第236話 重なる思惑
協定書への署名が終わり、参事会の者たちは部屋を出て行く。
アベルは姿を見せなかったカーリムという
時間を置いて良いことなど何もない。
下手にカーリムに余裕を与えてしまうと反撃される恐れがある。
戦略的に重要なフラーは絶対に手に入れるのだ。
アベルは参事会議長であるギメの顔をそれとなく観察すると、彼は深刻な表情ではあるが、まだ諦めた気配ではない。
練り込まれた商人らしい眼には油断できない緊張感が宿っている。
内心では、いまだ懸命に頭を働かせているのだろうとアベルは察した。
やはりギメは有能な男だろう。しかも、裏表の使い分けが巧みな人物だ。
それがどんな生業の者でも、賢くて度胸のある人物を甘く見ていると痛い目に合う。
ここは休ませず、徹底的にギメを追い込んで態度を決めさせるのだ。
草原に従うか、やはり藩国に靡くか、あるいは逃げるのか。
アベルは最後まで残った彼に語りかける。
「結局、
ギメは知らないと答えるしかなかった。
すでに街を離れたらしい、という注進をするつもりもない。
逃げたカーリムへの義理立てというわけではなく、もうあの愚かな都督に関わりたくないというのが本音だった。
全責任をやつに負わせるつもりだが、それすら上手くいくかどうか分からない。いや、何としてでも奴を生贄にするのだ。
それならいっそ、逃げてもらった方が都合がよい。
卑怯なカーリムのことより自分の将来について考えずにはいられなかった。
フラーの街を根拠地にして、それこそ血の滲むような努力を二十年間も続けた。
ところが、地位も信用も全て失う寸前だ。
街と自分の財産を守るために参事会議長として降伏を飲んでしまった。
そうするしかなかった。
草原氏族の大軍がやってきて火矢を射かけるという脅迫は嘘と感じられない。
仮に現実となった場合の被害が大きすぎる。
ギメはアベルという若い男に、してやられたという悔しさを隠し持つ。
ヤヴァナ王を殺すという大言に思わず気圧されてしまった。
今からでも巻き返しを謀らなくては……。
「なぁ。ギメさん。これから一緒に都督の官邸に行こう」
ギメは声を低くしてアベルに答える。
自分の人生をメチャクチャにしつつある相手だ。
怒りぐらい湧く。
「……なぜですか」
「そりゃあ都督が居座るならフラーが降伏はしたことにならないからさ」
「それは商人の仕事ではありません。アベル様だけで行っていただきたい」
「つれないな。僕らだけで行けば警備兵と争いになる。無駄に戦いたくない。もし、カーリムが立て籠るなら攻めるしかない」
ギメは鋭く言い返す。
「協定では街を混乱させないため兵を入れる際は合意してからのはず。その代わりにこちらも自警団を活動させない約束です。今日はご勘弁ください」
「兵なんか要らない。今、ここへ連れてきた十人で足りる」
ギメは自分の聞き間違いかと思い、次にこの若者を馬鹿だと思った。
砦に準ずるような邸宅に八、九十人の兵士が詰めている。
いくら何でも自信過剰だ。
恐るべき交渉相手と感じたのは過大評価であったかもしれない。
それとも若さゆえの無謀か。
「それなりの数の警備兵が官邸に居ます。止めた方がよろしいのでは」
「都督が健在なら市民が降伏を信じない。カーリムを捕虜にするか殺すかで決着がつく。貴方にも責任のあることだ」
「無理です。私はただの商人。藩国の戦士や役人に意見など言えませんよ」
ギメは身分を理由に、もっともらしい断りを入れるがアベルは食い下がる。
「待ってくれ。貴方が有能なのは分かっている。食料を分配したり治安を守るのに協力してほしい。一つ一つ解決していこう。カーリムの件は最初にやるべきことだ。今日はそこまでやる」
「断ると……?」
「せっかく結んだ協定は、ただの紙切れになってしまうな。食料は街に入らず、草原氏族は襲撃を繰り返す。僕も市民が暴動を起こして貴方の大切な商会を襲うところなんか見たくない」
