第144話  見えない明日

 




 ついに王に会うことが出来る。

 世界を揺るがせる核心人物。

 アベルは、己の運命が近づいてきたのを感じる。


 凍てつく雪原で体が赤く染まるほど戦い、地平線の先に再び地平線を臨み、東へ東へと旅を続け、百万人が蠢く王都に辿り着いた。

 そうして、イズファヤート王をこの目に捉えることが出来るのだ。


 ガイアケロンとハーディアは誰にも悟られていないが、父親イズファヤートに激しい憎悪を抱いている。

 巨大な殺意。

 本能が理性を麻痺させ、あの大らかな男を獣に堕とすであろう。

 同じ血塗れの獣のような自分だからこそ、誰よりも理解できる。


 同じ欲望、同じ餓え、同じ夢……。

 同じちちおやを殺すことだけが望み。


 王宮であろうと僅かでも隙があれば、躊躇わないはずだ。

 その瞬間、叛逆が始まる。

 血で血を洗う、これ以上ないほど醜い、底なしの戦い。

 アベルは濃密に漂う死の匂いを感じ取る。


 勝ち目は、どう考えても少ない。

 王宮の警備状況は分からないが、ヒエラルクを始めとして王道国が選び抜いた精鋭たちが居並んでいるに違いない。


 だが、ガイアケロンとハーディアの強さを知っている。

 神業のような技の数々。 


 あの二人に自分が加わり死力を尽くせば、届くかもしれない。

 イズファヤート王とディド・ズマの心臓に、怨念の刃を突き刺す。

 あり得ないことではない。

 不可能ではない。

 引き換えに命は失うだろうが……。


「やぁ。君は今日、やけに美しいな」


 謁見を知らせに駆けてきたオーツェルが薄化粧をして着飾ったカチェを前に驚いていた。

 陰謀や事務処理に忙しい彼が人の容姿を褒め称えるなど、ついぞ無いことであった。


 カチェは称賛に満更でもないらしく、優雅に一礼する。

 そういう仕草だけで一流の教育を受けた貴族の子女であるのが分かるというものだった。


「私はただ美しいというだけで人を褒めたりはしないことにしている。危険や毒が隠れた美というものが最上なのだ。柔和なだけの美しさで満足できれば安全だろうが、あいにくとそうした好みではない」

「それでは退屈するというわけですか。でも、わたくし毒なんかじゃありません。危険な美というのは、わたくしの知る限りハーディア様が最もそれに相応しゅうございます」


 オーツェルは苦笑して、首を振った。

 まさに的を射ていたが認めるわけにもいかなかった。

 あれはまさに男を狂わし、国を傾ける美しさだった。


「さて、せっかくお楽しみのところ悪いのだが、もうゆっくりしている時間はないぞ。色々と準備が多すぎる」


 オーツェルは内密の話しがあると言い、アベルとカチェを邸内の奥深くへ案内する。

 細い回廊の突き当りにある小さな部屋でガイアケロンとハーディアが待っていた。

 部屋に入った時からどこか緊張感のようなものを感じとる。

 宮廷儀典に詳しいオーツェルが知的な眼差しに憂慮を漂わせて説明を始めた。


「王の謁見は通常、少人数で行うものだ。イズファヤート王は完全な御親政を布いているゆえに宰相は置かず、ほぼ全ての政務に目を通し、重要な書類を見落とすことは無い。昼から夜まで忙しくされている。謁見で多くの時間を浪費するようなことはしない。しかし、大謁見と呼びならわされる拝謁者を数多く集める式典がある」

「我はごく簡素に、ご挨拶と報告のみを希望すると申し上げた。つまり内謁見を頼んだ。ところが王宮は貴族たちを参列させて大謁見を行うと回答してきた……。兄リキメル、それに弟のシラーズ。さらにはディド・ズマも列するとのこと」

「それは何か異常なことですか」

「父王の意図が分からない。大謁見は手間がかかる。王都にいる貴族や藩国の者らも招くゆえな。おそらく数百人ほどはやってくるであろう。どういうお考えか……」


 藩国というのは皇帝国にとっての属州と似たようなものらしい。

 王道国という大国の周辺には、様々な事情によって直接統治が困難な地域がある。そういう地域は王道国の強い影響下に置かれた藩国という、属国のようなものに治めさせているという。

