第17話  地下遺跡、大きな口、地獄の底

 




 北部山脈の麓に到着した。

 巨大な山脈が連なり、峰の頂上には雪が白く輝いている。

 あの山脈の向こう側は皇帝国の支配領域ではないという。

 国境というものの存在を意識しないわけにはいかなかった。

 

 アルドバ鉱山遺跡に近い村で乗ってきた馬を預ける。

 さらに山道を歩いて進むと、石造りの遺跡がポツポツと姿を現す。

 遺跡は約千年前、大帝国の時代に造られたものらしい。


 現在よりも千年前のほうが人間族は繁栄していたと言われている。

 大帝国の崩壊と長く長く続いた分裂戦争によって、その繁栄の大部分は失われ、もはやこんな残骸に面影が残っているだけだ。


 道の先、大きな岩盤に暗い穴が数百と空いていた。

 ガトゥ男爵から貰った地図によると、最深部へ続く坑道は内三本にすぎない。

 地図がなければ、この時点で迷うところだった。

 やはり情報というものは重要だとアベルは思う。


 坑道の深部なら深部なほど湧出魔素が濃くなるから、より上質の魔石が期待できる。

 よって目標は迷宮のような坑道の、最も深いあたりであった。

 ワルトがしきりに地面の臭いを嗅ぎまわった。


「魔獣の臭いずら。中にたくさんいるっち!」

「臭いで分かるのか……。イース様。あいつ使えるんじゃないですか」

「そうだな。視覚と聴覚なら私も負ける気はしないが、臭覚に関しては狼人に敵わないだろう」


 イースの指揮のもと隊列が組まれた。

 最前衛、ワルト。

 前衛がイース。

 中央にカザルス。

 最後尾がアベルとなった。


 ちなみに魔獣の蔓延る洞窟では、背後から魔獣が不意打ちを狙ってくることが多いという。

 必然、最後尾は最前衛と変わらないぐらい危険な位置だとイースから説明を受ける。


「イース様。僕は鉱山って初めてなんですよ。怖い」

「怖がって正解だ。敵もそうだが、古代遺跡だと魔法罠などがあって、熟練の冒険者でも不注意で死ぬことになる」

「今回は坑道だからそういうのないですよね」

「たぶんだ。あらゆる状況を想定しておけ」



 アベルは「魔光」を発現させる。

 カザルスも魔光を使えるというのだが、二つはいらないので出していない。

 イースもワルトも夜目が利くので、かなり頼りになる。


 カザルスは火と水魔術は第二階梯どまりなのだが、鉱物魔術だけはなんと第六階梯まで使える上級者だった。

 カザルスは第七階梯もそう遠くない日に到達するはずだと事もなげに言う。

 そこはかとなく変人の気配を漂わした男だが魔術だけは本物だった。


 魔道具を製作するのに鉱物魔術を多用するから、見る見るうちに上達したという。

 カザルスが最初の魔道具を独学で作ったのが五歳の時だそうだ。

 以来、魔道具製作に憑りつかれたような人生を送った。


 ただし、戦闘はほとんどしたことがないというので、イースからは戦わないでくれと釘を刺されている。

 アベルにも良く分かる話だった。

 下手な魔法は周りにいる者を巻き込むから、凄く危険なのだ。

 言ってみれば子供が大砲を扱うようなものである。


 そうしていよいよ坑道の中に入ると、もう、いきなり嫌なものを見てしまった。

 人間の死体だった。

 体は粗方、食いつくされていて、肉のこびりついた骨とかが散乱していた。


 こぶしぐらいあるような便所コオロギに似たやつが何匹もビョンビョンと元気に飛び跳ねていた。

 骨についた腐肉に群がっている。 

 蛾も飛んでいた。

 毒々しい橙色の目玉模様が鮮やかで、触るなキケン、みたいな奴……。


 アベルは眩暈がしてきた。

 実際に目蓋を強く瞑ってしまう。

 背筋が寒くなってくる。


――もう帰りたい……。


 死体は装備の欠片から冒険者と思われた。

 一応、身元が判明しそうな物はないか、ざっと調べるが何もない。

 どうしようもないので放置したまま先へ進む。


 坑道は曲がりくねり、無数の支道がある。

 アベルは迷えば地上に出られる気がしなかった。

 カザルスが小さな蝋燭を灯す。

 どうしてそうしたことをするのかアベルは不思議に思う。


「あれ? 暗いですか。それなら魔光を使えば?」

「いや、これは毒気が湧き出していないかを確かめるためにやっている。火が突然消えたら、空気が毒になっているとみるべきだ。そうなったらすぐに呼吸を止めて後退するのだ」

