い詰めたいところである。イリアの銀の長い前髪はロウソクの炎が作り出す穏やかな空間を、細かく切り裂くように鋭利に窓へと揺れ動いた。
「俺は神に身を捧げている。だから、女はいない」
「身を捧げた? イリアさんって、神父さんですか?」
横顔も秀麗な男の聖なる言葉を、そっとすくい上げた瑞希。闇夜ごと切り刻みそうな鋭利なスミレ色の瞳は、再びこっちへ向き、
「ステファから聞かなかったのか?」
また別の人に話題転換、いや瞬間移動。ゴーイングマイウェイで真実が闇に
「ステファ? 誰?」
「…………………………………………」
いつまでも待っていたが、どこまでもノーリアクション、返事なしが続いてゆく。男だけ時が止まってしまったように、動きがない。
瑞希はさっき見た自国の夜景と、今広がる外の景色を重ね合わせた。そうして、唇に指を当てながら、小首を傾げる。
「あれ? ステファなんて人いたかな?
瑞希の斜め前で、天使のような綺麗な顔が怒りで歪んでいた。吐き捨てるような、ささやき声が途切れ途切れて聞こえてくる。
「くそっ! なぜ、じょう……えい……するんだ?」
「ん? あれ? 何か言ってるみたいだけど、また独り言かな?」
瑞希は考えるのをやめて、イリアをじっと見つめた。だが、彼はバカにしたように鼻で笑い、暴言を食らわしてくる。
「ふんっ! 払えるものなら払ってみろ!」
挑戦状を叩きつけられた瑞希は、今もしっかり斜めがけしているバックに、手で拳銃でも取り出すような勢いで、ガバッと突っ込んだ。
「いくらですか?」
「30万6千ギルだ」
桁が違っている。
「え……? 31万ギルも必要?」
高級感漂う空間で、フリーター瑞希、見事に撃沈。彼女の手はバックから虚しげに後退をするしかなく、ノロノロと出てきて、ピンクのミニスカートの脇に力なく落ちた。
「はぁ〜……25日が給料日、今日は18日……持ってない。――っていうか、給料日が来たって、持ってない。31万もの大金……」
そうして、彼女は壊れ、滝のような涙を流す勢いで、自分で擬音を再現し始めた。
「シクシクシクシク……」
「81だ」
どこから出てきたのか。2桁の数字が、イリアの俺さまこの上ない声で登場。瑞希はびっくりして、泣くモードを急停止した。
「えっ!? シク(4×9=)36です!」
掛け算だったようだ、今の回答は。しかも、しっかり訂正というツッコミつき。という、なぜか、2人でつながっている感があるのだった。
「…………………………………………」
196cmのすらっとした体躯。容姿も端麗。ファッションセンスも抜群。今も組まれている足は、モデルのような写真映えするポーズ。ゴシックなイメージでスタイリッシュ。
態度は超不機嫌、俺さま、ゴーイングマイウェイ。言いたいことは、相手を無視しても、告げてくるタイプ。それなのに、なぜか、どこかボケている感が否めない。やはり、完璧な人はいないようだ。
「もしかして、数字に弱い……?」
テーブルに乗っている料理が飛び上がるほどの強さで、イリアは左手でバンと叩いた。長々とイライラというマグマが降り注ぎ始める。
「貴様、最初から俺の言うことを、黙って聞いておけばいいんだ! 人間のくせに生意気だ! 貴様のような貧困層で払えるはずがないだ――」
火山噴火している山肌を無装備で登り続け、落ちてくる赤オレンジの灼熱の石を素手で払いのけるように、瑞希は話を途中でさえぎった。
「じゃあ、あとで分割して返すので、何イリアさんか教えてください」
「貴様に名乗る義理などない」
ここまでくると俺さまではなく、ひねくれイリアである。何度やっても、同じ繰り返し。
「む……」
瑞希は不服な顔のまま、強行突破を図った。バックの中から財布を取り出し、チャックを全開にして、テーブルの上で逆さにするの作戦だ。
「じゃあ、足りないですけど、これが持ち合わせ全部なので……。この分だけいただきます」
だがしかし、札は出てこず、小銭たちがチャラチャラと音を歪ませて、テーブルにこぼれ落ちてゆくだけ。作戦失敗に終わりそうだった瑞希の両手首は、無防備に財布のそばで揺れていた。
「っ!」
そうして、イリアの両手という手錠に強くつかまれてしまった。
いきなりかけれた拘束。
「えっ! えぇっ……!」
イリアはサッと立ち上がり、そのまま瑞希の背後に向かって、長い足で足早に歩き出した。彼女は絨毯の上で、強制的に180度ターンさせられて、バラバラと小銭が散らばり、童話のお菓子を落として、迷わないようにしました的に線を描き出した。
「っ……っ……!」
どんどん連れていかれる。部屋の間仕切りをいくつも抜け、バスルームも追い越し、
「ちょ、ちょっと、ど、どこに行くんですか!」
とにかく引っ張っている力が強すぎる上、両手首をつかまれていて、瑞希にははずすことができない。無理やり歩かされているため、声も自然とはずんでしまう。
そうこうするうちに、イリアは片手をほんの一瞬だけ離し、閉まっていたドアノブを勢いよく回した。瑞希のブラウンの長い髪は、部屋に無理やり連れ込まれたのだ。
そこがどこかも確認する間もなく、
「っ!」
イリアの力む声が響き渡ったと同時に、瑞希の体は投げ飛ばさた。床や壁にぶつかると思い、思わず閉じたまぶた。だったが、ギシッと何かがきしむ音がすると同時に、ふんわりした感触が背中に広がった。