 要するに、主だった貴族や関係者を呼べる限り集まらせる、ということだ。


 ハーディアが優しく、諭すように言う。

 王女はつい先ほどまで来客者と会っていたらしく気品のある青い長衣に金と真珠の装飾品を身に着けていた。


「父王のお考えは分かりませんが、何か異常を感じます。アベル。今なら引き返せますよ。貴方の謁見は理由をつけて辞退しましょうか」

「……ここまで来て機会を逃すことはできません。使命を果たさないとならない」


 使命と言えば、密使としての務めと受け取るだろう。

 実際はそうではない。

 任務なんか初めからどうでもよかった。

 テオ皇子とノアルト皇子、あの二人を主だと感じたことは一度としてない。

 上辺だけ取り繕い、頭を下げていただけだった。


「お願いがあります。念のためカチェ様とシャーレの安全を確保しておいてください」

「アベル! わたくしも……」

「無理だよ。王宮にカチェ様は入れない。それより二人は切り札なんだ。おとなしく待っていて」

「嘘。側にいなくてどうして切り札になるのよ」


 カチェの鋭い眼差し。

 ばれていても突き通すしかなかった。


「大げさに心配しなくとも大丈夫ですよ。ただの謁見です。僕のような小者は面通しぐらいの意味しかないんだ。声を掛けられることもないでしょう。イズファヤート王の顔を確認するだけ……それだけです」

「ハーディア様! このカチェもお供させてください」

「それは断ります。皇帝国の密使を二人も王宮に招き入れるのは私たちにとっても危険が大きすぎます。アベル一人で精いっぱいです」


 ガイアケロンはカチェを気遣う表情をしていたが、沈黙していた。

 カチェは拳を握り、顔を俯かせる。

 淡々としたオーツェルはアベルへ言う。


「アベル。お前を謁見させるのは、かなり危ない行為だ。できれば断りたかったが、バース公爵の依頼ゆえ仕方がなく受け入れた。間違っても粗相のないように短期間だが、儀典や辻褄合わせを徹底的に教育してやるからな」

「オーツェルが言うと怖いな」

「一度で憶えなかったら鞭をくれてやるぞ。お前は、王道国の落ちぶれた貴族の末裔として偽りの身分を用意する。なに、家系図など本物よりも本物らしく仕立ててやる。お前は中央平原でガイアケロン様の軍団に加わり、見出されたという筋書きだ」

「上手く隠せるかな……それで」

「それはお前次第だな。何か疑われて拷問された挙句に全てを話す程度の男なら、今ここでイズファヤート王に会おうなどという考えは捨てて、さっさと本国へ帰るのだ」

「切り刻まれても口は割らない。ただ一つだけ心配なのは……一度だけ会話をしたことのあるイエルリング王子だ。あの記憶力の良さそうな人が数年程度で僕を忘れるわけがない。もし出会ってしまったら、他人の空似で押し通せるか」

「そのことだがイエルリング王子が王都に帰ってくるという情報は得ていない。そうした重要なことは私たちの元に報せが来ることになっている。それと大謁見にイエルリング王子が加わるということは噂としても聞いてはいない」