「そうか。そういう危険もあるのか……。気象魔法の突風を使えばいいのかな。新鮮な空気を送り込めば……」

「正常な空気を創り出す清気創成という特殊魔術がある。モーガン魔学門閥が開発した魔法だ。知らないか」

「そんなのあるんだ。知らないです。さすがカザルス様」

「まかせろ。だが、ボクには使えない魔法だ」

「はぁ?」


 カザルスとそんな軽口を言いつつ先へ進む。

 実際のところ、そうした会話でもしていなければ気持ちが落ち着かなかった。

 坑道は途中で縦穴になる。

 アベルたちは縄を降ろして下層に降り立った。


 するとワルトが吠え声を発した。

 奥から何か出てくる。


 大型犬ぐらいの、蜘蛛っぽいなにか。

 蜘蛛にも似ているが、足がもっとたくさん付いている。

 たぶん二十本ぐらい。

 見ているだけで怖気が走る奇怪な姿。

 長い触覚が獲物を探るように震えていた。


「大蜘蛛ムカデだっ。毒に気を付けろっ!」


 カザルスがそう叫んだ。

 ワルトが両手に短剣を持って、猛然と攻撃を開始した。

 それがいい牽制になってイースに攻撃のチャンスが生まれる。

 大剣が振るわれて、あっさりと大蜘蛛ムカデが真っ二つになった。

 イースの見事な剣捌きだ。


 大蜘蛛ムカデの死体から、にちゃあ、という感じで体液が流れ出る。

 よく見たら背中に小さな卵がたくさん乗っていて、すでに孵化した大蜘蛛ムカデの幼体もいた。

 それが背中からハラハラと落ちてきて、死んだばかりの母親だか父親に群がって体を食べ始める。

 カサカサという葉が擦れるような音が響いていた。


「もうヤダ……」


 アベルは戦慄しながらその光景を見つめていたが、背後にゾクッとした気配を感じる。

 思わず振り向くと、ほんの数歩の距離に大蜘蛛ムカデが二匹もいた。

 頭がカッと熱くなり、火魔術を使いそうになったが堪えた。

 こんな狭いところでは、たとえ炎弾といえどもこちらが危険になる。


――早く魔法で殺さないと!


 鉱物魔術第四階梯、土槍屹立を思い出す。

 使ったことはないが、やるしかない。

 もう夢中で発現をイメージして、魔法名を詠唱した。


 肉が強引に引きちぎられる不気味な音がした。

 大蜘蛛ムカデが激しく暴れる。

 二匹とも、腹のあたりを岩石中から伸びた三角錐状の石槍で突き刺されていた。


 ピンで縫い止められたような状態になったので生きているが、もう動けない。

 アベルは荒い息を繰り返した。

 心臓が激しく打つ。


「地下ってやっぱりヤバイな! 今、後ろから来ていたのほとんど分からなかったぞ」


 まるで恐れを感じないらしいイースは冷静に言う。

 

「気づけたのだから上出来だ。蜘蛛ムカデの類は麻痺毒を使ってくる。こっそり這い寄られて毒を受けてしまえば終わりだ。体が動けなくなったところで食われる。これで分かっただろう、背後に注意しろ」