口を開けば文句が出てしまいそうになるため、ギメは苦々しく頷いた。
すぐそこの邸宅まで歩いて行く。
だが、中にカーリムは居ない。
あの臆病者はさっさと逃亡したのだ。
しかし、ギメの脳裏に狡賢い考えが過る。
邸宅にアベルらを招き入れ、兵士たちと共謀して逆に人質にするのだ。
あるいは成り行き次第で、アベルという男は勝手に死んでくれるかもしれない。
その上でナパーナ王子の軍勢に連絡すれば、この最悪な状況を逆転させられるかも……。
あまりの出来事が連続したせいか常になく判断に迷う。
アベルが様子を見ると、都督の邸宅は高い石壁に囲まれている。
大きな正門は閉ざされて、門番も姿がない。
ヌボッチの内偵によれば警備兵は最大でも約百人。実際にはもっと少ないと見た。
この場にいるのはたったの十名だがワルト、カチェ、ライカナ、コモンディウスと強力な仲間がいる。
負ける気がしない。
アベルは隣のカチェに言う。
「このまま邸宅へ押し入ろう。時間をかけたくない」
「確かに
戦意を漲らせたカチェが刀を抜く。
ライカナも同じく細身の長剣を手に取り、準備した。
だいぶ乱暴ではあるが、藩国の支配体制は破壊するしかない。
あっという間に戦闘が始まりつつあるのをギメは呆然と見ているしかできなかった。
いささか目の前の人間らの正気を疑っていたのである。
アベルが魔力を集中させると頭上に赤い焔の塊が生まれる。
火魔術が使えるというのは張ったりではなかったらしい、などとギメはぼんやり眺めながら思った。
見るからに凶暴さを秘めた灼熱の塊。
木板で作られた門へ衝突するや激しく爆発した。
「うわっ!」
ギメは耳を劈く音に動揺して声を漏らしてしまう。
堅牢なはずの門が閂ごと壊されていた。
ギメは後ずさるが、逃げることを許されなかった。
巨漢のコモンディウスという男に背中を押され、同行を強要される。
「わ、私は行きたくないっ! こんな……酷いっ」
長身のギメであったが、コモンディウスという男はもっと大きくて力も強かった。巨漢はギメの肩を痛いほど掴んで言う。
「何を言っていやがる。あくどい商人が荒事に慣れてないふりか?」
「無礼なっ。私は悪徳など働かぬ!」
「ごちゃごちゃ、うるせえな。カーリムって男の顔を知っているのはお前だけだ」
ギメは否応なしに最前線へ引きずられる。
邸宅の窓から連続して矢が飛んでくるが、驚くべきことにアベルと仲間たちは風の魔法を使い、すべて逸らせてしまう。
アベルが再び、恐ろしい火魔術を使った。
弓兵のいた部屋が火を噴いて爆発する。
すると邸宅の扉が勢いよく開いた。
数十人の兵士たちが大声を上げて飛び出してくる。
ギメは自分も巻き込まれてしまったと恐怖した。
ところが、アベルこそが左右の手に刀を握るや、猛然と前に走り出した。
急激に狭まる両者の距離。
ギメにはなぜそんなことができるのか理解できないが、アベルは迫る穂先を弾き飛ばし、逆に兵士を斬りつけた。
槍という有利な武器で先制したはずなのに、凄まじい斬撃は兵士の体を、いとも容易く斬り裂く。
腹を両断され、赤い臓物を撒き散らすのを見たギメは震えた。
二人の女武将の戦いぶりも信じられないようなものだった。
攻撃魔術と刀剣を組み合わせた、洗練された戦い方。
素人から見ても無駄のない動作で攻撃を続け、しかも仲間と連携されていた。
まったく都督の兵士たちを寄せ付けない。
積み重なっていく死体。
警備兵たちは相手が少人数と見て、打って出たのだろうが裏目でしかなかった。
ギメはあまりにも想像と違った展開に言葉を失い、立ち尽くす。
たちまち二十人ほどが殺されて、恐慌状態に陥った警備兵たちは悲鳴を叫び、逃げた。
アベルは兵士の一人を蹴り飛ばして捕らえる。
「カーリムはどこにいる?」
「し、知らない! ここには居ない!」
アベルはカチェと顔を見合わせる。
互いに首を捻った。