真っ暗になった視界。その中で、太ももの横が下に押される感覚がした。瑞希は慌てて瞳を開けると、ベッドの上に仰向けに倒れていた。その上に乗ってこようと、イリアが左ひざをかけているところだった。
「え……?」
光の速さのごとく急展開。食事をするはずだったのが、ベッドの上にいる。ここまでの経緯がもっとあってもいいはずだ。B級映画並みの支離滅裂。戸惑っているうちにも、イリアの右足は、瑞希の体の上をまたいで、反対側のシーツの海に落とされた。完全に押し倒している、である。
「えぇ……?」
無防備に見上げることしかできない瑞希。彼女の真上では、重力に逆らえず、銀の長い前髪は、貧疎なボディーの上へまっすぐ落ちてきていた。両目があらわになった鋭利なスミレ色の瞳。
「…………」
まだ逃げられる。足はまたがれているが、挟まれてはいない。手の拘束も片方だけは自由がきく。逃げろ、瑞希。である。だがしかし、あまりにもびっくりしてしまって、目を見張るばかり。
「っ……」
そうして、とうとうやってきてしまった。イリアの右手が瑞希の頭の横――枕の上にドスンと落ちてきた。次に左も同じようにやってきて、瑞希はついにベッドの上で拘束されてしまったのである。
彼女のクルミ色の瞳は大きく見開かれ、ムンクの叫びみたいに口を歪め開けて、イリアとは正反対と言っても過言ではない。全然いけていない、いや変顔をして、心の中で思いっきり叫んだ!
(いや〜〜! いつの間にか――っていうか、ゴーイングマイウェイ的に、ベッドドンなんですがっっ!!!! イリアさ〜ん!)
これが乙女の憧れの1つ。床ドンならず、ベッドドン。だがしかし、こんな形で訪れて欲しくないものである。そのまま、キスをするのかと思いきや、イリアは口の端を歪めてこんなこと言う。
「こうしてやる、ありがたく思え」
俺さま用語。押し倒しておいて、感謝しろとは、これいかにである。瑞希の上に掛け布団がめくり上げられた。
「ん?」
まずは右から、次は左から。イリアは今度ベッドの下に織り込まれているシーツを、引っ張り出した。それを瑞希に頭からつま先までグルグルと巻きつける。
「うわっ! ちょっと、待って――」
あっという間に、ベッドにあるであろう布地全ては、瑞希の体を縛りつけ――ミイラにした。クルミ色の瞳には全てがグレーがかった白。天井もドアも、イリアさえもうかがい見えない。かろうじて、頭の方に曲げていた手で、シーツの底辺を少し抑え込む。
すると、そこで見たのは、
「あははははっ!」
瑞希を指差して、口を大きく開けて、高らかな笑い声を上げているイリアがいた。彼のスミレ色の瞳の鋭利さは今は息を潜め、純粋一色。
晴れ渡る青空の下で、絹のように柔らかな風が吹く草原で、目を輝かせているような彼の別の一面に見舞われ、瑞希の胸が予想外にドキンと大きく脈打ち、
(あ……)
彼女の手は、力なくベッドに落ちた。だが、頬にシーツの端が引っかかり、笑っているイリアが真正面にいることには変わりなかった。
(何だか楽しそうだ。イリアさん、こんな天使みたいな無邪気に微笑むんだ。本当は可愛いんだ)
まるで、イリアという天使が空から迎えに降りてきて、その手を取って、天へと登ってゆく2人。
彼らのまわりと祝福を与える妖精が飛び回る。光る螺旋というリボンで2人を優しく包み込む。この恋は強い竜巻に乗って、さらに大空高く舞い上がり――
いいところだったが、イリアの天使のように可愛らしい顔は、何かが原因で一気に怒りで歪み、ベッドを乱暴にバンと叩き、
「貴様、そこでおとなしく寝ていろ。俺に逆らうとはどういうつもりだ! 俺にこれ以上手間をかけさせないように、動きを封じてやった。ありがたく思え」
パッと瑞希から身を引いた。後ろ髪引かれることもなく、イリアはドアから出て、それはご丁寧にしっかり閉められた。
「え、え……!?」
俺さまの
「す巻きにされた〜!」
手よりも破壊力がある足。それで蹴散らしたいところだが、それも叶わず。右に左に転がることもできず。瑞希は強気でわめき散らし続ける。
「これを解けっ!! 夜脇国に帰せっっ!!!!」
だがしかし、そこではたと気づいた。あの出会ってからの、針のような銀髪と鋭利なスミレ色の持ち主の性格を。
「この言い方じゃ、たぶん、イリアさんには届かない……」
瑞希は何度か咳払いをして、にっこり営業スマイルに変わった。バラードなどを歌うときに使う、柔らかめの声で助けを呼んでみた。
「イリアさ〜ん! お願いします〜〜! 解いてくださ〜い! ご飯食べたいです〜! お腹すきました〜!」
瞳を目の下の縁に思いっきり寄せたところで、かろうじて捉えられるドアは、開くどころか。足音1つ、気配も何も近づいてこなかった。瑞希は天井の小さなシャンデリアを見つめ、ポツリつぶやく。
「……放置だ。完全放置」
あんまりな仕打ちであった。お金を払うと主張しただけなのに。請求されて、それを拒んだのではない。逆のはずなのに。究極の俺さまゴーイングマイウェイである。
「ど、どうしよう? 脱出する方法……?」
フライング気味な生きたままでのミイラ化。瑞希は考える、脱出方法を。ここはタイミングよく隠し持っておいた小さな刃物が重宝しそうだが、
