第146話  王の力




 

 貪欲な人間にはいつも何かが足りない。

 だから、どこまでも彷徨うことになる。


 しかし、とうとう手に入るのかもしれない。

 気狂いじみた飢えが満たされるような、何かが。


 アベルは目の眩む想いを抱き、片膝を床につけ、拝跪の姿勢で身を固まらせる。

 息が荒い。

 まるで腹を空かせた犬のようだった。


 かつてない威圧を感じる。

 無理やり視線を上げると、王座に腰掛けるイズファヤート王が僅か十歩の距離にいた。

 近い。

 きざはしを駆ければ届く距離。


 だが、攻撃はできない。

 武器が無い。

 ガイアケロンとハーディアは王族でありながら典礼を無視して剣を取り上げられていた。

 当然、アベルらも同じ。


 しかも、王座の周りには特に選ばれた護衛が並んでいる。

 中には剣聖ヒエラルク、名高い魔術師サレム・モーガンなどが連なっていた。

 未知の顔ぶれも只者ではない気配がする。

 この状況で仕掛けて王を殺すことが出来るか……。

 到底、不可能に思える。


 アベルはイズファヤート王の顔を、そっと観察する。

 脳髄が痺れるほどの恐怖。

 それしか感じようがない。

 それ以外に感覚が働かない。


 王の気迫。

 人の思考力を奪うほど厳かだった。

 いかなる人間も路傍の石ころであるかのように見つめる暗く青い瞳。

 引き締まった頬や唇に、ささやかな感情も認められない。

 安っぽい情や甘さなど、ひとかけらほども無かった。


 貴族的な傲慢さや冷厳な態度を示す者は幾度も目にしてきたが、これは破格だった。

 付け入る隙など蟻の穴ほども無い、まさに完全無欠の王だ。

 王座に在るこの姿を見て、イズファヤート王は下界における神だと信じる者もいるだろう。

 冷たい王の視線は、他の誰でもなくガイアケロンに固定されていて微動だにしなかった。


 王子の心中を探っているのかとアベルは気が付き、ぞっとした。

 あの王に嘘を通し続けるのは勇気なんてものでは、まるで足りない。

 もっと強靭な心がいる。

 ガイアケロンならその心を持っていると信じているが、恐ろしくなった。


 ガイアケロンの叛意は露見しているはずがなかった。

 傍から見れば王のために戦場を駆け回った孝行息子……そのようにしか感じられない。

 あるいは王位への望みを捨てない野心家という見立てをする者もいるだろう。

 だが、隙あればどこでも父親の首を刎ね飛ばす憎悪を知る者はハーディア以外はいない……。

 そのはずなのに、まるで地に足がつかなくなるほどの不安感がある。


 アベルは王の顔を見ていて、ひとつ理解した。

 いつでも子を殺せるのだと。

 

 イズファヤート王は必要と思えば、即座にガイアケロンとハーディアを殺してしまうだろう。

 飼い犬よりも簡単に。

 そういう王だ。

 ガイアケロンとハーディアは従順の仮面を被り、そんな怪物と戦っている。


 謁見の伽藍がらん

 この世のありとあらゆる装飾があった。

 黄金がちりばめられ、銀塊が輝き、珍なる宝石が煌めいている。

 磨き抜かれた貴金属の辿り着いた果てであり、宝物が沈殿に沈殿を重ねた、その最も奥底。


 飾りの中央に座しているのが王だった。

 装飾というのは何も金銀や宝石に限らない。

 居並ぶ貴族たちも顔を装飾させていた。

 無表情に徹して人畜無害を装うか、あるいは誰が見ても媚び諂いと理解できる笑顔か……。


 イズファヤート王から放射されている刺すほどの威圧感は言い換えれば、絶対的な恐怖だ。

 荘厳巨大な宮殿の中心である王から、恐怖が溢れている。

 それは人間を脅かし、自由な意思を徹底的に奪う。


――まさか俺はガイアケロンと共に殺されてしまうのだろうか……。


 アベルは避けられない運命を感じる。

 武器を取り上げたのは、そのためか?


 おそらく子を殺すに際して証拠など、どうでもいいに違いない。

 親というのは、そういうものだ。

 理屈ではない。


 そうして我が子の生殺与奪を欲しいままに行使する。

 我が子を殺してもよいと思う親などいくらでもいた。

 心に湧き上がる過去。


 憶えていないほど幼いころから息が出来なくなるほど蹴り飛ばされ、棒で殴られ痣が消えることのない日々を送ってきた。

 いつ殺されてもおかしくなかった……。


 だから、分かる。

 こいつはいつでも子供を殺す男だ。


 鶏卵ほどもある金剛石ダイヤモンドの嵌った白金の王笏をイズファヤート王が手にして掲げる。採光窓から届く陽光に反射して眩いほど輝いた。

 なにかが命令されようとしていた。

 片手を軽く振るうだけで、抗いようがない巨大な力が降り注ぐことになる。


 王笏が羽を振るうように軽く振られた。

 ガイアケロンとハーディアが拝跪を止めて直立する。

 ギムリッド、オーツェル、アグリウス、アベルもそれに倣い同じように動作した。

 次に整列する。


 完全に決められた儀典の通り。

 王の合図は、敬礼を受け入れるというものだった。

 アベルの額から冷や汗が流れる。


――粛清ではない……?


