第47話 密林の欲望
夜の密林は暗かった。
森を覆う闇が粘りつくような濃さだ。
ときおり、暗幕のような密林の奥から得体の知れない獣の鳴き声が聞こえて不気味だった。
アベルは不寝番をしている。
場所は船のうえ。
頭上に魔光を発生させていた。
魔光は紫色の、
船旅は続いている。
島を出発してから早くも三十日目。
ゆっくりと大河を遡上していく。
移動が捗る日もあれば、全く進まない日もあった。
いずれにしても、夜は船の中で休む。
夜間、どんな魔獣や危険生物が襲ってくるか分からないから、交代で見張りをしなくてはならない。
大型の肉食猫科……ジャガーのような生物が襲ってきたのを逆に殺した日もあった。
身を隠すのが極めて巧みで、襲撃の素早さときたら熟練の戦士を上回っていた。
だが、見張りをしていたのはイース。
瞬間的に対応して頭蓋骨を大剣で切断、撃退したものだ。
これがモーンケなら殺されているところだが、本人にもその自覚があるらしく兄ロペスと必ずペアで見張りをしていた。
アベルは目の前をしつこく横切る蛾を払った。
虫が多い。
これでも蚊取り線香に似た効果のある植物を松明で燃やして、虫除けの煙を出している。
それから防虫効果のある木の葉を服に、ぶら下げていた。
ミントのような独特の臭いがあって、虫が寄り付かなくなるらしい。
ライカナは知識が豊富で、こうした実用的な事を教えて貰える。
アベルは宝石箱をぶちまけたような夜空を見た。
ロマンチックな気分になるためではなくて、時間を知るためだ。
恒星の位置を知れば、だいたいの時間は分かるものだ。
慣れれば月の位置でも時間は把握できる。
月や星が見えない場合は……松明の燃える速度を目安にしたり、勘に頼ることもある。
東の空が明るくなってきた。
動物たちの反応は顕著だ。
まず小鳥が囀り出す。
しばらくすると昼行性の生き物が一斉に行動を開始する。
大抵はカチェとイースが最初に目を覚ます。
ワルトが夜明け前から、なぜか興奮気味で自主的に船の周りを散歩していることもある。
あいつは密林とかが生態に合っているようで、最近やたら元気がいい。
ワルトのような狼人はオシッコでマーキングもする。
一度、船に小便をひっかけてカザルスに凄い剣幕で怒られていた……。
カザルスは船に「紫の勝利号」という名前をつけているほど、大切にしている。
紫というのはカチェにかけていると思われた。
そして、カザルス以外は誰もそんな船名では呼んでいないのだった……。
~~~~~
ライカナが空模様を見ている。
彼女は天気を予測する名人だった。
薄青色をした涼やかな長髪が風に揺れる。
爽やかだ。
ライカナは体の線がよく見える服を着ていた。
下半身はゆったりしたズボン。上半身は肌着に近いデザインの半袖を着ていた。
豊かな胸が嫌でも目に付く。
アベルは何かドキドキしながら聞いた。
「どうですか。今日は?」
「うん! 今日はいい日だわ! これから東風が吹く。朝食は移動しながら干し肉でも齧りましょう。さぁ、出発!」
船長のライカナは砂州に乗り上げた船を河に押し出すように命じた。
皆で押せば、船は再び水に浮かぶ。
急いで船に乗り、櫂を握る。
全員で息を合わせて漕ぎ出す。
旅の鉄則。
進めるときには、行ける所まで行け。
進めなくなったら無理をするな……。
ライカナは三角帆を巧みに操る。
カチェが帆を張っている竿を掴んで、操船を手伝っていた。
凄く楽しそうに作業を手伝っている。
羽でも生えたように双胴船は大河を進む。
疾走感。
この日、これまでにないほどの距離を進んだ。
夕方、食料を探すことになった。
船はいつものように砂州に乗り上げて、留守番の他は狩りに出る。
アベル、カチェ、ワルトは砂州を渡り、マングローブ林の中へ入っていく。
夕陽があたりを赤く染め上げていた。
カチェは麻で手造りしたビキニ風のものを着ている。
おへそは丸出しで、しなやかな太腿が、すらりと伸びている。
胸は最近、大きくなってきた気がする。
アベルは、ついその姿を見てしまう。
きっとこれから、どんどん伸びやかに成長していくだろう。
今は未成熟の体だけれど、あと三年もすれば少女というより大人に近くなっているはずだ。
四、五年後は……あまり想像がつかない。
とにかく最高の美人には違いあるまい。
カチェは、現在十六歳だったはずだ。
四年後というと二十歳。
この世界の人間族の女性なら、二人に一人は結婚している年齢。
貴族ならもっと既婚の割合は高いかもしれない。
皇帝国に辿り着くのがいつになるか分からないが、仮に五年後だとしたらカチェも結婚していい頃合い、ということだ……。
