第174話 裁判
ランバニアは機敏だった。
動くとなれば支度に時間をかけるような真似はしない。
アベルを王へと推挙するためにさっそく動き出す。
最低限の準備をすませるや、アベルとジャバトを伴って王宮へ歩み出した。
アベルは考えを巡らせる。
ランバニアがこうまで支援してくるのには理由がある。
要するに政治だ。
自分の影響下にある者が王の近くへ配属されれば何かと利用できる、ということだった。
とはいえ誰でも良いというわけではない。
身分が低く、後腐れなく使い捨てにできる者。
それでいて王に認められ得る実力のある者。
王が既に見知っている者。
ランバニアに恩義を感じている者。
他の王族に敵意ないし遺恨のある者。
これらの条件を全て満たしている男は、アベル一人だけ。
ランバニアにそう思わせることに成功した。
何もかもイズファヤート王を殺すための嘘だった。
――あと、もう一歩だ。
王への推挙とは、どのような形になるだろうかとアベルは想像する。
ランバニアが吟味した結果、王直属の親衛隊が相応しい……というようなものか。
そんなに都合よく話が通るかと不安を感じるが、逆に千載一遇の機会が巡って来るという期待感は抑えられない。
餓えた欲望。
ガイアケロンへの激しい共感。
それらに突き動かされ、どんな危険も突破してきた。
運命はどう転ぶか、アベル自身にもまるで分からない。
アスの言葉が蘇る。
いとも簡単にお前の肉体は無に帰す……。
宮殿を歩いていると、出会った官僚たちは例外なく王女へ傅いて来る。
政治と権力に精通した彼らはランバニアの怖さを理解していた。
ガイアケロンやハーディアの存在感は増しているが、そんなことは関係ないとばかりに恭しい。
しかし、ランバニアの彼らを見る視線は冷ややかだった。
イズファヤート王の予定を内務大臣ヤザンから聞き出し、広い王宮の中を最短距離で移動した。
やがて辿り着いたのは法廷の広間だった。
ランバニアは言う。
「おそらく父王様は今日、裁きの御勤めをなさることでしょう。裁判は王の政務の中でも重要かつ時間を必要とします。いつ始まり、また終わるか分かりませんから傍聴席で待ちます」
アベルは裁判所を見渡す。
まだイズファヤート王は居ない。
正面に裁判官の姿が見える。
前世だと黒い法服を纏っていたが、王道国においては華美なほどの服を着るものらしい。
緋色の長衣に金の首飾り。
裁判官の囚人を見る眼は侮蔑に満ちていた。
それから犯罪の疑いで捕まった者の背中が見える。
まだ有罪と決まったわけではないから、正確には未決囚ということになるが。
裁判と言っても弁護士などいない。
形式的としか思えない罪状認否の応答がある。
ほとんどの罪人は無罪を主張して、だが、有罪を言い渡される。
その繰り返し。
罪状は強盗や窃盗が多い。
そのせいか人相も確かに悪かった。
間違いなく人生を決定する裁判だが、ほぼ流れ作業と変わらない簡素さで進行していく。
二、三回の受け答えがあり、そして即座に判決となる。
有罪の宣言。
もちろん一審制度だ。
思わずアベルは聞いてしまった。
「ランバニア様。審理はずいぶんと短いようですが」
「ふふっ。逮捕者がどれだけいると思っているの。王都の監獄には未決囚だけで数千人はいます。しかも、日々増えている。時間をかけてなどいられません……」
世はあまりにも荒れていた。
途方もない貧富の差。
あらゆる困難辛苦の上に成り立つ征服戦争。
作物の不作。
辺境の争乱。
そのような情勢は新たなる犯罪者を次々に生み、早急な処理を必要としていた。
まさに事務処理でしかない裁判だった。
「死刑が意外と少ないようです」
「奴隷として売却すれば王国の利益となります。奴隷を必要としている者は大勢いてよ」
「ただ殺すよりは得、ということですか」
「ふふっ。賊のような輩に適切な職を与えるのですから、これは王国の情けというべきです。アベル。お前もよく注意することね」
ランバニアは冗談のつもりか笑っているが、王女と奴隷という身分の差。
アベルは苦笑で応じるものの、吹けば飛ぶような立場であるのを再認識した。
百人ほどの判決が下った頃、動きがある。
裁判官や書記が書類を大量に持ち込み、衛兵が増えてきた。