 アベルの疑問をよそに大謁見は進行していく。

 すぐあとから、今度はリキメル王子と大貴族ビカス・カッセーロらが現れる。

 配下の重臣や郎党も四人ほど引き連れていた。


 ふらふらと足取りも覚束ないリキメル王子が壊れた操り人形さながら、ぎこちない動作で片膝を付いて、ほとんど土下座のように頭を下げた。

 脂汗が額から垂れて大理石の床に落ちる。


 アベルは苦笑いをした。汗を掻いているのは自分も同じだった。

 イズファヤート王は、再び同じ動作で王笏を振るう。

 リキメル王子はビカスに引き上げられて、やっと立ち上がったが真っすぐの姿勢を維持していられない。

 体が傾いでいた。


 次に現れたのはシラーズ王子。

 アベルが見ていると実に誇らしげに、背筋を伸ばして堂々と歩いてきた。

 黄褐色の長髪をなびかせ、青い瞳は覇気を感じさせる。

 まだ若くはあるが充分に王族の威風を感じさせていた。

 どちらかというと長兄イエルリングの面影を感じさせる面相をしていたが、父王にも似ている。

 

 横には金貸しで巨万の富を築いた大商人ラカ・シェファがいた。

 シラーズ王子は有力な貴族の後援は得られていないが、これを契機に状況が変わるかもしれない。

 それが証拠に居並んだ貴族たちでシラーズを無視している者は一人もいなかった。興味津々と言った風情で新参の王子を眺めている。


 こうして人々から力を絞り出し皇帝国との戦争に投入するというイズファヤート王の狙いは完成していく。

 彼らもまた儀典に従い、揃って跪いた。

 淡々と、淀みなく謁見は続く。


 予定では最後に引見されるのがディド・ズマだった。

 大きな廊下から、その姿が現れる。

 大謁見では防具の装着が認められていないので、ズマは代わりに金の装飾品を身に付けているが、その様子は尋常ではなかった。


 腕といい首といい、太い金の鎖を何度も巻き付けてある。

 腕輪に耳輪にと全てが黄金。

 あらゆる人間を殺し、奪い、あるいは騙して集めた金を体に張り付けた怪物……。


 そして、そのディド・ズマの後から大勢の奴隷が姿を見せる。

 幾つも現れた大きな輿の上には山のごとく金貨や金銀の工芸品が積まれていた。

 途方もない量の財宝。

 ハーディアを妻とするために集めた血塗れの結納金だった。


 そんな人間離れしたディド・ズマもまた、王に膝を付き、首を垂れる。

 貴族たちの中には、それを見て満足げに頷く者もあった。

 ありとあらゆる暴虐と非道をやってのけるズマですら王威の前では畏まる。

 それほどまでに王道国は強大であるのだと確認できるからだった。


 アベルがズマの挙動を見ていると熟練した戦士らしいものを感じる。

 特に王へ拝謁しているときにも萎縮や怯えが僅かもない。

 その胆力だけは認めざるを得ない。

 ズマは拝跪を終えると視線を変えた。その先にはハーディア王女がいる。

 粘っこい糸を引くような欲塗れの眼。

 アベルも思わず悪寒のする男だった。


 これで謁見の者たちは全て揃った。

 アベルはオーツェルに叩き込まれた式典の順番を思い出す。


 このあと、いよいよ論功行賞だ。

 一番最初に名を呼ばれた者こそが、最高の名誉を授けられる習わしだった。


 ここでガイアケロンかハーディアの名が呼ばれるならば、イズファヤート王は二人の実力を認めていることになる。

 数百人の貴族たちは沈黙し固唾を飲んで注視する。

 どの派閥が優位に立つか、これで明確となるからだ。


 イズファヤート王が威厳すら感じさせる仕草でゆっくりと王笏を翳す。

 たったの一振りで世界の形を変え、人の運命を激変させる力が満ち満ちていた。

 アベルは思わず拳を固く握りしめる。


 王笏は……ディド・ズマを指していた。

 謁見の伽藍に溜息とも驚きとも似たざわめきが起こるが、一瞬で治まる。


「ズマ。此度、お前の働きを第一等と認めよう」


 高くもなく、低くもない、落ち着いて無感動なイズファヤート王の声。

 ズマは飛ぶような歓喜に打ち震える。

 イズファヤート王が第一等の功労者としてディド・ズマの名を上げた!


 目の前が明るく輝いた。

 栄光の瞬間だった。

 王道国の貴族ですらない、傭兵どもの頭目であるこの俺を大謁見の場で認めさせた。

 それも大勢の名門貴族や王族たち、そしてハーディアの前でだ。

 

 ズマの醜怪な顔面が喜悦に歪み、大きな口が開く。

 蛙が獲物を飲み込んだ様に似る。

 ありとあらゆることをやってのけた。

 皇帝国は愚かでもなければ怯懦でもない。


 弓矢の飛び交う最前線で手下たちを叱咤し、時には自ら攻撃に加わり皇帝国と戦った。

 死地に飛び込むのを躊躇った手下を殺したことなど数えきれず、弱気を見せた団長など見せしめに火炙りとしたものだ。

 人の焼ける煙をたっぷりと吸い、血と泥に身を浸しながら万にも及ぶ死体を掻き分けて歩んできたのだ。


 そうやってイエルリング王子に仕えて王道国の勝利に尽力したばかりか、せっかく手に入れた富の多くはこうして大王に捧げている。

 人生の全てを渡していると言っても過言ではない。


 あまりにも馬鹿げているだろうか。

 そんなことは誰にも言わせはしない。

 ついに半分まで来た。

 ハーディアまで、あと少しだ。

 この世で最も美しい、犯せば無上の喜びを味わうことのできる女まで、そう遠くない。


「だ、大王様! 今回で金貨二十五万枚になります。もうあと半分。残りの財宝を献上すれば成りますな! 約束の婚姻。このズマにハーディア姫を下賜くだされますなっ!」

「王の約定を疑うか」

「ま、まさか! はやる気持ちゆえ、お許し下され。そうだ。婚礼の儀には大王様もご臨席かないましょうな。何としてでもお願いいたしますぞ。仲人はイエルリング様でございます」