カチェがワルトの追い立てた蜥蜴を元気に追いかける。
紫のアメジストみたいな瞳が、狩りの楽しさで輝いていた。
溌溂とした少女が成長していく姿を間近で見ることなど、これまでなかったことだ。
困難な旅の途中なのだが、こんなとき心が躍る。
ふと、前世を思い出してしまう。
はっきり楽しかった一日なんかどれぐらいあったと自問する。
家で……一日だってなかった。
あの陰険な小男。
同じ屋根の下にいるだけで暗鬱となる。
ねちねちと異常に長時間の説教と暴力。
無関心の母親。
学校。
信頼できる友なんか一人もいなかった。
得意な教科もなかった。
自分の能力や限界を再認識させられるだけの授業とテスト。
素晴らしい先生など、一度だって出会ったことは無い。
なぜ教師を職業に選んだのか分からないような、くだらない奴ら。
刑務所。
クズ人間のゴミ箱。
強盗殺人、強姦、窃盗、暴行、チンピラ、ヤクザ、性格異常者。
そういう者たちと食事をして、行進をして、作業をする日々。
刑務所に入ってから数年間。
受刑者たちとも、ほとんど会話をしなかった。
なるべく関わらないようにした。
だが、ある時、つい口が滑って殺したのは父親だと喋った。
肉親殺し。
これは受刑者たちの反応が分かれた。
親を殺すなんて最低だと言うやつもいた。
てめぇもその最低の同類だろうと侮蔑した。
逆に俺も親をブッ殺してぇという奴が、ちらほらいた。
奇妙な連帯感。
ブラック企業。
欲の塊そのものの下劣な社長。
人間を奴隷だと勘違いしているゲス。
できるだけ安く長時間労働させないと損だと思っているようなセコイ男。
一族経営。社長の息子は二十代で部長だった。
クソの塊みたいな三代目。
プライドばかり高い、どうしようもない低能。
ただ、働くだけの毎日。
昨日とそっくりの今日。
今日のコピーみたいな明日。
血を吐いて死ぬだけだった人生……。
アベルは水面に浮かぶ自分の顔を見る。
左目は王道国の王女ハーディアに潰された。
残った右目。
群青色の瞳の奥に、昏い影があった。
「アベル! 獲れたわ!」
カチェが獲物を仕留めて、自慢げに持ってきた。
アベルの暗鬱な気分をぶち破る、晴れやかな活気。
目の前に膨らみかけた少女の胸がある。
引き締まった腰。
鍛えられて、それでも女らしい優美なライン。
――綺麗だな……。
これまでカチェに女を強く感じたことはないが、今に限っては思わず触ってみたくなった。
この熱い体温が詰まった溌溂とした肉体を抱き締めたら、さぞかし心地よいだろう。
舐めたらどんな味がするだろうか……。
その考えを慌てて消す。
カチェとは主従関係でもあり幼馴染、戦友でもある。
大切にしないといけない。
だいたいカチェは嫌がって怒ることだろう。
せっかくの友情めいた関係が壊れてしまう。
肉と果物を手に入れて、アベルたちは船に戻る。
なにしろ人数がいる。そのうえロペスなんか大食らいだから量が必要なのだった。
ガトゥとカザルスが、亀を何匹も捕まえてきた。
甲羅は人の頭ぐらいの大きさをしている。
アベルは亀の甲羅を撫でながら聞いた。
「ガトゥ様。亀が好きだね。そういえばポルトでも亀料理の店に連れて行ってもらった」
「簡単に捕まえられて、しかも一番うめぇよ。アベル。料理してくれよ。料理はお前が一番だ」
ロペスまでもが頷いて、お前の料理はたしかに美味い、なんて言ってきた。
別に俺はあんたの料理人じゃないよ、と言いたいところだがアベルは黙った。
カチェから喧嘩するなと言われているし……。
実は亀など料理したことはないが、手早く料理しなければならない。
どんな生き物でも、まず血抜き。
血液はすぐに鮮度が落ちて臭くなる。
血を飲む人もいるが、アベルは飲まない派だった……。
それから腺も取る。
腺はやはり臭いし、それ以前に毒素を溜め込んでいる場合がある。
亀は河に棲んでいるせいか皮はちょっと泥臭いので、丁寧に全て剥いだ。
内臓は捨てると、肉をコマ切りにしてから土鍋で煮た。
すっぽん料理など食べたことはないが、まぁこんな感じだろうと大雑把にいく。
ライカナが数種類の香草や香辛料を摘み取ってきてくれた。
「これは臭みを取るし、体に良いものよ」
「ライカナさん。ありがとう。胡椒ですね。あまり乾燥していないけれど、しっかり風味があるね」
「アベル君の料理は美味しいから、わたしも好きだわ。どこで習ったの? ちょっと不思議」
「いやあ……」
刑務所の中とは言えなかった……。
イースが、やけに真剣な顔で頷きながら言う。
