第142話  鏡の君は


 エイダリューエ家に帰り、ハーディアは何事もなかったように振る舞った。

 幸い、ギムリッドは王女がまたしても邸宅を抜け出したことに気が付かなかった。


 クリュテなどの配下たちがハーディア様はお休みになられていると頑として入室を許さなかったからだ。

 ガイアケロンも上手く立ち回ってくれたらしい。

 すっかり表情を明るくさせた妹を見つけ、無言で頷いただけだった。

 お忍びの休日は成功といったところだったが……。


 アベルは気が進まないものの一応、変装の手伝いを頼んでみるしかない。

 諦めきれない。

 何が何でも偵察ぐらいしなければならない。

 もしかしたら成果があるかも。

 こんなこと一度きりにしたいが。

 こっそりハーディアにだけ聞いてみる。


「あの、ちょっと相談があるのですが」

「はい。なんですかアベル」

「実は……変装を試してみたいのです。材料はあるみたいなのですが」

「その荷物。何かと思っていました」

「お恥ずかしい話なのですが、ヒジュラを真似てみようかと。やり方を教えてもらえれば、あとは自分でやりますから」


 ハーディアは表向き滅多に崩すことのない優雅な表情を微妙に動かし、切ないような、許しを求めるような、そういう顔をした。


「アベル……。私は申し訳ないことをしているのかもしれませんね。戦ってもらうだけならまだしも、そのような無体な手段まで考えつかせ実行させようとは……こんな気持ちになったのは生まれて初めてです」

「僕だって好きで提案しているわけじゃないですよ! せめて奴らの様子ぐらい確かめておかないと。近づくことぐらいは出来ると思ったんです。やっぱり止めようかな」


 ハーディアは首を少し振ったが、それから気を取り直したらしくアベルを居室に招いた。

 少し考えて、それから侍女にカチェとクリュテを呼ぶように申し付けた。

 先に来たのは、若草色の髪をした治療魔術師クリュテだった。


 美人というわけではないが深緑の瞳に落ち着いた理知的な輝きがある。

 アベルには時折、気さくに話しかけてくることもある女性だった。

 それから侍女を装っているカチェが来た。


「いいですか、アベル。男性は知らないことでしょうけれど化粧や衣装の着付けというものは信じられないほど繊細で手間が掛かるのです。私が一人でやってあげられることではありません。人手が必要です」

「やっぱり恥ずかしい……」

「今になって! 貴方が言い出したことでしょう」


――アスめ。あいつ、やっぱり弄んでいるのか……。


 ところが入室してきたカチェは説明を聞いて呆れたような視線を送ってくるのみ。わたくしは手伝いませんときっぱり断られてしまった。

 対して治療魔術師のクリュテは大人しい雰囲気を一転させ、面白そうだと喜んで賛成してくれた。

 彼女は知的な顔を好奇心に輝かせながら化粧箱を開ける。


「まぁ! ハーディア様、見てください。この道具、どれもこれも凄い一級品です。螺鈿細工や金箔仕上げ。中身の口紅などはすっかり新しくなっている」

「本当に。こんな物はよほどの古い名家で代々受け継がれるような道具ですよ」

「アベル君。どうせやるのなら理想の女性になりましょう。どういう風になりたいの」

「知らないよ、そんなの。これは任務のための変装だ。相手にバレなければ何でもいいさ」

「アベル君は結構、高貴な顔立ちをしているから厚化粧はいらないわよ。自然な感じで、かつ魅力的な女性に見えるようにしましょう。きっと道行く人をすべて振り向かせる凄い美人になるわ。じゃあ、まずは下地化粧。これをやらないと素肌との違いが露になって、いかにも化粧しているという感じになってしまうから。その前に剃刀でざっと顔と首筋を綺麗にしましょう……」


 アベルは椅子に座らされて、ただじっとしているしかなかった。

 ちょっと情けないが、これも目的のためだ。

 もともと従者時代から最低最下の仕事ばかりやってきた。

 今更、辛いことなんかない……はずなんだ。


「アベル君。まだ髭がほとんど生えてないから剃刀あてただけで十分美しいわよ。じゃあ、次は白粉。これメチャクチャな最高級品ね。肌理が細かく見えるように、ほんの少しだけつけましょう。塗りすぎに注意して、それから最後に滑らかな肌色に見える粉を振って」