「と、とにかく、どこかずれてるところを探そう」
左腕は完全にやられていた。全く動かせない。右手だけで、ミニスカートとタンクトップ。拘束グッツの間を行き来する。
「ん〜〜? こっち? ……ない。じゃあ、こっちは……」
イリアの放置プレイから、瑞希が無事解放されたのは、1時間以上も経ってからだった。
「やっと出られた」
瑞希が乱れた髪をプルプルと横に揺らすと、香水が部屋に舞い上がった。ずれてしまったサンダルを足だけでチョチョイと直し、ドアノブを回す。
「イリアさん?」
首だけを外に出してみたが、相変わらずオレンジ色の柔らかな明かりが、スポットライトのように大理石の上に、丸い花を咲かせているだけだった。
連れてこられたであろう方向へ、瑞希のローヒールサンダルはカツカツと、小刻みに音を立ててゆく。
「あれ? いない」
食事をするはずだったテーブルで、ろうそくの炎は姿を消していた。薄暗い中で、料理の乗った皿は1つだけ――独りぼっち、これも放置プレイ。瑞希はまた戻って、最初にいた椅子のないテーブルがある場所へゆく。
「どこにもいない?」
魔法を使ったようだった。イリアのあのすらっとした長身はどこにもなかった。探すことを諦めた瑞希は、食卓が広がる部屋へ戻ってきた。
「とにかく、ご飯は食べよう。一生懸命作ってくれたものだから、残すのはよくないよね」
さっと椅子に座り、ナプキンを取り上げ、膝の上に適当に置く。消えてしまっているろうそく。今も斜めがけしているバックのポケットから、慣れた感じで銀色の四角いものが取り出された。
それは、ジェットライター。しかも、葉巻用。長い時間の安定した火の供給が要求される代物。着火ボタンは側面についている。グーにして握った手の先で、ドラゴンが火を吹くように、ゴーッと音を立てて、ろうそくが炎色を鮮やかに取り戻した。
さっきの支払い事件はどこかにうっちゃって、瑞希は顔の前で合掌。
「いただきま〜す!」
冷めていようが、ぬるくなっていようがどうでもいいのだ。緑の固く青臭いバナナ好きな瑞希にとっては。本来よりも硬めの肉をナイフを入れる、それでもスムーズに切れてゆく。
フォークにわしづかみされたラム肉のローストという魅惑は、彼女の口に
「ん〜〜! おいしいっっ!!」
悶え死にそうなほど、瑞希は椅子の上でグラグラと円を描くように、上半身を揺らしに揺らす。
「出来るだけちっちゃく切って、少しずつ味わって、長い間、この肉汁に浸りたい〜〜!」
まわりの豪華さとミスマッチの貧困層。ワイングラスに入れられた水を慣れない手でつかみ、スパイダー型の街明かりを眼下に望む。
「綺麗だね。この景色と料理をプレゼントしてくれたイリアさんに、お礼を言いに行こう。食べ終わったら……」
あの狭いアパートに帰って、今日も惣菜かお菓子。排気ガスだらけの空気の中で、騒音の中で過ごすと思っていた。だが、予想外の出来事は起こるもので、今は遠い空の下、外国。
男の足跡が残る食卓。残念ながら1人きりだが、通常では決して口にできない夕食。瑞希は自然とウキウキと代理石の上で足をパタパタさせ、時々目を閉じては堪能のため息をもらし続けてしまうのだった。
貧乏さ全開でチビチビ食べていた皿は、ようやくカラになった。その前で、瑞希は再び合掌。
「ごちそうさまでした。片づけないと……キッチンどこだろう?」
ご馳走になったのだ。それぐらいはしないと。そう思って、瑞希はキョロキョロしたが、やけに生活感のない部屋。
ミニスカートは椅子からパッと立ち上がって、半円を描くようにつながっている間仕切りを右へ急いで走ってゆく。
「キッチンさ〜ん! いない!」
人でないものに敬称をつけ、微妙に笑いが滑っている瑞希は引き返して、左奥へ駆け抜けてゆく。
「ここにもいない! どこにもいない!」
キッチンがない。
間仕切りだけでつながる部屋たち。
椅子が置かれていないテーブルだけがある。
それらから、瑞希はこの答えをはじき出した。
「――っていうか、ここ、ホテル?」
さっきミイラにされた部屋へ走ってゆき、近くにあった小さな書斎机の引き出しを開けると、四角い紙の束が現れた。
「あ、レターセットにホテルの名前が書いてある……」
扉から回路へ出て、全面ガラス張りの夜色のそばへ寄ってゆく。透明な壁に手をつけると、その冷たさが広がった。
「ルームサービスだったってこと? そうだ、そうだね。言葉は思いっきりつうじてる……。外国のホテルに滞在してる?」
どうやら、ホテルのスイートルームのようだ。今も遠くでライトアップされている塔を背景にして、瑞希は振り返る。
「あれ? じゃあ、イリアさんの家はどこにあるんだろう?」
謎が次々に出てくる。あの銀髪の向こうで、鋭利であったかと思うと、何の前触れもなく、純粋に変わる無邪気な男。ゴーイングマイウェイに引きずられっぱなしで、全身の面影はうまく浮かばない。
瑞希は同じ過ちを犯してなるものかと思い、両手を胸の前でグーにして、強く握りしめた。
「とにかく! どうなってるかわからないけど、イリアさんがいないと、夜脇国に帰れない気がするから、探そう!」
やる気満々で拳を振り上げた。だがしかし、彼女の記憶力崩壊は、鶏も跪くほどに見事だった。さっき見てもいなかったところから探し始める。