「気の早いことだ。いいか、ズマ。さらに励めよ」

「もちろんでさ! 皇帝国の何から何まで奪いつくして金を用意します! このズマ。男の見せどころ」


 ハーディアは地に落下するような眩暈を感じる。

 やはり父王はズマを誰よりも評価した。

 戦績もさることながら、膨大な献上品をよほど気に入ったに違いない。

 それにしても命懸けでコンラート軍団と戦い、勝ちもしたうえリキメルの危機を助けもした我々よりもズマを認めるとは……。


 それを思うと、なおのこと屈辱と憎しみが業火さながら燃え上がる。

 いかに考えようとも端から父王は金欲しさに自分をズマへの生贄とするつもりなのだと確信する。


 父親が汚れ切った怪物としか呼びようのない男へ、血の繋がった娘を売り飛ばすのである。

 やはりこんな男は肉親ではない。

 不条理に自分の人生を奪う、残虐な男。


 アベルはここで次の功績者の名が呼ばれるのかと思いきや、通常の典礼とは異なりだした。

 王宮軍団を統括している、ラベ・タルという名の将軍が合図した。


 ラべ・タルは六十歳ほどの男だった。イズファヤート王から信任厚く、この十数年間、王の命令ならばどんなことでもやってきたという。

 特別な名家の出身ということもなく、なんと兵卒から異例の抜擢された人物だとアベルは説明されていた。


 彼の面相を観察していると、まるで鉄仮面のように固い表情を崩さない。

 岩のように堅固な性格を感じさせた。

 しかし、やはり貴族の風格というものがない。どちらかというと職工の風情だ。


 ラべ・タルは才覚も至って凡庸で、ただひたすら忠実であることが大出世の理由だという。

 貴族の粛清では常に先頭に立ち、時には斬首まで自分で行うことから影では恨みを買っている人物でもあった。


 ラべ・タルが合図をすると、縄で拘束された数人の男たちが衛兵に連れてこられる。

 後ろ手に縛られ、まるで家畜を引っ張る様子に似ていた。

 縛られた男たちはイズファヤート王の前方で膝を付かされる。

 どうやら罪人らしい。

 

 何が始まるのかと誰しもが釘付けになるしかなかった。

 アベルの右隣にいるオーツェルにギムリッドが小声で話しかける。


「拘束されているあの三人はいずれも将軍だ。たしか地方の騒乱鎮圧に向かった顔ぶれのはずだが……」


 イズファヤート王の声が響き渡る。

 それだけで室温が下がったような気がした。


「さて、ここにいる全ての貴族、王族たちよ。皇帝国は滅亡させなければならない」


 確固たる意志を感じさせる宣言だった。

 態度、声、視線、全てにイズファヤート王の揺るぎない信念が漲っている。


「王道国の目的はいかなる手段を用いようとも皇帝国を滅することのみ。奴ら皇族を自称する者、貴族と名乗り追随する者ら、その支配を受け入れている土民ども、全て殺すか服従させるかだ。思えば戦乱の原因はあまりにも長く二国が並立していることにある。このは初め、傲慢な皇帝も言葉を尽くせば王道国を認めると考えた……。

 だが、奴らからあったのは宣戦布告である。予は浅はかであった。そして考えは改まった。あらゆる者は戦争に力を尽くせ。戦がどれほど辛かろうとも、皇帝国を滅ぼすまで続けなければならない」


 イズファヤート王の大原則が突き付けられた。

 国家の至る所に戦乱の疲弊があろうとも、まずは戦争が最優先にされるというものだ。

 そこに和平の意思は絶無である。

 少しでも反対すれば、粛清も有り得るのがはっきりと伝わってきた。

 

 ディド・ズマを認めたのも、どれほど残虐な手段であろうと皇帝国を苦しめればこれを称えるとの意思表示だった。

 やはりこの王が在位しているうちでは平和など訪れはしないとアベルは感じる。


 貴族たちは口々に、皇帝国を滅ぼせと威勢よく答える。

 まるで合唱だ。

 だが、本気でそう思っている者はどれほどいるのだろうか……。


 単に残酷な王を恐れて、従っているだけの人物もいるであろう。

 イズファヤートが王笏を振る。

 再び墓場より静まり返った伽藍、王の語りは続けられる。


「力を失った政治は愚劣の極みだ。悪政にすら劣る。優柔不断の政治は何事も成せない。

 この大謁見では我が家臣どもの功罪を問わねばならない。ここに引き立てられし者たち。命令である動乱制圧に手抜かりがあったばかりか、王に請願があるという。過分なる要望であるが王道国の王たる予は言い分を聞き遂げてやることにした。その上で処断を下すとしよう」