「ライカナ殿。そうなのです。アベルには不思議なところがたくさんあるのです。私はこれまでいくつも見つけてきました……」
「素敵な従者さんをお持ちね。羨ましいわ」
ライカナは、にっこり笑った。
イースは嬉しそうな表情を浮かべる。
アベルは魔法「加熱」も併用して、強火で良く煮た。寄生虫が怖い……。
アクを取って、亀の煮物が出来た。
タロイモと一緒に食べてみる。
短時間で作ったわりには、なかなか美味かった。
カチェが獲ったトカゲは丸焼きにする。
芳ばしい肉の焼ける匂いが漂う。
アベルは食べてみる。
鶏肉とも似ていない、まさにトカゲの肉だ。
香辛料と塩を振って食べれば、かなり上等な味わい。
獲った本人も、もしゃもしゃと頬張っていた。
上品な顔をしたカチェが夢中でトカゲの丸焼きに齧り付いているのを見ていると、なんか面白い……。
夕闇。
涼しくなってきた。
夜警の時間まで自由時間なので、それぞれ適当に過ごしている。
ロペスは毎日必ずやる武器の手入れ。
モーンケはさっさと寝ている。
カザルスは一人、黙考していた。
ガトゥはライカナが好きらしく、色々と冗談を言って笑わせていた。
ライカナは男性のあしらいが巧みで、隊の雰囲気が乱れないように上手く付き合っているからアベルも安心できた。
ワルトは食事の量が足りなかったのか自分で水鳥を獲って、雑に羽を毟ると生のまま齧っている。
ワイルドだ……。
なんかあいつは島でも、ときどき作業を手伝わないで姿を消していたことがあったが、最近さらに体がデカくなったところを見ると一人で狩りをして美味いものを貪っていたと見た。
「ワルト! 美味いか!」
「めちゃくちゃウマイっちよ!」
ワルトは食いかけの、血が滴る生の腿肉をよこしてきたが断った……。
「いや、僕は焼き鳥のほうが好きだから。お前、知っているか。炭火焼で串打ちした肉を焼いて、タレつけて食べるんだよ。冷たいビールとか飲みながらさ」
「ご主人様の話は時々意味が分からないっちよ。でも、美味しそうな気がするっちねぇ」
~~~~
ひたすら船旅は続き、ライカナは目的地のエンドーラ湖がかなり近いと言う。
もしかしたら明日にも辿り着くかもしれない。
船旅は風や水流に恵まれると、この上もなく爽快だ。
ほとんど何もしなくても勝手に進んでくれる。
風景も刺激的。
見たこともない緋色をした大輪の花が咲いている。
瑠璃色の羽根をしたオウムが、目の前の樹上にとまっていた。
でも、何もかも上手くいくような日は数日に一度ぐらいのものだった。
気象魔法「突風」で強引に帆へ風を当てたり、もっと地味に櫂でひたすら漕いだり……。
朝から風も悪く、雨が降り続ける日もある。
そんな時には大きな葉っぱを傘にして、じっとしているしかなかった。
それでもアベルはいよいよ船旅が終わりに近づき、不思議と残念な気がした。
結構、楽しかったのかも……。
アベルはライカナに聞いてみる。
「人里はどれぐらい先にあるのですか?」
「わたしが知っている友好的な村はエンドーラ湖から七日ぐらい歩いた所にあります」
「この辺に人はいるのかな?」
「これだけ広い森ですからね。いるかもしれません。けれど文化が違うから仲良くなれるとは限らないわ」
「そうか……」
「これから向かうのはレン族という現地民の村です。人種は人間族と獣人族の混血だと思うわ。起源ははっきりしないけれど。そこの酋長とは友誼を結びました。信頼できる人物です」
翌日。
昼頃にエンドーラ湖に到達した。
カチェが弾んだ声で感激を表す。
「うわ~。大きな湖!」
対岸が霞んで見えるほどの広さ……。
アベルは魚が居ないものかと水面を見詰めるが、水は濁っていて深さは分からない。
これだけ大きい湖だと海峡で襲ってきた海竜魔獣の同類が棲息しているかもしれない。
水の底から突然、襲ってきそうで怖い……。
「これより先は河の幅が急に狭くなって、もう船では進めません。自分の足で歩くしかない。陸路は魔獣に襲われる可能性は格段に高くなります。注意しましょう」
夕方、湖岸に船を乗り上げた。
これが船旅の終わりだ。
ここから先は足だけが頼り。
翌朝、船は全員で持ち上げて、陸に引き上げておく。
もし船を再び使わなくてはならなくなった時のため、ということである。
カザルスは船旅よりも船自体に愛着があったらしく、やたらと残念そうにしていたものだ……。
アベルたちは久々に防具を準備する。
イースは長年使っている船の舳先に似たデザインの胸甲を装着した。
アベルも鋼の胸当てと背甲を身につけた。
冑は暑いので腰にぶら下げる。
ロペスは黒鉄の角ばった鎧をモーンケに手伝ってもらいながら纏っていく。