「クリュテ。眉も上手く整えてあげて」

「はい。ハーディア様」

「女性的に見えるよう、眉は僅かに丸めてと。それから印象を変えるため瞼に、ちょっとだけ別の色を乗せて。眼のふちにも少しだけ線を描きましょうか。面相筆で……こうしてと。睫毛はこのままでも長いから手は加えなくていいわ。唇には紅を。あんまり赤くない方がいいわね」

「凄いわ。信じられないほど綺麗になっていく」


 ハーディアの言葉は本心からだった。

 真剣な顔つきで驚嘆していた。

 こんなことで驚かれてもなと、アベルは複雑な心境になる。


「最後に髪を染めて、それからカツラを付けて長髪に見えるようにしましょう」

「服は私が平民に化けるとき身に着けるものを貸してあげます。腕や足は隠して、腰は革帯で思いきり締め上げて姿を変えれば、なおのこと素晴らしいわ」

「あら。胸の詰め物もついていますね。なんとも親切なこと。どういう仕組みになっているのか分からないけれど……この詰め物は本物の乳房みたいな質感しているわ! なんてことなの」


 髪はお湯で練ったペーストを塗って乾かすと、くすんだ金髪が藍色に変わってしまった。

 さらにカツラを髪に差し込んで金具で固定する。

 アベルが上半身裸になると鍛えられ、均整の取れた肉体が晒される。

 クリュテとハーディアによって腰を皮帯と紐で強引に絞められた。


「ぐえぇぇぇ! 苦しいっ……」

「アベル君。我慢して。これでも大して締めてないわよ。贅肉がないからこれぐらいで大丈夫でしょう。女はもっと締めている場合もあるのよ」

「お洒落って大変すぎる」

「ふふっ。女の苦しみを知るといいわ。いつも男は脱がすばかりですからね。それもあっという間に。アベル君もそうでしょう?」

「そんなことやってない」

「あら、もっと締めようかしら」


 まるで本物の肉のような偽の乳房を付け、いよいよハーディアの用意してきた服を纏って完成。

 平民の若い娘が着るような象牙色をした長衣。


 全てが終わり、カチェは息を飲んだ。

 眩暈がしそうになる。

 単なる美人という印象ではなかった。

 女性らしい柔らかさと野生の獰猛さが混ざった奇妙な、しかし、恐ろしく美しい人物だった。


 好いた男が自分よりも美しくなるというのは言葉にできない衝撃だった。

 こんなことがあるのか……。

 こんなことがあってもいいのか……。


 アベルは刻々と姿を変えていく自らを鏡に映して、別人になるとはこういうことかと不思議に思う。

 自分でも驚くほど化けて、鏡の君は誰かと思うほどだった。

 