 跪いている三人の男たちの中でも、もっとも年配と思われる五十歳ほどの男が喋りだした。


「我らが王よ。大王とまで呼ばれる偉大なイズファヤート王よ。どうかこの忠実なる将ナバルジャンの言葉を聞いてください。動乱の起こりし地方の農民どもは不作と税に苦しみ、疲れ果てております。このままでは次の冬は越せぬと悲観して騒ぎを起こしたのです。どうか慈悲を賜りたい」

「なるほど。ナバルジャンよ。つまりお前は働かないばかりか徴税に抵抗する反徒らを無罪とするのが望みか……」

「彼らは罪人ではありませぬ」

「まずお前は仕える相手を間違えておる。お前は王に仕えるのではなく、反徒に仕えることにしたようだ」

「そうではありません。政治に行き届かないところがあれば正すのも貴族の役目」

「では問おう、ナバルジャン。お前は戦わず逃げ出す戦士を戦士だと思うか」

「……戦士が戦えないのなら、その者はもはや戦士ではありません」

「さよう。同じように畑を耕さない農民は農民ではない。ましてや官吏を襲い、王国の政治に従わない、これは我が臣民と呼べぬ。ゆえに仇なす反徒を討ち取れと命じた」

「不作に加えて税が重すぎるのです。それが原因」

「それは違うであろう。予の監察吏に調べさせた。少なくない量の作物を隠しているとのこと聞き及ぶ」

「それを税として納めてしまえば家族を奴隷として売るなどしなければならないゆえかと」

「奴隷は悪いものではない。臣民の下に奴隷があればこそ世の中は成り立つというもの。大いに宜しい。民は減りもすれば増えもする。戦に勝ち、王道国の隆盛なれば臣民も奴隷もますます増えて国は肥える。王たる予にはそこへ導く使命があるゆえ、慈悲にかこつけた優柔不断は許されぬ。ナバルジャンよ。さらに申し開きはあるか」

「王よ。されば我が言い分を聞き届けてくだされ。無理な城攻めはいたさぬもの。農民とて同じこと。また数年すれば再び豊作が望める年が来ましょうぞ」

「くだらぬ言いようぞ。いつ来るかもわからぬ豊作とやらを待って何になる。戦においては弱兵から陣形を崩すのと同じこと。弱兵が行軍に耐えられぬように、貧弱なる者ゆえに生業を放棄するのだ。矢が飛んでくるから攻めたくないという兵士を許すことはできない。民とて同じ。苦しいから税を納めない。働かない。これは敵前逃亡と同罪である。ある者が税を納めぬで良いとなれば我も我もとなるのは必定。一度許せば全ての土地において騒乱となる。そうなれば手遅れ。お前の小さな情けは虫の毒ごとく広まる」

「……王よ。善き王は諫言を苦みと共に飲み下すもの」

「ナバルジャン。お前の言いようは諫言や具申ではなく批判だ。しかも戦争の遂行に何ら寄与せぬ。他人の批判は容易いが、事を成すのは実際にやってみせた者だけだ。王に必要なものは手足のごとく自在に動く将兵のみ。口だけの将など敵に等しい。我が命令を遂行せず当地にて漫然と時を浪費したうえに反徒どもと結託したお主らには、死罪を授ける。最後の慈悲だ。自決を許す」


 儀典執行官が短剣を捧げ持ち、男たちに近づく。

 しかし、短剣を手にしたのは王と会話をしていたナバルジャンという将だけであった。

 他は呆然としている。

 

 彼は短剣を手にして、やがて喉に切っ先を当てる。

 謁見の伽藍は緊張に支配されていた。

 次にはナバルジャンの叫びに似た声が響く。


「王道国よ! 万世に栄えあれ!」


 ナバルジャンは喉へ短剣を突き刺し、さらに渾身の力で押し込む。

 おびただしく吐血しながらも確実に自分自身へ致命傷を与えた。

 首から赤い血が噴き出し体が倒れる。

 

 残り二人は頻りに助命を訴えていたが、命乞いをされた王は冷然としたまま眉一つ動かさない。

 罪を赦さないのを見極めたラべ・タルが衛兵に命じるとその場で斬首になってしまった。

 肉と骨を叩き斬る音が響く。


 控えていた奴隷たちが急いで床に流れた血を拭き取る。

 作業が終わらない内に、今度はもっと大勢の、二十人ほどの老若男女が連れてこられた。

 皆、先ほどと同じように縄で縛られている。

 床に転がる首を見て、悲嘆の声を上げた。

 どうやら家族らしい。


 この者たちまでもここで殺されるのか……アベルは戦慄するしかなかった。

 それはこの場にいる多くの者が感じているらしく、なお一層のこと雰囲気は重たくなっていった。

 誰しもがイズファヤート王の言葉を待つ。

 それしか出来なかった。


「処断した者らの一族郎党は全て奴隷刑とする。財産は没収。王に仕えるのを辞めた身にて、次は名も無き民に農奴として仕えるがよい」


 殺されなかっただけましなのだろうか。

 おそらく将軍の一族として家柄を誇っていたであろう。

 それが一瞬にして奴隷へ落とされるのでは死ぬよりも辛い人生となるに違いない。


 王からそれだけ申し渡されると、叫びに近い詫び言は無視されて荷物のように外へと連れて行かれた。

 アベルは目の前で展開された褒美と誅罰に、権力の本質を見る思いだった。

 飴と鞭だ。


 働きが良ければ醜悪極まる男だろうと絶世の美姫すら与え、命令に従わなかった将へは冷酷な処分を下す。

 抵抗できる者はいない。

 何もかも、全ては王の力を誇示するためだけに存在していた。

 