 前進を再開。

 閉鎖空間だから時間感覚が狂う。

 何時間ほど進んでいるのかさっぱり分からない。

 一時間のような気もするが……もっと何時間か経過した感覚も同時にあるのだった。


 なだらかな坑道を下へ下へと進んでいく。

 なにか明らかに数多くの生き物の気配がしてくる。

 鉱山の奥から音が聞こえて来るようだ。

 警戒心は最大級に高まり、アベルは息切れがしてきた。


 暗がりに光を反射する眼球の輝き。

 急速に増える。

 ネズミだ。

 それも猫ぐらいある巨大ネズミが、ざわざわと群れをなして迫って来た。


 アベルは体を強張らせる。

 ああいう群れこそ危険なのだ。

 一匹、でかぶつがいてもイースなら何とかするだろう。

 しかし、あのように数がいるとイースの手数でも及ばない。

 鋭い歯で体中を噛み切られでもすれば、おぞましい悲惨な死がある。

 なんとかしなければ。


「イース様! ワルト! 下がれっ!」


 二人が素早く後退。アベルの左右を固める。

 体を乾かすときに使う「熱温風」を本来の攻撃用途として使うことにする。

 アベルは体内の魔力を猛烈に加速させて、できる限りの熱風を吹き付けてやった。


 巨大ネズミどもが数十匹と身悶えを始める。

 アベルはさらに魔力を込めて手加減しない。

 反射熱で顔や体がジンジンと焦がされるが、無視して熱風を出し続けた。


「もう十分だ。やめろ」


 イースに肩を掴まれて、アベルはやっと魔法の発現を止めた。

 はあはあ、と荒く息をつく。

 喉が酷く乾いた。

 巨大ネズミが十匹ぐらい地面で死んでいる。

 カザルスが酷く驚いていた。


「なんだ、アベル君。キミは強いな! そこらの魔術師より達者だぞ」

「気持ち悪いんだよ。ネズミとかって……。しかもデカすぎだろ」

「アベルよ。危険を感じて熱温風を使ったのは良い判断だが私なら数匹を先んじて殺せた。大ネズミは血の臭いに敏感だから、群れは死体に群がっただろう。その隙に逃げるか、さらに攻撃する。恐怖が行き過ぎて、あまり魔力を消耗しすぎるな。先は長い」