 特に髪の色が変わったから遠目には全く別人に見える自信がある。

 強いて言えば母親アイラに若干似ているが、この化粧によって、もともとあった青年の雰囲気は完全に消えてしまった。

 唯一、変わっていないのは陰鬱な群青色の瞳ぐらいだが、こうした姿になってみると、それはそれでむしろ魅力の一つとも見える。


 アベルは姿見を観察しつつ我が身を操って見せる。

 背筋を伸ばして回転してみせると、実に凛としつつ艶やか。

 おしなべて動作を細やかに纏めると女性的な振る舞いに近づく。

 ただ、付け焼刃で女性の仕草を真似たところで限界がおのずとあるものだ。


 こうなったら自棄でも、自由奔放に行くことにした。

 軽々と飛び跳ねてみれば、それはそれで様になった。

 これなら誤魔化せるかも……。

 クリュテが拍手してはしゃいでいる。


「やってしまったわ! ふぅ。わたしは何か禁忌を破ってしまった気分よ」

「アベル。取り合えずどの程度の効果があるか試してみましょう。お兄様のところへ行くのです」


 ハーディアが先頭になって部屋を出る。

 邸内にいる奴隷たちが首を垂れるが、どことなく自分に注目しているようにアベルは感じた。

 やはり変に見えるのかなと思う。

 自信などまったくない。


 ガイアケロンの部屋の前ではスターシャが警護をしていた。

 彼女はこちらを見るなり酷く驚いた顔で、口を半開きにさせている。

 中に入るとガイアケロンはオーツェルと二人きりで何か話し合いをしている。

 二人は歩み寄るアベルに気が付いた。


 注目している。

 間違いない。

 じろじろと訝しむような、興味を持ったような、しつこいほどの視線を意識せざるを得ない。


「お兄様……。この者、アベリアという女です。侍女として雇おうと思っております」

「驚いた。これは滅多にいない美人じゃないか」

「あら。そう見えますの」

「ああ。だが……瞳が気になるな。待てよ、誰かに似ているぞ」

「アベリアは戦闘の腕前もかなりのものですの。立ち合ってみますか」

「ふむ……面白そうだが、いや、危険な匂いがするな。止めておくべきだ」


 ガイアケロンが席を立ってアベルに近づいてきた。

 しかし、決して間合いには入らない。

 なにやらかなり警戒しているようだ。


 アベルはガイアケロンから、じっと見詰められて冷や汗が出てくる。

 これで見破られるようなら、苦労した奇手も笑い話にしかならない。


 正面に回ったガイアケロンが手を伸ばしてきた。

 アベルの頬に触れ、瞳と瞳が、ぶつかりあう。

 カチェは冷く艶やかな姿のアベルとガイアケロンの間に形容しがたい、絡み付くような情交が無言の内にされたのを悟った。


「お前、もしかしてアベルか」

「……なんだ! やっぱり見破られた。莫迦ばからしい。恥ずかしい思いまでして我慢したのに。騙されたな」

「はっはっはっ! こいつめ、驚いたぞ!」


 ガイアケロンが愉快そうに笑って肩を掴んでくる。

 それから偽物の乳房を撫でると、触感が本物と変わらないと驚いていた。

 アベルが女性陣の方を横目で見ると何故か全員、顔を赤くさせている……。


「ふ~ん。肩の線は服で上手く誤魔化したな。誰も気づくまい。なぁ、オーツェル」

「私はまだ信じられない!」


 オーツェルが髪の毛を掻きながら酷く慌てている。

 それからジロジロと視線を送ってくるが、やがて首を振った。


「私にはアベルに見えないぞ。いま声を聞いたからそれでやっと半信半疑だ」

「あはは。オーツェルには分からないんだ……」

「なんてことだ……。どうやってこんな上手く化けた」

「ハーディア様とクリュテに手伝ってもらったんだよ。これならズマの手下に近づくことぐらいはできるだろう。せめて偵察ぐらいはな」

「まだ諦めていないのか。ガイ様の為とはいえ、男子の誇りを捨ててヒジュラの真似とは、みあげた根性だな。これは私も頭を垂れねばなるまい」

「どうだろう? やっぱり無理はないかな。自分でやっていて何だけれど」

「スターシャにも試してみろよ。ついてこい」


 アベルはオーツェルに手招きをされて一端、部屋の外に出る。

 そこではスターシャがしっかりと番を続けていた。

 しかし、どうやらアベルのことが気になるようで、怖いぐらいの凄みのある視線を送ってきた。

 いや、これは間違いなく威嚇の視線だ。猛獣のそれである。

 扉が閉まる。


「よぉ、オーツェル。その女なに?」

「……ガイ様の側仕えに抜擢された。名はアベリア」

「はぁ?! 警護ならあたいがいるだろ! なんだってそんな知らない女を呼ぶ」

「さてね。まあ、見ての通り滅多にいない美女だ。男なら誰だって食指が動くよな。たまにはガイ様にも不満を晴らしていただく必要があろうさ」


――なに言っているんだよ。この野郎。


 アベルはオーツェルを睨むが、彼は愉快そうにニタニタと笑っていた。

 性格の悪い学者のように、これからどんな悲惨な実験ができるかなと歪んだ好奇心を発揮していた。


「へぇ~。こいつは驚いた! 本気で面白れぇじゃん」


 スターシャはアベルの二の腕を物凄い握力で掴んできた。

 面白れぇなどと言ってはいるが、顔は嫉妬で般若さながら。

 怖いどころではない。


 最近はまぁまぁ可愛いところもある女だ、などとアベルは思っていただけに自分の浅はかさを思い知る。

 ガイアケロンの事になれば暴力で全てを解決しようとする正体が現れた。


「これから、あたいとこいつで稽古しようぜ!」


 スターシャは愛用の剣の柄を叩く。

 がちゃりと物騒な音を立てた。

 アベルは無言のまま首を振って拒絶の意を示した。


「おいおい。お嬢ちゃん、逃げられるつもりかよ? あたいはガイ様の将なんだ。最低限、この赤髪スターシャに実力を認めさせなければ側仕えなんざ、絶対にさせやしねぇぞ。いいか。お前が負けたらご褒美にこの剣の柄を、てめぇの股ぐらに突っ込んでやるよ。ええ? まさか処女だとか寝ぼけた事を抜かすつもりかよ。だったら前の方だけは許してやろうか。あたいは優しいだろ? 代わりに後ろの穴で気絶するまで喘がしてやるからな! さぁ、庭に出ろ。断るなら……このまま押し倒して……ぎったんぎったんにしてやる!」