 王は奪い、剥ぎ取り、破壊することができる。

 また、逆にこの世に二つとない価値ある褒美を与えることもできた。

 

 その力に人々は恐怖し、あるいは心酔する。

 支配されていく。

 これが権力であった。


 金銀宝石で煌びやかに飾られた王宮に、血の臭いが噎せ返るほど漂っていた。

 儀式はまだ、さらに続く。

 新たな賞罰のために。


 イズファヤート王が王笏を差し向けた相手は、リキメル王子だった。

 リキメルは体を強張らせて、もぞもぞと不自然に体を動かす。


「リキメルよ。お前の惰弱な戦いぶりは戦目付ヒエラルクばかりでなく方々から聞き及ぶ。以前の謁見にて言いつけていたが、此度の不手際は許せぬ。王の慈悲はもはや尽きた。言うことはあるか」

「ち、父王様? 私は、私は精一杯、戦いました! 父王様から与えられた領地を守るべく……必死に戦いました。かの地は奪われておりませぬ」

「援軍が来るまで鼠のごとく隠れていたそうだな」

「勝機を、狙って、おりました」

「先頭で戦ったのはガイアケロンやハーディア、あるいはシラーズであったと聞く」

「私の、私の戦略は間違いではありません! 時期は冬にて、敵を長く引き留めれば消耗に持ち込めると考えたのです。それが功を奏して敵の退却に結び付いたのです!」


 アベルは苦しい言い訳だと思った。

 ガイアケロンが助けに行かなければ旧レインハーグ領の中心であるケルクは陥落していたに違いない。

 イズファヤート王は質問する相手を後見人の大貴族ビカス・カッセーロへと変えた。


「ビカスよ。お前から言うことはあるか」

「我が力が及ばず王子に恥をかかせてしまいました。王道の貴族ともあろう者が不徳の限りでございます」

「罪を認めるか。認めるのなら死罪だけは許してもよい」

「……死罪以外の罪とは、ど、どのような」

「大貴族ともあろうものが女々しい醜態を晒すな。二度は聞かぬ」


 短い沈黙。

 いかなる訴えも無意味と感じさせる冷厳なイズファヤートが、王座から見下していた。

 鉛のように重たい時間。

 絞り出すような答え。 


「……み、認めます。王の期待に応えられなかった罪はありましょうぞ」


 イズファヤート王の遣り口は巧みだった。

 強権で圧迫しながらも形だけにせよ相手に申し開きの機会は与えていた。

 単に叩き潰すのではなく、ビカスのような権力闘争に慣れた男に自分から罪を認めさせている。


「我が王道国には伝統の禊ぎがある。言うまでもなく片腕断ちのことだ」


 アベルも見覚えがある刑罰のことだ。

 王道国では罪を犯した者の腕を切断する罰がある。

 肉体に刻まれた痛みと恐怖は消えることなく、また他人から見ても抑止効果があると言われている。


「ナバルジャンは己の始末を己で決めた。お前も自分で出来るはずだ」


 我が耳を疑う残忍な要求だった。

 だが冗談などではない。

 イズファヤート王は平然としている。

 青い瞳は冷たくビカスを見つめていた。


 自分で自分の腕を切断する……。

 そんなことが出来るのだろうか。

 また出来ないとすれば、何が起こるのか。

 誰にも予測が不可能だった。


 ラべ・タルが短剣を取り出してビカスに渡す。

 震える手で受け取ったビカスは、鞘から刃を抜いた。

 少し間、逡巡していたが覚悟を決め、短剣を振り上げた。


 死体さながらの顔色になったビカスが目を剥き、歯を食い縛って自分の腕に刃を振り下ろす。

 ぶざまなほど弱々しい斬撃だった。

 とても骨まで断てるようなものではない。

 腕の肉が割れて出血するが、それだけだった。


 あまりの情景にリキメル王子が胸を掴み、苦し気に呻く。

 ビカスは二度は見られぬような酷い表情に顔面を歪め、もう一度、短剣を振り下ろすことはできなかった。

 一滴残らず気力を失っている。

 これ以上は時間の無駄と見たのかイズファヤート王は剣を取り戻すように命じた。


「呆れたぞ。道化の余興以下だ。ナバルジャンですら自決したというのに。たかが腕一本がそれほど惜しいか。予はもともと奴の一族郎党も死罪にするつもりであった。だが、ナバルジャンめは武人の作法をやってみせた故に罪を一等減じたのだ。