「イリアさ〜ん! いない!」
ホテルのスイートルームのガラス窓を右往左往する瑞希の姿を、星々が静かに見守っていた。客室の入り口のドアを閉めて、開けて、閉めて……彼女の捜索は続く。
「ここにもいない! どこに――!」
床ドンされたベッドがある側とは正反対の扉で、異変を見つけた。瑞希が動けないのに、ご丁寧にドアを閉めて出ていったイリア。そんな彼の規律に反するもの。白いサンダルは薄暗い大理石の上を急いでゆく。
「ドアが開いてる……」
1cmほどの隙間。異世界への招待状のようだった。だがとにかく、自分がリザーブした部屋ではない。しかも、相手はあの俺さまひねくれ超不機嫌男である。潜入を失敗したあかつきには、またミイラ、いやミノムシにされるのは目に見えている。
瑞希のローヒールサンダルはつま先立ちをして、忍び足でドアに近づいてゆく。そうっと頬を扉に当て耳を澄ます。すると、奇怪な異音が聞こえてきた。
「ん? ヒューヒュー音がする。何の音?」
それは、荒野に立ち、風が頬を切るように過ぎてゆくようなものだった。ホテルのスイートルームで発生するようなものではない。事件の香りが漂っていた。瑞希はドアから一旦離れ、大きな声で呼びかけてみる。
「イリアさ〜ん?」
ノーリアクション、返事なしではなく、無音。どこまでもそればかりが続く。瑞希はもう一度、ドアに顔を近づけた。
「ん〜? いないのかな? 困ったなぁ。帰りたいんだけど……」
鏡のような窓ガラスに、ブラウンの長い髪が右に左に揺れる様が映っている。バックを落ち着きなく触っていたが、瑞希の作戦第2弾で進軍。
「よし、ここは、申し訳ないのですが、強行突破しま〜す! 開けますよ〜!」
中に入ると断りを入れた。だが、それでも返事はない。それどころか、気配もしない。
風のような異音。
ホテルのスイートルーム。
人の気配がしない。
いきなり死体、もしくはお化けが出てきてもおかしくはない状況。だったが、瑞希は何の戸惑いもなく、ドアを中へ押し入れた。
少しずつ部屋の様子が浮かび上がってゆく。まずは、
曲線美を生かした赤茶の書斎机。
その上に乗っているノート型パソコン。
その隣で、クリアな色をお披露目しているミネラルウォーター。
1人で滞在するには、やけに広いベットルーム。瑞希は首を反対に向けて、ドア越しにのぞき込む。するとそこには、シワ1つついていないベッドが横たわっていた。
だが、どこにも、イリアのあの黒い最低限の筋肉しかついていない、すらっとした体はなかった。
「ん? あれ? いない。何の物音だった――!」
その時だった、瑞希があり得ない光景を目にしたのは。金色の尾を引いて、横滑りする流れ星のような光が、間接照明の中で美しい線を描いては、風で飛ばされた細い草のように消えてゆく。
「光る風? この音、風の音だったんだ……」
瑞希のローヒールは部屋の中へ、何の躊躇もせず入ってゆく。ブラウンの髪が頬をくすぐる。
「部屋の中で風が吹いてる? ん? おかしいなぁ」
物理的な矛盾。
窓はない。
エアコンの風でもない。
「風の行き先はどこ? だって、空気が動いてるんだから……」
ドアは確かに開いている。だが、金色に光る風は、壁にかけられた絵へ、どうやら向かっているようだった。
「これをたどっていけば、イリアさんがいる? そんな気がする……」
瑞希は大きくうなずいて、窓の隣に飾ってある絵画に近づいた。それは、緑を基調とするステンドグラスというレースのカーテンに包まれた聖堂。そこに
「よし、行ってみよう!」
絵の端には、Miseneの文字があったが、それに気づくことなく。瑞希は手を伸ばすと、黄金の光が体中にクルクルと、魔法少女が呪文を唱えたごとく、巻きついてきた。視界は黄色から白へ取って代わり、真っ白に。刺すような強い光で目が痛くなり、
「うわっ! まぶしい!」
反射神経という防御力で思わず目を閉じた。そうして、ヒューヒューという音がどんどん大きくなり、
―――瑞希の頬や髪を揺らしていた風は弱くなった。重力は正常。足が地についている感覚が証明していた。クルミ色のどこかずれている瞳は、まぶたからそっと解放されると、星空の海と満月が頭上に広がった。
「え? 外? どこの――!」
歩き出そうとすると、下からの街の小さなざわめきに、別のものが混じった。
「音が聞こえる。何の――楽器の音だ。どこから? ん〜〜?」
聴覚を鋭くするため、目をもう一度つぶる。すると、滑らかな絹をすうっと絞ったような響きが右奥から聞こえてきた。
「あっちだ。よし、行ってみよう!」
目指す方向には障害物があり、正体をつかむことはできない。何が待っているのかと考えると、瑞希の心臓はバクリと大きく波打つ。
だが、数歩も行かないうちに、はっきりとしてきた音の輪郭をつかんだ。
「……ヴァイオリン?」
絶美な響き。普遍的なのに落ち着きを持つ旋律。右に左にスイングし、時折、キュキュッと高音へ飛び跳ねては、なだらかな山を滑るように落ちてくるメロディー。瑞希は捜索することも止めて、遠くに見える塔の黄色い光に視線を落とす。
「素敵な曲だなぁ……心地がいい。心が洗われるみたいだ……」
特徴的な音の並び――パッセージにしばらく身を任せていた。だが、ブラウンの髪の中にある脳裏に、電流が走るようにパッとひらめいた。