ライカナは皮革で作られた軽量鎧を好むらしく、そうした装備を揃えていた。
カチェは西洋鎧と和風の甲冑を混ぜたような印象のある防具を、慣れた感じで身につけていく。
上半身は黒鉄造りの武骨な胴。
下半身は草摺り、佩楯、脛当てで厳重に防御してある。
仕上げに金属のプレートを縫い込んだ額当てを頭に装着してカチェの準備は整った。
ライカナは隊列の編成を指示する。
一応、ハイワンド騎士団の軍法を持ち込むとロペスが指揮官なのだが、このことについては何も言わなかった。
アベルが見たところ、ロペスなりにライカナへ気を使っているらしく、反論したりするような素振りは無かった。
ロペスは武断しか知らないような粗暴な人間ではあるが、騎士団の指揮を曲がりなりにもやり遂げた人物でもある。
実力のある者はしっかり認めるところもあった。
よってライカナの能力の高さは買っていると思われた。
「特に感覚に鋭敏なイース殿、ワルト、わたしが最前衛を務めます。また、最後尾は先頭と同じぐらい危険なので、ロペスさん、ガトゥさん、アベル君を優先的に配置します。残りの者が中央を担当しますが、油断しないでください」
「はいっ!」
カチェが、やたらと気合を入れて返事をした。
アベルは最後尾に位置取り、歩き出す。
魔獣、野獣はこちらを発見すれば追跡してくる。
となれば、最後尾は最も狙われやすいというわけだ。
ワルトやイースがいるから、魔獣の気配があれば知らせがある。
もっとも魔獣はあれでかなり狡猾だから巧妙に気配を消していると、これはいよいよマズい。
とにかく奇襲に気を付ける他ない。
アベルは森に踏み入っていった。
地面は落ち葉で覆われている。
ふかふかしたスポンジのような足場だった。
頭上は枝葉で覆われていた。
青空が隙間から僅かに覗く。
藪が深いところは回避するように歩んだ。
密林には様々な動物が棲んでいるから、獣道が網の目のように存在していた。
そこを利用して進んでいくわけだった。
ライカナはアベルに教えてくれた。
自然と対抗しても無駄であると。
地形が悪ければ突破ではなくて、迂回や後退をするべきなのだと。
密林を二日ほど進んだ後、ライカナは近道に案内をしてくれた。
それは、アベルを唖然とさせるほど巨大な大樹であった。
樹木というには大きすぎた。
幹が高層ビルほどもあるようなのだ。
だから地面の一部のような気もしてしまうのだが、よく見ればそれが樹なのが分かる。
――やっぱ異世界だな……。すげぇ!
巨樹は針葉樹のように直立せず、絶妙にうねっているから斜面を登るような感じで歩いて登れる。
それから人が歩くのに充分な広さのある枝の上を進むのだが、要するに歩道橋のようなものだった。
アベルはいくら巨大でも枝だから、いずれ先に進めなくなるのではと思いそれを聞くとライカナは小さく笑った。
「進めば分かりますよ。それより落ちたりしないでくださいね。枝に引っかかるかもしれませんが命の保証はありませんから」
数キロは歩いただろうか。
伝ってきた枝の先端が、別の大木に融合するような形で、一体化していた。
そこから再び地面に降り立つ。
ライカナは言う。
「この樹木は同種の木と絡み合って一つになる性質を持っているようです。密林にはこうした通路に使えるところが至る場所にあります……。ちなみに季節がいいと黄色の実がなります。食用になるので憶えておいてください」
密林は暗くなるのが早い。
夜を過ごすシェルターをアベルたちは手早く作る。
大きな葉を刈り取り、それで周囲をすっかり囲む。
小屋みたいなものを慣れれば三十分ぐらいで作れた。
密林の旅が七日ほど続いたときだった。
先頭を歩んでいたイースとワルトが引き返してきた。
「どうも変だ。臭いがする。獣の臭いだが……血の臭いも混じっている」
「道に人間の足跡がたくさんあるっちよ」
アベルたちは、しばし立ち止まり相談をする。
ライカナが言うには村まで、ほんの数千歩の距離だろうということだ。
とりあえず村の近くまで行って様子を見ようという結論になったとき、アベルは遠くから男の悲鳴のようなものを聞いた。
アベルはイースに視線を合わせる。
イースも気が付いたらしく鋭い口調で言う。
「私とアベルが先行して偵察をする。ライカナたちは後から警戒を厳密にして来い!」
アベルとイースは悲鳴の方向に駆ける。
獣道を進むと、異様な光景が現れた。
人間よりも背の高い大猿がいる。
巨漢のロペスと同じぐらいだ。
全身、黒褐色の毛に覆われていて手足が長い。
尻尾も太く長大であった。
――なんだありゃ?!