「なら問題ないか……」


 それまで沈黙していたガイアケロンが最後に言う。


「謁見の際、父王が何を要求しようと決して断ってはならない。どれほど無体な命令でもだ」

「断れば?」

「良くて普通の死罪。悪ければ凌遅刑もありうる。生きたまま魔獣に食わされるような……」


 ガイアケロンの顔つきは真実を物語っていた。

 王の前に出るということは生殺与奪を預けるということに他ならないのだった。


 密談はそれで終わりとなる。

 王族兄妹のもとには、今日も請願者や会見希望者が列をなしている。

 王都の貴族界隈では二人に会って話しをしたとなれば自慢になるらしい。

 もともと寡兵で勇敢に戦う二人は潜在的に人気が高かったようだが、ここにきて暴騰的に支持が増えているようだった。


 もっとも、ただ波に乗って寄せられてきた有象無象に取り合っては、逆に墓穴となりかねないのが恐ろしいところだ。

 それに、こうして支持者が集まれば脅威に感じる者も多いことだろう。


 アベルは思う。

 王道国に住む、ありとあらゆる貴族と平民、奴隷たちは度肝を抜かれることになる。

 遠い異国で華々しく勝利して、名誉ある帰国をしたガイアケロンとハーディア。

 王に絶対忠誠を誓っていたはずが……。


 アベルは不安もあるが、思わず恍惚とした笑みが零れる。

 探していたものが見つかるかもしれない。

 やっと満足できるかもしれない。


 アベルとカチェはオーツェルに導かれて、エイダリューエ家の図書室に連れていかれた。

 書架には万に及ぶと思しき本や羊皮紙の巻物が収納されていた。

 技術的には写本するしかないので書籍はとても高価だ。

 人が見ればその知識の集積と豊富な財力の両方に驚くことになるが、アベルはこれを上回る規模の図書館を見たことがある。


 人が訪れることなどほとんどないアスの館にそれはあった。

 ライカナが言うには分裂戦争や長い歳月によって失われた貴重な記録の宝庫だったという。

 真実であるがゆえに全て破壊され、執拗に否定され、無かったことにされた歴史。


 アベルは見たことも無い嘘の出身地をでっち上げる為、オーツェルが捻りだした設定を憶えていく。

 年齢十八歳。

 アベル・クルバルカ……というのが新しい名だった。

 王道国の辺境ルジャンドで生まれて、そのあとは各地を転々とする……。

 家系は低位の戦士階級。

 

 何とでもなるという家系図も棚の奥から引っ張り出してきた。

 どうみても数百年は経過していると思われる羊皮紙は既に絶えた一族の家系図だった。

 そこへオーツェルは平然と矛盾なく人物の名を書き入れて、最後にアベルの名を記した。なんとも罰当たりなことしているようだが、少しも悪事をしているつもりはないようだ。

 最後にアベルは架空の両親の名。死没した年齢を憶えて繰り返す。


「ふむ。記憶力はなかなか良いと認めてやろう。出来の悪い生徒ではなくて安心したぞ」


 オーツェルが出番のなかった乗馬用の鞭を少しも安心した顔ではなく、むしろ残念そうに撫でている。

 どうもオーツェルの知性というのは邪智に近いのではと思えた。


「安心したのはこっちだっての。あんたは教師にならなくてよかったよ。やっぱり陰険な参謀がお似合いさ」

「数十人のガキどもに文字を教えるという苦行のような職業など誰がやるか。もしガイアケロン様と出会わなければ私は学者になっていただろう。まあ、アベル程度の人材が相手なら家庭教師も悪くないかもな」

「やめとけって……」


 偽の出生を頭に叩き込んだ後も、まだまだ知っておかなければならないことばかりだった。

 まずは王道国の政治状況を徹底的に教え込まれる。


 王道国の貴族の中でも、特に名門五家と呼ばれる傑出した家柄がある。

 その内のタリムナガル家とドゥーレ家はイエルリング王子を強く支持していること。

 レタイオン家も控えめにではあるが、やはりイエルリング王子に加担している状況であった。


 残る名家のうちエイダリューエ家は言うまでもなくガイアケロンとハーディア、最後のカッセーロ家がリキメル王子を支援している。


 他にも中小の貴族や様々な商人が入り乱れており、およそ全体の六割はイエルリング王子の派閥に属しているという。残りの勢力は他の王子を推したり日和見を決めているなどで四分五裂らしい。

 イズファヤート王という権力が絶対的ではあるものの、その次ということであれば、やはりイエルリング王子であるのは間違いなかった。


 現在の王道国はかつてないほどの絶対王政が布かれていた。

 過去には有力な貴族が力を合わせて王家を支え、統治にも深く携わるのが通常であったという。

 しかし、イズファヤート王はそうした政治形態を完全に否定していた。

 

 断固として皇帝国との戦争を押し進め、反対する貴族は王宮軍団を派遣して容赦なく取り潰したという。

 また、裏切りを警戒しているらしく有力者の妻や子息を王宮かその近くに住まわせ、貴族の兵力は戦争や辺境警備に駆り出している。

 かくして王道国の本国にはイズファヤート王直属の王宮軍団のみが存在して睨みを利かせていた。


 さらに王道国周辺の地理などを地図を使って教え込まれる。

 これまで旅の途中でいくらかは情報が集まってきたものの、それは断片的なものだった。

 やはり王都という世界中から旅人や商人が集まってくる場所では、最新の生きた話しが入ってくる。


 中央平原の東にある王道国は、皇帝国とおよそ国の規模は似ているようだ。

 違うのは意外と海路を利用しているところだろうか。

 比較的、海棲魔獣の少ない海域を縫うように交易船が行き来しているという。


 王道国の北にはマカダン藩国という属国があり、そのさらに北があの懐かしい北方草原に隣接するということだった。

 商人の情報によるとマカダン藩国は近年、北方草原に干渉を繰り返しているという。

 