連行されて来た容疑者も強盗や殺人などではなく、政治犯や思想犯の様子がある。
それは人相や態度を見れば明らかであった。
アベルは宮殿の呼吸というべき気配を感じる。
それは貴族、官僚、奴隷ら、ありとあらゆる者たちの王を畏れる心の動きとでも言えた。
黄金と大理石によって飾られた、世界の中心。
数百万人を支配する王が、もうすぐここへやってくる。
衛兵も奴隷も、顔が引き攣るほど緊張していた。
これから過酷な判決が下るであろう者たちは、さらに震え慄く。
奥の扉。
青銅で造られ、天秤と蛇の工芸で飾られていた。
天秤は公正と平等を、絡まる蛇は罪人を示している。
重々しい金属の扉が、軋んだ音と共にゆっくりと開く。
姿を現した男。
そこに存在しているだけで異様なる光輝を放つ。
イズファヤート王だ。
アベルは眼で追う。
だが、すぐに視線を逸らせた。
耐えられなかった。
王の眼からは、人々を凍りつかせるような恐怖が溢れている。
アベルは震える拳を固く握る。
何度見ようとも慣れない。
圧倒的な存在感。
機会を作り、イズファヤートに近づく。
そして、王を殺す。
ずっと、それだけを考えてきた……そのはずなのに。
自分が殺しに来たのか、逆に殺されに来たのか分からなくなる。
気を紛らわせたかった。
話し相手は一人しかいない。
それが男を惑わす妖艶な王女というのも奇妙なことだが。
「ランバニア様。教えてください。裁判は王自らが執り行うのですか。普通は裁判官が行うものかと」
「王は法なり。特に重要な裁判では直接に裁定を下すのです。王の裁きに感謝するべきでしょう。罪人はとても多く、直々に裁いていただけるのは、ごく一部の者だけ」
傍聴席には平民と思しき男女も座っている。
「裁判は貴族だけでなく臣民も傍聴できるのですか」
「王は貴族も臣民も分け隔てなく裁きます。王に逆らう者に身分の違いはありません。ゆえに選ばれた臣民がその裁きを見聞きすることを許しています」
「司法大臣のキュロス様のお姿もありますが」
「補佐でしかありません」
絶対王政の極みに達している王道国において権力の分立などあるはずもなく、裁判は王の不可侵権利であった。
そして、目の前で行われているのは裁判というより、王威に叩き潰される人間の劇だった。
次々に現れる人物たち。
これから有罪か無罪かが決される未決囚である。
大多数は男だが、なかには女もいた。
彼ら、彼女らの前には時間を計るための水盤が用意されていた。
一杯の水盤から水が全て流れ出る間だけ弁明が許される慣わしだった。
器から水が失われる時間……自分の生死を分けるには短すぎる時間。
態度は様々だった。
跪き、必死に詫び続ける者。
自己弁護に終始する者。
諦めて何も語らない者。
水盤から水が流れ切った後、さらに喋る者は屈強な衛士によって口を塞がれる。
もっとも、ほとんどの者は大人しく黙るのだった。
そして、不思議なほどよく通るイズファヤート王の声。
煌びやかで厳かな貴金属のごとき声色であった。
「
イズファヤート王が有罪の宣言を下すと、まさに正義の歯車が僅かな狂いもないまま動く精妙さ、完璧さを感じる。
量刑は奴隷刑十年。
職務に怠慢であった、という嫌疑をかけられた役人だった。
果たして、それほどの重い罪を科せられるほどの違反なのか、という疑問は誰からも湧かないようであった。
奴隷刑十年というのはかなり軽い処分らしく、この判決があった者は何も言わずに去っていく。
逆に減刑を激しく訴えてくるのが肉刑と呼ばれる、身体損壊をして刑罰となす判決だった。
手や舌の切断、眼球に熔けた錫を流すという仕置きもある。
これは王の批判に同調した者への裁きだった。
どうやら粗暴犯よりも、そうした政治犯、思想犯への刑の方がより重いようであった。
しかも、家族にまで刑を科す連座も珍しくない。
強盗犯などには無かった処置だ。
犯行の当事者ではない家族を刑罰の対象する連座は、考えようによっては最も過酷な刑罰であった。
そして、この連座への赦しを請う声が一番大きかった。
壮年ほどの罪人が、悶えつつ身を捩りながら叫んでいる。
娘と妻だけは許してほしい、と。
だが、イズファヤート王は冷たい視線を揺るがさない。