「は、はい。イース様……」



 ふたたび、数時間ほど進んだ。

 落盤で足元の状態は悪く、カザルスなどは苦労しながら歩いている。

 学者風の彼だが、どうしても魔石が欲しいらしく必死に歩き続けていた。

 アベルは湧出する魔素の濃さに驚く。

 目には見えないのだが、感覚が魔素を捉えている。


 さらに急な下り斜面を姿勢を変えつつ下りた先で、やっと初収穫だった。

 アベルが岩の隙間に、淡い青色を放つ水晶のようなものを見つけた。

 大きさは手のひらサイズ。


「あれ? これが魔石?」

「ん? ああっ! そうそう。それだ」


 カザルスが手に取る。

 実に嬉しそうに笑った。


「それで何級ぐらいですか」

「そうだなぁ。第四級魔石ってところかな」

「買うと幾らぐらいですか」

「ポルトの専門店だと……銀貨五十枚ぐらいかな」

「ふ~ん」


 まあまあの値段のような気がした。

 とはいえアベルは、まだあまり貨幣価値が分からない。


「イース様。従者の給料は月給なのですか」

「そうだが、知らなかったのか」

「いや、実は詳しい説明を受けていませんでした」

「たぶん、城雇いの従者は月に銀貨五枚だな」

「やすいっ」

「その代わりに食べ物と住居は城が持ってくれるわけだ」

「でも命懸けの仕事ですよ」

「騎士という名誉ある立場になるためには、試練が必要だ」

「……ブラック企業の理屈そのもの」


 イースやカザルスが怪訝な顔をした。


「アベル君。なんだ、そのぶらっく何とかって」

「カザルス先生は知らなくてもいいことですよ」




 暗くて地下水が染み出ているから、やたらと湿っぽい坑内をさらに進む。

 そろそろ人の入り込まない域に達したのか魔石がポツポツと落ちている。

 ワルトが鼻腔を動かしつつ言った。


「なんか変な臭いがするっちよ。注意するだ」


 一応、アベルは返事をしたが、足元に魔石が転がっているから拾わないわけにはいかない。

 カザルスも「魔光」を発生させて、自分で探している。

 しばらく全員で探すと、成果が出てきた。

 三つ四つと青や黄色の魔石が見つかる。


 カザルスが選別して第四級以上の魔石だけを背負い袋の中に入れていく。

 なるべく早く帰りたいアベルは急いで魔石を探す。

 暗い支道の奥に、ぼんやりと光るものを見つけた。


――あっ、魔石だ。けっこうデカそうだな……。


 アベルは支道に進んでいく。

 別に危険は感じなかった。


 ゴツゴツとした岩肌の壁に、うっすらと青白く光る塊。

 手を伸ばした。

 その時になってやっと、アベルは気づいた。


――あれ。なんか変? 魔石が動いた……。


 でこぼことした岩壁だと思っていたそれは、巧妙に擬態した生き物の肉体だった……。

 壁がパックリと割れて、赤い粘膜が姿を現す。

 馬の背丈ほどもある巨大な蛙にアンコウの提灯みたいなのが付いていた。

 魔石だと思ったのは、囮の提灯だった。

 アベルは何の反応もできずに、口を唖然と開けたまま棒立ち。


 目にも見えないほど高速に飛び出してきた舌に絡めとられて、次の瞬間、口内に体ごと引きずり込まれた。

 生臭く、温かい。

 全身がヌメヌメしたもので包まれる。

 凄い力で締め付けられて窒息感が激しい。

 もはや呼吸すら叶わない。

 ぞっとした。このままでは食われる。


 アベルは瞬間的に「氷槍」をイメージして、あたり構わず乱射した。

 体が激しく揺さぶられる。

 どこかに凄い勢いで運ばれているみたいだ。


 イースは激しい振動を感じる。

 岩が崩れる音がした。

 駆けつけると坑道の床が崩れて、ぽっかりと黒い闇が広がっていた。


「どうした?!」

 

 呼びかけるがアベルの姿が見えない。

 ワルトが鼻をひくつかせると、闇の方へとアベルの臭いが続いていた。


「イースさま。ご主人様はこの崩れた穴に落ちたんだっちよ。化け物の臭いもするっち。きっと一緒になって転がり落ちたに違いねえっちよ!」


 迷わずイースとワルトは、カザルスを置いて穴に飛び降りた。

 戦闘に向いていない彼は居るだけ邪魔になりかねない。


「氷槍」を乱射しているとアベルは突然、体がどこかに射出されたような感覚を持った。

 直後、体に激しい打撃。

 全身に苦痛。


「ま、魔光……」


 悶えながら、やっとそれだけ唱える。

 パッと暗闇が明るくなる。

 十歩ぐらい離れたところに、危うくこちらが食われそうになった岩石蛙が蠢いてた。

 魔石と騙された提灯がブラブラ揺れている。

 腹から氷の槍が飛び出して出血しているが、ずるずると這って逃げていく。

 アベルは怒りに任せて再び「氷槍」を放つ。


「死ねっ!」


 勢いよく飛んで行った氷槍が蛙の目玉を貫いた。

 岩石蛙が仰向けにひっくり返って、太腿を痙攣させる。

 