 ビカスよ。お前が片腕断ちをやってみせればリキメルを赦すつもりだった……。リキメル」

「ひっ! ひいぃぃぃ!」


 リキメル王子は精神的にある限界を迎えている。

 涎を流し、眼は血走り、かつてはふくよかだった顔付きはどこにもない。

 そこには追い詰められた野獣さながら、混乱ばかりがあった。

 次々と陰湿な工作をハイワンド領へ仕掛け、数万人の兵力を率い侵攻してきた策士風の王族が、父親の権力によって破滅しようとしている。


「……ガイアケロン、ハーディア。お前たちに問う」


 なぜか突然、イズファヤート王は二人に語りかけた。

 まるで言葉の斬撃だ。

 リキメルに何らかの処断が下されると思い込んでいたために不意打ちされたようで、アベルは小さく呻き声を上げてしまった。


「国内ではお前たち二人を英雄と持ち上げる風潮がある。それをどのように思うか」

「それは誤解と申し上げます。このガイアケロンは父王様のために目前の相手と戦ってきただけのこと。自らを英雄などと考えたこともありません」


 ガイアケロンは誠実さすら感じさせる態度で淀みなく答えた。

 隣のハーディアも掌を胸に当てて訴える。


「父王様。このハーディアめも同じ考えにて。父王様の望みに応えることが何より喜びでございます」


 二人の態度は完璧だった。

 父への憎悪を滾らせ、隙あらば叛乱を狙っているとはとても思えない。


「多くの者が勝った勝ったと騒いでおる。だが予は此度の戦果に不満がある。手緩い。手緩いということに尽きる。小さな勝利で満足している。まるで足りない。なぜ、さらに進撃しなかった。どうしてもっと皇帝国を奪い、破壊しなかった。イエルリングは奥地に進みよるぞ」

「かの地は未知の場所にて、良く調べてから攻撃するのが勝利への常道です」

「であるならば、いつ帝都に攻め入るのか」

「嘘を言うわけにはいきません。現時点では答えられませぬ」

「ナバルジャンは命令に従わず、ビカスは我が身可愛さで事も成せず、王子どもは敵が恐ろしいらしい。これでは皇帝国の息の根は止まらぬぞ」

「恐れてはおりませぬが、皇帝国は手強き敵です。将兵を無駄死にさせるなど出来ませぬ」

「ガイアケロンよ。大きな勝利が欲しいのだ。皇帝国は滅ぼさなければならない。兵力が足りないなどと報告を送って来るが、それはお前にも原因があるのではないか。ディド・ズマの支援を度々断っているそうだな」

「傭兵はいざと言う時に限って役に立ちません」

「なるほど……ではお前の将兵は役に立つのだな」

「間違いなく」


 イズファヤート王の青い瞳がガイアケロンから離れて、謁見のために並ぶ者たちへ流れていく。

 ギムリッド、オーツェル、アグリウス……。

 そして視線は最後、アベルを捉えて止まった。

 どうしようもなく嫌な予感がした。


――なんで俺を見ているんだ……。


「その一番若い男。名を応えよ」

「アベル・クルバルカでございます。百人頭として戦いました」

「聞き及ぶ。殿を勤めた功績により謁見を許した」

「はい。ありがたき幸せです」

「お前を王宮軍団の将にしてやろう。見たこともないほどの黄金に、実り多き土地もくれてやる」


 開いた口が塞がらない。

 将軍?

 あまりに突飛な話で答えに窮する。

 ハーディアが驚きのあまり頭を振り、イズファヤート王とアベルの交互を見る。


 その美しい顔には激しい変化があり、琥珀色の瞳は揺れ、口元に戦慄わななきがある。

 しかし、そんな仕草がさらに絶世の美女の魅力を沸き立たせた。


「ただし、お前に将としての資格があるのか試す。ガイアケロンがどのように兵を育ておるか確かめたい」


 アベルが肯定も否定もできないまま立ち尽くしているとラべ・タルが先ほどビカスに渡した短剣を持ってきた。

 その顔は怒りにも似た感情で朱に染まりつつある。

 これは威嚇だと思った。

 少しでも妙なことをしたら許さないという鉄壁の意思にしか見えない。

 眉を吊り上げ険しい顔をした王宮軍団の長は、そして武器を渡してくる。

 ということは、つまり……。


「アベルとやら。大貴族のビカスめにも出来なかったことをやってみせろ。片手になるが、名誉というもの。さあ」


 アベルは弾かれたように振り返ってきた王族兄妹の顔を見た。

 ガイアケロンとハーディアの瞳に隠しようもなく噴き出ている、憎悪。

 まともに見たら身が竦んでしまうほどの強烈な気迫が凝集していた。

 獣の唸りに似た怨念すら感じる。

 アベルには二人の心が読めてしまった。


 信じられないようだが、二人はここで理性も計算も失って抵抗しようとしている。爆発寸前だ。

 だが、絶対に早まらせるわけにはいかない。

 これはイズファヤート王による牽制とも言える試しだ。


 アベルは考える。

 王も内心ではガイアケロンとハーディアが恐ろしいのではないか。

 二人の指揮力は高く、個人戦士としても抜きん出ている。

 人を惹きつける魅力も溢れるほど有していた。

 敵に回せば、これほど厄介な者もいない。


 王の身を脅かすとなれば殺してしまうのだろうが、二人は今のところ戦争で得難い功績を上げている。しかも表向きは完璧な服従を示していた。

 となれば簡単に始末するのは惜しいとなる。

 特にハーディアはディド・ズマへの餌となって莫大な富を齎していた。

 つまり天秤が行き来している状況なのではないか……。


 そのような事を思いついたが、真実は分からない。

 イズファヤート王からは何者も心の内には入れない厳しさと冷酷さばかりが感じられる。


――とにかくここは芝居を打とう。

  二人を止めなければ全員殺される!