「嘘を言っても無意味だぞ。探すからな!」
「どこかに出かけられたのを見た。側近の魔術師と、ご家族も馬車に乗っていた! 頼む、俺を殺さないで……」
アベルは捕まえた兵士に案内させて都督の執務室に入るが当然、誰もいない。
「参ったな。家族ごとなら逃げたのだろう。いったんウルラウのところまで戻って捜索隊を出そう」
アベルたちは急いで馬を繋いである場所まで行くが、ここでギメが強引に立ち去ろうとする。彼は交渉で見せていた余裕を無くし、顔面蒼白だった。
「おい。ギメさん。貴方にも来てもらうぞ」
「いい加減してくれっ! 断る!」
「僕たち、カーリムの顔を知らない。頼れる人間は貴方ぐらいなんだ」
「立派な馬車だ。見れば分かる。捕えたら、私のところへ連れて来るといい……もう解放してくれっ」
そんな遣り取りをしている時であった。
ヌボッチが見覚えがある男を伴って、ふらりと現れる。
連れているのはギメ商会の番頭だ。ヌボッチは短刀を彼に押し付けていた。
驚きのあまりギメは息を飲む。
「アベルの旦那ぁ。こいつ、物凄く慌てて飛び出してきたから捕まえておきやしたぜ。長距離を移動するつもりだったようで。何の要件でやすかねぇ」
「ヌボッチ。持ち物を調べろ」
血相を変えたギメが大声で怒鳴る。止めろとか協定違反だとか。
無視してヌボッチが鞄を引っ繰り返すと、封書が出てくる。
急いで
アベルは紙を剥がして中の手紙を読む。
カーリムが逃亡したため参事会としては仕方なく降伏するしかない。草原氏族は凶暴である。全ては責任を放棄したカーリムにある……と書かれていた。
「ギメさん。カーリムが逃げたこと、知っていたのか。嘘を吐いたな」
「黙っていたが嘘を吐いたわけではない! それに私は止めたぞ! アベル様が勝手に戦っただけで」
「まさか僕らが勝てると思わなかった。勝手に死んでくれれば良かった、という顔だな」
「す、すまなかった……謝罪する!」
ギメは慌てて頭を下げた。
アベルの強さというのは自分の常識を超えていた。
「ギメさん。貴方はマカダンの生まれか?」
突然、意図の分からない質問だったが、答えるしかない。
「そうだ。もっと南の州で生まれた。父親がフラーで商売を始めて、ここに移り住んだ」
「生まれた時から続いている藩国の支配だ。急に終わるのを信じられないのは分かる。だが、世の中に変わらないものなんかない。それを教えてやるよ。大儲けの機会だぞ」
「えっ……」
「草原氏族の盟主ウルラウ様に会わせてやるから付いて来い。一度だけは許してやるが断るなら容赦しない。いま決めろ」
アベルという男は、ことさら睨むような表情ではなかった。
むしろ穏やかなぐらいであったが、そのほうが底知れず、却って恐ろしかった。
ギメは馬に乗り、街を出て、郊外へと移動する。
しばらく進むと原野で草原氏族の軍団が遊弋しているのが見える。
次々と弓騎兵が寄ってきて、アベルが合図をすると先導を務める。
幾重もの警戒線を超えた先に幔幕があった。
現れた女性は若く、美しかった。
深い思慮を感じさせる瞳は、薄暮の空のように落ち着いている。
それに身に付けている装飾品は手の込んだ一流品だ。
遊牧氏族などというものは家すら持たない野蛮人と蔑視していたが、どうやら自分が物知らずだったらしい。
その高貴な女は問うてきた。
「お前がフラーの代表ですか」
ギメは儀礼を正して答える。
「参事会の議長を務めるシャリマ・ギメと申します」
「私は古来より草原を住処とするユーリアン氏族の族長ウルラウ。今は三十六氏族の盟主でもあります」
「族長様にお会いできたこと光栄の至り。この度、フラーの参事会はアベル様と相談して協定を結びました。降伏し、協力する代わりに身の安全と食料を提供していただきます」
ウルラウは微笑しながら、ゆっくり頷く。
思わずギメを、ほっとさせるような効果があった。