 スターシャは嫉妬と戦闘意欲で燃え上がっていた。

 あだ名の赤髪を振り乱して、思わず気合負けしてしまう迫力。

 物凄い腕力でグイグイと押してくるから組手に持ち込まれそうだ。

 このままでは大切なところが……。


「スターシャ! 僕だよ。アベルだ!」

「……えっ?」

「だ、騙して悪かった。これは試しなんだ。変装が通用するかって」

「はぁ?! お前、本当にアベルなのか……」

「本当だよ。ガイアケロン様には見破られたけれどスターシャには通用したな。まさかここまで嵌るとは思わなかったけれど」


 スターシャはしばらく途惑いながらアベルを上から下まで舐めるように眺めてきたが、次に肩を組んで耳元で囁く。


「なぁ、アベル」

「なんだよ」

「これから、あたいの部屋に行こうぜ」

「……どうして」

「はぁ~……。世話の焼ける童貞だぜ。助けてやるってんだよ! 女も知らないうちに女装なんかしたら絶対に癖になるぜ。そのままヒジュラになるぞ」

「ならないよっ!」

「いいや。なるね。自分で鏡を見てうっとりしたりして。なんて美しいのかと陶然とした気持ちになっただろう。その美しさだもんな」

「ん……まぁ、確かに別人になったみたいで不思議だったけれど」

「だめだめ。こんなに綺麗になったら道を踏み外すぞ」

「僕もこれっきりにしようと決めているから。こんなこと、そうそう何度もやってたまるか!」

「ああ……、祈ってやろうか。遠い異国でこんな姿に身をやつすとは、つくづくお前も哀れな男だな」

「我ながらそう思う」




 ~~~~~~~




 その日、ヴェスメト魔学門閥に奇妙な女が訪問してきた。

 総帥ナジュドと最高幹部らが初見の訪問者を相手にするのは異例であった。

 会う理由は二つ。

 エイダリューエ家とリシュメネイ家という、二つの名門が連名で紹介状を書いて寄越したことだった。

 現在、エイダリューエ家はガイアケロン王子の派閥。


 対してリシュメネイ家はイエルリング王子を支持していたはずだった。

 異なる勢力の貴族が連名で紹介状を書くなど、普通はありえない。

 つまり、アベリアと名乗った正体不明の女は、少なくとも派閥を超えて二つの家に跨った影響力を持っていることになる。


 さらに、もう一つ。

 女は協力してくれるのなら、とある魔道具を渡すという条件を提示してきた。

 魔術師アスに由来する魔道具だという。


 古い記録に、いと賢きアスという名で記された伝説的な魔法使い。

 始皇帝の腹心であったと伝わっている。

 天才的な魔道具の作り手でもあった。

 ゆえに、アスの魔道具というのは魔学門閥にとって秘宝とも言える価値を持つ。


 アスは分裂戦争の最中、行方不明となり以後は歴史から消えた。

 常識的に考えたのなら寿命を迎えただろうが、一部の者はどこかで未だに生存していると主張していた。


 もたらされた魔道具は精巧だが、しかし、それだけの意味しかなかった。

 室内を暗くさせ、壁に向かって小箱状になった魔道具を作動させると、幻影が浮かび上がり、人の姿が現れた。

 それが誰なのかも分からない。

 少女であった。

 容姿は極めて美しい。身に着けた衣装などから、ゆうに千年ほど以前の人物ではないかと推定された。


 映像はすぐに消えてしまった。

 ふたたび作動させると同じものが映る。

 ただ、それだけの魔道具であったが、魔学門閥にとっては至高の価値があった。

 すでに老齢の総帥ナジュドは聞く。


「アベリアと名乗ったな。これをどこで手に入れた。この魔道具は過去の像を再現するものだが、携帯するために小さく作られておる。もっと多くの像を納めた物の付属品ではないかと考えられる。当然、そちらの方にこそ真の価値があるのだ」

「余計な質問に答えるつもりはありません。私の目的はディド・ズマ配下の十傑将、ギニョールという男。貴方たちにとって因縁浅くないはず」


 かつてギニョールはヴェスメト魔学門閥に属していたという。

 しかし、快楽殺人を繰り返し、それが発覚するや逃亡。

 本来ならばヴェスメトの恥として彼らこそが始末しておくべき件である。


「私はギニョールに親族を殺されております。目的は復讐。理解できますね」