「あっ! いい曲思いついた! よし! 録音しておこう!」
ヴァイオリンの音色が誘発剤のようで、瑞希のうちにメロディーが化学反応を起こし新しく生まれた。かなり淡くなった香水をつけた両手で、ピンクのミニスカートのポケットをあちこち触る。
「携帯、携帯……」
俺さま事件。連れ去り事件。ミイラ事件。行方不明事件。光る風事件。数々の関門を突破してやってきた、シンガソングライターにとっての至福の時――自分が最初に聞けるオリジナルの新曲。
上はタンクトップ。ポケットなどない。スカートのポケットなど、せいぜいついていても4つである。だが、難攻不落な要塞――バックがいた。これに、携帯電話戦士が突入していたら少々厄介である。
探し物が得意でない瑞希。メロディーが頭から逃げていかないようにしながら、四角く薄っぺらいものを探り当てた。
「あった! 出して――!」
取り出し方がいけなかった。指先で端の方をつまんだだけ。無情にも瑞希の手から、携帯電話は落下の道をたどる。慌ててしゃがみこんで、下で待ったが、着地点がずれた。ゴトンという鈍い音を発して、コンクリートに強打した携帯電話。
「画面が割れた〜〜!」
オーバーリアクションで、頭を抱えた瑞希は気づかなかった。ヴァイオリンの音がなくなっていることに。
「あぁ、よかった――」
超不機嫌な足音が近づいてきて、コンクリートの端に止まった。それは先が尖っている黒い靴。
「え……?」
「貴様、盗み聞きとはどういうつもりだ!」
奥行きがあり少し低めの声。それが火山噴火ボイスとなって、真上から降り注いだ。忍び足だの、断りだの散々入れてきたのに、帳消しである。
イリアのあの鋭利なスミレ色の瞳が待ち受けているかと思うと、瑞希は戸惑い気味に顔を上げるしかなかった。
「す、すみません。綺麗な曲だから、つい聞き惚れてしまって……」
無事だった携帯電話とともに立ち上がった瑞希。両腕を組み、仁王立ちのイリアが、彼女を差し込むように見ていたが、綺麗な唇からはこんな言葉が出てきた。
「いい。聞かせてやる、ありがたく思え」
「ありがとうございます」
瑞希は素直に頭を下げようとしたが、脳裏に吹いていた風向きが急に変わった。
「あっ!」
「何だ?」
さっきからオーバーリアクションの瑞希。
それに対して、ノーリアクションのイリア。
対照的な2人。落ち着き払った様子で聞き返されたが、瑞希のテンションは変わらず、遠くの山を指差すように、勢いよく人差し指を上げた。
「シューレイだ! 思い出した!」
瑞希の指先を間近で見ることになった、イリアは終始無言。
「…………………………………………」
「シューレイは夜脇国の人! 本名は確か……かいら……
「…………………………………………」
黒のすらっとした、196cmの長身を、乾いた夜風がただただすぎてゆく。たじろぎもしないイリアを、瑞希は様々な角度から眺めながら、こんな言葉を前振りにしてみた。
「ん? 返事なし、リアクションなし、意味なし。いや、ヤマなし、オチなし、意味なし、総して、ヤオイ……」
「っ……………………」
吹き出しそうになるのを無理やり抑えたように、イリアの顔が歪んだ。ちょっとだけ笑った。マニアックなネタがどうやら好みのようだ。それは横に置いておいて、瑞希は彼の心の奥底に迫った。
「何も言わないけど、ここは肯定な気がする。海羅 秀麗さんが目の前にいる……」
だが、矛盾が出てきて、瑞希は首をかしげる。
「あれ? じゃあ、さっき名乗ってた、イリアは何?」
名前が2つになってしまった。
「どっちで呼べば――」
謎がさらに出てきた。だがしかし、瑞希がそれを追求することはできなかった。なぜなら、真上から火山噴火を起こし、マグマが激怒という動きで降り注いだからである。
「貴様、つべこべ言っていないで、黙って、俺の演奏を聴け。俺の言うことが聞けないなら、貴様、ここから突き落としてやる!」
イリア、いや秀麗の手は瑞希の手首を、物を扱うような容赦ない力加減でつかんだ。そのまま、建物の端へ連れて行こうとする。
さっきの、ミイラ事件と同じ運命を、はるか下に街並みが広がる屋上でされそうになっている。瑞希は足を踏ん張って、必死に強くブレーキ。
「いやいや! 止めてください! 絶対に、転落死します! 聞きます! 聞きます!」
「ふんっ!」
面白くないと言うように、秀麗は鼻を鳴らして、置いてきてしまったヴァイオリンの方へ、黒のショートブーツでモデル歩きをして去ってゆく。
「きつい人って、海羅さんのこと?」
瑞希の白いローヒールが追いつく頃には、秀麗はすでにあごにヴァイオリンを挟み、弓を構えていた。スパイダー型の街灯りは、朝露が太陽に出会ったように、キラキラと足元で輝く。頭上には、クレーターがはっきりとわかるほどの銀盤。
それと、シンクロするような針のような銀の長い前髪。乾いた柔らかい夜風に、ふとサラサラと揺れると、弓と弦がスーッと出会い、そよ風のような音色が月夜ににじんでゆく。
瑞希はあまりの心地よさに目を閉じた。3拍子の高い音から低い音へと落ちてゆく、メロディーを主旋律とした曲。
(さっき見た絵画の中にいた天使みたいだ……)