 マカダン藩国は王道国に負けず劣らずの重税らしい。

 加えて国主のヤヴァナは贅沢と戦争を好む性格ということで、亜人や他種族の住む地域をたびたび侵略しているという……。

 

 アベルはかつて旅の最中にライカナから危険が高いため避けるべき地域として中央平原やマカダン藩国をあげられた記憶があった。

 オーツェルの話を聞く限り、行ってみたい国ではなかった。

 それから王道国の南にも藩国があり、さらに先は大雑把に蛮族の犇めくところと言い表されているようだ。

 内容の濃い授業を受けているとたちまち時間が経過してしまい、窓からは滴るような赤い夕暮れが見えた。


「オーツェル。半日も付き合わせてしまって悪いな」

「仕方なかろう。お前らの正体を知っているのは御方と私だけなのだから。教育できるのも私に限られる」

「僕らの正体はギムリッド様にも伝えていないのか?」

「当たり前だ。あまりにも危険な秘密だからな。まったくアベルと出会ってからますます心配事が増えてきたぞ」


 それまで言葉少なかったカチェがオーツェルの講義を横で聞いていただけで完璧に理解していた。いくつか鋭い質問をする。

 オーツェルは出来の良い生徒にものを教えるのは楽しいらしく、喜んで返答を始める。

 カチェは理路整然と物事を捉える賢さがあるのに、最後には不思議なことを言い出した。


「わたくし、やっぱり嫌な予感がするの。怖いわ」

「カチェ嬢。ただの謁見です。アベルなどは一礼して、それでお終いですな。主役はガイアケロン様とハーディア様。それに戦果の乏しかったリキメル王子。それぞれにどのような沙汰が下されるか……。

 それよりディド・ズマが気になる。奴はイエルリング王子の名代でもあるので王宮で無礼は働かないでしょうが。先の急な訪問で兄とは完全に敵となりました。まことに厄介な男。なんとかして排除したいが、簡単ではない」


 カチェは納得していない様子であった。

 どことなく物憂げで、鈍い緊張感みたいなものが行き場なく漂っている。

 女の勘は鋭いとアベルは内心、驚いていた。


 腹心のオーツェルですら、主たちの叛意に僅かも気が付いていない。

 いかにして権力闘争を潜り抜けるのかの打算に終始していた。

 根本的に引っ繰り返る事件が起こり得るかもしれないのに……そんな破滅と同義の事態は想定していなかった。

 賢いだけに、信頼しているがゆえに、理性とは真逆のことが発生すると考えられないのだ。


 すっかり日も暮れてしまって、アベルとカチェは有り合わせのもので空腹を満たし、部屋に戻る。

 