 とどめを刺してアベルは溜息を吐いたが、顔が濡れているのに気が付いた。手で触るとべったり赤い血が付いている。

 額から血が滴っていた。 

 岩石蛙が慌ててアベルを吐き出した勢いは凄まじくて、岩盤に体が激しくぶつかったらしい。

 治癒魔術を自分に施す。


「つらい……」


 体は酷く疲労して、感覚は鈍ってきた。

 倦怠感で立つのも億劫になりつつある。

 しかも坑内は寒い。

 体は生臭い体液に塗れている。


「どうやって戻ろう……イースさまぁ!」


 ぐわんぐわんと声が反響した。

 反応がない。


 アベルはよろけながら立ち上がった。

 危険な時こそ冷静にならないといけない。

 深呼吸をする。


 空気の流れを意識する。

 天井に大きな穴がある。

 左右は塞がっていた。


 つまり、もう天井しかないのだ。

 アベルは岩登りを始める。

 もう一層、上の坑道を目指す。


 その時だ。

 崩れたばかりの岩盤の奥から、また淡い光が漏れている。

 あの岩石蛙の仲間だろうか。

 孤立無援で戦わなければならない。

 気力を振り絞って、魔力を加速させる。


 だが、襲ってくる気配はない。

 光は本物の魔石のものだった。


 アベルは壁を攀じ登って、短剣でほじくる。

 淡いピンク色の光が漏れる。

 大きかった。

 赤ん坊の頭ぐらいある。

 苦労して、なんとか掘り出した。

 大物の予感だ。


「これで帰れるかも!」


 アベルは背負い袋に魔石を入れる。

 再び、登攀して上の坑道にたどりついた。

 左右に続く坑道のどちらに進めばいいのか、全く分からない。


 壁の攀じ登りは想像以上に体力を使った。

 疲れたので休む。

 魔石が重い。

 このためにこんな地獄の底のような所に来たのに、捨ててしまいたくなる。

 今の体力で、もう一度、壁登りをやるのはキツイ。

 状況しだいでは、できないかもしれない。


 気持ちが沈んでくる。

 魔力を消費しすぎると鬱っぽくなるのは経験があって知っている。

 そういう時、これまではさっさと寝ていた。


 だが、このような所で寝入るわけにはいかない。

 あの大蜘蛛ムカデみたいなのに、こっそり寄られて毒を注入されるかもしれない。


 陰気な場所でイースからも別れていると、いよいよ心が萎えてきた。

 悪い想像ばかりが浮かんでくる。

 最悪、合流ができないとして坑道の奥深くから、一人で地上に帰れるだろうか。

 答えは出ている。

 到底、不可能だ。


「死にたくない……」


 がっくり項垂れて、呟くアベル。

 嫌なことばかり脳裏にチラつく。

 あの小男の父親のこと……。


――いつも俺を殴ってきた虐待野郎。

  些細なことで不満をぶつけてきた。

  あるとき説教が何時間も続いて、あくびをしたら、ぶん殴られた。

  許してほしかったら下着姿で町内一周しろと命令されて、

  夜中の住宅地を彷徨い歩いた。

  家に帰ったら、あいつは待ち構えていて……。

  靴を履いているからやり直しだと言ってきた。

  再び、素足で真夜中の道を行く当てもなく歩いた。

  そんなことがあったっけ………。



 アベルは頭を振る。

 あんなゴミクズ男のことなど意味はない。

 代わりに明るい記憶、アイラとウォルターのことを思い出した。


 美人で元気なアイラの笑顔。

 狩りも得意で時々、森から兎を獲って来ることもあった。

 張りのある大きなおっぱい。

 そうだ。ある夜のとき。

 小便で起きたら二人がいないから探したら、診療所で愛の営みをしていた。

 覗きは趣味じゃないから、そんなには見なかったけれど二人とも凄く愛し合っていた。

 触ったり……舐め合ったり……。

 男女の情愛を教えてくれた。


 それからウォルターは渋い美男子だったから、女の誘惑も多かった。

 最初は気づかなかったけれど、特に体が悪いわけでもないのに、テナナの娘や夫人がウォルターの診察に来ることがあった。

 大抵、アイラが薬をやってお終いなんだけれど。

 ある時、必要もないのに胸をはだけて、ウォルターにおっぱいを見せに来るお姉さんがいたっけ……。



 アベルの顔に笑みが浮かぶ。

 少し元気が出てきた。

 遠くから誰かの声が聞こえた気がする。

 耳を澄ますと間違いない。


「おーい。ここだよぉ!」


 叫ぶと、暗い坑道から現れたのはワルトだった。


「ご主人様っ。無事だっちか?」

「うおおおっ! ハチ公! お前はハチ公かっ」