「……我々はある確度の高い噂を手に入れた。皇帝国の宝物庫が盗賊の侵入を許したという。盗み出されたのはアスに纏わる遺物だそうだ」

「話を逸らすな。ギニョールは貴方たちこそが処罰すべきだった。王都にディド・ズマと共に舞い戻り、今も王都を堂々と歩いている。恥ずかしくないのか」

「奴については我々も苦々しく思っている。だが、王族の絡んだ話しだ。王国警邏隊が動かぬのは我らの責ではない」

「警邏隊などと関係のないことを。貴方たち自身はどうして動かないのですか」


 問い掛けに答えず沈黙する男たち。

 室内であるにも関わらず目深に外套を被り、顔すら見せない者も幾人といる。

 そんな居並ぶ者たちからは疑りの気配ばかり感じさせた。

 徐々に雰囲気は悪化していく。

 ここは完全にヴェスメトの領域である。

 向こうにしてみれば、どうとでも料理できる獲物が迷い込んできたという状況か。


「老人は聡い。沈黙は金なりですか。機会はこの一度きり。道具が惜しいと思うのなら私の要求に応えてください。知りたいのはギニョールの得意とする魔術とその対抗策です。貴方たちがそれを事前に検討していないとは思えません。奴に通用する魔術を教えてください」

「門閥以外の者に魔術を教えることは決してないのだが」

「だから、それを持ってきました。念のために言っておきますが、私が今日ここを訪れているのは何人かの重要人物が承知しています。もし私が帰らなかったら貴方たちは信じられないほどの深刻な損失を被るでしょう」

「もちろん体だけなら無事に帰してやれる」

「ただし魔道具だけは取り上げて? 私を愚弄するつもりなら、これから恐ろしいことが始まりますよ」

「やれやれ……。報酬と脅迫か。交渉を理解しておるな。つまり、どのみち応じなければ、その重要人物とやらから恨みを買うわけだ。しかもギニョールめは野放しのままと」

「私としては門閥の誇りを大事になさってくださいと申し上げます。名門を汚すギニョールが死ねば事は治まるでしょう」

「何があっても我々との交渉は、今日限り。お前の言う通り、たった一度きりの取引だ。そして、全てを忘れる」

「ようございます」

「それより、お嬢さんはもちろん魔術の心得はあるのだな。教えたところで使えるとは思えぬのだが。それでも報酬はしかと貰い受けるぞ」


 正体不明の、異様な美しさを湛えたアベリアという女は、どことなく暗鬱な視線をしていたが、それがうっすら笑った。

 何か不気味な裏のある、猛毒と表裏一体の微笑だった。




 ~~~~~




 王都の大路。

 ひっきりなしに騒音が響く。

 銅細工の金物師が槌を振るって金属片を器に仕立て上げていく。

 怪しげな両替商が小銭を鳴らし、その横では光神教団の狂信者たちが辻説法を唱えていた。

 運搬用の牛を御そうと男が罵声を浴びせるが、一向に真っすぐ進まない。

 そんな混乱の渦が、さっと引き潮のように治まる。


 ディド・ズマの傭兵たちが闊歩していた。

 アベルは顔を隠さずに近づいていく。

 象牙色の長衣を纏い、刀の一振りも持っていない。

 つまり丸腰。


 これだけで相手は舐めてかかるという計算。

 ただでさえも傍若無人な傭兵らがギニョールという強力な魔術師と一緒に居れば、さぞかし人を見下すだろう。

 それは何時、襲われるかも分からないという恐怖の裏返しでもあろうが……。


 ハーディアからくれぐれも危険なことはするなと言い含められていたが.、従うつもりはなかった。

 ギニョールの目的は襲撃犯の捜索であった。

 奴らは奴らで復讐のために奔走している。

 そして、的外れなところを探してはいなかった。


 バザックの死体を検めて、その特徴を手掛かりに非傘下の戦士が出入りしている場所を探しているようであった。

 恨まれる筋に事欠かないにせよ、同業者の反撃と想像したようだ。

 当たらずとも遠からず……。


 アベルはひとり堂々と歩み寄る。

 ギニョールの周りには三十人ほどの荒くれが集まっていた。

 全体では百人を超える集団だが、他の人数は方々に散らばっている。

 災難を恐れて、普通の市民たちは逃げ散っていた。

 