大きな満月の中で、すらっとした影を描く男が屋上の角に立っている。秀麗の襟元で、シャツを切り取ってできたリボンのようなネクタイが、風に舞い踊る。
瑞希はいつの間にか空想世界に落ちていた。そこでのイリアは、背中に天使のような大きな翼を広げる、月下のヴァイオリニスト。
「――貴様! いつまで、俺にもたれかかっているつもりだ!」
「えっ?」
瑞希は瞳を開けると、斜めに自分の体が傾いていた。背中に何か圧迫感があり、それを突き止めようとすると、鋭利なスミレ色の瞳が銀の長い髪から解放されて、両目が今やビーム光線のように向かってきていた。
「倒れそうになっていたから、助けてやった。ありがたく思え。人間の分際で、俺の体を支えにするとは、どういうつもりだ!」
半お姫さま抱っこみたいな状況から、瑞希の紫のタンクトップ慌てて起き上がった。
「あ、あぁ、すみません! 気分がよくて、思わず目を閉じてたら、倒れそうになってたんですね?」
疑問形だったが、それに対する返事はなく――ノーリアクション。そうして、ゴーイングマイウェイ。
「座って聞け」
「はい。じゃあ――」
瑞希はミニスカートにもかかわらず、炎天下に雨風にされされた砂埃だらけの屋上に、そのまま膝を抱えて座ろうとした。秀麗からすると、今の彼女の言動は、『おかしなの』
「貴様、そのまま座るとはどういうつもりだ!」
かがみこんでいた瑞希は、珍しくキョトンとした顔をした。
「え……?」
「貴様の服が汚れる」
俺さま意外と優しかった。
「いや、私は気にしないんで、そういうことは。払えば――」
と思ったのは間違いだったと、次の言葉で思い知らされる。
「貴様のことなど、どうでもいい。俺の部屋に貴様のその汚れた服が入るのが許せない!」
秀麗、俺さま的に潔癖症だった。あの方程式は、
おかしなの+きついの=ノーリアクション+俺さま+潔癖症+ゴーイングマイウェイ+超不機嫌+ひねくれ
が正しいようだ。瑞希はすっと立ち上がり直して、秀麗に迷惑をかけない方法を模索する。
「あぁ、そっちですか。どうしようかな? あっ、ハンカチ!」
未だ斜めがけにしてあるアウトレットのバック。その中身が今、暴露される。財布はもちろんのこと、様々な紙という媒体がいつまでも
「ど、どこだったかな? こっち、あれ? こっちかな? あ、あった! よし、これを下に敷い――」
瑞希の手の中にあるハンカチは、重しでも乗せていたかのようにくっきりと折り目がついていた。しかも、1枚目が三角に少々めくれ上がった状態。埃だらけ。
「貴様、それは一体いつ洗濯した?」
「え……? んん〜〜? ん〜〜?」
珍しく難しい顔をして、うなり続ける瑞希。潔癖症とは次元の違う世界で生きている彼女を前にして、秀麗の天使のように端麗な顔は怒りで歪みきった。
「貴様、女のくせに、綺麗好きではないとはどういう――」
「そういうのおかしいですよね?!」
さっきから押され気味だった瑞希は、今は真剣そのもので、しっかりと意見した。エメラルグリーンのピアスが疑問で斜めに傾く。
「どういう意味だ?」
「女だからこうじゃなくちゃいけない。男だからこうじゃなくちゃいけない。そんな既成概念は必要ないと思います。人それぞれ、個性があって、不得意得意があるんですから」
銀の長い前髪はただただ風に吹かれ、針のような輝きを放つ。鋭利なスミレ色の瞳は遠くの空を見つめたまま。黒いショートブーツはきちんとそろえられて、微動だにしなかった。
「…………………………………………」
ノーリアクション。
「あれ? 返事がない……どういうこと? 今度はどんな意味――」
会ったばかりで、秀麗の言動、いや行動を理解するのは難儀。それでも、瑞希は考えようとすると、エメラルドグリーンのピアスが不意に近づいてきた。細い両腕はパッと横に大きく開かれて、
「っ!」
さっき離れた場所で見ていた、ネクタイのように結ばれたシャツの細い布地は、瑞希の頬にいつの間にか寄り添っていた。
「え……?」
瑞希は今度、抱きしめられた事件に遭ったのである。あまりに予想外な出来事に、彼女の手から、ハンカチが力なくパサッと屋上のコンクリートに落ちた。
彼女の肩越しに、無邪気な子供のような秀麗の微笑みがあった。新しいことを覚えた子供が見せる笑顔と同じだった。奥行きがあり少し低めの声で、耳元で甘くささやく。
「いい。守ってやる。ありがたく思え」
「はぁ?」
守る? 洗濯の話をしていたはずである。どこからきたのか、はたまたワープしてきたのか。意味不明すぎだ。瑞希は思いっきり聞き返したが、離してもらうこと、話してもらうことも叶わず。今度は秀麗の両腕に拘束――彼の黒の布地でミイラ化。
――――2人の言葉が途切れた。
「…………」
「…………」
欠けていたパズルピースがぴたりとはまるようなノンストレス。
性的なフレグランス。
夏の夜風と違う相手の体温で、自分のそれも変わりゆく
「…………」
「…………」
天使の両翼で包まれたような抱擁に、瑞希は身を任せた。
(ドキドキするのに安心する……。反対だけど、それが一番あってる……)
自分の鼓動が早くなっていくのと。
秀麗のそれが相変わらずなのと。
の、ずれているビートが心地よくて。どこまでも、どこまでも、幸せで、幸せで、どこまでも、どこま――
(綺麗で、落ち着いてて――っ!)
