霊山の狐

平原海牛

序章 ―― 義賊〝霊山の狐〟


 晩冬の深夜。町はしかし騒然としていた。

 提灯や松明が闇を裂き、小具足を身につけた大勢の男たちが駆けてゆく。刀を、刺又を手にした出で立ちの彼らは城の兵士だった。彼らは一様にある一点を見上げ、それを見失わぬよう声を飛ばしながら篝火の揺れる道を走る。

 その先には、ひとりの少女がいた。

 彼女は白い着物と朱色の袴を身に纏い、金色の髪を靡かせながら家屋の屋根を疾走していた。あどけなさの抜けた、凜とした雰囲気を放つ少女だった。

 少女は左の肩に大きな革袋を提げ、右手には青色が波のように揺らぐ刀を携えていた。

 その刀に鍔や柄巻はなく、木刀のように刀身と柄とが一貫している。鍔のあるべきところには小さなかえしがあり、さながら十手のようにも見える変わった形をしていた。

 そして変わっていたのは刀だけではない。流星を思い起こさせるが如き金色の髪は、とても珍しいものだった。

 しかしそれらを霞ませるほどに変わっていた――いや、異形だったのは、頭にのった獣の耳と尻についた尻尾。それらは髪や瞳と同じ金色で、狐の持つものによく似ていた。

 

 大きな荷物を持っているにもかかわらず、少女は男たちを寄せつけることなく走り、跳び、駆ける。そして続く屋根の終点、町の端まであと少しというそのとき、少女のすぐ後ろをいくつもの風切り音が通り過ぎた。

 屋根を飛び越え町の外に消え去ったそれは無数の弓矢だった。矢は次々に襲いかかり、駆ける少女を射貫かんと放たれる。そしてついにそのうちの一矢が少女を捉えた。

 少女はそれを横目で見遣る。髪と同じ金色の瞳が迫り来る凶器を映した。しかし少女の目に怯えの色はなく、そして躊躇うことなく右腕を振り上げる。握られていた刀は、あと一瞬あれば少女を射貫いたはずの矢を弾き落とした。

 そんな芸当を見せながらも、少女は速度を緩めずに町の端まで辿り着き、最後に屋根の縁から高く跳んで夜の闇に消えていった。

 その先には夜なお暗き常緑樹の林と、天を衝くが如き雪山があるばかり。

 それは濃紺の空に、輪郭を黒々と描いて佇んでいた。

 

 ところ変わって町の中央広場。

 町を貫く大きな通りの四辻で、昼間は露店などで賑わうその場所は、今は別の意味で賑わっていた。そこかしこにある篝火がぱちぱちと弾け、たくさんの兵士たちが行き交っている。

 その四辻の城に延びる道から、足早な力強い足音が聞こえてくる。羽織を靡かせながらやってきたのはひとりの壮年の男だ。

桐悟とうご! 居るか!?」

「――はい、大楠おおくす隊長。ここに」

 開口一番大声を上げた男のもとに、青年が駆け寄った。桐悟と呼ばれた彼は、細身ながらもしっかりとした筋肉を身につけた青年だった。彼も兵士なのだろう。腰に刀を差している。