「ガイアケロン様。申し訳ありません。アベルは今日ここで配下を辞めさせていただきます。大王様の直属という名誉に勝るものはありません!」


 二人はどんな難敵に対しても怯むことのない鋼鉄の意思を持っているはずなのに、信じられないという表情をしていた。

 次に悲しみを僅かに見せ、それから瞬時に心を閉ざして無表情になる。

 向こうもまた、心を悟ってくれたらしい。

 耐える時だと。


――さて、ここからが俺の勝負だ。


 アベルは脂汗に塗れた手を服で乱暴に拭き、短剣を握り直す。

 両刃で、二の腕ほどの長さ。やや薄刃。

 こんな得物で腕が切断できるか。


 無骨ならば出来た。

 しかし、愛刀は預けられてしまってここにはない。


 精神なんか落ち着くわけがなかった。

 息は荒くなり、心は激しく震える。

 怒りと憎しみで視界が赤くなるようだ。


 イズファヤート王は冷然と眺めている。

 そうだ。父親とはこうしたものだ。

 暴力に理由はない。

 辻褄を合わせ、説明をつけたりする必要などないのが親だ。

 躾けだったとか、言うことを聞かない子の方が悪いとか、そんなことを本気で言う。そして、子を殺すところまで追いつめる。


 限りなく噴き出る殺意。

 自分をこんなところまで突き進ませた怨念が燃え上がる。

 そして短剣を握り直す。

 頭上にゆっくりと掲げる。

 腕を斬り落としやすい位置へ持ってくる。


 必ず、王を殺してやる。

 何度でも、何度でも、殺してやる。

 イズファヤートを絶対に殺してやる……!


 際限なく高まる心の絶叫。

 混乱と恐怖。

 過去に殺した数えきれない人間たちの面相が現れ、まるで暇な見世物を見せられているような醒めた顔をした王に重なっていく。


 殺してやる……。

 殺してやるぞ。

 必ず殺してやる!


 震える腕で短剣を振り抜こうとしたとき……それは極まった狂気によるものか、どんなときも忘れ得ぬ面影が現れてくる。

 イース。


 焔のように美しい澄んだ瞳。

 繊細な鼻梁や頬。

 触れば熱い体温と弾力を返してくる、しなやかな体。

 甘い曲線を描く乳房、柔らかな下腹部、ぬめりを帯びた肉の起伏、奥深くに続いていき……。

 聖なる全身が生々しい質感を伴い克明に蘇っていく。

 

 死と破滅、恍惚感と共に隙間のない思い出が巡る。

 人生から極端なまでに無駄を省いて、他人を必要としない人間だった。

 それなのに封建社会の端くれに引っ掛かっていた異端者がイースだ。

 

 誰もイースを本質から理解しなかった。

 自分だけはその傍にいたと思っていたが、このままでは互いに依存してしまうと、優しく拒絶された。

 俺を救ってくれる聖女だと思っていたのに……。


 全ては勝手な思い込みだったのだろうか。

 雪の降る極寒の冬には抱き合うように寝たことすらあった。

 別れの前には純潔無垢なる肉体を、惜しげもなく与えようともしてくれた。

 それなのに歪な男は上手くやれず、引き千切れてしまった。


 もはや恐怖は失せて現実感が崩れていく。

 荘厳華麗な宮殿も鍍金の剥がれた贋物さながら卑小になり、顕職をひけらかす官人や誇り高い貴族たちも取るに足らない。


 果てしない渇望と怒り。

 この世のものとも思えない至純の美しさを湛えたイースの姿が心に満ちる。

 獣の声で咆え、刃を左腕の手首に振り下ろす。


 断った!