クレーターが見えるほどの大きな満月を背景にして、寄り添う2つの影。無事に結ばれて、 THE END――になりそうだった。だがしかし、瑞希が無理やり腕を振り払い、
「いやいや! 何で、抱きしめてるんですか!」
またしても、マキが入りすぎな展開。鋭利なスミレ色の瞳が夜の中でも、自分を刺し殺しそうなほど鋭くなっているのがはっきりとわかった。
「貴様、俺が抱きしめてやっているのに、ありがたく思わないとはどういうつもりだ!」
ただのカーブ道ではなく、迷路みたいに曲がっているような、ひねくれな言葉たち。天へスカーンと抜けるような火山ボイスに乗せて、言ってくる天使のように綺麗なのに、超不機嫌で台なしになっているが、秀麗な男。
そんな秀麗――イリアを前にして、瑞希は心の中で、答えを1つ見つけた。
(俺さま、ひねくれ、ノーリアクション、返事なし、ゴーイングマイウェイ……。でも、この人の言葉には悪意がない……。どうして、こんな言い方してくるのはわからないけど……)
風に揺れるネクタイがわりのリボンの向こうにある胸を。36cmの背丈の違いで、真正面で見る形で、瑞希は心に新しい泉が湧いてくるのを感じた。
(私はこういう人が――ん? どういう気持ち? これもわからないけど……こうしたいから……)
超不機嫌俺さまひねくれ男。なぜか張り合ってしまっていたが、今は責めもせず、何の戸惑いもなく、だた素直に優しくなれて、瑞希は微笑んだ。
「抱きしめてくださって、ありがとうございます。とてもあったかい気持ちになりました。だから、海羅さんにもそれを感じてほしいので……」
カウンター攻撃を受けるのかと思った、秀麗は一瞬目をつぶった。
「っ……」
だがしかし、次の瞬間、自分の体に他の温もりが巻きつき、
「……?」
鋭利なスミレ色の瞳が解放されると、そのレンズには、なぜか瑞希が抱きついている、いや自分を抱きしめている姿が映った。
(なぜ、俺が女の人間に抱きしめれている? だが、気分がいい……。なぜだかわからないが……)
秀麗の最低限の筋肉しかついていない胸の中に埋もれている瑞希。彼女の視界に入らない場所で、天使のような綺麗な顔は、無邪気な子供のように微笑み、鋭利さは純粋に取って代わっていた。
不意に吹いてきた強風にも負けず、2人きりの鼓動を聞くと言う演奏会は、満月の下で続いてゆく。どこまでも、どこまでも、幸せで、幸せで、どこまでも、どこまでも――――
――――気づいた時には、ホテルのスイートルームにいた。だが、瑞希はそこは追求せず。応接セットで、ミニスカートにかかわらず、膝を組んで、背もたれに堂々ともたれ、リラックスしている。
向かい合って座っていた、秀麗の足が華麗に組み直された。
「貴様にいいことを教えてやる」
「はい」
「次はゼッシュだ」
名前がまたいきなり出てきた。前のめりすぎな人物登場。瑞希は肘掛にだるそうにもたれかかったまま、顔色1つ変えず、少し棒読みのようなおかしな言い方をした。
「ゼッシュ? ん? 不透明水彩絵の具のこと?」
「貴様、それは、ガッシュだ。ステファに聞かなかったのか?」
絵+ステファ=答えが出た――
瑞希はニヤリとして、ウンウンと大きくなずく。
「あぁ〜、
何をされたのかわかって、秀麗の綺麗な指先は瑞希に勢いよく突きつけられた。
「貴様まで罠か!」
まで――
「ステファさんに、罠を仕掛けられたんですか? 無意識の策略とか言ってたけど……」
「あれはしない。他のやつらだ」
ら――
「複数形……誰?」
ここで瑞希の余裕はなくなり、パッと立ち上がって、大声で叫んだ!