「状況は?」

 壮年の男――大楠は桐悟に訊ねる。

「申し訳ありません。太蔓屋たづるやの蔵が荒らされ、逃げられました」

「〝奴〟か?」

「はい、私も確認しました。あの妙な扮装は間違いありません」

 眉間に皺を寄せながら再度問う大楠に、桐悟は断言で返す。大楠は、ふむ、とひとつ唸って顎に手をやると、話の続きを促した。

「……まず被害に遭ったのは金貸しの大店おおだな、太蔓屋です。蔵にあった金目のものが奪われました」

「見張りはどうした? あそこには予めつけてあっただろう」

「何もできずに倒されたようです。しかしそのときの物音で早期の発見に繋がりました」

 顔に苦いものを浮かばせながら、大楠は再び問う。

「そっちの被害は?」

「被害は三十人以上。軽くて打撲、重くて骨折。命にかかわるものは報告に上がっておりません」

「三十人か、多いな」

「早期の発見が仇になってしまった面もあるかと」

「で、全員軽傷か」

「……ええ」

 顔を顰めるふたりの間に、重い空気が流れる。大楠は細めた双眸で町の外に見える山の影を見遣った。

「逃げ去った先は銀麗山ぎんれいざんだな? 町外れに置いた弓兵部隊も駄目だったか」

「……足止めにもならなかったようです」

 桐悟は視線を下げながら答える。大楠は眉間に深く皺を寄せた。

 ――配備した兵は百余り。太蔓屋以外にもいくつかの場所に人員を割いていたため、兵力が分散していたのは事実である。しかし、行く手を阻んだ三十人弱が返り討ちに遭ったということにふたりは辟易した。それも手加減をされるほどに余裕を持たれて。

 敵はとんでもない手練れだ。町中ゆえに少数しか配置できなかったが、弓矢も意味をなさなかった。幸いにも重傷者、死者はいないが、自然と溜め息がふたりの口から零れる。

「大楠! これは一体どういうことだ!?」

 そのとき、城へ続く通りから怒声が響いた。騒がしかった広場がしんと静まり返る。

「――これは苧環おだまきさま」

 大楠は怒声の主――苧環へと頭を下げ、桐悟は後ろに下がり膝を突く。広場にいるほかの兵たちもそれに倣った。

「隊を編制してから何度目だと思っている? 許されることではないぞ」

「申し開きのしようもございません」

 声を荒らげる、身なりの良いがっしりとした身体つきの男。対する大楠は平身低頭の姿勢を貫く。乱暴な叱責であるが、しかし仕方がないと言えなくもない。対象の捕縛どころか大した手がかりも得られないまま、今回で七度の犯行が重ねられていたのだった。