でかい猿……
その狒狒とも大猿ともつかないバケモノが人間を襲っていた。
鎧を着た男が足を掴まれて引き摺られている。
イースが銃を構える姿に似た、打突の姿勢で大剣を持ち、迷わず駆け込む。
ところが察知した狒狒は素早く横に跳躍、声を吼え立て、森へ去っていった。
葉ずれの音が遠ざかっていく。
「な、なんだ、あの魔獣……」
アベルは森を見詰める。
出会ったことの無い生物には恐怖ばかり感じる。
どんな攻撃を仕掛けて来るのか分からない。
気配が消えたので襲われていた男のもとへ行く。
腕が折られていた。
痛みで身動きがとれないようだ。
アベルは治療魔法で治してやることにした。
折れた上腕の骨を正しい位置に戻して素早く魔法をかける。
驚いた男が慌てて聞いてきた。
「い、痛くねぇ! お前、治療魔法師かよ!」
「まぁ、そんなところです……。それより、あんた、この近くの村の人?」
「おぅ。そんなところよ。いや、助かったぜ! ついさっきあのクソ狒狒に襲われて相棒は攫われちまった」
「相棒? 仲間が狒狒に連れ去られたのか」
イースが男に聞いた。
「助けに行くのか?」
「いや、もうムダだ。藪に引き摺りこまれたら、もう何をしても助けられねぇ。今頃、狒狒の腹の中だろうよ……って、あんた魔人氏族なのか、その黒髪」
「そうだ。正確には混血だが」
アベルは助けた男を、改めてよく見る。
年齢は三十歳手前ぐらい。
人相は、よくなかった。
無精髭は仕方ないとして顔つきには荒んだ雰囲気が纏わりついている。
頬に傷があった。刀傷ではなくて、火傷の跡のような感じ。
目がギラついていて、飢えたノラ犬みたいだ。
アベルの前世今生の経験からして、完全にクズ顔だった。
――こいつの仇名はクズ男だな……。
助けたのは失敗か?
クズ男は胸甲をしている。
武器は持っていないが、鞘だけ腰に差していた。
剣本体はどこかで落としてしまったらしい。
背後からロペスたちが追い付いてきた。
ライカナが助けたクズ男に聞く。
「わたしはマラガ村の酋長ンゲベ・ナジジ様と友誼を結んだ者です。ナジジ様はご健在なのかしら」
「おっと、こちらもまた別嬪さんだな! その髪の色……あんたも亜人か? スゲェことになったな。……まぁ、詳しいことは村でしましょうや。ここだとあの狒狒の魔獣が襲ってくるからよぉ。
あのクソ狒狒、かなり強いぜ。しかも、群れやがるからよ。もたもたしていると、あんたらもヤバイことになる。村なら安全だぜ」
「あなた、わたしが二年前に村を訪れた時には見なかったわ。それに言葉に亜人界の訛りがあるわね。外から来たの?」
クズ男は探るような目つきをしてきた。
「とにかく村へ行くからついて来いよ。すぐそこだからな」
しきり誘い続けるクズ男は歩き出した。
アベルは問いかける。
「僕はアベル。あんたは?」
「コステロってんだ。ザラ様の子分だぞ。ただの下っ端じゃねぇからな」
「ザラ?」
「知らねぇのか、ザラ様を。……アベル。お前、冒険者に……決まっているよな。でなければこんなところに来るはずねぇし」
「ま、まぁ、そんなところ」
「お前、眼帯なんかしてるけれど何歳だ。十六ぐらいか」
「たしかそれぐらい。自分でも適当なんだ」
アベルは嘘をついた。
十六歳となれば、そろそろ成人扱いの年頃だ。
本当のことを言って、あまり若いと見なされたらなめられる……。
「ふ~ん……。ま、村で詳しく話そうぜ。ここじゃ落ち着かねぇ」
コステロは本当に狒狒を恐れているらしく、あたりをキョロキョロと見回す。
アベルたちは仕方なく、そんなコステロについていった。
モーンケがコステロに聞く。
「村に酒はあるか? あったら売ってもらいてぇ。と言っても金はそんなにないから塩と交換してもらいてえんだが」
コステロは下品にニヤリと笑った。
「あるぜ。うめぇやつが。村で作ってんだ。あんたら命の恩人だからよ。一杯奢らせてもらうぜ」
確かにコステロの言う通りに村は近くにあった。
ぐるりと周囲を長大な竹で作った柵で防御している。
やけに厳重な防御だった。