 変装は効果を発揮している。

 傭兵たちが、じろじろと見てくるが接近自体は咎められない。

 与太者が口笛を吹きながらアベルの体に触れようと手を伸ばしてくるが、するりと絶妙に躱した。


 やがて、目的の男の顔が見えるほど接近していく。

 一見は優しそうな若い男。

 髭など少しも生えていない。だが、底なしに酷薄な視線を持っていた。


「ギニョール!」


 あえて大声で呼ぶ。声変わりの薬のせいで、変に甲高い声だった。

 奴らは驚き身構えたが、アベルが手を振ると気が抜けたようになった。

 さらに近づく。


 勝つためには不意を突かないとならない。

 敵を想定外の手段で動揺させ、平常心を失わせる。

 そうして出来た隙で先手を取るのだ。

 夢幻流の教えが蘇った。

 ……始まりこそ緩やかに、即、殺せ。


 アベルは緊張を隠すため、あえて微笑む。

 震えそうになる手を握った。

 愛刀が腰に無いだけで、心細い。

 だが、敵に油断させるため必要な材料だった。


 恐怖心が大きくなると体は強張り、いつもの調子など全く出なくなる。

 近いが、間合いからは離れた場所からギニョールが返事をした。

 アベルの顔を食い入るように見つめてくる。


「お前は誰だ」

「忘れてしまったの? 前に会ったことがあるでしょう。貴方、ずいぶん出世したみたい」

「知らんな」

「もっと寄れば分かるわよ」

「……」

「あら、どうしたの。そんな臆病者だったかしら。せっかく楽しめると思って来たのに……。アテが外れたみたい。もう行くわね」


 三人従えてギニョールが近寄ってくる。

 アベルが上を見上げると、民家の屋根に登ったワルトが抜き身の刀を投げたところだった。

 打合せ通り、上手に無骨が投じられた。

 アベルは飛び上がって刀の柄を掴み取る。溜めの動作をしないで駆け込んだ。


 鎧や冑を装備していないから体がいつもより、なお軽い。

 自分でも驚くほど伸びやかに動く。

 胸の動悸は最高潮だった。


 反応よくギニョールの前に立ち塞がった男。

 その首へ迷いなく抜き打ち。

 完璧に刃筋の通った一閃。


 水が入った樽に物がぶつかったような音。

 首が空を飛んでいた。

 崩れた体の動脈から血飛沫が噴き上がる。

 アベルの髪と頬に降り掛かった。


 ギニョールが即座に退いて魔術の詠唱に入る。

 警護の男が二人、アベルに突進してきた。

 粗雑な動きを読み取り、仕掛けられた斬撃を躱す。


 刀で相手の剣を跳ね上げるなり太腿を斬りつけた。

 防具のない部分など、アベルの斬撃を受ければ容易く切断される。

 周囲の傭兵が囲もうとしたところギニョールが制止した。

 ギニョールは自身が編み出した独自の魔術を行使しようとしていた。

 漏れ聞こえる詠唱は、ヴェスメト魔学門閥で教えられたものに違いない。


――やはりな。

  異常者め。墓穴を掘れ。


 その魔法とは特定の方向に、激しい光と特殊な音を発生させるというものだ。

 アベルも「轟爆娑」という少し似たものを習得している。

 ただし、「轟爆娑」は方向を限定できないので、あまり自分や味方の近いところでやると巻き込んでしまう使い難さがあった。


 その欠点を大幅に改善したのがギニョールの得意技だった。

 特別な光と音を浴びてしまえば最後、人は必ず失神状態になるという。

 おそらく人を好んで生け捕りにするため異常な熱意により、そうした奇怪な技を編み出したに違いない。

 捕らわれた女は玩具にされ、信じられないほど無残な死体になっていたという。


 ギニョールの体内から強い魔力が発散されている。

 魔力の動静を正確に読み取りつつ、アベルも準備に入った。


――来るな……。今だ!