「この体たらく、今後どうするつもりか聞かせてもらおうか」

 怒りの収まらぬ様子で詰め寄る苧環に、揺るがぬ声色で大楠は答える。

「は。賊は銀麗山へ向かった様子。夜明けとともに山狩りを行おうと考えております」

「あの天険に入るか。……良いのか?」

「手がかりを掴むにはそれしかないかと」

「ふむ」

 少し考える素振りをしたのち、苧環は怒らせた肩を下げて踵を返した。

「では吉報を待っている。心してかかれ」

「は」

 背中越しに投げられた言葉に、大楠は了解を示す。そして背後を振り返ると強い口調で広場全体に声を響かせた。

「聞いての通り、予定通り銀麗山へ山狩りを行う。雪中行軍の準備を速やかに行え!」

『はっ!』

 広場中から力強い声が上がり、また辺りが騒然となっていく。それを見届けた大楠は桐悟に歩み寄り、佇む彼に指示を出す。

「桐悟、おまえも準備を急げ。夜明けまでに隊の全員を山の麓の集落に集めろ」

「……やはり、銀麗山へ入るのですね」

 けれど、桐悟はその指示に頷けずにいた。

「不服か?」

 大楠はそれに対し、教師のように問いかける。

「そのようなことはありませんが、今の会話にもあった通りです。天険と呼ばれる銀麗山に踏み入るなど、躊躇わずにはいられません」

「だが、それも会話の通りだ。私たちは一刻も早く〝奴〟の身柄を押さえねばならん」

「それはもちろん。……分かりました。すぐに準備を」

 これ以上反論を重ねるわけにはいかず、桐悟は準備に取りかかるべく踵を返す。

「……本当にそれだけか?」

「!? なにを――」

 しかしそのとき放たれた大楠のひと言に、桐悟はどきりとして振り返った。

「桐悟。おまえは〝奴〟を討てるか?」

「あ、当たり前じゃないですか。私は城に仕える身なのですから」

「城に仕える兵士としてではなく、おまえ自身の言葉で語ってみろ」

「あ、…………」

 桐悟は返答に詰まる。己が心中を見抜かれてしまったことに狼狽しながら、それでも取り繕おうと視線を彷徨わせて言葉を探した。

「言わずともよい、わかっている」

 焦る桐悟に、しかし上官の口から出たのは咎めの言葉ではなかった。彼は桐悟の心情を、国に住む多くの人の本音を理解していた。

「巷で人気のを応援したい気持ちは、私にもよく分かる」

 その言葉は自分たち城に仕える者が口にしていい台詞ではなかった。桐悟は何も言えずに息を呑む。しかし大楠は、憚ることなく言葉を続けた。

「今の暮日崎の政治に思うところのない者はいないだろう。太蔓屋とて悪名高い金貸しだ。民草にとってどちらが正義かなど、とても訊けたものではない」

 大楠は自嘲気味に言いながらも、「――だがな」と言葉を翻して眼光を鋭くさせる。

「それでも私たちにはやらねばならないことがある。義賊といえど、国を乱す輩を放ってはおけん」

 大楠は自らの役目を誇りとして決然と言った。

石蕗つわぶき桐悟副隊長。貴君の役目は何だ?」

「……捕らえることです。――〝霊山れいざんきつね〟を」

 いつの間にか空はその色を白々とさせ始め、山の影がよりはっきりとその身を示す。

 桐悟はそれを見据えて、さまざまに巡る思いを握り潰すように拳を固めた。

 

       ◇◆◇

 

 時は乱世が終わるころ。

 列島の北方に位置する、山の麓の小さな城下町――暮日崎くれひざきの町にて、ある出来事が町人たちの関心を集めていた。

 冬の半ば。ある貴族の屋敷に賊が侵入したことが始まりだった。被害は金品のみで、家人は朝になるまで気づかなかった。目撃者もおらず、大まかな犯行時間くらいしか手がかりのないことから捜査は難航し、犯人検挙は絶望的と目された。

 しかし、そのほとぼりも冷ぬままに二件目の犯行が起こる。またしても貴族の屋敷で盗みが働かれたのだった。

 事件の噂はあっという間に町中に広まり、町民の話題を独占した。警備の厳しい貴族の屋敷に盗みに入る。それも二度。それだけでも話題性は充分だったが、特筆すべきは別にあった。

 被害に遭った貴族は悪政の甘い汁を吸っていたこと。そして、事件のあった数日のうちに、貧しい家々に金銭が届けられたことだ。

 

 ――つまりは〝義賊〟。

 

 これを同一人物の仕業、また、まだ犯行が重ねられると見た城の上層部は臨時に対策隊を編制する。三度目の事件の直後のことであった。

 隊長には大楠高仁たかひとが就いた。城の剣術指南役であり、剣の腕、人望ともに評価の高い人物である。

 大楠は即座に行動を開始した。次の現場と目星をつけたところに警備を配置。警邏を増やして毎夜厳戒態勢で事に当たった。

 尻尾を掴んだのは五度目の事件の際である。ある兵がついに犯行現場を目撃したのだ。

 

 警備の交代を告げに行く、まさにそのときであった。その兵士は地面に伏した仲間たちに驚くも、蔵に侵入する人影を発見するやすぐさま呼子笛を鳴らした。

 人影は一目散に逃げ出すも、集まる兵の数に押され、ついに丁字路に三方から取り囲まれる形で動きを封じられ、義賊は初めて人目にその姿を晒した。

 そして兵たちは驚愕する。提灯の先にあったその姿は――男物の着物と袴姿の上、顔はよく見えなかったが――紛れもなく女性の、それも少女と呼べるほどの年頃であり、金色の髪と同じ色の獣の、狐に似た耳と尻尾を持っていたのだから。

 その珍妙さに言葉を失う兵たちであったが、それでも逃がさぬように包囲を狭め、ついに一連の事件も終わりだと誰もが思った。

 しかしそのとき、唐突に一陣の風が吹き荒ぶ。

 咄嗟に兵士たちは顔を覆うが、その一瞬が命取りで。

 一方の道に陣取る兵たちをあっという間に叩きのめした異形の少女は、風のような速さで夜の闇へと消えていった。

 