コステロが出入り口に走っていく。
中の人間に声をかけて、狭い入り口を開けさせた。
「おい。こっちだ! 早く入ってこい!」
ちょっと変かと思いつつもアベルは柵の内部に入る。
土壁で作られた小さな家々がある。屋根は大きな葉と枝を組み合わせたもの。
中は六畳一間ぐらいではないだろうか……。
そんな感じの家が、ざっと見て四十軒ほどある。
それから、雑な作りの掘っ立て小屋も点在していた。
アベルは村にいる男たちの柄の悪さに驚いた。
ハイワンド領をうろついていた傭兵や武人より、もっと荒れた感じだった。
人数はどれぐらいだろうか。
五、六十人ぐらいはいるかもしれない。
男ばかりで鎧を装備している。
冑まで被っている者もいた。
彼らはアベルたちを不躾にじろじろと見てくる。
アベルは不審に思い聞く。
「ライカナさん……」
「おかしいわ。ここの現地民がいない。これは失敗したかもしれないわね」
ライカナは顔に緊張を漂わせていた。
村の入り口は一行が中に入ると、すぐに厳重に閉じられた。
武器を手にした門番が十人近くいる。
コステロが手招きをしていた。
「まず頭のザラ様に挨拶をしてくれや。気の荒い人だから絶対に逆らうなよ。ものスゲェ強い人だぞ」
案内されたのは村で一番大きな土の家だった。
酋長の家だとライカナが呟く。
家の入り口に警護の人間なのか、武装した男たちが五人ほどたむろしていた。
カチェの顔を見ると、にやけた顔で近づいて来る。
下品で頭の悪そうな男たちだった。
「おい、とんでもねぇ上玉じゃねぇか!」
「どこから来たんだよ、こんなところまでよぉ」
「名前なんてぇんだ?」
カチェは答えずに迷惑そうな視線を向けるのみ。
ところが、男はカチェの髪を触ろうと手を伸ばしてきた。
寄ってきたハエをはたくように、その手をカチェが叩く。
そればかりでなく、そのまま拳を男の顔面にぶちこむ。
カチェが魔力で身体強化した打撃は強烈だ。
ぐしゃっ、という音がした。
男が仰向けになって派手に、ぶっ倒れる。
さっと下卑た笑みが男たちから消えた。
陰険な、探るような眼つきになる。
溜息と共にアベルは首を振る。
下品な輩が嫌いなカチェは暴力を遺憾なく発揮する。
別に間違ってはないが後始末は自分がやるのかとアベルは暗澹とした気分になる。
――もう、めんどくせぇな。
ここは逃げた方がいいかも。
「ロペス様。ここ、どうも様子が悪いので、もう出ていきませんか。長居するところじゃない」
「しかし、情報を聞きたいところだぞ。初めての村だ」
「ですが、性質の悪そうなやつらです」
ライカナが賛成した。
「わたしも同じ意見ね。村の人たちがどうなったのか分からないけれど、居たくない雰囲気だわ。こうなっていると分かっていれば近寄らなかった」
「ふむ……。ライカナ殿がそう言うなら、去るとするか」
ロペスはライカナに一目置いているせいか、彼女の助言を受けたようだ。
アベルたちは退き返そうとしたが、粗野な暴力の空気を噴き出した男たちが、あたりを囲んでいた。
眼つきに敵意と欲情が含まれている。
イースやライカナ、カチェを舐めるような目で見ていた。
ロペスが前に出て、多勢無勢に関わらず恐れを感じさせない大声で言った。
「どいてもらおうか。俺たちはここから去る」
カチェに殴られた男が血の混じった唾を吐き出して叫ぶ。
「そうはいくかよぉ! ザラ様の村で騒ぎを起こして、このまま出て行けると思うなっ!」
ロペスは、ぶっきらぼうに言った。
戦場では幾多の敵を串刺しにしてきただけあって、ことさら力んでいないのに凄味がある。
「俺の妹にも転がされるようなお前が、どうやって俺を止めるのだ? それとも仲間が寄ってきたからどうにかなると考えたか? 押し通るのも一興だ」
アベルは緊張してくる。
喉がひりついてきた。
ロペスの性格を考えると、本当に乱闘だろう。
いや、殺し合いになるかもしれない。
睨み合いが続いていると酋長の家から誰かが出てきた。
アベルはその人物を見て、思わず驚きから身体を固まらせる。