 絶対の確信。

 鋭く刃が入った。

 肉を斬る感覚。


 ……信じられなかった。

 二本ある前腕骨のうち橈骨は切れていたが、尺骨で剣は止まっていた。

 剣は、とんでもない鈍らだった。


 激痛。

 腕だけではなく全身に広がる苦痛。

 太い血管が切れ、熱い血液が迸るように流れていく。

 混乱しそうになるのをぎりぎりで押さえた。

 思考力を踏み止まらせる。


 剣はラべ・タルが持ち出してきた。さっきはビカスにも渡されたものだ。

 こんな三流以下、玩具のごとき武器を最高位の将軍が所持しているだろうか。

 そんなはずはない。

 つまり……わざと最低の剣を渡してきたのだ。

 おそらく研ぎも細工してあるに違いない。


 始めから仕組んでいたんだ。

 恥をかかせ、失態を演じさせる罠だった。

 剣がどうしたとか言い募れば、おそらくイズファヤート王が赫怒を浴びせ、即座に口封じをしてしまうつもりだ。


 言いようのない激しい痛みに苦しみながら、もう一度剣を振り上げる。

 全身から汗が流れていた。

 再度、同じところに振り下ろせば切断できるはずだった。

 息を吸い込んだところで、イズファヤートの声が王座から降りてきた。


「待て。痴れ者が。二度目があるものか」

「もう一度だけ……それで腕は断てます」

「お前は戦場で敵に言うのか。今のは足りない斬撃であった、もう一度打たせてくれと」


 底なしに冷たい物言いだった。

 アベルは言い淀むが、腹に力を入れる。

 イズファヤートの策略は、おそらくガイアケロンの功績を素直に認めないためのものだ。僅かな瑕疵を際限なく大きく見せている。

 覆せないだろうが、ここで負ければガイアケロンにも難癖が及ぶ。


「な、なにしろ他人をぶった斬ったことは数知れませんが自分の腕を斬るのは初めてでして。何卒お許しを」


 イズファヤート王が鼻で笑った。

 唇が少し持ち上がる。


「なんと。ここに本物の道化がおったか。ガイアケロンよ。お前の配下もこの程度。リキメルと大差は無いな。所詮は小さな勝ちしか得られぬ者だ」

「申し開きはいたしませぬ。次こそは父王様にご満足いただけるように励みます。ただ……このガイアケロン。一つだけ望みがあります」

「なんだ。言ってみろ」

「父王様の御親征をお願いしたくあります。到底、我らの力だけでは敵を屠るに能わず。父王様の御力を賜りたいのです」

「……お前たちが存分に皇帝国を苦しめ、善き時期があれば王みずからが征服に赴くであろう。だが、今はお前たちが先陣を努める時ぞ」


 ガイアケロンは無言のまま小さく頭を下げる。

 この警戒厳重な王宮よりも、野外の方が遥かに隙が出来る。

 前線でなくとも、長い移動の最中に警戒が薄れることもあるはず。

 そこを襲えば……という計算。

 しかし、簡単に誘いには乗らなかった。


「ガイアケロンよ。予はお前を認めていないわけではない。その証としてリキメルの持っている領地と財宝、兵力、全てお前にくれてやる」

「はい」

「さらに戦え。皇帝国を滅ぼせ」


 無表情のままガイアケロンは頭を垂れた。


「ああ、まだ予から申し渡すことがある。余興を催すのだ」

「余興ですか」

「臣民どもや貴族たちが熱心に楽しめるものといえば唯一つ。剣闘だ。魔獣や罪人、奴隷たちが命と名誉を賭けて戦う。それにお前とハーディアも参加するのだ。大闘技場で派手にやる」

「我とハーディアが、みずからと」

「さよう。王族の武威を見せてやるのだ。なにしろ臣民どもは戦を見たことも無いのに勝った勝ったと浮かれておる。ここはお前たちの戦いぶりがどうしたものなのか教えてやりたいと思ってのこと」


 貴族たちから、どよめきが起こる。

 それは明らかに興奮によるものだった。

 これほど楽しみな見世物など無いといったような。


 王権の前では、英雄すら駒として扱われるのを見せつけたいのだろうとガイアケロンは察する。

 いいだろう。

 いくらでも遊んでやる。

 精々、権力を思うさま振るえばよい。

 だが、剣戟で得てしてあるように、調子に乗って大振りをすればするほど隙が出来る。足元を掬われる。

 絶好の機会が巡ってくるかもしれない……。


 イズファヤート王が視線を別に移す。

 最後に残ったシラーズへ王笏を振るおうとした動作を、しかし、途中で止めた。

 それから再びガイアケロンに戻す。


「それと、その道化。腕すら斬れぬ間抜けであるが王宮付きの奴隷ぐらいにはなろう。受け取ってやる」


 自分で腕を押さえて止血していたアベルは驚きで息をするのも忘れてしまった。

 いま何と言った?

 奴隷だと……。

 

 イズファヤート王が嘲りとも憫笑びんしょうとも似た、僅かな笑みを浮かべていた。


「その者。お前の配下を辞めると言った手前、また戻るわけにもいかぬであろう。憐れに思っての事ぞ。さあ、沙汰はこれにて終いだ」

「お待ちください、父王様! アベルは……まだ戦で使いどころのある者。先ほどは父王様の期待に応えようと、思わず口走ったのでございましょう。なにしろ身分の低き者にて褒美に焦るのも無理はなく。なにとぞ、このまま我の手元にアベルを留まらせてください」

「くどい……。それとも王の沙汰に服せず、配下も律せぬのをまだ認めぬか」


 冷気を放つようなイズファヤート王の視線。

 さらに言い募ろうとしたガイアケロンへ、アベルは痛みに耐え、礼儀を無視して駆け寄る。

 流れる血が床に跡をつけた。


 そして、ガイアケロンの腕を掴んで制止した。

 こうでもしなければ彼は無用な不興を買い、窮地に陥ってしまう。


 奇妙な絆で結ばれた二人の男。

 その瞳と瞳が見つめ合い、無形の想いが絡む。 

 今だけは苦難に耐え、いつか運命に逆らう……無言のうちに言葉を超えた理解が結びついた。


「ガイアケロン様。申し訳ありません。このアベルは奴隷と言えども大王様の直属。なんという幸運でありましょう。どうか……お許しを」


 ガイアケロンは珍しく、というよりも初めてのことであるが、心から辛そうに後悔の顔をしていた。

 こんな表情をすることもあるのだなとアベルは不思議な気すらした。


「お前が王宮の奴隷として働けるのか不安だが、そう言うのであれば仕方ない。この我の手下であるより確かに父王様の奴隷の方が心地よかろう」


 一転、ガイアケロンは笑みすら浮かべて引き下がる。

 儀典執行官に促されてアベルは謁見の列から離れた。

 それから奥に控えていた治療魔術師に腕を治療してもらった。

 

 儀式は淡々と継続される。

 どう考えても答えの出ないことばかりだ。

 今日は王が積み木を崩して、何もかも自由自在に組み替えたような日だった。

 こうでもしなければ恐怖の効果は薄らいでしまう。

 支配とはそういうものだ。


 奴隷の身分になってしまったが、もしかすると王の直ぐ傍に接近できるかもしれない。

 それが幸運なのか不運なのか……。


 いずれにせよ敵味方関係なく、奈落の底へ小躍りしながら駆け降りている気がした。

  


 


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