「それがよいでしょう。我々はマカダン藩国から侮辱を重ねられ、ついに戦争へと至りましたが民衆を痛めつける意図はありません」
「寛大な処置をお願いするばかりです」
「それにしてもマカダンというのは酷い国なので驚きました。民の多くは痩せ衰えている有様です」
ギメは作り笑いを浮かべて答える。
「ヤヴァナ王のご意向にて、私めは存じ上げぬことです」
「なるほど。お前にはお前のやり方があるのでしょう。ですが、暴君に媚び、それにより利益を貪る者が、いつまでも栄えていられるものでしょうか」
真っすぐな問い掛けに、ギメは言葉を出せなかった。
強い者に従い、下げたくない頭を下げるなど当然ではないか。
その辛いことをやって金を稼ぐ。
それが商人、それが人生だ……そう思ってきたのだが。
「さて、ギメとやら。お前や街の処遇についてはアベルに任せる。私は無益な争いは好みませんが、誇りを傷つけるものとは死ぬまで戦います。また裏切り者は決して許しません。本人だけでなく三代および婚族にまで代償を支払わせることでしょう。なぜならマカダンや王道国とも関係のあるディド・ズマの傭兵どもに私の父兄が殺されています。それだけは忘れないでください」
ウルラウは静かな怒りを湛えている。
ギメは思っていたより、ずっと深い怨恨が原因にあると知った。
会見は終わり、アベルに連れられて人のいない幔幕へと誘われる。
「ギメさん。では手紙を書き直してもらいましょうか」
「手紙……」
「そうさ。ヤヴァナ王への急告だ。あの慌てて書いた文章はなかなか良かったよ。ほぼ内容は変えなくていい。ただし、これから僕が言うことを書き加えてくれ」
木板の上に奪われた書状や筆記用具がある。
ギメは抵抗を諦めて
アベルが喋り出す。
「参事会のギメは草原氏族に攫われ、身代金を払わされた。その際に奴らの様子を見た。確かに個々の乗馬は上手いが数は多くない。見た限り千騎ほどであり、また小さな一族がたくさん集まっているので烏合の衆そのものである。草原氏族らは単に略奪のために集まり、これは盗賊と変わらない。
奴らは富があると噂を聞いてフラーを攻めただけであり、訓練兵は不運により負けた。纏まりなく移動を繰り返す奴らは、マカダン藩国の隅々まで略奪する企てを持っていて、とても貪欲である。さらに王が無能の臆病者だと触れ回っている。王よ、どうか我々を恐ろしい鼠どもから救ってください。フラーは降伏しましたが王の統治を願っています」
言われるまま、やや乱れた字でギメはそこまで書き切る。
アベルという男の真意に気が付き、呼吸は乱れた。
この男はヤヴァナ王を誘っているのだ。
「アベル様。王がこの手紙を信じた場合、早急に軍団を送り込んでくるでしょう。私はどうなるのか」
「我らが勝てば偉大な商人になれる」
ギメは乾いた笑いを上げた。
「はっはっはっ……ヤヴァナ王は執念深く、怒りは激しい。私は殺されるでしょう」
「なら、財産を持って草原に逃げればいい。ウルラウは貴方を保護してくれるさ」
「そんな簡単な話ではない。ここで培った人脈、販路。全てを失う」
「死ぬよりマシだろう。草原は広くて良い所だぞ」
「野原で商いをやれだと?」
「不満ならリッタゴンまで行くのはどうだ? 僕の知り合いを紹介してやるよ」
目の前の若者は本気で言っていた。
ギメは固く目を閉じる。どうやら自分の負けだ。
交渉でも実力でも、アベルという男にまったく及ばなかった。
「さぁ、これでフラーの決着がついた。我々は王子の軍勢にとどめを刺す。ギメさんは街を上手に治めてくれ。ああ、そうだ。弓矢の鏃が欲しいから街の鍛冶屋に注文したい。もちろん金貨で支払うぞ」
ギメは懐から用紙を取り出す。
「では、この注文書に数と納期を書いてください。鍛冶屋の親方に依頼しておきますから……」
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