上半身裸の姿、刺青が胸から顔に至るまで、びっしり入っている。
薔薇や竜、女性像などが統一感なく肌を覆っていた。
どうしようもなく下劣な刺青。
刺青男はロペスに匹敵するような巨漢。190センチはありそうだ。
年齢不詳。三十歳とも四十歳ともつかない。
筋骨隆々で傷も多い。
その顔は、せいぜい少し形を整えた岩石といった風情。
眼が惨忍に光っていた。
暴力を好む男。
血を欲する人間に間違いない。
アベルはどう見てもまともではない妖怪みたいな男だと警戒が湧く。
刺青の妖怪がロペスを見下すように睨んで、口を開いた。
「威勢の良さそうな兄ちゃんだなぁ。冒険者か」
「……旅人である」
「先に手を出したのはそっちだ。落とし前、どうつける?」
「女に撫でられて転がる男の方が悪い。それだけだ」
「ここはこの俺、ザラの土地だ。俺が法律だ。出て行きたくば通行料と迷惑料を払え」
「……一応、金額を聞いておこうか」
「そうだな。迷惑料が金貨三枚。通行料は、一人につき金貨十枚だな」
法外な要求だった。
そんな金、あるはずもない。
また、あっても払わない。
要は難癖吹っかけているのだった。
「払えないな。そんな金は持っていない」
「そんなら、ここで働いて行け。俺たちは砂金掘りをしている。当たれば一財産を持って亜人界に帰れるぞ」
「いや、我らは先を急ぐ旅人だ」
周りの男たちから怒号が響く。
下卑た荒くれたちが剣の柄に手を掛け始めた。
抜いたら、殺し合いだ。
アベルの心に覚悟が固まっていく。
数をざっと確認した。
さっきよりさらに増えて、見えているだけで約七十人。
隠れているのもいそうだ。
魔法使いはどれだけいるのか分からない。
弓のような飛び道具を手にした奴は少ない。
すでに囲まれているので不利だった。
壁を背にして、半円陣形が良さそうだと思った。
その時、アベルが足を治してやったクズ顔のコステロが、ザラという首領に申し出た。
「ザラ様。そこの眼帯をした小僧、治療魔術師でいやすよ」
「なに!」
ザラは一瞬、考えていたが手下を制してロペスに言った。
「よし! じゃあこうしようじゃねぇか。俺らは今、狒狒の魔獣に狙われていて厄介な目にあっている。おめぇら、その魔獣どもを仕留めろ。そうすりゃ、通行料や迷惑料のことは無しにしてやるぜ」
ロペスは小声でモーンケに相談した。
「この男。こう言っているがどうする」
モーンケは多勢無勢の状況に呑まれつつあった。
動揺して呼吸が小刻みだった。
アベルは戦えば勝てる気もしたが、敵の手の内が読めていないのは確かだった。
やはりこのまま戦闘は、あまりにも賭けだ。
「あ、兄貴……。数もこっちが不利だ。ちょっと様子見しねぇか。猿だか狒狒だか知らねぇが魔獣なんかイースやアベルなら楽勝だろうよ。殺してやって出ていこうぜ」
「……、では、そうするか」
ロペスの弟を尊重する態度をアベルは再び見ることになった。
本当に仲の良い兄弟だ。
他人には分からない機微があるのだろう。
ロペスはザラという男に向き直る。
「ザラとやら。お前の条件を受けよう。狒狒の魔獣を倒したら、我らはここを通過させてもらう。約定、違えるな」
ザラは模様の描かれた岩石と呼ぶ方が相応しい顔面を歪めた。
「こりゃ頼もしい!」
それまで黙っていたライカナが問うた。
「わたしは、このマラガ村の酋長ナジジ様と知り合いなのですが、村人やナジジ様はどうされました」
「…………」
ザラは無言でライカナを爪先から頭まで舐め回すように見た。
実にいやらしい、陰険な視線。
「お前……魔人族か?」
「ええ。そうですよ」
「じゃあ戦っても、かなりのモノってわけだ」
「身を守る強さは身につけているつもりです」
「いい女だなぁ……。金は欲しくねぇか。欲しいだろ? 一晩どうだ? 金貨ぐらいの砂金の粒をやるぞ」
呆れたことにザラは体を売れと交渉してきた。
ライカナの視線に、いよいよ侮蔑が混じり出す。
「わたしはそんなことを聞いていません。村人たちはどうしたの?」
「ふへへ。砂金採りを手伝ってもらっているぜ」