「――っていうか、何人、罠を仕掛ける人がいるんだぁっっ!!!!」
秀麗は鼻でバカにしたように笑った。
「ゼッシュはしないから、安心しろ」
「だから、それは誰ですか?」
何の説明もない。しかも、会ってもいない人の名前を言われても、困るばかりで。今度はこの方程式のようだ。
おかしなの+罠なし=x
答えはまだ導き出せなかったが、秀麗からマキが入った。
「貴様、早く寝ろ」
小さな子供が親に無理やり寝かしつけられるようなシチュエーション。だったが、瑞希は猛反発。
「じゃあ、夜脇国に帰してください」
秀麗の超不機嫌顔は今も健在で、俺さまゴーイングマイウェイで、こんな命令を下してくる。
「今夜は、俺の部屋でおとなしく寝ろ。貸してやる、ありがたく思え」
また捕まってしまった瑞希は、頭を両手で抱えた。
「え〜〜、もうさっきと同じオチ」
そこまで言ったが、瑞希はふと思い出した。あの月灯りが差し込む部屋で、宝石のように異様に輝く黄緑色の瞳。山吹色の髪をかき上げる仕草。すらっとした体躯。戦車で引きずられるように進んでいってしまう会話を。
「――っていうか、
「それはよく言われる。俺とあれは似ている」
肯定が返ってきたと同時に、シーツでグルグル巻きにされたベッドルームに、いつの間にか移動していた。だがしかし、瑞希は話に夢中で、ソファーがシーツの白に変わったことに気づかないまま、
「何で、知り合いなんですか?」
「貴様、入ってこないようにしてあるから、早く寝ろ」
取り合わないというように、全然違う返事が降り注いだ。瑞希は少しだけ振り返って、極々小さな声でつぶやく。
「おかしなのでも、きついのでもなく、ノーリアクション=ゴーイングマイウェイのみ……こちらからの報告、以上です!」
誰に伝えたのかの疑問が残る、前振り。まさか、目の前の秀麗さんが取ってくれるはずもなく……。
それは放置で、これで2度目だ。知らない男と同じ屋根の下に、いきなり一緒に寝ることになったのは。瑞希は顔を元に戻して、話も同じく戻して、
「入ってこない? 何がですか?」
ホテルの部屋の鍵などオートロック。しかも、他に高い建物がないほどの、高層部分にある客室。飛行機事故でも起きて、飛来するのは別として、外から何か入ってくる可能性は限りなくゼロに近いだろう。
今度は、秀麗が後ろへ振り返って、悔しそうに言葉を吐き捨てた。
「くそっ! なぜ、さっきから情報漏洩するんだ?」
どうやら、最初の方から失敗していたようだ。
「んんっ! とにかく、何かあったら呼べ。お前に何かがない限り、俺もこの部屋には入らない」
何かに、秀麗の心のセーフティーピンが引っかかったらしく、言葉の途中でスカーンと火山噴火ボイスを炸裂させた。
「――というか、誰が貴様の部屋になど入ってやるものか!」
怒鳴ったと同時に、黒いショートブーツは絨毯の上を半歩下がり、
「っ!」
バタンと破壊音を作り出して、ベッドルームのドアは閉まった。
「あれ? 何で最後、あんなに怒ってたんだろう?」
瑞希が首を傾げて見つめている扉の反対側で、銀の長い前髪は不機嫌に横へ何度か揺れる。
「なぜ、俺が男の人間みたいな色情を言い訳するようなことを言う必要がある?」
黒いショートブーツは大理石の床を強く蹴りつけた。
「くそっ! 何だ、このイライラしたり、気分がよかったり、いろいろと忙しい感情は……?」
しばらく考えてみたが、秀麗は答えにたどり着けなかった。
閉じ込めたみたいになっている瑞希がいるドアへ、振り向き様に言葉を口にしたため、間た抜け落ちた響きになった。
「い……なる……」
挑戦的なことばかりしてくる瑞希。それなのに、時々、自分を納得させる女。あの女の人間に自分を変える何かがあるとは思えない。それなのに、こうして、自分は変化を迎えている。
瑞希に何かを――
秀麗の手はドアノブに伸びていたが、それをふと止めて、
「こうしてやる、ありがたく思え」
後ろ手で、上に何かを投げるような仕草をした。すると、部屋の中にいる瑞希の驚き声がすぐに上がった。
「うわっ! な、何っ!?」
秀麗は得意げに微笑んで、ドアから離れてゆく――――
――――上から何かが大量に落ちてきたベッドルーム。瑞希は衝撃で閉じていた瞳を開けると、芳醇な香りと真っ赤な美しい海が広がっていた。
「バラの花びら? 何で、いきなりこんなものが出てきたんだろう?」
バスルームで泡をすくい上げるようにして、頭の上へ投げて、ヒラヒラと花びらを振り散らせる。
「でも、いい香り〜!」
足をパタパタさせたまま、ブラウンの長い髪が枕の上にストンと落ちると、フワフワと花びらが舞い上がった。
「これに包まれて、眠る……幸せだ」
甘く高貴な香りを胸いっぱいに吸い込んで、
「これ、プレゼントしてくれたのって、
感覚。だからこそ、瑞希にしかわからないもの。だがしかし、波紋がどこにも引っかからず、宇宙の果てにまで広がってくようなフィーリング。これは、はずれたことのないものだった。
頭の下から引き抜いた枕とともに、バラの花びらを幸せいっぱいで抱きしめる。
「だから、海羅さん、ありがとうございます。お休みなさい」
しばらく、お姫さまのようにバラに埋もれたまま、瑞希ははしゃいだりしていたが、
「ん? 急に眠くなって――」
持ち上げたり、まわりの花びらをかき混ぜていた両腕が力なく、シーツの上に落ちると、真っ赤なバラがフワッと飛び跳ね、瞬殺のようにすぐさま、心地よい寝息が聞こえてきた――――
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