 取り逃がしはしたものの、この一件でやっと手がかりらしい手がかりが手に入る。妙な扮装をした少女の手配書は瞬く間に広まった。

 しかしながら何事もなかったかのように犯行は続き、そして六回目の犯行が終わったころには、いくつかの〝きまり〟のようなものが見えてくる。

 人間離れした身体能力と、かなりの剣の腕を持っていること。

 怪我人は出ても、死人は出ていない――否、出さないこと。

 そして、逃げ去る先は銀麗山であること。

 ――天険〝銀麗山〟。

 迂闊に入れば生きては出られない。

 山を越えようと進んでいたら出発地点に戻っていた。

 吹雪の先に美しい女の姿が見えた。

 そのほかにも多数、妙な噂の絶えない曰くのある雪山である。

 深く踏み入る人間はいないため、そこを根城にしているという憶測は誰の頭にも浮かんだ。噂は噂を呼び、そして尾ひれに加えて背びれや腹ひれまでくっつけて市中を駆け巡った。

 曰く、山の神が遣わした神使であるとか。

 曰く、凍えて死んだ女の霊とか。

 曰く、化けた狐が人をおちょくって遊んでいるとか。――諸々。

 

 誰が呼んだか、ついたあざなが〝霊山の狐〟。

 もはや城内でもその名が正式な呼称となり、そして今回、町民の注目を一身に浴びる異形の義賊は七度目の仕事をやり遂げる。

 それを追う対策隊隊長、大楠高仁は、ついに山狩りを決行した。動ける兵士二百余名を総動員しての大規模なものだ。

 雪解けには早く、しかし寒さが和らぎつつある冬の終わりのことであった。

 

 結果から言うと、兵士を総動員した山狩りは失敗に終わる。

 収穫がなかったことはもとより、滑落、小規模の雪崩などによる怪我人が続出。曰くつきの雪山は、やはり何事もなく事を運ばせてはくれなかった。

 兵士たちの落胆は隠せない。負傷者の怪我は大したことはなかったものの、大きな損害だ。

 しかし事態はそれだけにとどまらなかった。

 ――〝霊山の狐〟対策隊副隊長、石蕗桐悟が崖から落ちて消息不明になったのだった。

 

       ◇◆◇

 

 雪山の半ば。中天に昇った太陽が木漏れ日を落とす獣道を、少女が走る。

 腰の辺りまである、先の方でひとつに括られた長い黒髪を揺らし、両手に薪を抱えながら林から飛び出した。向かう先はすぐそこの山小屋だ。山小屋と言うには少し大きいそこへ、小さな畑を横切って辿り着くと、躊躇うことなく扉をがらりと開いた。

「おかえり月緒つきお。早かったな」

 少女を迎えたのは別の少女の声。囲炉裏の前で本を読んでいたその少女は、玄関に薪を置く――月緒と呼ばれた少女よりも大人びていて、男物の着物を着流した格好をしている。背の半ばほどまである黒髪をさらりと掻き上げた。

 薪を置いた月緒はしかし、未だ玄関で佇んでいる。何か言いたげな目を囲炉裏のそばの少女に向けるばかりだった。

「何かあったのか?」

 それに気づいた少女は本を閉じ、腰を上げる。月緒は玄関の外である方角へ指を差し示した。たった今までいた林のほうだ。

 不思議に思って少女は近づく。そのとき、はし、と着物の袖を掴まれ、外に連れ出された。

「と、ちょっと待て。せめて履物――」

 慌てる少女を無視して、月緒は再びひた走る。履物をかろうじてつっかけた少女を引っ張りながら。

「待てって、いったいどうしたって――ん?」

 事態を把握できない少女は再度問いかけるも、その目に〝何か〟を映し取った。

 袖を引く月緒は無言のまま、〝何か〟のもとで立ち止まる。

「げ……」

 そして少女は絶句する。わき目も振らず連れてこられたのは林の終わりで、切り立った崖の下。見慣れた林の中には見慣れない物体が落ちていた。

〝落ちていた〟とは語弊があるが、少女から見たらまさにそうだったのだから仕方がない。

 そこには〝霊山の狐〟対策隊副隊長、石蕗桐悟が落ちていた。

 

 少女はちらり、と月緒に目を遣った。

 見上げる月緒は無言の微笑み。若干の苦味が見てとれる。

 少女はこめかみに手のひらを当てながら、低い呻き声をもらした。

 

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