「そろそろ事情が読めてきました。村人を使役して密林の中で砂金採りをやらせているのね。ところが魔獣に襲われて面倒な事になっている……」
「余計な事を考えていると死ぬことになるぜ。お前を本物の槍でぶっ刺しても面白そうだな。俺はできれば股ぐらについた肉の槍でお前を突き刺してぇが……どっちでもいいんだぜ?」
ザラの奇怪な刺青だらけの顔に、背筋が寒くなるような惨忍な笑みが浮かぶ。
ノコギリのような乱杭歯が剥き出しになる。
アベルは殺し合いか、妥協か、冷や汗を掻きながら待つ。
ロペスが場の雰囲気をぶち破る大声で言った。
「早く魔獣の居場所まで連れていけ! 場所が分からないのでは倒しようがないぞ」
ザラは手下に命令をする。
村に居た者の内、三十名ほどを選抜すると案内するように言った。
自分自身はいかないらしい。
ザラは冷たい目線で言った。
「俺はディド・ズマ様の弟分だ。もし、逃げたり下手なことをしてみろ。魔獣界から亜人界まで手配が回るようになっている。最近じゃ、王道国でもディド・ズマ様の力は認められている。逃げられねぇぞ」
――ディド・ズマ?
どっかで聞いた名だ。
たしか亜人界で名の通った傭兵団の頭目だった気がするけれど……。
アベルたちは柵で囲まれた村から出て、前後をザラの手下に挟まれながら移動した。
アベルはここにいる男たちを殺して、そのまま立ち去るという手も考えつく。
三十人なら全員は無理でも、粗方は圧倒できる。
ただ、一つ問題なのはディド・ズマの影響力だろう。
長旅の邪魔になるとマズい……。
アベルはコステロに聞いた。
「なぁ。命を助けてやったんだから教えろよ。ディド・ズマってどんな人なの」
「はぁ? なんでオメーそんなことも知らないんだ。亜人界や魔獣界を旅していりゃあ、いろんな街で聞いているだろ」
「いいから教えてくれよ。俺たち田舎者の世間知らずなんだよ」
「けっ。まぁ度胸は認めてやるよ。あのな。ディド・ズマ様っていったら由緒正しい傭兵団の頭領。傭兵の王様だ」
アベルは失笑を堪えた。
――傭兵の王って何だよ……。
傭兵に正統も馬の骨もあるもんか。
腕っ節だけの世界だろうがよ。
コステロは得意になって説明を続ける。
「ディド・ズマ様は父親も傭兵団の団長。後を継いで傭兵団を率いて、亜人界に利権や領土を得た。今は王道国に協力して新しい国を造る許可まで得ておられる。もうじき王様になる人だ。だから、傭兵王って呼ばれてもいる。
で、ザラ様はディド・ズマ様の弟分。ここで砂金を採掘して上納している。あと半年も掘っていれば金貨数万枚に相当する金が溜まる。それを持って帰参すりゃあ、ザラ様は幹部に取り立てていただけるってわけだ。
アベル。お前、見どころあるぜ。なんだったらザラ様に俺が口添えしてやろうか? 治療魔術師なら、すぐに側近にだってなれるかもしれねぇぞ」
「いや。俺たち旅の途中なんだよ……」
アベルは構造を理解した。
こんな地の果てみたいな密林まで手を伸ばすのは、ろくでもない欲塗れの悪党ぐらいだ。
金は人を呼ぶ。
人は戦力になる。
ディド・ズマという男のために砂金を採掘しているのがザラというわけだ。
アベルは怒りが込み上げて来る。
――ふざけた野郎どもだ。
てめぇらの出世のために砂金を掘っていて、
魔獣に邪魔されているから俺らに狩れだと?
なんだ、こいつら……。
モーンケはアベルとコステロの遣り取りを聞いていた。
兄のロペスに小声で耳打ちする。
「兄貴。金貨数万枚だとよ……」
「ふん。軍資金か」
「俺たち金をほとんど持ってねぇ。欲しいな」
モーンケが軽薄に笑う。
ロペスの張り出した額の下にある青い瞳が怒りの色を浮かべる。
「王道国に協力する傭兵の一味というのなら、容赦するわけにはいかないな」
「ひひっ」
アベルはモーンケが悪そうに笑うのを見て嫌な予感がする。
モーンケがあんな顔をする時、大抵ろくでもないことを考えているのは知っている。
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