「は、はち? なんだっちそれ」

「どうしてここが分かった?」

「簡単だっち。臭いをたどって来たっちよ」

「臭いか。お前を助けて正解だったぞ」

「アベル! 生きているな」


 イースも来てくれた。

 どろどろの地獄の底のような世界で、奇跡に思える美しい相貌だった。

 白い肌に澄んだ赤い瞳、流れるような黒髪。

 アベルは、イースには俺を落ち着かせる効果があるなと思った……。

 置いてけぼりにしたカザルスの所まで戻り、アベルは魔石を見せると彼は驚きで仰け反る。


「ぬおおおっ」


 カザルスが感嘆の声を上げた。


「この淡い薄紅色の輝きは第一級魔石の一種類です。間違いありません!」

「じゃあ任務終了だな。早くっ、早く帰ろうっ」


 素早く一行は帰路につく。

 アベルは気になることを聞いてみる。


「その第一級魔石っていくらすんの?」

「時価で変わるなぁ。今なら帝都に持っていけば、戦争で魔石が不足気味だし……金貨三十枚ぐらいにはなるかも」

「三十枚! え~。僕の給金が月に銀貨五枚。金貨一枚はだいたい銀貨五十枚に相当するでしょ……。三十年分の労働対価……!」


 これだけ苦労しても、任務だから銅貨一枚も実入りはない。

 バカらしい。バカらしすぎるとアベルは激しく煩悶する。

 憤懣をマグマのように滾らせた。


 絶対におかしい。

 労働争議だ。

 労働者は立ち上がらなければならない。

 労働者の権利を守れ。


 そんなことを夢中でブツブツと呟く。

 カザルスがイースに聞いた。


「あれ。アベル君は大丈夫かなぁ。なんか小言を言っているよ」

「気にするな。おそらく魔力の使い過ぎで心が萎えているのだろうよ。休めば回復する」


 岩石が散らばっているせいで歩きにくい坑道。

 いい加減、疲労も強くなってきたとき空気の臭いが変わった。

 木と草の匂いだ。

 アベルは心底、ほっとする。


 外は既に夜となっていた。

 月の光で意外と明るい。

 一刻も早く村へ行こうと急ぐアベルだったが、イースに肩を掴まれた。


「魔獣どもだ」


 言われて気づいた。なんかウジャウジャいた。

 ゴブリンが三十匹ぐらい。

 それにあの大醜鬼まで四匹もいた。

 腹を空かせた魔獣たちがさっそくアベルたちを発見してきた。

 ぞろぞろと獰猛な食欲を漲らせ、涎を垂らして寄って来る。


 アベルは溜め息をつく。

 今の体力であれと戦うのはしんどい。

 とはいえイースとワルトに任せるのも気が引けた。

 ところが意外にもカザルスが言う。


「世話になりっぱなしだから、ボクも戦うよ。ま、見てて」


 いつもの茫洋とした表情のままカザルスが魔法の詠唱をする。

 アベルは結構な魔力がカザルスの体内で練られていくのを感じる。

 やがて魔力の高まりが頂点に達した。

 魔法が発動。


「龍尾千斬」


 魔獣どもの立っている地面一帯が蠢き、次の瞬間には岩の刃が数百枚と現れた。

 瞬間、刃はミキサーのように高速回転しながら魔獣たちを取り囲み、骨も肉も関係なくバラバラに切り裂く。

 骨の折れる音が派手に響いた。

 あの強靭な生命力を持った大醜鬼がひとたまりもない。

 予測を超える禍々しい威力だ。

 

「うっ。強い……。今の魔法はなんですか」

「へへへ。鉱物魔術第六階梯。龍尾千斬。土を硬質化させて刃にしたのち、回転させながら一気に地面から上に発現させる魔術さ。戦闘は苦手だけど、でも、敵が固まっていればボクでもこうして何とかなる。消費する魔力が大きいから一日一回きりの大技だけれどね。

 さぁ、帰ろう……」



 アベルが夜空を見上げると、十字に交差した天の川が見えた。

 闇夜に信じられないほど膨大な星々が輝いている。

 これは二つの巨大な銀河が交わりつつあるのだろうか。

 

 天空から降って来るような綺羅の美しさに、心を奪われる。

 もしかしたら……もともと自分がいた世界があそこにあるのかなとアベルの核にいる男は思う。


「イース様。星が……綺麗だよ」

「自然には美しいものしかない」


 アベルは、そっとイースの横顔を窺う。

 星月の光を浴びるその姿は幻想的なほど麗しく、もはや沈黙するしかなかった。


 それからカザルスは村に着くまで様々な星座を指さし、星の運動について説明をしてくれた。

 ロマンチックな話だった。






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