罪人は荷物のように連れ出されていった。
もはや法廷の賑わいは絶頂というべきか。
謝罪の絶叫と慈悲の懇願が響き渡る。
「王よ! 私は国を、良くしようと! 民は苦しんでいる!」
「誤解です! お慈悲を」
「どうして私だけっ! あいつらの方が」
「助けてください! 助けてください!」
やがて、全ての判決が下された。
無罪とされた者は一人も、いなかった。
そして、刑は可能な限り即時執行だという。
裁判を終えた王は、すぐ隣にある執行の広間へ移動。
傍聴席の人々も移動していく。
執行の広間。
さらに人は増え、貴族や関係者が三百人はいた。
アベルはそこにヒエラルクの姿を見た。
弟子たちを連れて、どうやら刑の執行を手伝うのとイズファヤート王の警護を兼ねているようだった。
「どうしてこんなに人が……」
ランバニアが教えてくれる。
「父王が呼びつけた者も少なくありません。人間は意外と忘れっぽいもの。王権の偉大さを知る機会は多い方がよいでしょう」
裁判は危険人物を排除するだけでなく、人心を縛り付けるためにも利用している、ということだ。
徹底した恐怖政治でしかなかった。
執行は洗練されていた。
罪人たちは暴れないよう縛られ、手慣れた官吏によって運ばれる。
最初に斬首刑。
刀を手にするのは地下迷宮に同行したヒエラルクの弟子。
ザルーファという男だ。
刀身が閃き、バシャという水を撒いたような音がする。
斬首刑は一振りで絶命させるのが掟だ。
仕損じは恥とされる。
なかなか冴えた手並みだった。
手首の切断などは、さらに容易に執行される。
アベルが見たところ死刑判決は、ほんの数件しかなかった。
ただ、例外がある。
それは王を侮辱した者、王権に疑義を唱えた者、あるいは王への叛逆と見なされた者への科刑だ。
それらの者には
凌遅刑の内容は四つ裂き、釜茹で、寸刻み、石抱きによる圧死など。
あるいは魔獣に生きたまま食われる、食獣刑という罰まであった。
およそ人間に与えられる最悪の苦痛。
執行の間には大きな釜が一つだけ据えられているが、まだ火は焚かれていない。
「ランバニア様。凌遅刑もこれから執行されるのですか」
「今日は一件しか処理しないようです。闘技大会が控えています。試合の前座として凶悪犯の処刑を行う予定なので、その為にとっておくようですよ」
やがて、釜茹でにされる罪人が連れてこられる。
男は有らん限りの声を張り上げイズファヤート王を罵っていた。
「王は、王にあらず! これは、ただの暴虐なる男ぞ! 皆よ、目を覚ませ!」
当然のように誰からも答えは無い。
「ランバニア様。あの男は?」
「貴族であり学者のようなものです。皇帝国との和平を訴える文を書き、仲間を作っていました」
罪人は体に鉛の重しをつけられて釜の中に座位で固定された。
奴隷たちが水を運び、釜の中に満たす。
積まれていた薪に火がつけられた。
凌遅刑において罪人の苦痛は限界まで引き延ばされる。
よって湯は即死しない程度の高温を保たれるはずだった。
イズファヤート王が釜茹でされつつある男の前に立つ。
「お前は王ではない! 民を虐げ、貴族を殺し、戦争に狂った男め!」
「平和が欲しいか」
「あ、当たり前だ! みな、お前の暴虐を恐れて黙っているだけだ」
「お前の言う、戦争を止めると平和が来るというのは嘘だ。次のもっと大きな戦争が来るだけのこと」
「そ、そうだとしても一時の平和を求めて何が悪い! 今日だけで何人が戦争のために死んでいるのか。どれだけの者が苦しんでいるのか。考えてみろ!」
「平和という果実は甘い。すぐにお前のような者たちが集り、吸い尽くして実は枯れてしまう。平和を訴える者が平和を正しく扱えたことなど歴史において一度もない。戦う覚悟すら持てぬ者が、平和に覚悟など持てるものか」
「そ、そんなことは無い!」
「ならば答えてみよ。永遠の平和はどうすれば実現する」
「永遠の平和? そんなもの、始めからありはしない。有り得ぬことを求めるのは問いにもならぬ」
「それで批判しか出来ぬというわけだ。批判する者は答えを持っていない。しかも、現実とするための正しい努力もしない。有害である」
水が湯に変わり、いよいよ熱くなってきたようだ。
王を罵る男の顔が真っ赤になってきた。