「苦骸乱舞」


 ギニョールの魔術が行使される。

 アベルは目を閉じて、伏せると同時に魔術を発動させる。

 周囲で破裂音が鳴った。

 ヴェスメト魔学門閥でギニョール対抗のための魔術を授けられ、その日のうちに習得してあった。

 

 彼らの説明では、この破裂音がギニョールの攻撃を中和するはずだった。

 もし効果が無かったとすると意識を失い、全ては失われることになる。


 ギニョールは不思議なものを見たという顔をしていた。

 状況が理解できていなかった。

 光は不意打ちを予期してあれば、避けることができるかもしれない。

 だが絶対に避けられないのが指向性の昏倒音波だった。

 絶対の自信がギニョールにはあったが……。


 瞬間、アベルは全身を拘束から放たれたバネのように使って跳躍。

 空中で棒手裏剣を投擲。

 正確にギニョールの喉へ吸い込まれた。命中。

 奴は激しく悶えて五歩ほど走ったが転倒。

 手足をバタつかせている。口から喘ぎと共に血を吐いた。


 周りにいる傭兵たち。三十人はいる。

 粗野な殺気を滾らせて奴らが一斉に攻撃を仕掛けようとしたが、アベルの炎弾が先制した。

 爆発音。


 続けて連発。

 破裂と共に大腸や手足が飛び散る。

 衝撃と熱波が押し寄せた。

 ぞっとするほど熱い。


 傭兵の中には魔術師も混じっているので、やがて水壁で対抗してくるが、それだけのことだった。

 槍を持った男がアベルに突撃してきた。

 大口を空けながら叫び声を上げている。


 アベルはむしろ前進して、穂先を切っ先に捉える。

 押さえつけたまま、間合いに飛び込んで体当たり。

 もともと冑や鎧で上体が重たい相手はバランスを崩されて転倒する。


 騒ぎに気が付いた敵が周りから仲間を呼び寄せようと叫び声を上げていた。

 アベルは助けを呼ぶように手を振っているギニョールに気が付いた。

 瀕死だが、なお生き延びようと足掻いていた。

 傭兵たちがギニョールの体を担ぎ上げて逃げようとする。


「死にぞこないが! くたばれ!」


 アベルは律動するような怒りの念を込めて、魔力を集中。

 頭上に、灼熱の溶岩を紡錘形にしたような塊が誕生する。

 爆閃飛を至近距離に放った。

 激しい爆発。アベルのすぐ横を炎の塊が飛び過ぎていく。

 ギニョールと傭兵たちが纏めて、グチャグチャの肉塊に変貌した。


 アベルとワルトは逃走に転ずる。

 路地に飛び込み、商店の横を走った。

 前から傭兵風の男が二人ほど接近してきたが、アベルが大上段の斬撃を与えると力負けした相手は顔を大きく切断された。

 眼下から頬にかけて手首が入るほどの傷が開き、足をふらつかせて崩れ落ちた。


 もう一人はワルトがトリッキーな動きで圧倒する。 

 ワルトは跳躍するや壁を蹴って方向転換。

 思いもしない角度から接近されて、敵は対応できない。

 強烈な斧の一撃を腰に受け、倒れ込んだ。

 腰が完全に折れている。致命傷だった。


 さらに進むと壁に囲まれた家々が並ぶ区画となる。

 ワルトには逃亡用に鉤縄を持たせてあった。

 これで壁を乗り越えて無関係な民家に飛び込み、道路などを使わないで進む。

 全く知らない人の庭を横切り、壁を再び越えることを繰り返していく。


 時には家の女性に見つかるなどして悲鳴を上げられたが、無視してしまった。

 傭兵たちは重たい武装をしているから、こうした身軽な動きには対応策が無いようだった。

 どんどん罵声が遠ざかっていく。


 やがてカチェと申し合わせた合流点に辿り着く。

 そこには馬を用意してある。

 カチェはよほど心配していたのか蒼褪めたような顔色をしていた。


「アベル! 血だらけよ……!」

「返り血です。さぁ逃げましょう」


 人を撥ねないように注意しながら馬を御した。

 アベルは頬にベッタリと付いた血を拭う。一緒に化粧も落ちて清々した。

 髪もカツラを外して、お湯で何回か洗えば元に戻るだろう。

 移動しきったところでカチェが非難するように言うのだった。


「あら。もう化けるのは終わりですか。わたくしよりも美しくなったのですから、すっかり癖になったのではなくて」

「もう二度はやらないと思います。それに、カチェ様の方がもっと綺麗だよ」


 アベルは不思議を感じて首を捻る。

 なぜかカチェが顔を真っ赤にさせていた。


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