 もう特に出来ることもなく眼を閉じれば猛烈に眠気が湧いてきた。

 夢の世界へ……。




 ~~~~~~~~




 呼ぶ声がした。

 誰だ……。

 場所は分からない。

 床も壁も天井も白い石で作られている。

 殺風景で、温かみや装飾性がまるでない。

 ここはどこだ……。

 

 壁にひとつだけ黒鉄で作られた扉がある。

 その向こう側から声が聞こえた。


 ×××様、来てください。

 お願いです……、こっちへ……。

 ×××様……。


 ×××様とはなんのことだ。

 意味が分からない。

 ×××様……?


 俺は×××なんかじゃない。

 そんなものになれるものか。

 誰が×××になんかなるものか。


 だが、執拗な呼びかけに必死の気持ちが籠っていた。

 意味不明な呼びかけが頭に鳴り響く。


 やめろ。

 やめてくれ……。


 呼ぶ声はいつまでもいつまでも続く。

 やがて行かなくてはいけないという衝動が湧き上がって抑えられなくなった。

 

 近づき、扉に手を掛けた。

 見るからに重たく冷たい鉄の扉は簡単に開いていく。

 向こう側から現れたのは……。


――イース!


 思わず驚きで声が出そうになったが……違う。

 似ているが、違う。

 別人だ。


 繊細に整った顔の輪郭、黒髪といい肌色といい、よく似ているが……瞳が異なっていた。

 まるでオパールのような、複雑に刻一刻と変化していく不思議な虹彩。

 催眠術にかけられたように目が離せない。


「×××様……貴方はこれから」


 これから。

 これからと、どこまでも鳴り響くような声が頭を駆け巡る。





 アベルは悲鳴をあげて目を覚ました。

 心臓が跳ね回り、半身を慌てて起こした。

 全力疾走をしたあとほど息が荒い。


「何だったんだ。今のは……」


 生々しい、夢とも思えない感覚。

 まるで現実だった。

 冷や汗が出ている。


「ご主人様……」


 いつの間にか定位置で休んでいたワルトが扉を少し開けていた。

 暗くて良く見えないが、けむくじゃらの忠実な友人がそこにいるだけで安心できた。


「いま……寝ていたのか。そうだよな」

「おらが飯を食べて帰ってきたら、もうご主人様は寝ていたっち。大丈夫だっちか? 凄い声だったずら……」

「あ、ああ。夜中に起こして悪かった。ちょっと厠に行ってくるぞ。ついてこなくていい」


 アベルは部屋を出た。

 時間は真夜中ではないだろうか。


 奇妙な夢に、激しく疲労していた。

 体が耐え難いほどだるい。

 厳しい稽古をしてもここまで疲れることはないはずなのに……。


 いったいどういうことなんだろう。

 頭痛のする中で思考は堂々巡りをしていた。


 庭園に出ると美しい月が、青い瑠璃のように輝いている。

 蒲萄蔓ぶどうつるを這わせて作られた日陰棚の下に誰かが立っていた。

 もう、それはほとんど闇に同化していたが、はっきりと誰であるか分かる。


「……アス」


――そうだ。

  分かったぞ。あいつの魔術に違いない。


 人物が闇から現れて姿を見せる。

 月光に妖しい美貌が映し出されていた。

 出会ってからずいぶんと経つが、いまだに正体が掴み切れない魔女。

 

 豊かに広がる金髪に、思わず触れたくなる滑らかな肌。

 女神のごとき美しさであるのに、突然と娼婦よりも淫蕩な女に変わる。

 空色の瞳はアベルを直視していた。


「今の奇妙な夢……。お前の仕業だな。どういうつもりだ」


 涼しい高雅な声で返答がある。


「貴方のことが心配で仕方ないから、いま未来視を試みました」

「今のが?」

「でも、やはり未来視というの苦手なのよね。あの夢……いったいどこの未来に繋がったのかしら。いや、そもそも未来であったのか、それすら分からない」

「自分でやっておきながら、まるで不明ってか。未来視とやらはもうやるなよ。これは凄く疲れる……」

「世の中は不確実に満ち、確定するや瞬間に過ぎ去っていく」

「夢に出てきたあの女性、イース様に似ていた」

「あの女が何者か。もしかすると未来でもなんでもなくて貴方の妄想かも」

「……」

「無数の可能性は常に幻のように蠢いている。確実なのは貴方の未来は定まっていない、ということ。いとも簡単にその身は虚無に帰すでしょう」

「死ぬってことか」


 アスが長く綺麗な指を伸ばして、頬に触れてきた。


「ねぇ。アベル。ひとつ言っておくわ。王の周りには強力な使い手が幾人もいる。例えば貴方が危機に陥ったとして、すぐに手を貸すことはできないかも。いえ、これは正確な言い方ではないわね。私が裏から助けることができない、と言うべきね」

「これまでは色々と助けられたみたいだが……。当てにしているわけじゃない。俺がくたばるんだとしたら、それは自業自得だ」

「私の目的は貴方の欲望を成就させること。親を殺し、神を殺すとは素晴らしい夢だわ。もう一つは貴方が元々いた世界に行ってみることですけれど。だから必ずしも貴方の敵対者を殺すことが私の目的ではない。それに昔から数え切れないぐらい失敗しているのよね。私が表立って行動すると、貴方ではなくて私に媚びへつらうようになってしまうから。意味ないのよね、それじゃあ」

「アス。お前の思惑なんか関係ないぞ。こっちはやりたいようにやるだけだ」

「イズファヤートは今回だけ諦めないかしら? あとから殺すのよ。それより早く王か皇帝になりましょうよ、アベル。皇剣を探し出して帝国を造るの。アベルが追い求めている夢が現実になるのよ。世界を征服して本当に欲しいものを全て手に入れるのよ」

「目の前の事にしか興味はない。ガイアケロンとイズファヤート王。あとはディド・ズマ。俺は支配者になりたいわけじゃない」


 アスは微笑したまま、しばらく沈黙していたがやがて諦めたようだった。


「……貴方の欲望を否定することはできないわ。どうすることもできないみたい。幸運を祈っていますよ」


 アスの姿は暗闇へ溶けるように消えていった。




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