刑吏が慣れた手並みで火勢を調節して、即死しないようにする。
「わ、私はここで殺されるがなぁ。お前のような暴君に言うべきことは言ったぞ」
「いや、お前の言葉は無意味だ。現に何も変わっていない。何も生み出していない。批判で世の中を変えることは出来ない。愚か者ほどこの当然の理を分からぬ。変えたくば口を閉ざして体を動かすしかないのだ。
これから、お前の体は良く煮えて犬の餌になるだろう。予はお前のような無価値な者もそうして役立てよう。だが、お前の言葉や経歴は全て消える。価値が無いゆえな」
王の不正を訴える声はしばらく続いたが、やがて熱湯の苦痛が耐えきれなくなり唸り声しか出なくなる。
同時に、他の罪人たちへ刑の執行が進められていく。
イズファヤート王に心酔している者にとって反逆者が酷い目に遭うのは、むしろ祝い事に等しく、喜悦を浮かべている者も多数に及んでいる。
「ランバニア様。刑の執行は、いつもこのように行われるのですか」
「今日は小規模です」
アベルの頬は痙攣した。
これほどの処刑が、小規模だと言うのである。
執行に携わる官吏たちは、一心不乱に働く。
ゆっくり歩く者など誰一人と居らず、移動は常に小走り。
誰しも集中して、効率よく動いている。
百人以上の罪人に対して短時間で作業が終了した。
晒し首、切断された腕。
煮え滾る釜。
恐怖に染まる人々に身分の違いはなかった。
裁判が終わりランバニアはイズファヤート王のもとへと向かう。
短い会話の後、別の場所に移動することになった。
アベルの動悸は高まる。
たった今、見せられた数々の処刑。
失敗すれば釜茹でに寸刻みと、ありとあらゆる苦痛が待っている。
だが、アベルの心に湧き上がる想い。
ずっとずっと過去から欲しくて欲しくて堪らないものがあった。
だが、一つも手に入らなかった。
生まれ変わっても同じだ。
欲しいものはあるのに、何も手にしていない。
いくらか金貨など得たところで少しも満足しなかった。
敵を数え切れないほど殺した。
だが、満足できなかった。
イズファヤート王を殺せば……ついに手に入るかもしれない。
本当に渇望が満たされるかもしれない。
もし、親衛隊に抜擢されたらアベル自身が警護役になるかもしれなかった。
それこそ待ち望んでいた機会だ。
イズファヤート王の隙を突けるかもしれない。
王を殺すまで、あともう一歩なのではないか。
ランバニアや法務大臣キュロス、官僚たちを引き連れたイズファヤートは王の間、と呼ばれる場所へ移動した。
ここも執務のための場所らしいが、書類などの処理をするのではなく、様々な報告や相談をするために使われるようであった。
ランバニアや複数の大臣による相談はしばらく続いた。
時間の感覚は麻痺する。
恐ろしい緊張が過ぎて、ついにランバニアがアベルを手招きした。
アベルは、ゆっくりと歩む。
一歩、一歩と王に近づく。
気狂いじみた欲望だけが恐怖を麻痺させる。
ついに来た、イズファヤート王の引見。
あの青く、暗い眼が再びアベルを見詰めてきた。
どこまで近づけるだろうか。
あと、五歩もすれば足元に到達してしまう。
もしかすると、いま、ここが、王殺しに相応しい唯一の瞬間なのだろうか。
そのとき、王の側に控えているヒエラルクが素早く動いた。
手で制して来る。
止まれと命令が飛ぶ。
アベルは動きを止め、ぎこちない動作で頭を垂れた。
「予の奴隷アベル。願いがあるとな」
頭を押さえつけられるようなイズファヤート王の声。
怖気で鳥肌が立っていた。
目の前の存在は人間離れしていた。
バケモノよりもバケモノだった。
鮮明に思い出す。
ずっとずっと過去から、生まれた時から、父とはこういうものだった。
そうではなかった男の姿、ウォルターが蘇る。
感謝の気持ちが湧いて来た。
――俺の本当の父親……。
「奴隷は……とても惨めです。このままでは、きっと死ぬまで満足できません。戦士として王の側で働かせていただきたいと願います」
考えた言葉ではなかった。
本音が出てきた。
するとイズファヤート王は頷き、言った。
「欲しいものがあるのなら、命を吐き出さねばな」
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